倭国の王

December 2018 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人
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倭王やその一族の名前 三世紀 卑弥呼(倭風名称)    壹與 (国名+中国風一字名称) 〈『三国志』魏志倭人伝…

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コメント

  •  『宋書』は、高祖永初二(四二一)年「倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」から、順帝昇明二(四七八)年「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬環甲冑、跋渉山川不遑處」の武の遣使まで倭の五王の遣使を伝える。次に『南斉書』は建元元(四七九)年倭王武への鎮東大将軍任命記事を記し、『梁書』は天監元(五〇二)年倭王武を征東将軍への進号記事を伝える。しかし、その後『隋書』倭国伝の記事、「開皇二十年(六〇〇)倭王、姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩鶏彌、遣使詣闕」のあいだ空白となる。日十大王年の擁立から多利思北孤までのおよそ百年、中国正史はなにも伝えない。


    丸山晋司氏紹介の『二中歴』によれば、五一七年、継体という年号が最初の年号として記されている(丸山氏は継体年号を後世の誤伝と否定されている)。また、古田武彦氏は『筑後風土記』の分析、岩戸山古墳=磐井の墓、の分析を通して、六世紀倭国に律令が制定、施行されていたという。

     中国正史における、日十大王年の擁立から百年の空白=遣使の断絶。倭国における年号の創設。律令の判定・施行。

     朝鮮半島の楽浪郡、帯方郡は消滅し、その空白を埋めるべく倭国と高句麗の激突が始まった。その後の情勢は「好太王碑文」、あるいは『宋書』にみえる倭王武の上表文等によって窺うことが出来る。そして四七五年、百済の首都、漢城が落城し熊津城への遷都が象徴するようにこの時代高句麗の優位があきらかになってきたようである。そのような時にあたって高句麗との戦いに後盾ともたのむ南朝は、中国統一をはたし得ないばかりか、高句麗と対抗すべく求めた倭国の大義名分である開府儀同三司を否定し、征東大将軍ではなく、征東将軍としてしか遇しない(高句麗王は、開府儀同三司・征東大将軍であった)南朝に倭国は見切りをつけたのではなかろうか。
    そして、百済、新羅を糾合し、みずからが中心となって新たな東アジアの秩序を創造せんと決意したのではないか。その決意の表われが、女王、日十大王年の擁立であったのであろう。
     そしてその延長線上にあるのが『隋書』の記す大業三(六〇七)年多利思北孤の国書、「日出處天子致書日没處天子。無恙」ではなかったか。『隋書』はさらに記す。「新羅、百済皆以イ妥爲大國、多珍物、並故迎之、恒通便往来」と。
     女王、年の擁立以来百年、その実績と自信が多利思北孤をしていわしめたのであろう。
     そしてその画期は、五〇三年、日十大王年の擁立にあったのではなかろうか。
  • 元岡古墳群(福岡)から、西暦570年を示す「庚寅(こういん)」や「正月六日」など19文字の銘文が象眼された鉄製の大刀が出土されました。調査を指導した九州大の坂上康俊教授によると、大刀の製造年代を示すとみられる「庚寅」は、南朝の宋から百済経由でもたらされた「元嘉(げんか)暦」に基づく干支(かんし)とみられ、暦法使用の実例としては日本最古の発見という。
     坂上教授は「元嘉暦は554年には大和政権にもたらされたと考えられ、大刀の銘文は元嘉暦の伝来からほどなく日本列島で使われていた証拠。画期的な資料だ」と話している。
     市教委によると、銘文にある年号と、正月六日の日付を示す干支がともに「庚寅」であることから、元嘉暦に照らすと570年に当たるという。
     大刀は長さ約75センチ。表面がさびで覆われていたが、エックス線撮影で、刀の背の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の19文字が象眼されているのが確認された。銘文は刀が作られた年月日などを記しているとみられ、最後の文字は「練」の可能性もあるといい「すべてよく練りきたえた刀」という意味が考えられるという。(産経ニュース 9月22日より)
  • 「武寧王」は「五〇一年」に「東城王」が暗殺された後に帰国して即位したと考えられ、「倭国」の支持を確固たるものにするために「鏡」を贈呈したと見れば「鏡」贈呈のいきさつとしても理解できます。
     問題は「倭国側」の人物と思われる「日十大王」と「男弟王」とは「誰か」と云うことです。
     これが「五〇三年」とすると「倭の五王」の最後である「武」の時代と考えられ、もし「日十大王」が女性ならば、「武」自身が「日十大王」なのか、それとも彼は「男弟王」なのか、あるいは「武」は既に死去しており、彼の「皇后」が称制したのかというような種々の可能性が考えられます。可能性としては(古賀氏の主張を援用すると)『推古紀』の記事が一二〇年遡上するということも考えられ、その場合「日十大王」は「推古」に、「男弟王」は「聖徳太子」に投影されていると思われるわけです。
     また「銘文」にある「日十大王」についても各種の解釈が行なわれていますが、いずれも決定的とはいえないようです。これについては「私案」としてこの部分が元々「日本大王」と明記されるはずのものではなかったかということを仮説として提示します。

     この「日本大王」という表記は、元の「原稿」ではこの「本」は「大+十」(「夲」)という字形であったと考えるわけです。これは「富本銭」にも「百済禰軍墓誌」にも使用されていますが、当時広く用いられた「本」という字の「字形」です。
  • ★369年頃(第15代・『日本書紀』神攻皇后摂政前紀)………(対馬市上対馬町鰐浦を出港)神攻皇后が向かってくると新羅王は恐れてすぐに降服し年毎の朝貢を誓い、それを知った高麗・百済も西蕃として朝貢することを誓った。そこで内官家・屯倉に定めた。これが三韓である。


    ★396年(応神天皇7年9月条)………高麗人、百済人、任那人、新羅人がそろって来朝した。


    ★486年(顕宗天皇3年の条)………紀生磐宿禰が任那を占有し高麗に通い三韓の王となろうとした。


    ★『日本書紀』の継体天皇(第26代)の条。

    「韓国を いかに言ことそ 目頬子来る むかさ来る 壱岐の渡りを目頬子来る」


     「三年(509年)春二月、遺使干百濟。【百濟本記云、久羅麻致支彌、從日本來。末詳也】括出在任那日本縣、百濟百姓、浮逃絶貫、三四世者、並遷百濟附貫也」とあるが、『任那日本縣邑』は、任那に『日本』という県邑があったことを示している


     「六年(512年)、(中略)冬十二月、百濟遣使貢調。別表請任那國上侈俐・下侈俐・娑陀・牟…、四縣。侈俐國守穂臣奏日、此四縣、近連百濟、遠隔日本。旦暮易通、鶏犬離別。今賜百濟、合爲同國、固存之策、無似過此。然縱賜合國、後世猶危。況爲異場、幾年能守。(中略)物部大連、方欲發向難波館、宣勅於百濟客。其妻固要日、夫住吉大神、初似海表金銀之國、高麗・百濟・新羅・任那等、授記胎中…田天皇。故太后息長足姫尊、興大臣武内宿禰、毎國初置官家、爲海表之蕃屏、其來尚矣。抑有由…。縱削賜他、違本區域。綿世之刺、…離於口。大連報日、教示合理、恐背天勅。其妻切諫云。称疾莫宣。大連依諫。由是、改使而宣勅。付賜物并制旨、依表賜任那四縣。」などとあるが、これは四縣割譲の記事で、対馬にある百済の近くに上多悧・下多悧・娑陀・滞炒という任那の四つの県があったが、継体天皇のもとで大連の地位にあった国守穂積臣神は、この任那四県の百済への割譲を進言し、朝廷がこれを聞き入れたので、513年百済は四県割譲の代償として倭国へ五経博士(中国古代の、詩・書・礼・易・春秋を教学する官職)を送り、交代制によって常駐させることにしたため、儒教が主に朝廷の知識層に広まっていったと考えられている。


    ★537年(宣化天皇2年10月条)………磐は筑紫に留まり三韓に備え、大伴狹手彦は任那を鎮め、加えて百済を救った。


    ★562年(欽明天皇13年春正月の条)………「新羅打滅任那官家。」「一本云、廿一年、任那滅焉。總言任那、別言加羅國・安羅國・斯二岐国・多羅国・卒麻國・子他國・散半下國・乞喰國・稔禮國、合十國。」とあるが、これは、「任那の官家が新羅に滅ぼされる」。そして、この総体を任那と呼び、個々には、加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯國・子他国・散半下國・乞喰國・稔禮國、合わせて十国のことである。
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