7世紀末から8世紀始めの出来事

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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文字も記録もあるが、異説が多いので 調べて記す。  646年 大化の改新 それまでの豪族の私地(田荘…

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コメント

  • 大宝の遣唐使

    702年に33年ぶりの遣唐使が日本から唐に向けて出発しました。大宝の遣唐使です。33年前といえば669年であり、壬申の乱より前の近江朝廷の時代です。つまり672年に始まる天武持統朝においてはシナ大陸との交流を断って、ひたすら内に篭って律令国家を建設していたのであり、それが694年の藤原京遷都と701年の大宝律令の完成によってひとまず形が整ったので、唐の辺境政策の軟化の機会をとらえて、日本独自の律令国家の成立を誇示して、念願のシナとの対等外交関係の樹立を実現することを最重要の使命として大宝の遣唐使が送られることになったのでした。 この大宝の遣唐使を送り出した後、ほどなくして702年の暮れには持統上皇が57歳にして亡くなりました。

    7世紀終盤の律令国家建設事業の常に中核にいた女帝は、その事業が一段落して、その集大成ともいえる大宝の遣唐使を送り出したことでその使命を終えたのでしょう。


    厳密にはこの時点でのシナ大陸の王朝は唐ではなく「周」といいまして、690年に唐の三代皇帝の高宗の皇后であった武后が帝位を簒奪して武則天と名乗り開いた王朝でした。この周王朝が武則天が没する705年まで続き、武則天の死後、再び唐王朝の支配が復活するのですが、大宝の遣唐使がシナに派遣されたのがこの周王朝の末期ということになります。

    武則天は極端な独裁政治を行いましたが、その独裁を維持するために反対勢力の芽を摘むことに精力を集中し、もともと唐の政権基盤となっていた鮮卑人とシナ人の豪族勢力を徹底的に叩きました。そうすると豪族精力の軍事力に基盤を置いていた府兵制が弱体化し、辺境への押さえが効かなくなり、周の内政も混乱したので地方で反乱が頻発し、高句麗を滅ぼして以降は唐の領土となっていた満州地方でも契丹が反乱を起こしたり渤海国が独立したりしました。

    そうした満州地方の不穏な情勢に周は辺境軍事力不足のために独力で対処が困難になり、長年敵対していた新羅と699年に国交を回復して関係改善に努めるようになりました。辺境の反乱に対処するために新羅の軍事力を借りることを期待してのことで、これはつまり、周の対外姿勢が軟弱に転じたということです。


    大宝の遣唐使は周の宮廷においてはすこぶる好評であったようで、日本という新興国家は好意的に受け入れられ、その律令国家化はそれなりに高い評価を得たようです。しかしそこは百戦錬磨のシナ外交ですから素直に受け取るべきではなく、あくまで不穏な満州の情勢を鑑みて新羅や日本は手なずけておきたいという周側の計算があっての歓待か?
  • 当時則天武后の末期にあたり、唐(当時は「周」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。日本の国号変更(「倭」→「日本」、どちらも同じ国号「やまと」だが漢字表記を変更)が通告されたのもこの時と推定されているが、記録の不備あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったとみられている。
  • June 2019 編集されました
    推古天皇の時代である601年に厩戸皇子(聖徳太子)がこの地に斑鳩宮という宮殿を作り始めました。
    斑鳩宮は605年に完成し、同時期に法隆寺を中心とした斑鳩伽藍群が建立されたと推測されています。
    厩戸皇子の父である用明天皇の病気平癒を願って建立されました。
    670年に火災により消失、その後710年あたりには藤原鎌足らによって再建されていたのではないかと言われています。

    推古天皇22年6月13日(614年7月24日)最終となる遣隋使として犬上君御田鍬は矢田部造(名不明)と共に隋に渡った[4]。翌推古天皇23年(615年)9月に百済使を伴って帰国した。

    舒明天皇2年(630年)に、犬上君三田耜は薬師恵日と共に唐に遣わされた。このとき二人は大仁の冠位であった。唐は高表仁に三田耜を送らせ、8月に対馬国に着いた。学問僧霊雲・僧旻、勝鳥養、新羅の送使も行をともにした。高表仁は10月4日に難波津に着き、翌年1月26日に帰国したが、この間の三田耜らの動向は明らかではない。


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    明日香村橘に建つ『橘寺』は、正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称する、天台宗寺院です。この土地は「橘の宮」という欽明天皇の別宮があり、572年に聖徳太子が生誕なさった場所とされています。

    606年、推古天皇の命を受けた聖徳太子は、この地で勝鬘経(しょうまんきょう)を三日間にわたって読んだところ、大きな蓮の花が庭に1mも降り積もるなど、不思議な現象が起こり、これの驚いた天皇の命によって、この地に創建されたのが橘寺となります。

    「聖徳太子建立七ヶ大寺」の一つに数えられ、東西870m・南北650mの寺地に、金堂・講堂・五重塔など66の堂宇が立ち並び、四天王寺式の伽藍を構える大寺院でした。現在は法隆寺に移されている「玉虫厨子」も当初は橘寺にあったとされるそうです。

    しかし、1148年には落雷で五重塔が焼失(60年後に再建)、1506年には多武峰の僧兵の焼き討ちにあうなどして次第に衰退し、江戸時代には僧舎が一棟残るのみだったとか。現在の堂は、1864年に再建されたものです
  • June 2019 編集されました
    聖徳太子建立七大寺の残りの5寺は聖徳太子の建立とまではいえないようですが、関わりが深い人物によって、聖徳太子の教えに従って建てられた寺です。

    中宮寺

    法隆寺のそばにある尼寺です。
    創建についてはよくわかっていませんが、聖徳太子の妃が夫の死を悼んで女官に命じて刺繍した天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)を所蔵しています。
    普段、天寿国曼荼羅繍帳の展示はレプリカです。

    橘(たちばな)寺

    奈良県高市郡明日香村にある寺で、聖徳太子生誕の地ともいわれます。
    今は衰退して小さくなってしまいましたが、田道間守(たじまもり)が持ち帰った不老不死の果実を植えたという伝説が伝わり、人の二面性を戒める二面石が置かれ…と見どころのある寺です。



    法起(ほうき・ほっき)寺

    法隆寺や中宮寺から少し離れたところにある世界遺産の寺で、創建は聖徳太子の死後しばらくしてからだということがわかっています。
    聖徳太子建立七大寺に数えられるのは、この地にあった岡本宮で法華経を講じた聖徳太子の遺志を受けて、子息の山背大兄王が寺に改めたという歴史からです。

    広隆(こうりゅう)寺

    京都市右京区にある寺で、創建は渡来人で聖徳太子に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)です。
    聖徳太子から譲り受けた仏像を本尊とする、聖徳太子信仰の寺として有名です。
    この辺りは秦氏の本拠地とされ、京都の中でも歴史が古いエリアになります。
    もちろん、広隆寺も京都最古の寺です。

    葛木(かつらぎ)寺

    聖徳太子創建七大寺の中で、唯一の廃寺です。
    存命中に聖徳太子が創建したとされていますが、どこにあり、どんな寺だったのか、詳しいことはわかっていません。

    斑鳩寺

    法隆寺とは別の、兵庫県揖保郡太子町の寺です。
    法隆寺とのつながりがないわけではなく、奈良の斑鳩に住んでいた聖徳太子が推古天皇からここに土地を賜って鵤莊(いかるがのしょう)と名付け、寺を創建しました。
    これが兵庫の斑鳩寺です。

    河内三太子

    大阪府の叡福(えいふく)寺、野中(やちゅう)寺、大聖勝軍(だいせいしょうぐん)寺を合わせて河内三太子といい、諸説ありますが、それぞれ聖徳太子が創建したと信じられています。

  • June 2019 編集されました
    法輪寺の「創建当初の記録」や、それ以後の記録は「江戸初期まで無い」に等しく、創建当初の伽藍の配置図が不明であったとされてきました。

    しかし、法輪寺の鎌倉時代の伽藍の様子を描いた古地図が寺に伝わっており、これをもとにして1950年(昭和25年)に調査を行ったところ、なんと!「法隆寺と類似した伽藍」が7世紀の後期(650年から700年あたり)には成立していたことが明らかにされています。

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    秦氏と北野廃寺

    北野廃寺跡出土の「鵤室」墨書土器(京都市埋蔵文化財研究所蔵)
     北野廃寺は京都盆地では最古の部類に属する寺院です。太秦(うずまさ)から続く台地の東端に位置し,寺域は北野白梅町(きたのはくばいちょう)の交叉点を中心とした一帯になります。昭和11(1936)年の市電西大路線新設工事の際に遺物が発見され,北野廃寺と命名されました。その後の調査で多数の遺構が発見されており,寺域は北野白梅町交叉点を中心に約200メートル四方と推定されます。

     現在,北野廃寺は太秦広隆寺の前身,蜂岡寺(はちおかでら)であるという説が有力です。『広隆寺縁起』によると,蜂岡寺の旧寺地は葛野郡九条河原里と荒見社里という所でした。これは平野神社(北区平野宮本町)の近辺と推測され,北野廃寺の位置と地理的に合致します。

     昭和52年の発掘調査では,「鵤(いかるが)室」の墨書のある平安前期の陶器が発見されました。「いかるが」といえば大和国斑鳩(いかるが)の法隆寺であり,そこから聖徳太子との関係が推測されます。『日本書紀』には秦河勝(はたのかわかつ)が推古天皇11(603)年に,聖徳太子より仏像を授かり蜂岡寺を造営したとあり,これが北野廃寺のことではないかと考えられています。また,「秦立」の墨書のある土器も発見されています。

     一方で,北野廃寺は平安時代に入って桓武天皇によって建立された常住寺(じょうじゅうじ,野寺)ではないかともいわれてきました。それを裏付けるように昭和54年に行われた調査では,「野寺」の墨書のある平安初期の土器が発見されました。

     また,北野廃寺の寺域からは古墳時代から飛鳥時代にかけての竪穴式住居跡がいくつか発見されており,寺の創建との関わりが注目されています。

    粟田氏と北白川廃寺
     京都盆地の東北部に位置する北白川で,昭和9(1934)年の土地区画整理工事の際に,古代寺院の伽藍(がらん)跡が発見されました。主要な遺構として東西35.7メートル,南北22.5メートルの瓦積基壇(かわらづみきだん,外側を瓦で保護した基壇)が見つかり,金堂の跡と推定されています。出土した瓦から,創建は白鳳時代(7世紀後半),平安京遷都以降も存続した寺院と考えられています。

     また,瓦に官営の窯(かま)である小野瓦窯(がよう)や栗栖野(くるすの)瓦窯の製品が含まれているのも特徴です。これは,この寺が朝廷とのつながりが強かったことを示しています。さらに北白川から南禅寺あたりまでが古代の愛宕郡(おたぎぐん)粟田郷(あわたごう)であったことから,この寺は大化改新から奈良時代にかけて活躍した粟田氏の氏寺,粟田寺であったと思われます。

     昭和49年から50年にかけての調査では,白川通の西側から塔跡の正方形の基壇が新たに発見されました。両基壇の南縁がほぼ一直線上にあり,同じ種類の軒丸瓦(のきまるがわら)も発見されたことから,同一の寺院の遺構であると考えられます。ただ,両基壇の距離が約85メートルも離れているため,同じ区域に独立して存在していた別の寺院であるとも考えられます。金堂院と塔院が並存する伽藍配置は,7世紀後半の山背(やましろ)北部の古代寺院の地域的特色であるという説も出ています。
  • 磯長(しなが)なる み寺にいまも うまやどの みこのみたまは しずまりてます

    叡福寺 / 御朱印 この磯長山 叡福寺は、聖徳太子と、その二ヶ月前になくなられた太子の生母穴穂部間人(あなほべはしひと)皇后と、一日前(一説には同日)に亡くなられた太子夫人膳部大郎女とを葬ってある。いわゆる三骨一廟である。

    叡福寺 / 写真2 太子は二十七歳の時、この叡福寺の地を御廟の候補地とし、周囲を寺院地とされ、四十七歳の時、廟をお造りになられた。太子没後、聖武天皇の勅願により太子のお墓をお守りご追福を祈るため、神亀元年(724年)七堂伽藍が完成した。このゆえに叡福寺は、太子寺、御廟寺、聖霊院などと呼ばれる。

    石段を上り、南大門を入ると左手に宝塔、金堂、聖霊殿があり、中央奥の石段をさらに上ると、松や常磐木に囲まれた太子廟がある。また、境内には浄土堂、上の御堂、念仏堂など多くの建造物があるが、何といっても、聖霊殿に心がひきつけられる。聖霊殿は、慶長八年(1603年)、後陽成天皇の勅願により、豊臣秀頼が再建したもので、御本尊は聖徳太子十六歳のときの御尊像である。

  • 法輪寺旧境内の範囲に含まれ、聖徳太子が開掘した三基のうちのひとつだと伝えられており、法輪寺の別名である「三井寺」や「御井寺」についても、この井戸に由来しているようです。

    この井戸は、明治年間には埋没していましたが、昭和7年に発掘調査が実施され、深さ約4.25m、上部直径約91cmであることがわかりました。
    構造としては、底部に4個の石を方形に組み合わせて、その内外の隙間より水が湧き出るようになっており、側壁は中膨れの筒状を呈してあり、底面より約1.15mの高さまでは乱石積みで構築し、その上約3mを長弧長約29cm、短弧長約23cm、長さ約23cm、厚さ約7.6cm扇形の「せん」を積んでありました。

    法輪寺より出土する瓦には「王井」の文字を刻印した瓦が出土しており、せん積みというその特異な構造ということからも、法輪寺とこの井戸とはかなり密接な関係があったと推察されます。
  • 斑鳩 奈良 法隆寺東院夢殿
    聖徳太子の史跡、法隆寺東院夢殿。本尊特別開扉のときにぜひ訪れたいところです。(仏像の撮影はできませんが。)
    斑鳩 聖徳太子の史跡~三井
    聖徳太子が作ったと伝わる古井戸のひとつ。
    斑鳩 聖徳太子の史跡~上宮遺跡
    聖徳太子が晩年過ごしたと伝わる飽波葦垣宮の推定地。
    桜井・多武峰 聖徳太子の史跡~上之宮遺跡
    聖徳太子が幼少・青年期に過ごしたとされる上宮の比定地のひとつ。
  • 兵庫県揖保郡太子町

    推古天皇の時代、聖徳太子が勝鬘経、法華経などを天皇に講じられ、これに深く感動された天皇より播磨国の水田を賜り、太子はこれを仏法興隆のため法隆寺に寄進されました。( 『日本書紀』によると、寄進の時期は推古14年(606年)7月、水田の規模は100町、『聖徳太子伝記』では同じく、太子44歳御時、360町とある。諸文献に諸表記がある)
    後の平安時代に、この地は法隆寺の荘園「法隆寺領播磨国鵤荘(いかるがのしょう)」へと発展し、その中心に荘園経営の中核的存在として、政所とともに斑鳩寺が建立されました。
    この創建以後、鵤の地はながく、この地方の太子信仰の中心としても栄え、播磨の国の中における特異な文化興隆地域を形成することになりました。
    斑鳩寺は、往古には七堂伽藍、数十の坊庵が甍を並べ壮麗を極めましたが、出雲の尼子氏の侵攻で播磨が混乱していた天文10年(1541年)4月7日、不慮の火災により、諸堂が灰燼に帰しました。その後、楽々山(ささやま)円勝寺の円光院昌仙らによって龍野城主赤松下野守政秀らの寄進を得て、講堂、三重塔、太子御堂(聖徳殿)、仁王門などの伽藍が復興され、現在に至っています。
    斑鳩寺は創建以来、法隆寺の別院でしたが、江戸時代以降は天台宗となり、今なお、「お太子さん」として近郷近在から広く信仰を集めています。
    また、木造聖徳太子立像をはじめ、木造日光・月光菩薩立像など多くの重要文化財が残されています。
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