日本貴国、扶桑国

December 2018 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人
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『日本書紀』神功皇后摂政46年(書紀の紀年では西暦246年に対応)、百済王の使者が卓淳国(現在の韓国慶尚北道大…

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コメント

  • 王が若かったので木羅斤資の子木満致が国政を行ったとある。 …
    また、木羅斤資を百済の将とするが、倭国が派遣した将軍とも任那系とも考えられ不明な点が多い。

    加羅国王の妹既殿至は、大倭の天皇に直訴すると、天皇は怒って、木羅斤資を使わし沙至比跪を攻め、加羅を戻した。

    神功皇后49年3月には神功皇后が、将軍荒田別及び鹿我別を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪と沙白・蓋盧らに合流を命じて、新羅を破った。

    さらに百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪らが荒田別らに協力し新羅軍をやぶり、倭・百済連合軍は、比自火本、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳、加羅などの七カ国を平定し、また比利、布弥支、半古などの四つの村を平定したとある。 …
  • 【梁書】 卷五十四 列傳第四十八 諸夷 海南諸國,東夷,西北諸戎 東夷
    撰者 : 唐朝 姚 思廉
    東夷之國 朝鮮爲大
    得箕子之化 其器物猶有禮樂云
    魏時朝鮮以東馬韓,辰韓之屬 世通中國
    自晉過江泛海東使有高句驪,百濟 而宋,齊間常通職貢
    梁興又有加焉扶桑國 在昔未聞也
    普通(西暦520年-527年)中 有道人稱自彼而至 其言元本尤悉 故幷錄焉

    扶桑国とは何か

    「扶桑」とは『山海経』や『淮南子』などの古代中国神話に現れる、東方の日出ずる処に生えているという神木(「扶木」ともいう)、もしくはその神木が生えている場所のことです。
    中国南朝・梁の普通年間(520~527)、その「扶桑」を国号とする国からやってきたと称する僧侶の報告が朝廷にとりあげられました。
     その僧の名を慧深といいます。ただし、慧深は南朝・斉(南斉)の永元元年(499)には、荊州(湖北省襄樊市一帯)にいて、扶桑国のことを語っていたと正史『梁書』東夷伝にあり、また正史『南斉書』の東南夷伝にも「扶桑」に言及する箇所がありますので、扶桑国の話は梁建国以前から、中国の一部人士の間で話題になっていたとみてよいでしょう。
     慧深の証言によると、扶桑国には南朝・宋の大明2年(458)に罽賓国(カシミール)の僧5人が渡来してきて仏教を伝えたということです。また、扶桑国の所在は中国の東、大漢国の東方2万余里のところにあるということです。
     さて、『梁書』東夷伝によると、倭国の東北7千余里に文身国という人みな入れ墨をした国があり、さらにその文身国の東5千余里に大漢国があるとされ、それらの説明の後に慧深の証言が続きます。そこで、慧深の証言の「大漢国」と、文身国の東にあるという「大漢国」を同じとみなせば、扶桑国は倭国から3万里以上もの彼方にあるということになるのです。この倭国をどこに求めるか、また一里をどのくらいの長さとみなすか、そしてそもそも2箇所に出てくる「大漢国」を同一とみなすかどうかで、扶桑国の位置は変わってくるのです。
     5世紀当時の倭国の中心は日本の畿内という説が有力ですが、九州北部とみなす説や、その両者とはまったく別の場所に求める説もあります。
    また、中国の1里は時代によって違いますが、ほぼ400から500メートルの間。ただし中国正史で辺境に関する記述には70~80メートルで換算しないとつじつまの合わない例があることが知られています(有名な魏志倭人伝の行路記事など)。

     1里400~500メートルとすれば、2万里は8000~10000キロもの距離になります。これでは大漢国をどこにとるとしても、扶桑国への道のりは東アジアにおさまりきれません。一里を70~80メートルで換算するか、行路記事の里数そのものを無視すれば、扶桑国を日本列島内に求めることも可能です。
    「扶桑」は後世、日本国の美称としても用いられています。11世紀末、比叡山の僧・皇円が編んだ史書『扶桑略記』の書名などはその代表的なものです。したがって、扶桑国を日本の別名、もしくは日本列島内の小国とみなす説もあります。
     しかし、5世紀といえば、いわゆる倭の5王の時代でもあります。その頃の日本列島内に倭国と別に中国南朝から承認された国家があったとすれば、それは日本の国家形成史を考える上で重大な問題となります。
     また、5世紀末、日本列島内に出自を持つ僧が中国まで行ったことを認めれば、日本仏教伝来史も書き直されなければなりません。
     さらに、扶桑国が日本列島の東方もしくは東北方はるか彼方にあったとすれば、私たちは世界史に埋もれた未知の仏教国の存在を検討しなければならなくなるのです。
     扶桑国問題は従来の日本史、もしくは世界史を書き換える可能性を秘めています。
  • 梁書の卷第五十四列傳第四十八巻の東夷伝に記述されている扶桑國

    以下、序文全文を記述します。

    東夷之國 朝鮮為大 得箕子之化 其器物猶有 禮藥云
    魏時 朝鮮以東 馬韓辰韓之屬 世通中國 
    自晉過江 泛海東使有 高句驪百濟
    而宋齊閒 常通職貢 
    梁興 又有加焉 扶桑國 在昔未聞也 普通中 
    有道人 稱自彼而至 其言元本尤悉 故並錄焉
     
    東夷の國で朝鮮は大なり。箕子が獲得したところが変化したところである。その器物(調度品)には(箕子が持ち込んだ)祭儀に使用したもの、調薬に使用したものが、今猶有ると云われている。
    魏の時代、朝鮮より東の馬韓・辰韓に帰属(した地域)から、代々中国と通商があった。
    もちろん晋の時代にも、長江を通過して来た、泛海(浮かぶ海?(渤海・黄海))の東からの使者が有った。高句麗・百済からである。
    さらに宋・斉の時代の間も常に職貢が通っていた。
    梁が興隆し、また加筆するところが有ります。扶桑國です。昔は未聞 (前代未聞の希代な國) であった。普く(あまねく=もれなく)中国の都と通商があった。 梁の時代の普通年間(520年から527年)の間に、彼の地から来たと称する道人(仙人の道を極めた人? 僧侶?) がいた。その人の言うことは、昔のことも今のことも悉く(ことごとく)尤(もっと)もである。それ故に(扶桑國も)合わせて記録をする。

    扶桑國を記述するに際して、異例の但し書きが序文に記述されていることに注目すべきでしょう。この序文は時代を追って記述されています。以下、時代をまとめました。

     魏 220-265年 
     晉 265-420年 
     宋 420-479年
     斉 479-502年
     梁 502-557年


    この序文で気になるのは、國の意義です。序文には以下の地域が記述されています。

    東夷之國、朝鮮、馬韓、辰韓、中國、高句麗、百済、扶桑國

    國が使われているのは、東夷之國、中國、扶桑國です。
    馬韓國、辰韓國、高句麗國、百済國とは表現していないのです。

    梁の時代、高句麗、百済は100km四方以上の大きな版図です。それでも高句麗國、百済國とは表現していない

    高句麗
    476年頃の高句麗と周辺諸国

    國の意義は王が治める国家でもなく、あるいは領主が治める藩でもないのです。國の意義は決まった境界のある区域、都市で、その範囲は概ね10km四方以下か
    扶桑國の存在時期

    普通中
     普く(あまねく=もれなく)中国の都と通商があった。

    其言元本尤悉
     その人の言うことは、昔のことも今のことも悉く(ことごとく)尤(もっと)もである。
    中国の文献を調べてみたところ、燕の時代、昭王三年(紀元前299年)、前漢の時代、元鼎五年(紀元前115年 )の記述に扶桑が地域として記述されています。

    文献は以下のサイトを参照しました。
    太平御覧 人事部一十六巻の皮膚伝の記述
    王子年《拾遺錄》曰: 燕昭王三年 廣延之國 去燕七萬里 或云在扶桑之東
    洞冥記 巻第二 元鼎五年伝の記述

    是長安東 過扶桑七萬里 有及雲山

    紀元前299年、紀元前115年に、中国の東、遥か遠くに扶桑とゆう地域があったと記述されているのです。この扶桑の地は、梁書に記述されている扶桑國と同じなのでしょうか。扶桑國の列伝(本文)では、扶桑国の慧深が斉に永元元年(499年)に来たと記述されています。

    当初、この序文の扶桑國から来た道人は、慧深だと考えていました。そうすると「普通中」
    中国の都に、扶桑国から520-527年の間に来た道人と、499年に慧深とが、それぞれ訪問したことになります

    中国南朝・梁の普通年間(520~527)、その「扶桑」を国号とする国からやってきたと称する僧侶の報告が朝廷にとりあげられました。  その僧の名を慧深といいます。ただし、慧深は南朝・斉(南斉)の永元元年(499)には、荊州(湖北省襄樊市一帯)にいて、扶桑国のことを語っていたと正史『梁書』東夷伝にあり、また正史『南斉書』の東南夷伝にも「扶桑」に言及する箇所がありますので、扶桑国の話は梁建国以前から、中国の一部人士の間で話題になっていたとみてよいでしょう。  慧深の証言によると、扶桑国には南朝・宋の大明2年(458)に罽賓国(カシミール)の僧5人が渡来してきて仏教を伝えたということです。また、扶桑国の所在は中国の東、大漢国の東方2万余里のところにあるということです。  さて、『梁書』東夷伝によると、倭国の東北7千余里に文身国という人みな入れ墨をした国があり、さらにその文身国の東5千余里に大漢国があるとされ、それらの説明の後に慧深の証言が続きます。そこで、慧深の証言の「大漢国」と、文身国の東にあるという「大漢国」を同じとみなせば、扶桑国は倭国から3万里以上もの彼方にあるということになるのです。この倭国をどこに求めるか、また一里をどのくらいの長さとみなすか、そしてそもそも2箇所に出てくる「大漢国」を同一とみなすかどうかで、扶桑国の位置は変わってくるのです。
  • 序文には以下の地域が記述されています。

    東夷之國、朝鮮、馬韓、辰韓、中國、高句麗、百済、扶桑國

    國が使われているのは、東夷之國、中國、扶桑國です。
    馬韓國、辰韓國、高句麗國、百済國とは表現していないのです。

    梁の時代、高句麗、百済は100km四方以上の大きな版図です。それでも高句麗國、百済國とは表現していない
  • June 2018 編集されました
    倭の武・・・「済」の子で「興」の弟。西暦462年(孝武帝の大明6年)の記事に「興死して、弟・武立つ」とあり、父・済の爵号に「百済」を加え、さらに「安東将軍」を「安東大将軍」とした上で「七国諸軍事・倭国王」を自称して貢献してきた―とある。
     第8代順帝の昇明2(478)年、次のような上表文をもたらした。

    <倭王・武の上表文>(原文をかな交じりにし、割注を入れてある)

     <封国は偏遠にして、外に藩を作す。昔より祖禰(ソデイ)みずから甲冑を貫き、山川を跋渉して寧処にいとまあらず。東は毛人の55国を征し、西は衆夷の66国を服し、渡りて海北95国を平げり。
     王道は融泰(安泰)にして、土(国土)ははるかに畿内(都=宋王朝)を廓(へだ)て、累葉(何世代も)、朝宗(朝貢)して歳をたがへず。臣(わたくし)は下愚といえども、かたじけなくも先緒(先祖)を胤(つ)ぎ、統ぶる所を駆率(なんとか率いて)せり。天極(宋朝)に帰祟し(あがめ)奉れり。
     しかるに句麗(高句麗)は無道にして、見呑を図らんと欲し、邊隷(ヘンレイ=百済のこと)を掠抄(侵略)せんとして虔劉(ケンリュウ=掠奪・殺害)することやまず。毎(つね)に、稽滞(ケイタイ=押し留める)を致し、以って良風を失へり。路を進ましめんと曰うといえども、或は通じ、或は通ぜず。
     臣が亡考(亡父)「済」は実に寇讎(コウシュウ=仇敵)の天路(宋王朝への朝貢の道筋)を擁塞せるを忿(いきどお)り、控弦(コウゲン=兵士)百万(を揃え)、義声(仇敵をやっつけようという声)は感激し(ふるいたち)ていた。
     しかし方(まさ)に大挙せんと欲したれど、奄(にわか)に父兄を喪ひ、垂成の功をして一箕をも獲ざらしめたり。居るところ、諒闇に在りて、兵甲を動かされず。是を以って、堰息(ため息)してやまざりし。
     今に至りて甲を練り、兵を治め、父兄の志を申(かさね)んとす。義士(高句麗をやっつけようとする兵士)・虎賁(勇士)、文武に功を(効)あらわし、白刃の前に交わすをもまた顧みざる所となせり。
     若し、帝徳を以って覆戴(フクタイ=後ろ盾)せば、此の強敵を摧(くじ)き、よく方難を靖んぜしかば、前功に替える無けん。
     ひそかに自ら開府儀同三司(カイフギドウサンシ=将軍府を開くことのできる三司と同じ地位)を假し、其の余もすべてそれぞれ假授せしめ、以って忠節を勤めんとす>


     これに対して順帝は倭王・武を「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」と除爵した。自称の「開府儀同三司」は与えられず、「百済」も除外されたが、ただの「安東将軍」が「安東大将軍」に昇格しており、父「済」を超えた地位を得たことになる。
     因みに、このころ、高句麗王は既に「開府儀同三司」号と「車騎大将軍」号を除正されており、また百済王は「鎮東大将軍」であったから、倭王は此の時点で百済と並んだが、高句麗の地位には及ばなかった。


    南斉書・東南夷・倭によれば

     斉の始祖「高帝」の建元元年(479)に倭王・武に対して詔除が行われている。この時、倭から貢献があったとは書かれていないので、一般的には「新しい王朝が成立すると、前王朝の除爵も踏襲されるので、貢献がなくても、いわば自動的に除爵が行われる。だから、武の貢献がなくても前代の爵号が与えられる」という理由で、そのように記載されたのだろう―とされている。
     しかしよく見ると、前代つまり宋の爵号を微妙に変えているのだ。次に示そう。

      <倭王・武への除爵>

     建元元年(479)、進めて新たに「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王武を号して「鎮東大将軍」となす。

     
     もし遣使も無いのに代が替わって新王朝が樹立されたら、めくら判的に前代の爵号を踏襲するのであれば、この記事のように「安東大将軍」を「鎮東大将軍」に代えることはあり得ない話だ。
  • 紀氏は比較的早く大和朝廷の支配下に入り、朝鮮半島の諸国との対外交渉を主な職掌としていたと考えられている。このことは瀬戸内海の重要な拠点、すなわち紀氏の本拠である紀伊国名草郡をはじめ、讃岐国寒川郡・刈田郡・周防国佐婆郡・豊前国上毛郡などに多く分布し、さらに紀氏と同族とされる坂本臣や角臣らもほぼ同様の分布傾向を示すことからも確かめられる。また、紀氏が伊予国に来住したのは推古朝とされるが、この時代は大和政権と新羅との間に厳しい緊張状態が続いていた。このような情勢は必然的に瀬戸内海の重要性を高め、同時に造船の必要性をもたらすことになった。この大船の建造は太平洋や瀬戸内海沿岸でおこなわれ、そのことは文献によっても確かめることができる。具体的には伊豆・遠江・安芸・周防・河内・摂津・紀伊などの国名があげられる。伊予国の造船に関してはこの熊野岑以外の史料はないが、しかし大型船の船材とされるクスの多く分布することからみて伊予国でも造船のおこなわれた可能性が強い。
     つぎに、ここにみえる熊野船については「浦回こぐ熊野舟つき珍しくかけて思はぬ月も日ももなし」、「鳥がこり吾がこぎ来れば乏しかも大和へのぼる真熊野の船」(万葉集)とあることから、他の船と簡単に識別できる特殊な外形をもつ船であったことがわかる
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