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桜井茶臼山古墳は、奈良県桜井市にある前方後円墳。 所在地の地名を冠して「外山茶臼山古墳(とび)」とも。 奈良県…
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なお、『日本書紀』雄略天皇9年2月甲子朔(1日)条に「胸方神」が見え、通説ではこれを筑前宗像大社のこととするが、その祭祀で采女を犯した凡河内香賜が摂津国三嶋郡で捕らえられていることから、これは畿内に祀られていた「胸方神」で、当神社のことであろうとの説もあり(田中卓「ムナカタの神の創祀」1957(『著作集1』国書刊行会1987 にも所収)、もしそうであれば天武天皇時代を遙かに遡ることになる
御祭神 阿田賀田須命 市杵嶋比賣命
境内式内社 大和國添上郡 和尓下神社二座春日社および八幡社
奈良県天理市にある。JR桜井線・櫟本駅の東2Kmほどの和爾町に鎮座。
鳥居をくぐると正面に瓦葺の拝殿。
拝殿の後方に、赤い鳥居があり、社殿が三つ並んでいる。
中央の社殿は朱の春日造で、当社の本殿。左手には、ひと回り小さな春日社。右手にも、さらにひと回り小さな八幡社がある。
創祀年代は不詳。
和爾氏の氏神として成立し、式内社・和尓坐赤坂比古神社に比定されている古社。
神亀元年(724)以前から神戸が与えられたという添上郡屈指の大社であり、三代実録にも「従五位下和爾赤坂彦神」と記載され、延喜の制においても、大社に指定されている神社。
『日本書紀』の神武天皇即位前年の箇所に「和珥の坂下に居勢の祝(はふり)という者がいる」とあり崇神天皇十年に武埴安彦の謀反を討つために大彦命が派遣され「和珥の坂に到着した」とあり、さらに大彦命と和珥氏の祖・彦国葺が派遣され忌瓮(神祭りに用いる酒などを入れる容器)を和珥の武鐰(すき)坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦ったとある、
和珥の坂、和珥の武鐰坂は、当社の赤坂のことらしい。
つまり、「和尓坐赤坂比古神社」とは和爾に鎮座する、和珥の坂の男神を祀る社ということだろうか。
当社は横穴式古墳の上に鎮座しているとも伝えられている。また、当初は和爾氏の同族・小野氏の氏寺である願興寺(廃寺、当社の東数百mに寺跡)の近くにあったとも伝えられている。
『式内社の研究』において、志賀剛氏は、当社境内の春日社および八幡社が式内社・和尓下神社二座であるとする。
つまり和邇地区を上下に分けた、上和邇に当社・和爾坐赤阪比古神社があり、下和邇に和尓下神社二座が存在したと考え、下和邇の西部、谷脇寺付近にあった春日社と、下和邇の東部、太子堂付近にあった八幡社がそれに相当するらしい。この二社は大正八年、当社境内に移築されたという。
吾田片隅命
あたかたすみのみこと
別名
阿多賀田須命:あたかたすみのみこと
……
素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう
素盞鳴尊の御子・宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。
吾田片隅命 を祀る神社
和爾坐赤阪比古神社 奈良県天理市和爾町1194
飛鳥川上流の丘陵上に鎮座する。祭神は本来一座であったが三座となり、中央に宇須多伎比売命、右に神功皇后、左に応神天皇を配祀している。
主神は宗像神で、天照大神と素戔鳴命との誓約の間に生れた神として事代主命や賀夜奈流命の母神である。
俗に宇佐宮と呼ばれているが、神社の沿革は詳らかでない。拝殿両脇の石灯籠に「八幡宮」とある。延喜式神名帳にその名が見えるが、後に八幡神を祭祀し、宇佐八幡と呼ばれるようになった。
大和志にはこの神社について「在稲渕村、今称宇佐宮、与栢森、入谷、畑村共預祭祀」とし、太玉、櫛玉、賀夜奈流美、宇須多伎の四神を合祀するとある。後世応神天皇、神功皇后を配祀し、さらに仁徳天皇、武内宿禰を併祀したものである。
周防灘を望んで低台地にあり、当時の海岸線にきわめて近い。
前方部は海に向かい、全長約110m。墳丘の後円部 径約60mで二段築造。墳頂は
平坦で 径22m、その中央に 長大な縦穴式石室。 墳丘には 人頭大の葺石が敷き
詰めている。 前方部はくびれ部から細長く伸び、先端で やや広がって撥形。
後円部の竪穴式石室は 1796 (寛政8)年に開口、当時の庄屋銀助の記録には、
銅鏡10数面・剣・矛・鏃が出土とある。
現存出土品: 三角縁神獣鏡7面・素環頭太刀片・銅鏃。後漢鏡片・勾玉・管玉・刀片・
鉄鏃・冑片・鉄斧など。
京都椿井大塚山古墳 や 奈良黒塚古墳の出土品に類似。
苅田町には 他に、御所山古墳
那珂八幡(ナカハチマン)古墳(福岡市博多区)
東の御笠川、西の那珂川に挟まれた福岡平野の丘陵にある。 両河川は 当時 大きな
入り江となっていたと推定され、入り江に半島状にせり出した丘陵の上に古墳が位置して
いたと考えられる。
後円部の2基の主体部の内1基から 三角縁神獣鏡などの初期古墳に典型的な遺物が
出土。 同笵鏡が 京都府椿井大塚山古墳、岡山県岡山市湯迫車塚古墳から出土。
調査担当の岡林孝作総括学芸員も「柱をすき間なく立てたのは、被葬者の魂を内部に封じ込めようとした証し。当時の人たちが、亡き首長の霊力に対し、いかに恐れおののいていたかが見えてくる」と話す。それほど強大な力を誇った被葬者はいったい誰だったのか。
塚口義信・堺女子短大名誉学長(日本古代史)は、崇神天皇が全国に派遣した「四道将軍」のうち北陸を担当した大彦命(おおびこのみこと)を挙げ、「天皇伝承がない桜井茶臼山古墳は、大王に近い有力者の墓と考えるべきだ」と話した。
ただ崇神天皇の磯城(しき)瑞籬(みずがき)宮が、此の近くの大神(三輪)神社の境内に有ったと伝承されているので、其の略真南に造られた此の墳墓が、崇神天皇に仕えた四道将軍の一人としての位置づけを示していると思われます。
水銀朱が塗られれている石室内部
竪穴式石室の壁面に積み上げられた石や天井石の全面に、「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれる水銀朱が塗られていることが判明した。水銀朱は、一部残っていた木棺にも塗られていた。国内の古墳で使われた水銀朱は、これまで奈良県天理市の大和天神山古墳で確認された42キロが最多とされてきた。しかし、桜井茶臼山古墳で使用された水銀朱の使用量を推定すると、それを大きく上回って約200キロにも達し、国内の古墳で使用された量としては最大であるという
蟹沢古墳は群馬県高崎市柴崎町に所在していた古墳時代前期、すなわち4世紀ころの古墳で、墳形は円墳と考えられている。内部主体は粘土槨と推定されているが、詳細な出土状況は未詳である。出土品は、銅鏡4面、短冊形鉄斧2個、鉄鑿1本、鉄製刀剣一括、土師器片9個である。中でも三角縁四神四獣鏡は同向式と呼ばれるもので、内区の外側に時計回りで「□始元年陳是作鏡…」という銘文が巡る。同じ鋳型を用いて鋳造された鏡として山口県新南陽市竹島古墳、兵庫県豊岡市森尾古墳のものがあり、これらの鏡の銘文解読から中国三国時代の魏の年号である正始元年(西暦240年)であることが判明した。『魏志倭人伝』によると、正始元年に魏から倭国に金帛、錦罽、刀、鏡などを賜うとある。本三角縁四神四獣鏡はその年号を鋳だした鏡であり、女王卑弥呼の時代を考える上で最重要資料である。古墳出土の紀年銘鏡は数が少なく、極めて重要なものであるとともに、同時に出土した副葬品類も一括品として資料的価値は高い。
群馬県高崎市、桜井茶臼山古墳、山口県新南陽市 竹島古墳、豊岡市森尾古墳 を結ぶ人と鏡???
副葬品の遺存状態は必ずしも良好ではないが、三角縁神獣鏡二面、神人車馬画像鏡【しんじんしやばがぞうきよう】一面と共に、刀剣類四口、銅鏃二六本、鉄斧・鉄鏃各一本など、古墳時代前期の組み合わせを良く伝えている。
この中で、三角縁神獣鏡の一面は、細かく破損しているが、
①群馬県蟹沢【かにざわ】古墳出土鏡、
②兵庫県森尾【もりお】古墳出土鏡と同笵である
のみならず、僅かに残る銘文の中で、□(正)□(始)【せいし】の紀年銘が判読される。蟹沢古墳出土鏡では第一字、森尾古墳出土鏡ではその総てが欠けているなかで、本鏡の銘はこれらの欠を補い、かつ蟹沢古墳出土鏡の紀年号を結論づけた。
古墳出土の紀年銘鏡の資料的な重要性をみるとき、その学術的価値には高いものがある。
また「天王日月」銘で、獣文帯をもつもう一面の三角縁神獣鏡は、
①京都府椿井大塚山【つばいおおつかやま】古墳出土鏡の三面、
②神奈川県白山【はくさん】古墳出土鏡、
③福岡県神蔵【かみくら】古墳出土鏡の合計五面との同笵関係が知られている。
神人車馬画像鏡も、「劉氏作」の銘を持ち、
①大分県鑑堂【かがみどう】古墳出土鏡、
②奈良県天神山【てんじんやま】古墳出土鏡等
にみられる以外、類例の少ないものである。
親分はそれは、京都府椿井大塚山の被葬者、それよりは、桜井茶臼山古墳の被葬者を考えています。
桜井茶臼山古墳では、81枚の道鏡が見つかっていますが、すべて、粉々で出土しました。
和歌に、挙げられている古墳も、上下関係はなかったかもしれませんが、絹の商売の相手で会った可能性が大きいと考えています。
山口県竹島古墳出土品 (周南市)
ここに、この古墳は、山口県で一番古く、4世紀前半に作られたと書いてありますが、魏の国の人がやってきたときですから、240年前後ではないでしょうか。
竹島から南西の方向に、海上を移動しますと、〔樺島〕があります。佐賀県の椛島山遺跡、小さな島に作られた遺跡ですし、椛島遺跡の人たちが竹島にやってきて、船で吉野ヶ里遺跡に絹を運んでいたと考えるのは、無理でしょうか。山口県の大島では、現在でも、桑を栽培し、製品を作っています。(絹を作っている証拠はありませんので、確かめに行こうと思ったのが昨年でした)
森尾古墳
森尾古墳群を構成する。破壊は受けているが墳丘の一部が残っている。35メートル×24メートル、高さ5メートルの方墳。4世紀末ごろ、古墳時代前期~中期にかけての築造と思われる。
1977年に調査が行われ、主体部は3つ確認されている。いずれも竪穴式石室で、中国製方格規矩鏡、中国製三角縁四神四獣鏡、中国製三角縁同向式神獣鏡、鉄剣、銅鏃、鉄鏃、鉄斧、鉄鎌、勾玉、管玉、小玉などが出土。
方格規矩四神鏡は直径12.9センチの青銅製。四神や大地を表す方格がある。銘文などから、中国の王莽が統治した新(8-23年)の鏡と特定。「言之紀鏡」などの文字も見つかった。
二枚の三角縁神獣鏡も出土。うち一枚に、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に出した使いが帰国した240年にあたる「正始元年」との銘がある。
銘文は下記の通り。
「正治元年陳是作鏡自有経述本自▽師杜地命出寿如金石保子宜孫」(出典)
「正始元年」の銅鏡は他に、柴崎蟹沢古墳(群馬県・高崎市)や、竹島古墳(山口県・周南市)でも出土している。ちなみに同年の240年を示すと思われる、実際には存在しない年号「景初四年」の銘を持つ銅鏡が、広峯15号墳(広島県・福知山市)と持田古墳群(宮崎県・児湯郡、伝承)から出土している。
桜井茶臼山古墳(奈良県・桜井市)で出土した銅鏡の破片にある「是」とみられる文字が、柴崎蟹沢古墳から出土した銅鏡とぴったりと一致したことが確認され、桜井茶臼山古墳出土の銅鏡も「正始元年」銅鏡の可能性が高まった。
中嶋神社は、式内社で、祭神 田道間守命を主祭神とし、天湯河棚神を配祀します。。
田道間守は天日槍命の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国から「非時香果(ときじくのかぐのみ)」(橘のこと)を持ち返ったと記される人物です。
この神社から東1kmの所に山が見えますが、その南の尾根の上に、森尾古墳があります。
【但馬の主要遺跡】田畑 基氏筆から転記しますと、以下の出土物がありました。
東西方向に主軸をもった小型の石室(箱式石棺的か)が3基、並んで発見されたようである。遺物の出土状況も不明確だが、銅鏡は各施設から1枚出ているらしい。魏の年号である正始元年銘をもつ三角縁同向式神獣鏡、三角縁四神四獣鏡、外区に唐草文様帯をもつ方格規矩鏡である。このほか玉類としてヒスイ製(1)やガラス製(2)の勾玉・碧玉製管玉(27)・ガラス製小玉(52)、銅鏃(8)、鉄製品では刀・剣・鏃・斧・ヤリガンナなどが確認でき、朱の精製にもちいる石杵が1点ある。
森尾古墳を有名にしたものの一つは、正始元年銘の三角縁神獣鏡です。同じ銘の鏡は、全国で、外に、3ヶ所から見つかりました。
①桜井茶臼山古墳 (奈良県)
②蟹沢古墳(群馬県高崎市柴崎)
③森尾古墳(兵庫県豊岡市)
④竹島御家老屋敷古墳(山口県周南市)
この正始元年銘の三角縁神獣鏡は、重要なことではないかと考えます。 一般に、三角縁神獣鏡は、魏の国から日本の豪族が貰ったことになっていますが、この4つの古墳に葬られた人は、同じ仲間で、同じ年代に活躍していた人だと考えています。
ここに、この古墳は、山口県で一番古く、4世紀前半に作られたと書いてありますが、魏の国の人がやってきたときですから、240年前後ではないでしょうか。
所在地: 周南市本陣町
写真: 正始元年銘三角縁階段式神獣鏡 直径22.6cm
竹島御家老屋敷古墳は、4世紀前半につくられた県内最古の前方後円墳です。全長56m、後円部の直径35m、前方部の幅は23mあり、後円部のほぼ中央に竪穴式の石室がつくられています。
出土品の35点は明治21年に発掘され、個人の所蔵となっています。このうち銅鏡3点は特に注目されるもので、魏で作られた「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」「天王日月四神四獣鏡」と呉で作られた「劉氏作神人車馬画像鏡」とがあり、同じ古墳から魏と呉の鏡が出土した例はなく、当時の倭国が魏だけでなく呉とも交渉を持っていたことを示す貴重な資料として高く評価されています。
また、これらは大和朝廷の古代国家統一の歴史とも深く結びついていて、この古墳に葬られた被葬者は、当時の強力な豪族でありましたことをよく示しています。
特に「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」は、蟹沢古墳(群馬県高崎市)や森尾古墳(兵庫県豊岡市)から出土した銅鏡と同笵鏡(同じ鋳型からできた鏡)であり、正始元年は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。
神蔵古墳出土品(県指定)
県 有形(考古資料) 平成15年2月5日指定
甘木歴史資料館
神蔵古墳は古墳時代前期に造られた前方後円墳で、主体部の竪穴式石室はすでに盗掘を受けていたが、三角縁神獣鏡をはじめ鉄剣、鉄製鋤先などが出土した。また、墳丘の下からは住居跡が確認され、古式土師器などが出土している。特にこの鏡には、
京都府椿井大塚山古墳の3面、
神奈川県白山古墳と
山口県御家老屋敷古墳
から各1面の計5面の同范鏡(同じ鋳型で作ったと考えられる鏡)があり、大和政権との関わりを考える上でも貴重。
4世紀前半には、かつて徳山湾内に浮かぶ小島であった竹島に「御家老屋敷古墳」(周南市富田)が造られる。墳長56m/後円部径38mを測り、県域最古の前方後円墳で、魏で作られ卑弥呼に与えられた「正始元年銘 三角縁神獣鏡」や呉で作られた銅鏡などの舶載鏡を出土した。同じ湾内には円墳の「宮ノ洲古墳」(下松市)もあり、(舶載)三角縁神獣鏡など銅鏡4面を検出したが、開発により消滅した。
4世紀中ごろには、県西部の厚狭(あさ)盆地の南縁にある標高60mの丘陵に「長光寺山古墳」(山陽小野田市郡)が造られる。墳長58m/後円部径37mを測り、円形・家形埴輪、土師器片のほか、(仿製)三角縁神獣鏡3、内行花文鏡1、鍬形石1を出土した。
◉周防国(すおうのくに)
「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)。
雄略紀には角 (つの) 国,神功紀には沙麼県主 (さばのあがたぬし) とある。
『旧事本紀』には大嶋国造,波久岐 (はくき) 国造,周防国造,都怒 (つの) 国造が記されている。
総社 金切神社 - 明治時代に佐波神社と改称して防府市惣社町に現存している。
一宮 玉祖神社
二宮 出雲神社
三宮 仁壁神社
四宮 赤田神社 (山口市吉敷赤田)
五宮 朝田神社 (山口市矢原)
一宮 玉祖神社
物証はないが、勾玉や管玉を作る集団である玉造部が祖神玉祖命を祀るために創建したと考えられている。
日本書紀によれば、景行天皇が熊襲征伐のために西行する途中、この地の神夏磯媛(かみかしひめ)を長とする一族が神器を捧げ恭順を示し、このとき天皇は玉祖神社で戦勝祈願したという。
景行天皇は9月5日に周芳のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。
そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。
そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。
「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くような者ではありません
社伝によれば、祭神の玉祖命がこの地で亡くなったため、社殿を造営して祀ったのに始まるとされ、附近には玉祖命の墳墓と伝えられる「玉の石屋」がある。平安時代には周防国一宮として崇敬を受け、中世以降も歴代領主から崇敬された。神階は康保元年(964年)に従一位まで昇った。
行燈山古墳前方部の西方に位置する北向きの前方後円墳が本古墳である。1960年(昭和35年)に県道拡張工事で後円部の一部が削られたのを機会に緊急発掘調査が行われた。
本古墳は、伊射奈岐(いざなき)神社境内古墳として調査が進められたが、古墳名に人物名が混じらないという方針により、地元の呼称をとって天神山古墳とされた。しかし、各地に同名の古墳が多数あるため、区別するために大和天神山古墳と命名された。
後円部のほぼ中央に長さ6.1mの竪穴式石室が検出された。石室の中央部には、長さ2.6mの板材が残存しており、その中央は仕切り板で区切ってあり、内法1×0.5mの木櫃状になっている。 石室は自然石の小口積みで形成され、上部は石室の両側から持ち送る合掌式で、天井石を設けない型式の竪穴式石室である。
石室の内部には、一見木棺のようであるが細部を検討すると木櫃(もくひつ)とした方がよい大きな木製容器が置かれて、総重量約41キロの水銀朱が納められていた。朱を大量に入手し使用している点で、3キロの朱を使用していた岡山県倉敷市の楯築古墳があり、東瀬戸内海との関連が考えられる。
この木櫃の底板は、長さ2.6メートル、幅75センチであるが、断面は緩やかなU字形を呈している。しかし、巨木を刳り抜いたものではなく、縦に長い三枚の板を合わせたものである。従って内部の底面は水平でなく、両端がカーブしてあがっている。
木櫃のなかに水銀朱を取り囲むように20面の銅鏡が置かれていた。20面の銅鏡は木櫃の四周に連続して長方形の辺に置かれていて、前期古墳にしばしば見られるように一面だけ中央に置いてあるという配列とは全く異なる。これには「邪から被葬者を守ろうとした」との理解があるようだが、もとより被葬者が存在しない場合においては妥当とはいえないだろう。古墳社会では階層化が進み、青銅鏡が社会的・政治的に重要なものであり、製作数が飛躍的に増大する。また、木口板(こぐちいた)の外部にも北方で2面、南方で1面置かれていて、計23面の銅鏡が検出されている。
鏡種別に見ると、「尚方作竟」銘鏡[4面を含む方格規矩鏡が6面、「長宜子孫」銘鏡を含む内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面、獣形鏡4面、画像鏡2面の合計20面が木櫃内に収められ、人物鳥獣文鏡[1面と斜縁変形神獣鏡2面の計3面は木櫃外から発掘された模様である。
武器は、鉄製で、刀が3点、剣が4点、鉄鏃が5点出土している。刀は一般的な片刃でなく、切っ先から20センチまで両刃になった特異なものである。 剣では木製の柄装具に直弧文[9]を施している。これらの剣の一部が絹布に巻かれていた。鉄鏃は、柳葉形で、木製矢柄が一部残っていた。
前方部から二重口縁壺(布留Ⅰ式)から出土している。
垂仁天皇
都は纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)。『古事記』には「師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)」とあり、奈良県桜井市穴師周辺に比定されている。
また、伝承地として京都府久世郡久御山町市田の地に宮城跡とされる地域があり、その地には垂仁天皇と和気清麻呂を祭った珠城神社(久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1)がある
野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を埋納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたというのである。
田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
垂仁天皇の陵墓は、宝来山古墳(ほうらいやまこふん)奈良県奈良市尼ケ辻町字西池にある前方後円墳。宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらふしみのひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇の陵に治定されている。5世紀の古墳であり、年代が合わない
開化天皇の陵墓とされる「念仏寺山古墳(春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)といいます)」が奈良市の中心部にあることが驚きですよね。
ちなみに、その父の8代天皇「孝元天皇」の陵墓は、橿原市にある「剣池嶋上陵」とされ、息子の10代天皇「崇神天皇」の陵墓は、天理市柳本町の「柳本行燈山古墳」とされているそうです
御祭神:大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)
等彌神社(奈良県桜井市)
桜井市大字桜井小字能登に鎮座。境内は広く上津尾社(天照皇大神)と下津尾社(春日大神・八幡大神)、境内社(弓張社・恵比寿社・金毘羅社・黒龍社・鳥見山稲荷神社・猿田彦大神社・愛宕社)
御祭神の大日孁貴尊は天照大御神の別称です!
「とみ」と言えば登美那賀須泥毘古(とみのながすねひこ・長髄彦)を連想するのですが…
初代神武天皇が橿原の宮で即位し、等彌神社のある鳥見山に皇祖神を祀った伝承がありますが、「とみ」と言う音読みが気になります
実は長髄彦の妹を娶り、神武天皇より先に大和を治めていたとみられるニギハヤヒが元の御祭神だったという説があります。
元々一の鳥居は国津神の鳥居「明神鳥居」
金鵄が社紋
神武天皇と長髄彦の最後の決戦
神武天皇に金鵄(黄金に輝くトビ)が現れ、その神光に長髄彦の軍隊が恐れおののき壊滅し、神武天皇が勝利します
奈良県桜井市の鳥見山北西麓に鎮座する神社.。上ッ尾社(祭神:大日メ貴命)(オオヒルメムチノミコト)と下ッ尾社(春日大社・八幡大社を祭る)に分かれている。かつては饒速日命を祀っていた可能性があるとする説もあるが、その根拠としている「特選神名牒」には「登美連の名前から饒速日命となるので、今決めて記す。」とあるが、、???
登弥神社(奈良県奈良市石木町)
東本殿:高皇産霊神・誉田別命 西本殿:神皇産霊神・登美饒速日命・天児屋(ママ)命。
摂社: 大日命・豊受比賣神・天宇受女神・大山祇神・庭高津日神・大物主神・菅原道真公・猿田彦神・大己貴神・八重事代主神・瀬織津姫神・速秋津姫神・速佐須良姫神・気吹戸主神・表筒男神・中筒男神・底筒男神、併せて十七柱の神々を五社殿に合祀さる。
御由緒:皇紀四年、春二月二十三日神武天皇が、この地に於いて皇祖天神を祭祀されたのがそもそもの淵源であり、その後、登美連が祖先である天孫饒速日命の住居地-白庭山であった、この地に、命ご夫妻を奉祀したのが当神社のご創建であります。(境内碑文より)
登弥神社祭神饒速日命:通称木島明神といい、延喜式内小社で物部氏の祖神饒速日命を祭神とし、神域幽玄神殿もきわめて壮大であり太古大部族の祖神を祀るにふさわしいたたずまいである。又付近丘陵は弥生時代遺物の散布地帯である。(境内大和郡山市・同観光協会掲示板より)
菟田野の水銀鉱山跡、見田大沢古墳群
奈良県宇陀(うだ)市菟田野見田・大沢にある古墳群。
奈良盆地の東南、宇陀盆地の丘陵上に立地する。1980年(昭和55)の発掘調査によって古墳、中世居館跡などが検出され、1983年(昭和58)に古墳群を中心に国の史跡に指定された。この古墳群は前方後方墳1基、方墳4基からなり、それぞれの墳は掘り割りで分かれている。1号墳は全長26m、1辺20mの後方部の北隅に、幅12.7m、長さ10mの張り出し部(前方部)を設ける高さ約5mの前方後方墳。2号墳は1辺14m、高さ1.7mの方墳、3号墳は1辺16m、高さ3mの方墳。4号墳は1辺17m、高さ3mの方墳。5号墳は1辺14m、高さ3.2mの方墳で、それぞれの古墳や埋葬施設からは多くの遺物が出土
一号墳
墳丘は鍵穴のような形をした日本独特な形式で前方後円墳の主墳部分である円墳部分を方墳形式にした前方後方墳と呼ばれるものです。
墳丘の規模は、段築なしに造られた後方部の辺20m、高さ3.5mで、前方部の最大幅は12.7m、高さ3.5mを測り、墳丘全長は27.5mとなっています。
出土したものとしてガラス製小玉、緑色凝灰岩製管玉、土玉、金環、鉄刀、小刀、鉄鏃、刀子、曲刃鎌、砥石、土師器、須恵器などが知られています。
後円部頂中央にある埋葬施設は中央南棺とよばれ割竹形木棺が直葬されていました。
出土したものとして茎、刀子、カコ、土師器、須恵器などが知られています。
後方部頂北寄りにある埋葬施設は北墓壙とよばれ箱形木棺が直葬されていました。
出土したものとして小刀、広身式鉄鏃、細身式鉄鏃などが知られています。
後方部頂南寄りにある埋葬施設は南墓壙とよばれ木棺が直葬されていました。
出土したものとして鉄鏃、刀子、須恵器などが知られています。
前方部頂にある埋葬施設は張出部墓壙とよばれどのような埋葬か明確ではありません。
出土したものとして細身式鉄鏃、曲刃鎌、刀子などが知られています。
見田大沢古墳群を構成しています。
この古墳の築造は古墳時代の発生期にあたる3世紀後半ごろと推定されています。
大海子皇子東国発ち、菟田の吾城(阿騎野のこと)で、屯田司(みたのつかさ)の舎人土師連馬手が食を供ったが、見田・大沢古墳群の見田はその屯田司と関連があるとのことである。
ウカチ郡。
「ウカチ」は「ワカチ(分ち)」と同じで「境」の意。つまり「ウタ」と同義。
奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志周辺の古名。
ヤタカラスがあすか道を穿いてこの国境の地まで東征軍を導く。
奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志
4世紀前半につくられた県内最古の前方後円墳である。全長56m、後円部の直径35m、前方部の 幅は23mあり、後円部に竪穴式の石室がつくられている。明治21年に発掘さ れ出土品35点は、個人の所蔵となっています。このうち銅鏡3点は特に注 目され、魏で作られた「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」1「天王日月四神四 獣鏡」と呉で作られた「劉氏作神人車馬画像 鏡」とがあり、同じ古墳から魏と呉の鏡が出 土した例はなく、当時の倭国が魏だけでなく 呉とも交渉を持っていたことを示す貴重な資 料である。また、これらは大和朝廷の古代国 家統一の歴史とも深く結びついていて、この 古墳に葬られた被葬者は、当時の強力な豪族 であったことを示している。特に「正始元年 銘三角縁階段式神獣鏡」は、蟹沢古墳(群馬県高崎市)や森尾古墳(兵庫県 豊岡市)から出土した銅鏡と同笵鏡であり全国で3面が発見されている。
また「天王日月」銘の三角縁神獣鏡は、京都府椿井大塚山古墳出土鏡の三面、神奈川県白山古墳出土鏡、福岡県神蔵古墳出土鏡の合計五面との同笵関係が知られている。
神人車馬画像鏡も、「劉氏作」の銘を持ち、大分県鑑堂古墳出土鏡、奈良県天神山古墳出土鏡等にみられ類例が少ない。
下松宮ノ洲古墳は、円墳と伝え規模 も不明である。この古墳は享和3(1803)年に遺物が出土したため埋め戻され、 明治 25(1892)年に再発掘された。鏡4面(国重文:3面中国製、1面日本製) が出土し、中国製三角縁盤龍鏡に「天王日月」、「君宜高官□」等の銘がある。 被葬者は、竹島御家老屋敷古墳とも関係ある人物で当地域と瀬戸内海の海上 交通にかかわりを持ち、畿内勢力と関係を持った豪族であったと考えられる
総社市秦の上沼古墳出土の三角縁神獣鏡。天王日月銘四神四獣鏡で、京都府椿井大塚山古墳出土の鏡の中の一面と同型と同じという。
吾作銘 三角縁四神四獣鏡は、面径20.1センチメートルで、内区外側の乳座により神と獣像を四分割し、神像4体と獣像4匹を、神像を復像式に、獣像は笠松文を挟んで相対峙するように配置する。銘帯内に反時計廻りに「吾作明竟甚大工 上有王喬□赤松 獅子天鹿其義龍 天下名好世無雙」と七言の句が鋳られる。銘帯は鋸歯文帯と櫛歯文帯に挟まれ、外区は外向きで鋸歯文帯・鋸歯文帯・複線波文帯・鋸歯文帯の順になる。福岡県京都郡苅田町石塚山古墳・ 広島県広島市中小田一号墳・兵庫県神戸市西求女塚古墳・奈良県天理市黒塚古墳・京都府山城町椿井大塚山古墳に2面の計7面の同笵鏡が認められる。初期の作品に位置づけられる。
陳是作銘 三角縁六神四獣鏡は、面径22.0センチメートルで、乳により四分割され、一つの乳は形骸化した笠松形の文様を伴う。正面二体横向き一体の神像と二匹の獣像が対になって配される。銘帯内に時計廻りに「陳是作竟甚大好 □□□守及龍虎 身有文章□□□ 古□□人東王父 渇飲玉□飢食棗」の七言の句と「壽」「如」「金」「石」が鋳られる。
日月日日銘 唐草文帯四神四獣鏡面は、径21.8センチメートルで、方形格に「日月日日」銘字が配され、静岡県磐田市経塚古墳に同笵鏡が認められる。
君・宜・官銘 三角縁獣文帯三神三獣鏡は、面径22.0センチメートルで、時計回りに「君」「宜」「官」の銘が配される。奈良県北葛飾郡河合町左味田宝塚古墳と同笵である。
三角縁獣文帯三神三獣鏡は、面径23.3センチメートルで、約3分の1が遺存している。乳に区画された中に一体の神像と一匹の獣像が配されている。
三角縁波文帯盤龍鏡は、面径22.0センチメートルで、角を有する龍4匹が体を曲げ、向き合い胴体を紐の下に隠し上半身が飛び出している。兵庫県揖保郡新宮町吉島古墳と奈良県桜井市池ノ内五号墳に同笵鏡が認められる。
三角縁神獣鏡の初期の作品からかなり展開した新しい部類のものまでを一同に所有している。鏡の同笵による分有関係の相違と併せて、三角縁神獣鏡の配布のあり方が問題になってくる。
群馬県太田市牛沢頼母子古墳から出土した。
三角縁波文帯盤龍鏡は、面径21.7センチメートルで、盤龍鏡であることは判るが、銹化が著しく鏡背文様は明瞭でない。
三角縁銘帯四神四獣鏡は、面径21.7センチメートルで、笠松形を伴う乳により四等分され、二神二獣を各々配する。外区は外向き鋸歯文帯が複線波文帯を挟んでいるという。
ここでも日月天王の銘をもつ鏡が出ている。この鏡は鳥取県国分寺古墳の出土鏡、三角縁五神四獣鏡と同はんであるという。
https://books.google.co.jp/books?id=yc8kwLDOwiUC&pg=PA137&lpg=PA137&dq=天王日月+銘+三角縁神獣鏡+潮崎山古墳&source=bl&ots=wMc_US1Em9&sig=dbRVTy792mK5MT14FQFpHk1QE4o&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjP2f3SmtTMAhXnMKYKHe00A6sQ6AEIHDAB#v=onepage&q=天王日月%20銘%20三角縁神獣鏡%20潮崎山古墳&f=false
大和古墳群のなかでも最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれている。
これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳などの前方後円墳が連なるように立地し、大和古墳群中山支群と呼ばれている。
竜王山の麗、萱生町から中山町にかけて所在する全長230m、後円部径145m、前方部幅130m墳丘は東側で3段、西側で4段の段築により形成されており、後円部および前方部の墳頂に方形壇が存在する巨大前方後円墳。
宮内庁が手白香皇女衾田陵(たしらか)としている墓。
手白香皇女を埋葬した陵墓は、6世紀前半に築造されたはずで、西殿塚古墳の隣接地を市教育委員会が調査したところ3世紀末から4世紀初め頃の埴輪が出土し時代が合わない。西殿塚古墳の築造年代は考古学的に手白香皇女の墓とは異なることが確認された。
古墳が築かれた場所は、東から西へと下る山の斜面となっている。そのために後円部の東側部分は3段なのに、西側は4段ある。
平らな場所り造成にかかる土木作業量が少なくて済み、西側に回れば立派に見えるようになっている。
東側には、東殿塚古墳がある。二つとも並行して築かれており、関係が濃いと考えられる。
宮内庁は西殿塚古墳を6世紀前半の継体天皇の皇后、手白香皇女の墓として管理しているが、考古学者の間では、それより200年以上前に築かれたヤマト王権の大王墓とする説が有力。
邪馬台国の女王・卑弥呼の後継者、台与(とよ)の墓との説があり、宮内庁が陵墓として管理する西殿塚古墳で前方部頂上にある方形墳が石積みである可能性が高いことが明らかになった。同庁が3月に発行した「書陵部紀要」で報告した。
3~5世紀ごろの古墳では竪穴式石室の上に盛り土の壇が造られ、石積みの壇は珍しい。卑弥呼の墓説もある箸墓古墳の後円部にも石積の壇はあり、初期の大王墓の構造を考える上で貴重な手がかりとなる。
西殿塚には、前方部と後円部にそれぞれ一辺約22m、高さ約2.2mと、一辺約35m、高さ約2.6mの方形壇がある。
2012年8月に前方部に盗掘事件があったのを機に同庁書陵部が調べたところ、深さ最大約40cmの盗掘穴は底まで、こぶし大から人の頭ほどの石が積まれていた。
2014-4-10 朝日新聞より
東殿塚古墳
全長139m、後円部径65m、前方部幅49mを測り、周囲には古墳の外周を区画する長方形の地割が残っています。後円部墳頂には多量の板石が散乱していることから、埋葬施設は竪穴式石室であると推定されています。
平成9年に天理市教育委員会が前方部西側で実施した発掘調査では、墳丘上段部裾の基底石列や墳丘下段裾の葺石、掘割(周濠相当の落ち込み)と外提を検出するなど、多くの新たな知見が得られました。とくに、墳丘裾と外提の間の掘割内で見つかった祭祀施設では、初期埴輪と二重口縁壺や甕(かめ)、高坏(たかつき)など布留式土器(ふる)、さらに近江系や山陰系など外来系土器との共存が確認され、初期埴輪の年代的位置づけと古墳の築造時期を考える上で非常に重要な資料が得られました。
埴輪配列を構成した初期の円筒埴輪には、朝顔形埴輪・鰭付円筒(ひれつき)・特殊器台形埴輪などがあります。その中でも鰭付円筒埴輪の1点には船をモチーフとして描かれた線刻絵画があり、当時の葬送観念を反映するものと考えられる重要な発見として知られています。
築造時期
西殿塚古墳・東殿塚古墳の築造時期については、これまで発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、次に朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。しかし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、埴輪の出現から成立期(3世紀後半)に連続的に築造されたものと考えられます。」
天理市教育委員会
外鎌山西麓に鎮座し、少彦名命を祀る。旧村 社。「延喜式」神名帳城上郡の「忍坂坐生根神社大、月次新嘗」 に比定。当社は本殿がなく後方の宮 山を神体とし、拝殿北に「石神」と称して、径四〇センチ、 高さ二〇センチ内外の自然石を十数個並べられ、磐座を形成。
「三輪流神道深秘抄」に「忍坂宮イクネ大明神、イヅレモ三輪ノ大明神 ノ御子神トイヘリ」と記す。
例祭は一〇月十八日。宵夜深夜に「きょうの飯」と称する御供と、「どへ」という御幣を供える「後夜の渡」が行われる。
-大和・紀伊『寺院神社大事典』-
境内に掲げる案内には、
「当社は、天平2年(730)の『大倭国正税帳』に、また延長5年(927)撰『延喜式内社』にも名前がみえる古社で、本殿を持たず宮山をご神体とし、拝殿の北側に神が鎮座する『石神』と称する自然石十数個を並べた『岩蔵』があります。
ここ忍坂の地は、隅田八幡宮所蔵の国宝・人物画像鏡に刻まれた意柴沙加宮(オシサカノミヤ)の地ともされ、第二十六代継体天皇が磐余玉穂宮に即位される以前におられた処とされています。
また忍坂大中姫命や衣通姫(ソトオリヒメ)が居られたとも伝わり、大和志料には額田部氏(ヌカタベ)の祖・天津彦根命を祀るとも記され、平安時代の医書・大同類聚方に、当社相伝の“以久禍薬”(イクネノクスリ・額田部連上奏)のあるとも伝えています。・・・
また額田部氏が居住したとするこの地は、額田王と鏡女王姉妹との繋がりや、息長足日広額天皇(オキナガタラシヒ ヒロヌカ・第二十三代舒明天皇)の陵墓があることから、息長氏の大和での拠点の一つであったとされています」
とあるが、その創建由緒・年代等には触れていない。
近世以降の資料として
・大和志(1734・江戸中期)--忍坂坐生根神社 大月次新嘗 貞観元年正月授従五位上 忍坂村
・大和名所図会(1791・江戸後期)--思坂(オシサカ)坐生根神社 恩坂村(オシサカムラ)にあり 神名帳及び三代実録に出す
・大和志料(1914・大正3)--忍坂山の内字宮山を以て神体となし宝殿の設なし、其の故実を詳かにせず・・・
・奈良県史(1989・平成元)ーー近鉄大阪線朝倉駅の南方約1kmの字宮山の通称外鎌山(トカマヤマ、別称:忍坂山、当社の北東約500m、H=292m)を御神体(神奈備)とする神殿のない古代の祭祀形態そのものの神社である
等があるが、いずれも創建由緒には触れていない。
当社の創建時期は不明だが、
・大倭国正税帳(730・奈良中期・正倉院文書)に
「生根神戸穀九斛五斗五升耗一斗九升 斛別二升 云々」
とあり、8世記初頭にあったのは確かといえる。
その後の史料として
・新抄格勅符抄所収の大同元年牒(806、奈良時代以降の社寺に与えられた封戸・神戸の記録)に
「忍坂神三戸 伊勢一戸但馬二戸」
とあり、この忍坂神が当社のことという。
なお、同じ大同元年牒に
「生根神一戸 大和」
とあり、ここにいう生根神を当社とする説もあるが(式内社調査報告・1982)、ネットにみる大同元年牒では、この神を大阪の住吉大社に隣接する式内大社・生根神社(摂津国住吉郡)に充て、忍坂神が当社のこととしている。
この忍坂神・生根神のいずれが当社を指すかはっきりしないが、いずれにしろ、正税帳にいう神戸を継続して9世記以降も三戸(あるいは一戸)の神戸が与えられていたらしい。
当社への神階綬叙記録としては、三代実録・貞観元年(859)正月27日条に
「大和国従五位下・・・忍坂生根神・・・並に従五位上に叙す」
とあるのみで、その後の昇叙記録は見えない。
なお、大和国郷村社取調帳(1874・明治7年)に「当社の創建は崇神天皇9年4月甲子朔」とあるというが(式内社調査報告)、これは書紀・崇神9年条に、
「春3月15日、天皇の夢の中に神人が現れ、『赤い盾8枚と赤い矛8本で墨坂の神を祀れ、また黒い盾8枚と黒い矛8本で大坂の神を祀れ』と告げた。
4月16日、夢の教えのままに墨坂神・大坂神を祀った」
とある大坂神(オオサカ)もオサカと読めることから、同音の忍坂神(オサカ)と誤認したもののようで、神名帳考証(伴信友・1813)は
「和名抄に、城上郡忍坂(於佐加)葛上郡大坂とあり、忍坂と大坂は別なるべし」
前期古墳の副葬品の典型的組合せ、つまり、銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類をセットにしていることである。
破片から復元すると斜縁二神二獣鏡、方格規矩四神鏡、獣帯鏡、平縁の神獣鏡各1面、内行花文鏡3面、三角縁神獣鏡4種6面[7]、計9種類で少なくとも13面の鏡が副葬されていたとされたが、鏡の復元作業によって推計81枚以上という膨大な銅鏡が副葬されていたことがわかった。これは国内最多である。
銅鏡の破片の中に「是」とみられる文字が書かれていたものがあり、三次元計測によって群馬県蟹沢古墳で出土した正始元年(240年。正始は魏の年号)の銘文を持つ三角縁神獣鏡と一致したと発表された。これを魏志倭人伝に記載されている、魏皇帝から卑弥呼へ下賜された銅鏡100枚のうちの一つであるとする説も出現した。
ヒスイの勾玉、ガラス製の管玉、小玉などの首飾り
鉄刀・鉄剣・銅鏃などの武器類
碧玉製の腕飾類、
玉杖(ぎょくじょう)
前橋天神山古墳(前橋市)から出土した5面の鏡の内、その一面も桜井茶臼山古墳と同范鏡(三角縁五神四獣鏡)を持つ。この古墳は榛名山噴火灰の直上に築かれていることから4世紀中頃~後期とされる、全長126mの前方後円墳。この古墳も毛野国がヤマト王権の一員となったその時期あるいはその直後に築かれたとされている。
1977年に調査が行われ、主体部は3つ確認されている。いずれも竪穴式石室で、中国製方格規矩鏡、中国製三角縁四神四獣鏡、中国製三角縁同向式神獣鏡、鉄剣、銅鏃、鉄鏃、鉄斧、鉄鎌、勾玉、管玉、小玉などが出土。
方格規矩四神鏡は直径12.9センチの青銅製。四神や大地を表す方格がある。銘文などから、中国の王莽が統治した新(8-23年)の鏡と特定。「言之紀鏡」などの文字も見つかった。
二枚の三角縁神獣鏡も出土。うち一枚に、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に出した使いが帰国した240年にあたる「正始元年」との銘がある。
銘文は下記の通り。
「正治元年陳是作鏡自有経述本自▽師杜地命出寿如金石保子宜孫」(出典)
「正始元年」の銅鏡は他に、柴崎蟹沢古墳(群馬県・高崎市)や、竹島古墳(山口県・周南市)でも出土している。ちなみに同年の240年を示すと思われる、実際には存在しない年号「景初四年」の銘を持つ銅鏡が、広峯15号墳(広島県・福知山市)と持田古墳群(宮崎県・児湯郡、伝承)から出土している。
桜井茶臼山古墳(奈良県・桜井市)で出土した銅鏡の破片にある「是」とみられる文字が、柴崎蟹沢古墳から出土した銅鏡とぴったりと一致したことが確認され、桜井茶臼山古墳出土の銅鏡も「正始元年」銅鏡の可能性が高まった