裴世清、多利思比孤、阿輩台

December 2018 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人
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裴世清 多利思北孤 『隋書』には大業三年(607)隋に朝貢し、その国書に「日出る処の天子」との記述があり更に多…

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コメント

  • 上宮法皇=多利思北孤
  • 隋使の裴世清らの道程は「都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀」とあり、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に秦王國 他10余国をへて海岸についたという。
  • 犬上氏(犬上君)は日本武尊の子・稲依別王の後裔とされる近江国犬上郡発祥の豪族である。

    御田鍬は建部倉宇志の子で、子に白麻呂がいたとする系図がある。

    614年7月24日(推古天皇22年6月13日)最終となる遣隋使として犬上君御田鍬は矢田部造(名不明)とともに隋に渡った。翌推古天皇23年(615年)9月に百済使を伴って帰国した。

    舒明天皇2年(630年)に、犬上君三田耜は薬師恵日とともに唐に遣わされた。このとき二人は大仁の冠位であった。唐は高表仁に三田耜を送らせ、8月に対馬に着いた。学問僧霊雲・僧旻、勝鳥養、新羅の送使も行をともにした。高表仁は10月4日に難波津に着き、翌年1月26日に帰国したが、この間の三田耜らの動向は明らかではない
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