隅田八幡神社、人物画像鏡

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image隅田八幡神社、人物画像鏡

隅田八幡神社人物画像鏡(すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょう)は、和歌山県橋本市に所在する隅田八幡神社が所…

Read the full story here


コメント

  • 癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟〔隅田八幡鏡銘文〕

    癸未年(五○三)八月、日十(ソカ)大王(昆支)の年(世)、男弟 王(継体)が意柴沙加宮(忍坂宮)に在(いま)す時、斯麻(武寧王)は男弟王に長く奉仕したいと思い、開中(辟中)の費直(こおりちか)(郡将)と穢人今州利の二人の高官を遣わし、白い上質の銅二百旱を使って、この鏡を作らせた。
  • 忍坂宮(意柴沙加宮)

    忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)
    奈良県桜井市忍阪

    「斯麻」=草壁皇子としたときの解釈

    論点となっていたキーワードは次のように解釈される。
    葵未年:
    683年。天武天皇の在位中で、草壁皇子の活躍時期と整合
    日十大王:
    天武天皇。国風諡号アマノヌナハラオキノマヒト(天渟中原瀛真人)の「ヒト」を「日十」で表したと理解できる。
    男弟王:
    忍坂部皇子(おさかべのみこ)。草壁皇子の弟にあたる。
    意柴沙加宮:
    忍坂宮(おしさかのみや)は、忍坂部皇子の宮居。
    斯麻:
    草壁皇子
    開中費直:
    川内の直
    穢人今州利:
    今来村主(いまきのすぐり)。『新撰姓氏録』に仁徳天皇の時代に渡来した人びとの末裔として今来村主が記されている。朝鮮半島北東のの出身なので、穢人と記されたのであろう。
  • ●意柴沙加(おしさか)の宮、これは忍坂宮である。
    允恭天皇のとき,皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ),つまり雄略天皇の母のために設けられたという宮で、「刑部」が置かれたので「おしさか」=「おさか」=「おっさか」=「おほさか」となる。皇后になったのは454年1月28日である。従って計算上は、画像鏡紀年が443年だとまだ忍坂宮は存在しないはずである。これも503年説を後押しする。

    また、画像鏡銘文の「斯麻」が武寧王であるなら、やはり443年説は消えることになる。
    すると503年なら即位前の継体大王が銘文の男弟王に該当し、読み方は「オヲド」となるわけである。
    従って故森浩一がとなえた日十大王=日下皇子説はかなり不利である。443年説も分が無い。
  • 目弱王(まよわのおおきみ、允恭天皇39年(450年) - 安康天皇3年(456年)8月)は、記紀に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。
    父は大日下皇子(おおくさかのみこ。仁徳天皇の皇子)、母は中蒂姫命(なかしひめのみこと。履中天皇の皇女)。

    記紀によれば、父の大日下大王が罪無くして安康天皇に誅殺された後、母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、目弱王は連れ子として育てられた。安康天皇3年(456年)8月、年幼くして(記に7歳とする)楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する(これを目弱王の変という)その後、坂合黒彦皇子と共に「都夫良意富美(つぶらおおみ)」の宅に逃げ込んだが、「大長谷命(おおはつせのみこと: 後の雄略天皇)」の兵に攻められ、「都夫良意富美」の助命嘆願も空しく、諸共に焼き殺されたという。

    「安康天皇」の弟である「大長谷命(後の雄略天皇)」が報復行動に出ることを予想、また「都夫良意富美」の娘が「大長谷命」の后になることを知って「都夫良意富美(つぶらおおみ)」を頼ったのでしょう。

    結局、「都夫良意富美」は「目弱王」を見殺しにすることはできず、「大長谷命」と戦う前に自分の娘である「訶良比賣(からひめ)」に自分の領地 五つ所の屯倉(みやけ)を副えて差し出し上で「大長谷命」に立ち向かい、その後「目弱王」を刺し殺し自分も頸を切って自害するのです。
  • 継体王元年(507年)一月十二日、王は樟葉宮くすはのみや(河内の国、葛葉郷。今の大阪府牧方市楠葉)に移られた。
  • 隅田八幡の人物画像鏡の銘文「癸未年」から意柴沙加宮(忍坂)を推定すると継体天皇即位は「書記」によると即位507年、治世25年、崩年531年、御年82歳。と記されており、人物画像鏡の「癸未年」は440年か503年のいずれかになります。

    443年とすると、倭王済が宋に使いを遣わして「安東将軍倭国王」の称号を得た年であるから、大王は、允恭天皇を指すものと解釈できます。また、意柴沙加宮は忍坂大中姫皇后おしさかのおほなかつひめこうごうと何らかの関係があるとみられる。男弟王は誰であるまだ分かっていません。
    503年説においては、当時倭国と緊密な外交関係をもち、大陸の文物を大量に輸出していた百済武寧王ぶねいおう(502~523)の諱いなみが「斯麻王しまおう」であることから、鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定する解釈が有力である。
    また、443年説では継体の生年が450年なのでこの説は不可。503年説では53歳となり即位は57歳となり紀年では矛盾しませんが即位4年前に忍坂居住という点が少し気懸かりになります。因みに古事記では継体天皇の生年不詳、崩年丁未ひのとひつじ年(527)4月9日で年令も不詳です。
  • 闘鶏国造つげのくにつくりが側を通りかかり大中津比売に無礼なおこないがあったことを忘れずに皇后になられてから、その折の無礼な振る舞いを責めて姓を稲置いなきに落とされた記述があり、この時大中津比売が居たのが忍坂宮で闘鶏国造とは今の奈良市都祁つげの事だと思われます。この時点では大中津比売は母の弟比売真若おとひめまわかと忍坂に居住、此処で成長したので忍坂の名が付いたのでしょう。またこの忍坂に居住していたのは皇后になる十年から十五年前ぐらいと推定すると允恭二年は西暦413年ですから398~403年頃となります。「書記」(646)大化二年三月二十日条、に『群臣・連・及び伴造とものみやつこ・国造くにつこの所有する昔の天皇の時代に置かれた子代)の入部いりべ皇子たち私有の名入りの私民、皇祖大兄すめみおやのおおえの名入りの部五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上します』という皇太子、中大兄皇子なかのおおえのみこの入部・屯倉献上の記述があります。
    この入部・屯倉は「皇祖御名入部」で大和国忍坂だといわれていて允恭天皇皇后の忍坂大中津比売の名代なしろで、この忍坂部が忍坂大中津比売から一世紀を経て忍坂日子人太子→田村皇子(舒明)→中大兄皇子にと引き継がれています。この膨大な「皇祖御名入部」の管掌者が息長氏であったともいわれています。因みに忍坂日子人太子は敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・比呂比売(広姫)で舒明天皇・茅渟王の父に当たる人です。
  • 隅田党と隅田八幡宮

    阿波の長国造後裔の諸氏は知られないが、阿波国那賀郡から対岸の紀伊北部に遷住した支族もあった。

    紀伊国那賀郡の郡司大領家となり、長我宿祢姓、のちに仮冒して藤原朝臣姓を称し、紀ノ川中流部の伊都郡隅田荘にあって隅田八幡宮(和歌山県橋本市隅田町垂井)を核に結合した隅田党という中小武士団が平安後期頃から見られる。隅田党は隅田八幡宮俗別当・隅田荘下司公文職の称藤原姓隅田氏を中心として葛原・境原などの一族に加え、異姓(文宿祢姓〔橘姓と称〕上田氏や源姓土屋・松岡氏など)も含む族的結合であるが、その活動は南北朝・室町前期にも見られ、戦国末期までに没落して郷士となった。なお、隅田党の祖・長我忠延が十二世紀の初頭の長治年間にト兎神社(後の隅田八幡)の俗別当職となったことや因幡国八上郡に白兎神社が数社ある事情は、長我一族の先祖の系譜を示唆するように思われる。
  • 隅田鏡は「最も遅くても3世紀」初め頃までに大陸で作られた鏡なのです--と言い切れれば事は簡単なのですが、実は、そうではありません。
    何故なら、同鏡はオリジナルでは無いからです。
    この鏡が相当古くから社宝として隅田八幡に存在していたことは確かですが、その出土地も出土時期も共に不明です。では、そんな「身元不明」でかつ「レプリカ」の鏡がどうして学究の関心を集め続けているのかと言えば、この鏡を製作する「元」になったと思われる鏡が各地の古墳から出土し、鏡が我が国にもたらされた(であろう)時期の上限を推測することが可能であり、鏡に記された「銘文」に「大王」あるいは「意柴沙加」など『日本の言葉を漢字表現した』部分が認められるため、5~6世紀の実態解明に不可欠な考古資料だと位置づけられている訳です。隅田鏡(径19.9cm)の「母鏡」ではないかとされている物の同型鏡は、

      1 大阪 郡川車塚古墳(5世紀末、円墳?)・出土鏡
      2 大阪 長持山古墳(全長40m、円墳、5世紀後半、允恭帝古墳の倍塚)・出土鏡(1号棺副葬品、ボストン美術館が収蔵か)
      3 京都 トヅカ古墳(全長20m、円墳、5世紀、径19.9cm)・出土鏡
      4 福井 西塚古墳(全長74m、方円墳、5世紀後半)・出土鏡
      5 東京 亀塚古墳(全長51m、帆立貝式方円墳、5世紀末頃,20.8cm)・出土鏡
      6 福岡 番塚古墳(全長50m、方円墳、5世紀末~6世紀初め)・出土鏡
      7 埼玉 伝・秋山古墳群・出土鏡・拓本(径20.0cm、現物は存在していない)
      8 岡山 朱千駄古墳(全長70m、方円墳、5世紀後半)・出土鏡(現在は個人蔵)

    など十面(平成21年8月現在)とされていますが、出土地不明の物を除き、いずれも「5世紀後半から6世紀初め」頃に築造された古墳から出土しており、比較的保存状態の良い京田辺市トヅカ古墳出土の鏡などには、
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。