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裴世清 多利思北孤 『隋書』には大業三年(607)隋に朝貢し、その国書に「日出る処の天子」との記述があり更に多…
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御田鍬は建部倉宇志の子で、子に白麻呂がいたとする系図がある。
614年7月24日(推古天皇22年6月13日)最終となる遣隋使として犬上君御田鍬は矢田部造(名不明)とともに隋に渡った。翌推古天皇23年(615年)9月に百済使を伴って帰国した。
舒明天皇2年(630年)に、犬上君三田耜は薬師恵日とともに唐に遣わされた。このとき二人は大仁の冠位であった。唐は高表仁に三田耜を送らせ、8月に対馬に着いた。学問僧霊雲・僧旻、勝鳥養、新羅の送使も行をともにした。高表仁は10月4日に難波津に着き、翌年1月26日に帰国したが、この間の三田耜らの動向は明らかではない