百済の王、近肖古王から義慈王、346-660

December 2018 編集されました カテゴリ: 韓半島
image百済の王、近肖古王から義慈王、346-660

近肖古王 きんしょうこおう 在位346-375 子   近仇首王きんきゅうしゅおう【母:不明】 ・・…

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コメント

  • 4世紀

    :4世紀前半の垂仁天皇の時代に
     天皇の夫人の佐保姫の兄の「佐保彦王」が
     天皇を殺して王位につこうと謀反を企てたよね

    :佐保彦王の謀反をしった垂仁が軍を差し向けて
     「佐保彦王」を討ちとたよね

    :そんとき垂仁が差し向けて軍勢の将軍が
     毛野氏の八綱田ってされてるよね

    :八綱田が謀反の佐保彦王を打ち破ったんで
     垂仁天皇は八綱田に
     「倭日向健日向八綱田」って呼称を授けた
     ってされてるよね
  • 磐井の乱

    磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱

    武寧王の死亡の後の出来事。

    527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

    磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・許勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。
  • 朝貢物の件で新羅を問いただした千熊長彦は武蔵国の人だという。
    派遣された荒田別は豊城入彦の子孫で上毛野氏の祖先だという。
    どちらも関東の人が重責を担わされている。
    神功皇后の当時に関東までを征圧していたと考えるよりも、
    日本書紀編纂当時、大和朝廷にとって関東以北がいかに重要だったかを
    考えるべきなのかもしれない。
  • 鹿我別(かがわけ)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。

    上毛野君の遠祖で、神功皇后の時に朝鮮へ派遣されたという武将である。応神天皇年間に派遣された「巫別(かんなぎわけ)」は同一人物とされる

    荒田別とともに百済に派遣され、翌年王仁を連れて帰っている。この「巫別」は鹿我別と同一人物とされる。この条において、荒田別・巫別は「上毛野君の祖」と記載されている。

    『先代旧事本紀』「国造本紀」浮田国造条では、成務天皇年間に崇神天皇五世孫の「賀我別王」が国造に任じられたと記載されている。
  • 書紀の雄略5年(461年)に、百済の加須利君が弟の軍君(こにきし)を天皇に仕えるように遣わされる時、軍君の妻が筑紫の加羅島で出産した。その子が嶋君で武寧王であると記載している。また、武烈4年(502年)に武寧王が即位、継体17年(523年)に武寧王が薨じ、翌年(524年)に聖明王が即位とある。書紀の絶対年は、武寧王墓誌と三国史記にほぼ一致しており正確である。

    この他にも、書紀の絶対年と三国史記が一致する記事がある。雄略2年(458年)蓋鹵王の即位(己巳[キシ]と記載、癸巳[キシ]の間違い)、雄略20年(476年)の高麗による百済の滅亡、雄略21年の汶洲王の興国、雄略23年の東城王即位である
  • 加賀別と浮田国造

    宇喜多秀家の宇喜多氏の出身地は備前児島で、本姓は三宅氏であり、百済王の子孫だという。
    日本に流れ着いた百済王子兄弟の子孫で、児島に来てから三宅姓を名乗ったという。
    しかし宇喜多という地名については記さない。現在、岡山県に浮田村があったが、これは明治二十二年(一八八九)に成立したもので、宇喜多氏の名字の地ではない。

    備前藩士大森景頼所蔵宇喜多系図(『戦国宇喜多一族』)によれば、百済王の子孫三条中将の子孫だという。三条中将は大治年間(一一二六~三一)に山城国大荒木田宇喜多社領であった備前児島に至ったという。この大荒木田は、『三代実録』貞観元年(八五九)一月二十七日条で、「京畿七道諸神進階及新叙惣二百六十七社」として山城国正六位上与度神を従五位下に叙したとある淀姫大明神のことであり、「菟芸泥赴」によれば西鴨浮田森を大荒木といったという。

    『万葉集』巻十一で「かくしてやなをや守らむ大荒木の浮田の杜の標ならなくに」とあるように、大和宇智郡荒木神社(現五條市今井町)を「浮田の杜」と呼んでいた。祭神は大荒木命である。
    宇智は内という意味であり、孝元天皇を祖とする内臣の本拠である。武内宿禰(たけしうちのすくね)の母が紀国造であるように、大和から紀伊にむかう巨勢道にある。

    荒木神社のある大和宇智郡と山城宇治、宇治川下流の淀川と日向浮田庄を流れる大淀川の関連が気にかかる。さらに宇治・淀川水系の水源琵琶湖沿岸の高島郡に宇伎多神社があることから、浮田(宇伎多)は水運に関する地名と考えられるが、また日向隼人と浮田物部の関係も推測できる。
    『系図纂要』所収の三宅系図では、三宅氏を新羅王子の天日槍の子孫三宅範勝に、佐々木盛綱の子孫備前守護佐々木加地氏の子孫である東郷長胤の次男和田備後守範長が養子に入り、そのあと児島高徳(備後守)―高秀(始住宇喜多)―高家―信徳―久家―能家と続いたという。太平記で活躍が描かれている児島高徳の子孫と伝えられる。
  • 高良大社の犬の舞 
    玉垂宮、毎年正月十五日社人を集め、天神地祇を奉幣、祭事を奏す。又三韓征伐の神楽を奏す。降人百済氏は犬の面を被り、三韓の王は犬となって、本朝の御門を守る役を勤める。これを犬の舞と言う。新羅、高麗の降人は御帰陣の砌(みぎり)、舟中で死す。何れも三韓の王子也(高良山日記)

    高良社草創以来の仕人は
    丹波氏(俗体大宮司法体坐主兼宮師職、武内宿禰嫡流)、
    物部氏(祝司、大祝、小祝職、武内宿禰乳母の子孫)。
    安曇氏(磯良の子孫、筑前磯鹿浜の辺に住む、三韓征伐の時の梶取なり。その嫡孫は安曇氏を称す。後、三潴酒見村の風浪宮神主となる)、
    百済氏(百済王子、降人)、前田氏(下宮大宮司)、草部氏(御供所、三毛郡司)等、此の外仕人多数なりしも中古に至り滅ぶ(高良山日記、千手院文書)。
  • 高良宮に残る古文書「高良宮縁起」に、390年ころと見られる次のような記述があるそうです。
    <高良玉垂命、没す。子の斯礼賀志(しれかし)命、立つ。>
  • 高良大社文書『高良記』(中世末期成立)に記されていた。
    「大并(高良大菩薩)、クタラヲ、メシクスルカウ人トウ クタラ氏ニ、犬ノ面ヲキセ、犬ノ スカタヲツクツテ、三ノカラクニノ皇ハ、日本ノ犬トナツテ、本朝ノ御門ヲ マフリタテマツルヨシ、毎年正月十五日ニ是ヲツトム、犬ノマイ 今ニタエス、年中行事六十余ケトノ其一ナリ」


     ここで記されていることは、百済からの降人の頭、百済氏が犬の面をつけて正月十五日に犬の舞を日本国の朝廷の守りとなって舞う行事が今も高良大社で続いているという。

  • 『三国史記』百済本紀に

    「王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以て質と為す。」
    (第三、阿[辛*]王六年<三九七>五月条)
    「腆支王。<或は直支と云う。>……阿の在位第三年の年に立ちて太子と為る。六年、出でて倭国に質す。」
           (第三、腆支王即位前紀)
         辛*は草冠編に辛です。

      『三国史記』のこの記事によれば、三九七年に百済の太子で後に百済王となった腆支が倭国へ人質となって来ていたのだ。この三九七年という年は、初代玉 垂命が没した三九〇年の後であることから、倭王讃の時代となろう。『日本書紀』応神八年三月条に百済記からの引用として、百済王子直支の来朝のことが見える
  • 新羅の未斯欣

    波沙王は3世紀の人で、微叱己知は5世紀の人です。


    18代実聖(じっせい)尼師今の元年(402年)の条によれば、前王の子の未斯欣(みしきん)を人質として、倭国に送ったと書かれています。この未斯欣が、微叱己知です。19代訥祇(とつぎ)麻立干(まりつかん)の2年(418年)には、未斯欣が倭国から逃げ帰ったといいます。未斯欣は、応神天皇から仁徳天皇の時代の人なのです。日本側にはしっかりした記録がなかったようです。年代は把握されておらず、記憶も断片的です。そのために、安易に神功皇后に結び付けたようです。
  • 第14代近仇首王

    346年9月に先代の契王が薨去し、王位を継いだ。新羅とは和親(羅済同盟)を保ち、高句麗との抗争を続けた。369年には雉壌(黄海道延白郡銀川面?)へ進駐してきた高句麗兵を急襲して5000の首級を挙げ、371年には太子(後の近仇首王)とともに高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させた。また372年1月には東晋に対して朝貢を行い、6月には鎮東将軍・領楽浪太守に封ぜられた。同じ頃、倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。こうした対高句麗の外交戦略は、次代の近仇首王にも引き継がれ、百済にとっての基本的な外交態勢となった。375年7月に高句麗が北部辺境の水谷城(黄海道新渓郡多栗面)を攻め落としたため、将軍を送って反撃したが勝てなかった。王は再び大軍を派遣して高句麗を討とうとしたが、不作の為に出征はできなかった。
  • June 2016 編集されました
    遼東の情勢、高句麗ー前燕ー百済 の順に強盛

    高句麗が発展するきっかけとなったのは、第15代美川王(在位300-330)の時代だとされている。同王の14年(313年)に楽浪郡を侵し、男女2千余人を捕虜とし、翌5年には帯方郡に侵入して、旧楽浪・帯方の両郡を奪取した

    大陸では西晋が衰微した後、五胡の中の鮮卑族の慕容氏が遼西に侵入して前燕を建国すると、かっての玄菟郡と遼東郡の地を高句麗と争うようになった。故国原王の12年(342年)には、前燕は大挙して丸都城を攻めている。その結果、故国原王は単騎で逃げ延びて山中に身を隠す有様だった。前燕軍は美川王の墓を暴き、歴代の財宝を略奪し、宮室の焼き払い、王母を拉致し、男女五万人を捕虜として連れ帰ったという。このため、敵の撤去後、高句麗は一時的に首都を東黄城に遷さざるをえなかった。
    一方、南に新しく興った百済は破竹の勢いで勢力を増してきていた。両国の本格的な衝突は、故国原王が369年に百済の北界に侵入したことに端を発する。そこで、百済の近肖古王は、371年に太子の近仇首とともに精鋭3万を率いて高句麗の南進の牙城である平壌城を攻めた。このとき、故国原王は不幸にも百済軍の流れ矢にあたって死んでしまった。この故国原王の戦死は、高句麗にとって忘れがたい怨恨事となり、それ以後百済との衝突はますますエスカレートしていく。
    広開土王が18歳で即位したのは、こうした時期である。
    先代の故国壌王の息子で、386年に太子に立てられており、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡げた。

    ●399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出むいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出た。
    ●400年、大王は新羅の願いに応じて5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅の王都を占領していた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
    ●404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
    こうした記述は、倭が百済を助けて高句麗の南進を阻止しようとしたり、伽揶諸国を助けて新羅に侵入した事実があったことを物語るものであろう。さらに『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」とあり、人質となった王子を連れ戻すために朴提上が活躍する逸話が記載されている。当時の倭が、朝鮮半島南部の百済や新羅、伽揶諸国に対して国際関係上優位にあったことは認めてよい。
  • June 2016 編集されました
    河内の大津神社

    「応神天皇の頃(4末~5世紀初か)、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる“葛井氏・船氏・津氏”の3氏が勢力を張っていた。この3氏のうち津氏一族がこの地を卜して“大宮山”と称し、自分たちの守護神を奉斎したことが大津神社の発祥だろうというのが古来からの定説である」とある。

    葛井・船・津氏とは、応神朝に来朝したと伝えられる百済辰孫王の後裔氏族で、続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に
     「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫王(シンソン)を入朝させた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とされた。仁徳天皇は長男・太阿郎王(タアラ)を近侍とされ、・・・その孫・午定君の3人の子・味沙・辰爾・麻呂のとき別れて3姓となり、各々その所職に因りて氏をなした。葛井・船・津等即ち是なり。・・・」(大意)
    とある。
     この上表文によれば、その系譜は
     始祖・都慕王(ツモ・百済王)・・・貴須王-辰斯王-辰孫王(知宗王)-太阿郎王-玄陽君-
    -塩君(午定君)-|-味散(味沙君)-膽津(白猪史)→葛井氏
                                             |-王辰爾(智仁君)→船史→船氏
                                             |-麻呂(牛)→津史→津氏→菅野氏
    となるが、3姓に別れたのは6世紀後半とされ、その後、それぞれが史部(フヒトベ-書記官)として朝廷に仕えたという。

     正史上における津史(ツノフヒト)の初見は、書紀・敏達3年(573)に記す、
      「冬十月十一日、船史王辰爾の弟、牛に詔して、姓を賜って津史とされた」
    の記事で、その後、淳仁朝・天平法字2年(758)に連(ムラジ)の姓を賜り、桓武朝・延歴9年(790)、勅により菅野朝臣の姓を賜っている(続日本紀)。
     新撰姓氏禄には、これら3氏について、
     ・右京諸蕃(百済) 葛井宿禰  菅野朝臣同祖  塩君男味散君之後也
     ・右京諸蕃(百済) 船連     菅野朝臣同祖  大阿郎王三世孫智仁君之後也
     ・右京諸蕃(百済) 津宿禰    菅野朝臣同祖  塩君男麻呂君之後也

     これら3氏が当地一帯に勢力を張っていたことは、日本後紀(841)・延歴18年(799)3月条に記す、菅野朝臣真道等から出された
     「己等の先祖、葛井・船・津3氏の墓地は、河内国丹比郡の野中寺の南にありて寺山と曰ふ。・・・」
    との上表文からみて確かのようで(野中寺とは、当社の南東約1.3kmにある古寺で、聖徳太子の命を受けて蘇我馬子が建立したとの伝承をもつ)、日本の神々3(大津神社の項・2000)には、
     「当社の創建年代は不明であるが、津連(菅野朝臣と改姓)の氏神として、古くから丹比郡丹下郷の台地上に存在していたものと考えられる」
    とあり、諸資料とも異論はみえない。
  • 近肖古王
    (きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)は百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり、第11代の比流王の第2子。中国・日本の史書に初めて名の現れる百済王である

    諡号(または追号)は第5代の肖古王と同じであるが、第6代仇首王と区別して第14代近仇首王とし、第4代蓋婁王と区別して第21代蓋鹵王の別名を近蓋婁王とするように、同名の王の区別の為に「近」の文字が用いられている。

    『三国史記』には諱・諡は伝わっていない。『晋書』では余句[2]、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王とする。

    第13代王近肖古王(クンチョゴワン)
    扶余の流民をまとめ、遼西を攻略、馬韓54ヶ国を攻略、そして伽耶、靺鞨族と新羅も傘下に入れ高句麗を牽制する一方で、百済国内では肖古王系とか古爾王系とか貴族間の均衡に苦慮します。
  • September 2018 編集されました
    好太王碑文
        永楽元年(三九一)
          百済新羅舊是属民、由来朝貢。而倭以辛卯年来渡海
          破百残**新羅、以為臣民      
          
        永楽六年(三九六)
          伐百済。為質王弟並大臣一〇人
          
        永楽九年(三九九)
          百済違誓輿倭和通、王巡下平穣。而新羅遣使曰王云
          倭人満其国境
          
        永楽一〇年(四〇〇)
          教遣歩騎五万、往救新羅。至新羅城、倭其中満
          昔新羅*錦未有身来朝** 僕勾****朝貢
          
        永楽一四年(四〇四)
          倭不軌侵入帯方界。***倭寇大敗
          
        永楽一七年(四〇七)
          教遣歩騎五万、***(百済)合戦
  • September 2018 編集されました
    広開土王碑文・三国史記年譜
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    干 支 西暦 広開土王碑 高句麗本紀 新羅本紀 百済本紀

    庚 寅 390       済侵麗 伐麗
    辛 卯 391 倭渡破三韓 談徳即位
    壬 辰 392 送使羅修好 以実聖麗質 麗侵王没
    癸 巳 393 済侵南辺 倭囲金城 伐麗
    甲 午 394 済来撃破 輿麗戦敗
    乙 未 395 済来侵撃破 輿麗戦敗
    丙 申 396 伐済及人質
    丁 酉 397 腆支倭質
    戊 戌 398 欲伐麗
    己 亥 399 倭満羅国境 欲伐麗
    庚 子 400 救羅城中倭 遣使燕
    辛 丑 401 実聖帰還
    壬 寅 402 攻燕 未斯欣倭質 遣使倭球
    癸 卯 403 済侵辺 倭使来
    甲 辰 404 倭侵帯方 侵燕
    乙 巳 405 燕攻麗 倭攻明活城 腆支立王
    丙 午 406 燕襲麗
    丁 未 407 伐百済 倭来侵
    戊 申 408 王欲襲対馬
    己 酉 409
    庚 戌 410
    ------------------------------------------------------------

    要は高句麗と新羅は友好関係、百済と倭も友好関係ということになり、高句麗・新羅対百済・倭という図式が成りたつ。
     一方戦闘の結果は、戦後処理の仕方ではかることができる。この点でもっとも明瞭な秤は人質の扱いかたである。質には二種あり、戦闘によって決定的に敗れ拉致される場合がひとつ、友好つまり援軍を求めるにあたってそれを入れる場合がひとつである。  前者の例としては、三九六年の高句麗の百済侵略がある。

    広開土王碑によれば、この時の高句麗の戦果は徹底的なもので、時の百済王阿華を降し、「王弟および大臣十人を捕虜」にして凱旋したという。
     しかしこの戦闘について百済紀はなにも書かない。無視している。
  • September 2018 編集されました
    干 支 西暦 広開土王碑 高句麗本紀 新羅本紀 百済本紀
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    庚 寅 390 済侵麗 伐麗
    辛 卯 391 倭渡破三韓 談徳即位
    壬 辰 392 送使羅修好 (以実聖麗質) 麗侵済王没
    癸 巳 393 済侵南辺 倭囲金城 伐麗
    甲 午 394 済来撃破 輿麗戦敗
    乙 未 395 済来侵撃破 輿麗戦大敗
    丙 申 396 (伐済及人質)
    丁 酉 397 (腆支倭質)
    戊 戌 398 欲伐麗
    己 亥 399 倭満羅国境 欲伐麗
    庚 子 400 救羅城中倭 遣使燕
    辛 丑 401 実聖帰還
    壬 寅 402 攻燕 (未斯欣倭質) 遣使倭求球
    癸 卯 403 済侵辺 倭使来
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     壬辰(三九二)の新羅本紀の実聖は、「高句麗王以強盛」のために質に出されたと記されているが、これもむろん事実の糊塗である。好開土王碑に「辛卯(三九一)年倭渡海、破百残新羅」とあるのが史実なら、この質は、辛卯の年倭の侵入にあった新羅がその翌年、高句麗の庇護または援軍をたのんで入れたものである。
     すると新羅の王子未斯欣と朴好の兄弟も同様である。未斯欣は新羅本紀では、四〇二年に倭に行った。朴好は実に四一二年に高句麗に行ったという。しかし広開土王碑文の記述は違っている。庚子(四〇〇)「倭は新羅城の中に満ちていた」といい、その直後高句麗は一帯を開放し、読解しにくいながら「新羅王実聖**僕勾」と実聖ならびに僕勾二人にふれている。僕勾は朴好のことである。

    この年(四〇〇年)に、実聖と朴好についての一連の処置があった。実聖は帰還し、倭に敗れた新羅王(奈勿)にとって代わって即位、朴好は実聖に代わって高句麗の質となったのである。ともに庚子年(四〇〇)。つまり実聖の即位は、事実上史記の記述より二年さかのぼる。
     そして「倭は新羅城の中に満ちていた」という状況は、高句麗の救援に先だって、新羅がすでに倭に決定的な敗北を喫していたことを示している。未斯欣の入質もまた庚子(四〇〇)のことであった筈である。事実上倭が未斯欣を拉致して凱旋したことになる。高句麗が三九六年に百済を破り「王弟等」を質にとって凱旋したのと同様である。
  • September 2018 編集されました
    書紀

     冬十月の己亥年朔辛丑に和珥津より発ちたまふ。(略)即ち大風順に吹きて、帆舶波に随ふ。梶楫を労がずして、便ち新羅に到る。時に随船潮浪、遠く国中に逮ぶ。(略)新羅王、是に戦戦慄慄きて惜身所無し。即ち諸人を集へて曰く、「新羅の国を建しより以来、未だ嘗も海水の国に凌ることを聞かず。若し天運尽きて、国、海と為らむとするか」
     即ち新羅王素組して面縛り、王船の前に降り、因りて曰さく「今より以後、伏ひて飼部と為り、春秋に馬梳及び馬鞭、また毎年男女の調を貢らむ」とまうす。
     皇后乃ち其の縛を解きて飼部としたまふ。遂にその国中に入りまして、重宝の府庫を封め図籍文書を収む。即ち皇后の所杖ける矛を以て、新羅の王の門に樹て、後葉の印としたまふ。故、其れの矛、今猶新羅の王の門に樹てり。
     爰に新羅王波沙寐錦、微叱己知波珍干岐を以て質として、乃りて官軍に従はしむ。是を以て、新羅王、常に八十船の調を以て日本国に貢る、其れ是の縁なり。
       古事記はこう語っている。  

     故、息長帯日売命、軍を整え船隻めて度り幸でましし時、海原の魚、大小を問わず悉に御船を負いて渡りき。ここに順大風起こりて、御船浪の従にゆきき。故、その御船の波瀾、新羅の国に押し騰りて、既に国半に到りき。  ここにその国主、畏惶みて奏言しけらく、「今より以後は、天皇の命の随に、御馬甘と定め、年毎に船を隻めて、退むこと無く仕え奉らむ」とまをしき。  故、ここをもちて、新羅国は御馬甘と定め、百済国は渡の屯家と定めたまひき。ここにその御杖を、新羅の国主の門に衝き立てて、すなわち墨江大神の荒御魂を、国守ります神として祭り鎮めて還り渡りたまひき。

     書紀は神功が「新羅城に入ってその倉を封じ、王門に杖矛を樹てた」という劇的な事件を語っている。書紀を通じてここだけにある首都開城の記事である。古事記も「王門に杖を衝き立てた」という。
     いずれも新羅城を陥落させたという記事である。

    仲哀九年、神功摂政称制前記年(四〇〇)の新羅征討の記事は、広開土王碑の庚子(四〇〇)年の「倭満新羅城」という記述と一致する。どちらも特異な事態を語っている点でも、同一の史実とみるべきであろう。

    新羅王子未斯欣(神功紀五年条)β

     また神功紀はその新羅から凱旋するとき、新羅王子「微叱己知波珍干岐」を質として連れかえったという。
     これは神功摂政称制前紀年(四〇〇)のことで、微叱己知は未斯欣にほかならない。広開土王碑が永楽一〇年(四〇〇)に「*錦・僕好」と記録する年である。
     三国史記新羅本紀がこれを西紀四〇二年のこととするのは、あきらかな改竄であるが、史記には未斯欣に対してもう一つ作為することがあった。その後の未斯欣の倭からの帰還である。
     朴提上がここに登場する。史記の英雄譚の一つとしてよく知られている朴提上伝承は、未斯欣と朴好(僕勾)の人質王子を倭と高句麗から救いだす英雄の挿話である。
     史記によれば、新羅王実聖の後を襲った訥祇の二年(四一八)、朴提上はまず高句麗に行き「高句麗は信義の国」なるをもって王を説き、朴好の解放を勝ちとったが、倭に対しては「禽獣の国」なるがために一計を図り、「罪をえて国を追われ、倭王の庇護を求める」体をとって、倭に入った。囚われた未斯欣と出会うと、「倭軍とともに新羅を攻める」と偽って対馬に至り、ひそかに王子を海から逃した。時を稼ぐために島に残った朴提上は、倭王の激怒をかって焼き殺されたという。
     書紀はこの話を神功五年(四〇五)に記録する。未斯欣に対馬で逃亡され、怒って朴提上を焼き殺すという文脈も一致している。係年は訥祇二年(四一八)と書く史記と一三年も相違するのである。
     事実は神功五年が正しい。ほかならぬ史記の記事にこういうことが記されている。

     
     
       実聖四(四〇五) 倭兵来攻明活城、不克而帰
         五(四〇六)
         六(四〇七) 倭人侵南辺、夏又侵南辺
         七(四〇八) 王聞倭人於対馬島置営。我欲、練精兵
                撃破兵所。舒弗邯未斯品曰、不若。王
                従之。
     うち実聖七年二月条の記事は、新羅王が対馬に駐留する倭軍を先手をうって攻撃したいと言い、未斯品なる人物が無謀として止めたというものである。
     対馬島に倭兵があることは特別のことではなく、この時代はむしろ常態といっていい。それでなお思いついたように対馬島を襲いたいという新羅王の衝動は不可解である。
  • September 2018 編集されました
    書紀にはこう書かれている。

     五年の春三月、新羅王、宇礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等を遣して、朝貢る。仍りて先の質微叱己知伐旱を返したまふといふ情有り。是を以て己知伐旱に誂へて、欺かして曰さく、「使い宇礼斯伐・毛麻利叱智等、臣に告げて曰へらく『我が王、臣が久に還らざるに坐りて、悉に妻子を没めて奴とせり』といへり。冀はくは、暫く本土に還りて、虚実を知りて請さむ」とまうさしむ。
     皇太后。即ち聴したまふ。因りて葛城襲津彦を副えて遣わす。共に対馬に到りて、沙比の海(朝鮮海峡)の水門に宿る。時に新羅の使者毛麻利叱智、窃に船及び水手を分り、微叱己知旱岐を載せて、新羅に逃れしむ。乃ち艸霊を造り、微叱己知の床に置きて、詐りて病する者の為す。(略)
     襲津彦、即ち欺かれたることを知りて、新羅の使者三人を捉へて、檻中に納めて火を以て焚くき殺しつ。乃ち新羅に詣りて、蹈鞴津に次りて、草羅城を抜きて還る。


     書紀に従うべきである。実聖七年の未斯品の記事は、おそらく四〇八年でなく四〇六年のことであり、朴提上の事件はその前年、書紀のいう神功五年(四〇五)に起こっているのである。
     あらためて確認するが、この時代全体を通じ、三国史記就中とくに新羅本紀における倭関係記事は、おしなべて二年の繰り下がりがあった。対馬島の記事、実聖の即位、未斯欣の人質など一連の記事が事実上そうなっている。

    倭による新羅落城(四〇〇)
  • 新羅の勃興は、はやく見積もっても、西紀三七〇年代のこと。倭や百済との衝突が、この時期から始まったとみられることと、新羅の中国への朝貢もこの時期から始まっているからである。
     朝貢は西紀三七七年と三八二年の二回ある。そして後者の新羅王は実は奈勿でなく奈解であった。
     奈解は金氏ではない。昔氏の王である。新羅には奈勿に先立って朴氏の王と昔氏の王があった。百済にも伯済の都邑国家であった頃には、夫餘氏ではない王があったから、都邑国家新羅にも数氏の王があって構わない。ただ朴氏は間違いなく都邑国家斯廬慶州の主であったが、昔氏はすでに領域新羅の王であった。
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