古朝鮮と韓四郡、最近の話題

December 2018 編集されました カテゴリ: 韓半島
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  「中国遼西地域が古朝鮮であり、漢四郡地域であった」という研究報告が注目されている。平壌…

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  • BC82年、設置から26年で「真番郡」と「臨屯郡」は廃止され、「玄菟郡」は西方(現在の中国吉林省方面)に移された。さらに、BC75年、「玄菟郡」は遼東郡に吸収され玄菟城(現在の中国遼寧省方面)に名目を残すだけとなった

    AD30年に、楽浪郡の中国人系の在地豪族である王調(おうちょう)が反乱を起こし、半年以上も楽浪郡を占拠した。在地勢力の発展していたことがうかがわれる。
     AD44年には、朝鮮半島南部の国家形勢が進展し、楽浪郡に朝貢するものが現れた。AD49年にも南朝鮮の倭(注)・韓族の朝貢が伝えられている。
  • 後漢時代には、楽浪郡の組織も在地豪族を主体とするものとなる。中国の郡県支配の中心は遼東郡(現在の遼寧省方面・大陸部)に移った
  • AD132年に、高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。

     玄菟郡の太守であった公孫氏は、遼東郡をも支配し、AD204年(注:AD205年ころとしている文献もある。)には楽浪郡の屯有県(現在の黄海北道黄州方面)以南を帯方郡とした。郡県制を復興して、東方や南方の民族への影響力を強めようとしたものである。
     AD238年に、中国の魏は司馬宣王を派遣して公孫氏を滅ぼした。このとき高句麗は魏に援軍を送っている。楽浪郡と帯方郡は、魏に受け継がれた。魏がこの2郡の経営にのりだすと、朝鮮半島南部の韓族や日本の邪馬台国からの使節が朝貢しはじめた。

     AD266年に魏に代わって晋が建つと、AD274年に平州の5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を置いた。
     AD311年に、高句麗が西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)を陥れると、遼東郡と楽浪郡・帯方郡の連絡がたち切られた。しかし、このときの晋は匈奴に攻められて都の洛陽を落とされ、遼東郡への支援をできる状況ではなかった。遼東郡を実質的に支配しているのは鮮卑族であった。高句麗は、さらに、AD313年、楽浪郡・帯方郡をも占領するにいたった。
     これにより、BC108年から続いた中国による朝鮮半島の直接支配には終止符が打たれた。こののち、半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の小国の集まりは新羅と百済に統合していき、高句麗・新羅・百済の三国時代へ向かっていく。
  • 漢人の視野に朝鮮半島が入ったのは,周代のことである.『詩経』「商頌・長發」:「相土烈烈 海外有截」の「海外」は遼河地域を含め朝鮮半島北西部と看做すのが通説である.紀年の確実な「朝鮮」の記 載は『史記』(BC91 頃成書)「蘇秦列伝」の BC334 年の以下の記録である.
    2 (蘇秦) 去遊燕 歳余而得見 説燕文侯曰 燕東有朝鮮遼東 北有林胡樓煩
    合従連衡で張儀と共に知られる蘇秦が燕の文侯に「あなたの国は東に朝鮮,遼東を持ってい る」と説いている.『後漢書』(五世紀初成書)「東夷列伝」は
    漢初大乱 燕斉趙人往避地者数万口 而燕人衛満撃破準 而自王朝鮮
    秦末漢初の動乱時に河北,山東,遼東の漢人数万家族が朝鮮に難を逃れたこと,燕王盧綰の 部下の燕人衛滿が伝説的な箕子朝鮮の末裔箕準を滅ぼし朝鮮王となったことを伝える.同じ内 容を成書年代の古い『史記』「朝鮮列伝」は次のように記す.
    (衛満)亡命 聚党千余人 魋結蛮夷服 而東走出塞 渡[水貝]水 居秦故地上下鄣 稍役真番朝 鮮蛮夷及燕斉之亡命者王之 都王儉
  • AD204 年に公孫氏が楽浪郡の南に帯方郡を設置し,238 年魏が公孫氏を倒し,楽浪,帯方 の二郡を接収する(卑弥呼の遣使はその翌年である).この後,高句麗が 313 年,314 年に楽浪, 帯方の二郡を滅ぼす

    314 年の帯方郡滅亡以後,半島と列島の漢人は政治的に本国から切り離される.しかしこの 後も半島から列島に漢語話者集団が存在しつづけ,帯方郡滅亡直後の西晋滅亡,その後の五胡 十六国の乱を避けて半島と列島に渡来した新来漢人によって上書きされつつ,さまざまな地域 的時代的変種を含む漢語話者集団が少なくとも七世紀まで存在した.
  • 『隋書』(七世紀成書)の記 載

    方有十郡 郡有将 其人雑有新羅 高麗 倭等 亦有中国人 「百済」条 其人雑有華夏 高麗 百済之属 「新羅」条

    六世紀の半島と列島の諸族の分布が語られている.

    百済の各郡には新羅人,高麗人,倭人,中国人が雑居している.
    新羅には中国人,高麗人,百済人が雑居している.
  • 近年発見され,現在十三基確認されている 全羅南道栄山江流域の五世紀末~六世紀前半の前方後円墳からも確認し得るように朝鮮半島南 西部には倭系豪族が居住していた.
  • 百済の宮廷に関しては,『周書』(七世紀成書)「異域伝百済」条に
    王姓夫余氏 号於羅瑕 民呼為鞬吉支 夏言並王也 妻号於陸 夏言妃也
    『日本書紀』古訓では「王」を「コニキシ」,「オリコケ」「夫人」を「オルク~オリク」と訓 む.万に一つともいうべき偶然によって知り得る日中の記録から百済では
    王族語 民衆語
    王 於羅瑕・オリコケ 鞬吉支・コニキシ
    妃 於陸・オルク~オリク
    と称していたことが分かる.民衆語の「鞬吉支・コニキシ」は後代の韓語の khɨn kɨicʌ (大王)で 解し得るが,王を「於羅瑕・オリコケ」,妃を「於陸・オルク~オリク」と呼んだ「夫餘系」百 済王族語は如何なる系統に属する言語であったのか今日では全く知り得ない.
    倭の宮廷に関しては,『隋書』
    倭王...号阿輩鶏弥...妻号鶏弥...名太子為利歌弥多弗利
    の「阿輩鶏弥」,「鶏弥」,「利歌弥多弗利」がそれぞれ倭語の「オホキミ」,「キミ」,「ワカミト ホリ」に比定し得ることからも倭語を用いていたことが明らかである.新羅王宮についてはこ こに詳述しないが百済民衆と同じ韓系言語を用いていた.
  • 韓伝には

    馬韓が辰韓を統轄していた。

    辰韓の項「山に鉄を出す」と。そして「韓・歳*(わい)・倭、従いて之を取る」と。
  • 百済の武寧王は筑紫で生まれた王であると、日本書紀は501年の記に失われた百済の史書、「百済新撰」から引いてきて書いている。

    このことは三国史記には何も触れられていない。

    やはり三国史記は「倭」についての記事を避けているように見える
  •  漢四郡とは、朝鮮半島に置かれた楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の四郡のことです(いずれも一応 幽州の管轄です)。

    前漢の武帝の頃ですので、漢が広大な時で、衛氏朝鮮を滅ぼしてこの四郡が設置されました。
    四郡と言いますが、強引に漢の領土でないところを支配しても長続きはせず、30年も経たないうちに真番郡・臨屯郡は廃止され、臨屯郡の北部7県が楽浪郡に編入されて、結局 楽浪郡と玄菟郡の二郡だけになってしまいます。

    楽浪郡(らくろうぐん)は、漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在したという。

    後漢光武帝が中国統一事業の過程で30年には楽浪郡を接収している。その年(30年)のうちに後漢は嶺東7県を廃止して、原住民の穢人を県侯に任命して独立させている。

    後漢末期の混乱期になると、遼東地方で台頭した公孫氏が楽浪郡にも勢力を伸ばしその支配下に収めた。

    3世紀初頭には公孫氏の2代目、公孫康が郡南部の荒地を分離して再開発し、帯方郡を設置している。ただし、名目上は楽浪郡から帯方郡を分置したといっても、実際には帯方郡のほうが大きく楽浪郡はそれに比べて主役の座を譲った格好になった。

    帯方郡(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部の遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた[6]。その後を継いだ嫡子・公孫康は、建安9年(204年)楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割く。翌年(238年)魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、長期の兵糧責めにあって公孫淵とその子・修は滅びる。

    漢書地理志によれば、楽浪郡は25県を抱え、この拡大した楽浪郡を創業期の楽浪郡に対して歴史学では「大楽浪郡」ともいう。『漢書』地理志によるとその戸数は6万2,812戸、口数は40万6,748人あったという


    そしてさらに250年ほど経って後漢末期になると、異民族の侵入が激しくなります。特に後に朝鮮北部に強大な国家を築く高句麗が精強で、何度も侵入を繰り返して、北部の玄菟郡はその大半を失ってしまいます。

    泰始元年(265年)に魏の重臣であった司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が魏の曹奐(元帝)から禅譲を受けて晋朝(西晋)を興すが、その新しい王朝の繁栄も長くは続かず、永康元年(300年)身内の八王の乱ですっかり混迷状態に陥った。この時代、帯方郡に属する県は、帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥の7県であった(『晋書地理志』)。

    建興元年(313年)遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は晋の手を離れ情報も途絶した。元の帯方郡や楽浪郡南部に残された漢人の政権や都市は、東晋を奉じて5世紀初頭までの存続が確認されているが、5世紀前半には百済によって征服され、5世紀後半に入ると南下した高句麗が百済を駆逐して支配下へ置いた。
  • 晋書 倭人伝
    倭人は帯方郡東南の大海中に在り、山島に拠って国を為す。土地には山林が多く、良田はなく、海産物を食す。旧来は百余の小国が互いに接していたが、魏の時代に至って、三十国が通好してきた。

     宣帝が公孫氏を平定すると、その女王は遣使を帯方郡に送って朝見。その後貢献は絶えなかった。文帝が相となると、また数回やって来た。前泰の初め、遣使が重ねて入貢した。
  • 晋書 倭人伝

    倭人は帯方郡東南の大海中に在り、山島に拠って国を為す。土地には山林が多く、良田はなく、海産物を食す。旧来は百余の小国が互いに接していたが、魏の時代に至って、三十国が通好してきた。戸数は七万。

    旧来は男子を君主とした。後漢末期、倭人は騒乱となり、戦が鎮静しないので、女子を立てて国王とした。名を卑彌呼という。
  • 紀元前195年、燕に侵入した漢軍は18県51郷邑を平定したが、劉邦崩御の急報が届くと全軍が退却した。そして、劉邦が死んだことで漢王室との和解を断念した盧綰も軍勢を引き連れて長城の外に出て、東胡を滅ぼして強勢となった匈奴王の冒頓単于(ぼくとつぜんう)のもとに亡命した。これを喜んだ冒頓単于は盧綰を東胡王に任じた。

     満が千余の兵を連れて燕を脱出した時期もこの前後だろう。
     髷を結い、蛮夷の服を着るのは東夷の風習であり、司馬遷は満を、燕に仕えていた東夷の武将か、従属していた部族長だと考えたようだ。満については姓も官位も伝わっていない。後に中国の正史には「衛満」と記されるが、満を長城の衛士だと考えたのかもしれない。
  • 『史記』朝鮮列伝
     朝鮮王滿者、故燕人也。自始全燕時、嘗略屬真番、朝鮮、為置吏、鄣塞。
     朝鮮王の満とは、昔の燕の国民である。燕は全盛期の初めから真番と朝鮮を服属せしめ、統治官を置いて鄣を塞いでいたことがある。

     秦滅燕、屬遼東外徼。漢興、為其遠難守、復修遼東故塞、至浿水為界、屬燕。
     秦が燕を滅ぼし、遼東の外徼(がいげき=異民族)を帰属させた。
     漢王朝が勃興すると、そこが遠方で守るのが難しいので、遼東の故塞を修復し、浿水までを国境として、燕に属させた。

     燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、魋結蠻夷服而東出塞、渡浿水、居秦故空地上下鄣、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之、都王險。
     燕王の盧綰(ロワン)が背き、匈奴に亡命すると、髷(まげ)を結い、蛮夷の衣服を着た満は千余の人々を連れて長城を出て東に逃れ、浿水を渡り、秦の時代の昔の空地に居を構えて鄣を出入し、真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者らの王となり、王険城を都とした。

     紀元前202年、項羽との熾烈な争いに勝利し、漢帝国を建てた劉邦(高祖)だが、やがて猜疑心を募らせるようになり、次々と建国の元勲らを誅殺し、遂には幼少からの親友である燕王の盧綰にも討伐軍を向けた。だが、盧綰は劉邦と戦うことを避け、一族を連れて万余の兵とともに長城の関所付近に退避した。

     紀元前195年、燕に侵入した漢軍は18県51郷邑を平定したが、劉邦崩御の急報が届くと全軍が退却した。そして、劉邦が死んだことで漢王室との和解を断念した盧綰も軍勢を引き連れて長城の外に出て、東胡を滅ぼして強勢となった匈奴王の冒頓単于(ぼくとつぜんう)のもとに亡命した。これを喜んだ冒頓単于は盧綰を東胡王に任じた。
  • 箕子朝鮮(箕子の末裔か否かは不明)の滅亡と衛氏朝鮮の誕生

    三国志魏書』馬韓伝
     及秦并天下、使蒙恬築長城、到遼東。時朝鮮王否立、畏秦襲之、略服屬秦、不肯朝會。否死、其子準立。二十餘年而陳、項起、天下亂、燕、齊、趙民愁苦、稍稍亡往準、準乃置之於西方。
     秦は天下を併合すると、蒙恬に遼東に至る長城を築かせた。朝鮮王に否が立ち、秦の襲来を畏れ、秦に略服し属したが入朝は拒んだ。否が死に、その子の準が立った。
     二十有余年後に陳と項が起ち、天下が乱れると、燕、斉、趙の民は困苦から、次々と準のもとに逃れて往った。準は彼らを西方に置いた。

     及漢以盧綰為燕王、朝鮮與燕界於浿水。及綰反、入匈奴、燕人衛滿亡命、為胡服、東度浿水、詣準降、説準求居西界、(故)〔收〕中國亡命為朝鮮藩屏。
     漢代に盧綰(ろわん)が燕王となり、朝鮮と燕の境界を浿水(ばいすい)とした。盧綰が(前漢に)叛き、匈奴に亡命すると、燕人の衛満は胡服を着て亡命、東に浿水を渡り、準に帰服を申し出て、西界に住んで中国からの流民を集めて朝鮮の藩屏としたいと準に説いた。

     準信寵之、拜為博士、賜以圭、封之百里、令守西邊。滿誘亡黨、衆稍多、乃詐遣人告準、言漢兵十道至、求入宿衛、遂還攻準。準與滿戰、不敵也。
     準は彼を信じて寵愛し、博士と呼んで尊敬し、圭の地を賜り、この百里を彼に封じ、西辺の令守とした。満が誘った流民集団が段々と多くなるに及び、使者を派遣して「漢兵がいずれの街道にも満ちあふれ、宿衛に入ることを求めています」と虚偽の報告をさせ、帰還してきた準を攻めた。準は満と戦うも(満には)敵わなかった。
  • 『史記』蘇秦列伝
     燕は東に朝鮮、遼東、北に林胡と楼煩、西に雲中と九原、南に呼沱と易水がある。

     燕の本拠は河北省北部、その東に朝鮮と遼東(遼河の東部)があるとすれば、記載順序からすれば、朝鮮は遼東より西側、すなわち遼西(遼河の西部)だとなる。
     本来、遼西地方は胡族(古代トルコ系遊牧民族)の山戎(さんじゅう)が領域としているはずだが、紀元前475年に趙に敗戦して以来、衰弱しており、すでに遼西から追われ、東胡に亡命していたのかもしれない。ただし、林胡・楼煩・東胡は「三胡」と呼ばれるが、燕の北にいたのは東胡であり、林胡と楼煩は黄河を間にして、蒙古自治区側に林胡、山西省側に楼煩がいた。
  • 遼東長城』
    『史記』匈奴列伝
     燕有賢將秦開、為質於胡、胡甚信之。歸而襲破走東胡、東胡卻千餘里。與荊軻刺秦王秦舞陽者、開之孫也。燕亦筑長城、自造陽至襄平。置上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東郡以拒胡。
     燕に賢將の秦開あり。胡(東胡)で人質となっていたが、胡は秦開を甚だ信用した。(秦開は燕に帰還するや、軍を率いて東胡を)撃破し、東胡を敗走させ、東胡から千余里の土地を奪う。荊軻(けいか)と秦王の暗殺に同行した秦舞陽とは秦開の孫である。
     燕もまた造陽より襄平に至る長城を築き、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東に郡を置いて、胡族の侵入を拒む。

     登場人物が秦開将軍であることから、紀元前三世紀の燕長城だと推察できる。
     造陽は河北省張家口市懐来県、襄平(じょうへい)は遼寧省遼陽市の古地名。
  • 『三国志魏書』馬韓伝
     魏略曰:昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊為王、欲東略地、朝鮮侯亦自稱為王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之、乃止。使禮西説燕、燕止之、不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗為界、朝鮮遂弱。
     魏略には、昔、箕子の後裔の朝鮮侯は、周に衰退が見えると、燕が自ら王と尊号し、東の地を侵略しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称し、周室の尊厳をかけて、兵を興して燕を迎撃しようとした。その大夫の禮がこれを諫言して止めさせた。禮を西に使者として派遣し燕を説得した。燕は進軍を止め、攻撃しなかった。
     後に子孫が少し驕慢で暴虐だったので、燕は将軍の秦開を派遣して朝鮮の西方を攻め、二千余里の土地を奪い取り、満番汗(まんばんかん)を国境とした。朝鮮は遂弱した。

     ここにも秦開将軍が登場するが、魏略は、燕が定めた国境を「満番汗」だと言っているが、満番汗という地名が見当たらない。『後漢書』郡国志に次のような記述がある。

    「遼東郡。秦が配置した。今は幽州に属す。襄平、新昌、無慮は西部都尉が治める。望平、房、候城は中部都尉が治める。遼隊、遼陽、險涜、居就、室僞山、高顯、安市、武次は東部都尉が治める。平郭、西安平、文、番汗、沛水を出れば塞外、西南は海に入る」

     清朝を建国した女真族は文殊(もんじゅ)観音を信奉することから、満州(もんじゅ)族と改名した。従って、文と満は同音であることから、文(一説には、汶亭)と番汗が満番汗のことだろう。だが、満番汗は平壌市に近い大同江北岸にある。これでは一挙に遼東地方を突き抜けたことになり、それまでの遼東地方は朝鮮の領地だったということになる。
  • 史記』朝鮮列伝
     朝鮮王滿者、故燕人也。自始全燕時、嘗略屬真番、朝鮮、為置吏、鄣塞。秦滅燕、屬遼東外徼。漢興、為其遠難守、復修遼東故塞、至浿 水為界、屬燕。
     朝鮮王の滿とは、昔の燕の人である。燕は全盛期の初期から、真番と朝鮮を帰服させ、官吏を置いて、鄣(楽浪郡有雲鄣)を塞いでいたことがある。
     秦が燕を滅ぼし、遼東の外徼(異民族)を帰属させた。漢が勃興し、そこが遠方で守るのが難しいので、遼東の故塞(燕長城)を修復し、浿 水までを国境とし、燕に属させた。

    秦の修復は浿 水(清川江、または浿水県)までだとしている。
    史籍によって「襄平、満番汗、浿 水」と朝鮮との国境が異なるが、渤海に注ぐ朝鮮半島の河川は、北から遼河、東遼河、太子河、鴨緑江、清川江、大同江が流れている

  • 「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」東沃沮の条

     東沃沮は、高句麗の蓋馬大山の東に在り、大海に濱して居る。その地形は東北に狭く西南に長い。・・・ 漢の初め、燕の亡命人の衛満は朝鮮で王の時、沃沮は皆これに属した。漢の武帝は、元封2(B.C.109)年に朝鮮を伐ち衛満の孫の右渠を殺して、その地を分けて、四郡とした。沃沮城を玄菟郡とする。

    「漢書~武帝紀」

     漢の武帝、元封3(B.C.108)年の夏、朝鮮はその王の右渠を斬り降った。その地は、楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡、真番郡と為った。

    「漢書~地理誌」玄菟郡

     (注)漢の武帝が元封4(B.C.107)年に開いた。

    「漢書~地理誌」楽浪郡

     むかしの朝鮮国である。楽浪郡朝鮮県は周の武王が箕子を封じたところである。

    「後漢書~光武帝紀」注釈文

    楽浪は郡、むかしの朝鮮国である。遼東にある。

    「茂陵書もりょうしょ」(西漢武帝陵墓で出土した竹簡)

    臨屯郡、東施#とうい県に治す。十五県ある。
  • 漢の武帝

    楽浪郡 朝鮮県 18県 むかしの朝鮮国である。朝鮮県は周の武王が箕子を封じたところである。遼東にある。
    臨屯郡 東施#とうい県 15県
    玄菟郡 沃沮県沃沮城 少なくとも4県 沃沮県は、咸興付近?
    真番郡 雲$とう県 15県
  • 前漢側が玄菟げんとと呼んだ地域は、高句麗側では丸都がんとと呼び、衛氏朝鮮側が遼東りょうとうと呼んだ地域は、前漢側では臨屯りんとんと呼んだ。今の遼東半島(遼寧省)である
  • 遼東郡に公孫氏が自立し、204年公孫康は、楽浪郡の南部をさいて帯方郡を設置した。
    韓族の進入を防がなければならないほど韓族の力は強力になっていた。
    「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」韓の条、建安年間、公孫康は、楽浪郡中部の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡を設置し、公孫摸も・張敞暼らを遣わして遺民を集め兵を興して韓・歳#を伐ったので、倭・韓は、帯方に属した。献帝は、事態を収拾することなく、ついに220年、後漢は滅び、魏・蜀・呉の三国時代を迎える。

    後漢の最後の王となる献帝の建安年間(196-219)

    しかし、やがて魏呉の対立のあおりを受けて、公孫氏は滅びた。「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」は、238年の公孫淵が魏の司馬懿に滅ぼされ、楽浪郡・帯方郡が接収されたことを記す。魏は玄菟、楽浪、帯方の三郡を回収した。ちなみに、卑弥呼が帯方郡を通して魏に使者を送るのが239年である。

     「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」韓の条、 魏の明帝(226-239)は、景初年間、極秘の内に、帯方郡太守の劉斤#りゅうきん、楽浪郡太守の鮮干嗣せんかんしに海を越えて公孫を討たせ、諸韓国の臣智に邑君、
  • 景初年間(237-239)

     「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」郡県の従事吏の呉林は、韓国が楽浪郡に属していたことを理由に辰韓八国を分割して楽浪郡に属させた。
    つまり、魏の明帝の分割対峙の外交計略により倭地の辰韓八国の軍事管理を帯方郡の管轄から分割して楽浪郡に与えた。
     吏使の訳に異同があったので臣責#沾韓は怒って、帯方郡の崎離宮を攻めた。帯方郡太守の弓遵と楽浪郡太守の劉茂はこれを伐った。このとき弓遵は戦死したが、二郡はついに韓を滅ぼした。 ↑ 責#(+[巾)

    「三国志魏書~本紀」陳留王の景初2(261?)年、楽浪外夷の韓・歳#貊、各々その属を率いて来て貢いだ。

    「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝~海境島夷の条」、景初2(238)年6月、倭の女王は大夫、難升米等を派遣し、帯方郡に詣で、魏の天子に朝献することを求めた。帯方郡太守の劉夏は、部下の役人を送ったので、難升米等は京都、洛陽に詣でることができた。その年の12月、明帝(魏第二代)は詔書で倭の女王に告げた。「親魏倭王、卑弥呼に詔みことのりする。帯方郡太守の劉夏は、部下の役人を遣わし、汝の大夫、難升米と次使の都市牛利を送ってきた。男性の捕虜(生口)4人、女性の捕虜6人と班布二匹二丈を奉じた。汝の所在するはるか遠くから貢献したことは、汝の忠孝心であり、我は汝を哀れむ(いつくしむ)。今ここに、汝を親魏倭王とし、金印と紫綬を仮に与える。・・・難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とし銀印青綬を仮に与える。・・・」
  • 魏志韓伝
    韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓者古之辰國也
    「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」

     韓の東西は海ですが、南に海はなかった。倭と接すですから、朝鮮半島南端に倭が存在したことになります。帯方郡の南に韓があるという記述は、次の倭人伝の「従郡至倭循海岸水行歴韓国(帯方郡より倭に至るには海岸に沿って水行し韓国をすぎる)」という記述にも影響し、水行の方向を記していません。韓は南にあることが明らかなので、記す必要がないわけです。
  • 韓国の歴史学界
    古朝鮮の建国時期を「事実」として記述したわけではなく、「三国遺事などによれば…」と但し書きがついているので、問題ないとしている[朝鮮日報 2007年2月25日]。しかしこれは「日本書紀によれば神功皇后が朝鮮半島を征伐した」と書くようなもので、教科書に書くべきこととは思えない。北朝鮮はさらに積極的で、1993年の発掘調査で檀君の骨が発見されたとして、平壌にコンクリート製の檀君陵を築造した。さすがにこれを真に受ける者は、韓国にも少ないと思われる。
  • 三国志・呉書・巻二・呉主伝・孫権条>

      黄竜二(230)年の春三月、(中略)、孫権は将軍・衛温、諸葛直ら将兵万人を遣わし、海に出て夷洲および亶洲を求めさせた。亶洲は海の中にあり、長老は伝えて(次のように)言っている。

      「秦の始皇帝は、神仙の術を持つ徐福に、童男童女数千人を連れて海に出でて、蓬莱の神山と仙薬を求めさせたが、(徐福一行は)この島に留まって帰らなかった。代々続いて数万家にもなり、そこの人民は、時に会稽に来て取り引きをすることがある。会稽の東の県人は海に出て風に流され、(そのまま)移って亶洲に行った者もいる」

      その住んでいる所は果てしなく遠く、将軍らはついに亶洲には行きつけなかった。だが、夷洲には行くことができ、数千人が帰ってきた。



    (注)
    孫権
    ・・・そんけん。三国時代の呉(222~280)の初代。孫堅の子。孫(まご)の烏程公・皓の時、晋の武帝(司馬炎)に降伏した。

    夷洲および亶洲・・・いしゅう及びたんしゅう。
     夷洲
    は台湾説が有力だが、上の条では、亶洲だけが海中にあり、夷洲はそうではないように読み取れないこともない。となると東夷の意味の夷洲と考えて、論語で孔子が言ったという「九夷」の内の「山東半島以東の夷人」すなわち朝鮮半島を指すとしてもよい。そこなら中国大陸とは地続きであり島ではない。
     上の条の最後の部分「夷洲には行き付いて、数千人が帰って来た」とあるのは、呉が半島の公孫氏の許へ一大水軍を送ったが、失敗して帰還したことと符合する。
     亶洲は明確に島であるとしてあるから、九州島をはじめ日本列島を指しているのだろう。九州島の南海にある種子島を「たん=たね」の発音の類似と、大陸の隷書の文字に似た模様を刻んだ「貝符」がたくさん発見されていることなどから亶洲だとする説が強いが、「代々続いて数万家になった」との記述を信じるとすれば種子島では収まりきらず、倭人列島の海沿いの地域、少なくとも九州島がそれに該当すると考えた方がよいと思う。


       <魏略(逸文)>
  • 後漢書光武帝紀には衛氏朝鮮の跡地に楽浪郡を置き、その地は遼東にあったとある。衛氏朝鮮は遼東にあったのではないか?

    史記朝鮮列伝では「朝鮮には濕水、洌水、汕水が有り三水が合流して洌水となる」とあり、後漢書郡國志では「列水は遼東にある」とあるが朝鮮は遼東にあったのではないか?

    史記蘇秦列伝では「燕東有朝鮮(潮仙二音,水名)遼東、北有林胡、樓煩」とある。燕は北京のあたりにあった国である。記載順序によれば朝鮮は遼東より西側にあったのではないか。

    「朝鮮」は川の名前だとあるが、朝鮮とは遼河流域そのものを表す地名だったのではないか?
    魏志韓伝では、衛氏朝鮮の宰相が東の辰国に亡命した、とある。朝鮮を平壌付近、辰韓を釜山付近とすると辰国の方角は東ではなく南ではないか?

    史記朝鮮列伝では衛氏朝鮮王の右渠を打つために斉から渤海へ楼船に5万の兵を載せて出発したとある。衛氏朝鮮は渤海に面していたのではないか?
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