垂仁天皇、狭穂彦王の叛乱、誉津別命、日下部氏

June 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書
image垂仁天皇、狭穂彦王の叛乱、日下部氏、誉津別命

狭穂彦 垂仁天皇5年に妹の狭穂姫命に天皇暗殺を試みさせるが失敗。叛乱を興すものの、追い詰められ兄妹ともに稲城の…

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コメント


  •  「一に云う。 凡牟都和希王(ほむつわけのおおきみ)俣那加都比古(くいまたなかつひこ)が女子(むすめ)、名は弟比彌麻和加(おとひめまわか)を娶りて生める兒は若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)云々。」とあります。

     皇統を継ぐためには皇族の血を受けていることが必要だったとしての継体天皇側の説明だったのでしょう。凡牟都和希王は垂仁天皇の皇子と『記紀』には出てきます。


     この凡牟都和希王には始祖王の雰囲気が漂っています。

     燃えさかる稲城の中で生まれた。稲魂に祝福された皇子。火の中で生まれた。火遠理命(山幸彦)と同じ。
     30才まで物を言わなかった。素盞嗚尊や阿斯受岐高彦根命と同じく、忌み籠もっていた。
    出雲へ行き、帰って来た。甦りを果たした。
    出雲大神の参拝後、大御食を行った。新嘗祭であり、王者の扱い。

    継体天皇の就任は6世紀初頭、この頃には凡牟都和希王は大王であったと伝わっていた
  • 垂仁の后妃7人のうち、6人までが丹波または山城の出身者で、大和の出身者は唯一人に過ぎない。そして、唯一大和出身の狭穂媛(サハジ姫)も後に兄と共に垂仁によって焼き殺されている。

    后妃

    父=(日子坐)母=(沙本大闇見戸売)
    狭穂姫   (佐波遅比売)

    父=丹波道主 母=(丹波河上摩須郎女)
    日葉酢媛  (氷羽州比売)
    渟葉田瓊入媛(沼羽田入比売)
    真砥野媛  (円野比売)
    薊瓊入媛  (阿邪美伊理毘売)

    父=(大筒木垂根王) 
        (加具夜比売)

    父=(山城大国渕)
    苅幡戸辺  (苅羽田刀弁)
    綺戸辺   (弟苅羽田刀弁)

  • 垂水神社
    大阪府吹田市
    崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命を主祭神とし、大己貴命と少彦名命を配祀する。

    「垂水」とは滝の古語である。神社の北には垂水ヶ岡(千里山)の泉から湧き出る水が滝となっており、元々はこの滝を神体として水の神を祀っていたものと見られる。万葉集に収録されている志貴皇子の歌「いははしる垂水の上のさわらびの もえいずる春になりにけるかも」は、この滝を詠んだものとされているが、伝説の域を出ない。

    社伝によれば、豊城入彦命は弟の垂仁天皇に皇位を譲って東国の開拓を行ったが、その最初の開拓をしたのが垂水の地であり、豊城入彦命の子孫が祖神として豊城入彦命を祀ってきたと伝える。新撰姓氏録によれば、孝徳天皇の時代に大旱魃があったが、垂水ヶ岡の清水だけは涸れなかったので、豊城入彦命の末裔の阿利真公が高樋を作ってその水を京に送水した。その功により「垂水公」の姓を贈られ、当社を創建したという。
  • 日子坐王と沙本之大闇見戸売の系統

    春日建国勝戸売 かすがのたけくにかつとめ

    ・沙本之大闇見戸売の母

    沙本之大闇見戸売 さほのおおくらやみとめ

    ・日子坐王の二人目の妻

    沙本毘古王 さほびこのみこ

    ・日子坐王と沙本之大闇見戸売の子
    ・日下部(くさかべ)連、甲斐国造の祖
    ・垂仁天皇の頃に謀反を起こす(後述)

    袁邪本王 おざほのみこ

    ・日子坐王と沙本之大闇見戸売の子
    ・葛野之別、近淡海蚊野之別(ちかつおうみかぬのわけ)の祖

    沙本毘売命
    佐波遅比売 さほびめのみこと さはじひめ

    ・日子坐王と沙本之大闇見戸売の娘
    ・第11代垂仁天皇の后となる
    ・兄の沙本毘古王の謀反に従う(後述)

    室毘古王 むろびこのみこ

    ・日子坐王と沙本之大闇見戸売の子
    ・若狭之耳別の祖



    続いて息長水依比売を三人目の妻として迎えた
  • 誉津別命の出雲神参拝に随行したのは、やはり卜して日子坐王の孫の曙立王・兎上王兄弟であった。そのとき曙立王は倭は師木の登美朝倉の曙立王という名を与えられたと『古事記』はいう。師木は三輪山麓の磯城に他ならず、その名において出雲神の加護を得ることが出来たのである。
    さらに兄弟の系譜が『古事記』にあり、曙立王は伊勢の品遅部君と伊勢の佐那造の祖、兎上王は比売陀君の祖である。このうち比売陀君の名は他の文献に一再出てこず、himedaはmがぬけたhieda、つまり『古事記』を誦んだ稗田阿礼を出した稗田氏かもしれないと考えられる。また伊勢の佐那造とは、おそらく銅鐸・鉄鐸の鐸に関わる一族である。
  • 三輪神社
    主祭神:大己貴命、味祖高彦根命、田心姫命


    高槻

    元来、三島の地は中臣鎌足が一時退隠した事のあった所で、
    藤原氏との関係が非常に深く、数多くの春日神社が祀られています。
    当社の春日さまも、本社(三輪神社)と相並べて、鎮座されているのは、
    昔より主神(氏神)として祀られていたからであります。
    ここに、酒造が起こってから、酒の神さまである大和の大神神社より勧請されて、
    三輪神社として祀られたのであります。
    「摂津名所図會」には、三輪神祠、富田郷の生土神なり。例祭九月六日。
    祭神大和國三諸山の勧請なり。祠の棟札に曰く。
  • 「釈日本紀」が引用する『尾張風土記』逸文は記紀が伝えない不思議な物語を書き留めています。

      丹羽郡吾鬘郷、巻向珠城宮御宇天皇(垂仁)品津別皇子、生七歳而語。傍問群下無能言之、乃後皇后夢有神告曰、吾多具国之神、名曰阿麻彌加都比女、吾未得祝、
      若為吾充祝人皇子能言、亦是寿考、帝ト人覓神者日置部等祖建岡君ト食、即遣覓神、時建岡君到美濃国花鹿山攀賢木枝造縵誓曰吾縵落処、必有此神縵去落於此間、
      乃識有神、因堅社由社名里、後人訛言阿豆良里也

    ここで言う垂仁の皇后とは兄と共に「謀反」を起こし火中に没したとされる狭穂姫命で、二人の息子とされる「品津別皇子=ホムツワケ=応神帝」の逸話は記紀も採録していますが、そこに現れるのは「出雲の大神」であって水の女神ではありません。また、この伝承は尾張在住の日置氏一族が残したものだと推測出来ますが「日置部」を垂仁から「賜った」とされる五十瓊敷入彦命(実体は景行帝か)との繋がりも捨てきれません。

    ただ、一方には同神は大国主神が多紀理姫命との間に儲けた阿遅鉏高彦根神の妻・天御梶日女神の別名であって、その系譜「塩屋彦命--観松彦伊呂止命--大日原富命--建御名方富命--甕男立命」に上で紹介したオオクニヌシの神裔の名に似た神様たちが含まれているのも事実です。
    出典
    http://www.ten-f.com/ookuninushi-to-siinin.html
  • June 2016 編集されました
    崇神記の「建波邇安王の反逆」と垂仁記の「沙本毘古王の反逆」

    前者は大和と山代の勢力の戦闘が行われる木津川付近である。
    崇神帝には三人の后が記載されている。
    孝元帝の皇子大毘古命之女と
    「木国造荒河刀辨之女」と
    「尾張連之祖意富阿麻比売」である。
    皇居 磯城瑞籬宮である。

    後者は沙本毘古王が稲城を築いて立てこもる「沙本」という場所が
    舞台となっている。
    垂仁帝は、
    「沙本毘古命之妹」、
    「丹波比古多多須美宇斯王之女」、
    「大筒木垂根王之女」、
    「山代大国之淵之女」の4人が記載されている。
    この中で沙本毘古命と丹波比古多多須美宇斯王は
    開化帝の皇子とされる日子坐王の子供。大筒木垂根王は日子坐王の異母姉妹比古由牟須美命の後裔と記されているが日子坐王の息子にも山代之大筒木真若王がいる。
    山代大国之淵も日子坐王と関連の深い山代の勢力と考えると、垂仁帝の后は全て日子坐王関連ということになる。
    皇居 纒向珠城宮 である。

    菅原神社
    西大寺と垂仁天皇菅原伏見東陵の間に鎮座。「延喜式」神名帳の添下郡の『菅原神社』とされる。旧村社。祭神は天穂日命・野見宿禰・菅原道真。天穂日命は「日本書紀」神代巻に「是出雲臣・土師連等が祖なり」とみえるように、喪葬や土器製作に従事した土師氏の祖紳である
  • 沙本毘古王
    彦坐王の子で、開化天皇の孫に当たる。日下部連・甲斐国造の祖。母は春日建国勝戸売の娘、沙本之大闇見戸売。同母の兄弟に葛野別・近淡海蚊野別の祖袁邪本王、若狭耳別の祖室毘古王、垂仁天皇皇后狭穂姫命がいる。
  • June 2016 編集されました
    春日建国勝戸売は、名家であろう。

    開化天皇(妃、春日建国勝戸売)ー彦坐王(妃は沙本大闇見戸売)ー沙本毘古王、袁耶本王、沙本毘売命(佐波遅比売)、室毘古王の四柱

    崇神天皇(大彦の娘)ー垂仁天皇(妃は狭穂姫命)ー
    開化天皇ー
    彦坐王に娘が嫁ぎ、孫娘が皇后(垂仁天皇の皇后)になった狭穂姫命である。
    娘は、沙本大闇見戸売という。

    大彦命は、娘の御間城姫が崇神天皇の皇后となり、孫が垂仁天皇となった有力者でありながら、妻の名前が明らかにされていない。この妻が

    二人の娘は、開化天皇の皇子達に嫁した。すなわち、沙本大闇見戸売はワニ家の姥津媛の生んだ彦坐王へ。


    沙本毘古、狭穂姫命を祀る神社

    闇見神社 福井県三方上中郡若狭町成願寺字御手洗水12-7
    通称、闇見の天神さんとよばれ、天満宮を合祀している。
    祭神は、若狭耳別の祖である室毘古王(弥美神社祭神)の母。
    沙本之大闇見戸賣命の闇見は、倉見庄に住んでいたからだそうだ。
    『闇見神社発端之事』というには、当社の関して、以下の伝承があるらしい。
    近江・越前・若狭三国に聳える日話の嶺という山が在り、山の東半腹に大きな池があった。その池に大蛇が住み、万民を苦しめていた。垂仁天皇の御代、素盞嗚尊と奇稲田姫神の化身の二老人が現われ、大蛇を退治し、その尾から出た剣を投げ給いし所に岩剣を祀った。(今津町酒波の日置神社)退治された大蛇は2つに別れ、一つは美濃、一つは若狭へ。
    落ちた地が、現在の闇見神社で、闇見は、大蛇が落ちた時に闇になったからという。

    式内社 近江國伊香郡 佐波加刀神社
    御祭神 日子坐王 大俣王 小俣王 志夫美宿禰王
    沙本毘古王 袁邪本王 佐波遲比賣王 室毘古王
    滋賀県長浜市(旧木之本町)にある。
  • June 2016 編集されました
    1.日子坐王と山代之荏名津比売の系(但馬、丹波、伊勢へ)

    山代之荏名津比売、刈幡戸弁ー大俣王、小俣王(当麻匂君の祖)、志夫美宿禰王(佐々君の祖)

    山代之荏名津比売、刈幡戸弁ー大俣王ー曙立王(伊勢の品遅部君、佐那造の祖)、菟上王(比売陀君の祖)

    2.日子坐王と沙本之大闇見戸売の系統(甲斐、若狭、葛野へ)

    沙本之大闇見戸売(母は春日建国勝戸売)ー沙本毘古王(日下部連、甲斐国造の祖)、袁邪本王(葛野之別、近淡海蚊野之別の祖)、沙本毘売命(又の名、佐波遅比売。(垂仁天皇の后))、室毘古王(若狭之耳別の祖)

    3.彦坐王と長水依比売の系(野洲、美濃本巣、三河の穂国などへ)

    長水依比売(天之御影神の娘)ー丹波比古多多須美知能宇斯王(又の名、美知能宇志王)、水穂真若王(近淡海の安直の祖)、神大根王(三野国之本巣国造、長幡部連の祖)、水穂五百依比売、御井津比売

    息長水依比売ー丹波比古多多須美知能宇斯王(妃は丹波之河上之摩須郎女)ー比婆須比売命、、真砥野姫命(又の名、円野比売命、竹野媛)、弟比売命、朝廷別王(三河之穂之別の祖)

    4.日子坐王と袁祁都比売命の系統(山代へ)

    袁祁都比売命ー山代之大筒木真若王、比古意須王、伊理泥王


  • June 2016 編集されました
    彦坐王所縁の粟鹿神社(但馬の一宮)
    由 緒
    和銅元年(708)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵)

    当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。

    人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。

    粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。
    -「兵庫県神社庁」-

    廣田神社の境内社
    伊和志豆神社(西宮市・大社町)
    伊和志豆之大神

    廣田神社の境内社・伊和志豆神社(いわしづ) は延喜式に記載される式内社論社で、宝塚市伊孑志(いそし)にも論社伊和志津神社があり、どちらも深い歴史がありそうです。

    伊和志豆神社(いわしづ)は昔は鰯津神社とも記載されることも多く、イワシが沢山獲れた魚の豊富な海だったようです。浪速(難波)の語源も、波が速いからではなく、魚庭(なにわ)が由来しているとの説もあります。大阪湾も「茅渟の海(ちぬ)」と呼ばれていましたが、
    関西の人が今でも黒鯛のことをチヌと呼んでいるのは、かつての大阪湾は黒鯛の宝庫だったからともいうが、、

    一説によれば、伊和志豆之大神は開化天皇の皇子の彦坐命(日子坐王)で、廣田神社を創建せられた神功皇后はその四世の孫にあたるそうです。彦坐命は開化天皇の第3皇子で崇神天皇の異母弟にあたります。彦坐命は崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠(くがみみ)と呼ばれる鬼退治のために丹波に派遣されました。

    丹波の大江山には幾つもの鬼伝説がありますが、最も古い鬼が、この玖賀耳之御笠で、大和朝廷に征服された異民族と考えられています。

    四道将軍の一人である丹波道主命は彦坐命の子供で、近江を中心に東は甲斐から西は吉備までの広い範囲に末裔が栄えました。
  • June 2016 編集されました
    播磨の日下部連
    仁徳天皇が、大日下王の御名代として大日下部を、その妹の若日下部王の御名代として若日下部を定めた、と『古事記』にありますが、これら部民としての日下部とは別に、おそらくは日下部と統括していたと思われる日下部連がいました。
     こちらの日下部連は、日子坐王の子、沙本毘古王(サホビコノミコ)を始祖とします。

    そして、日下部連が市辺之忍歯王のふたりの皇子につき従ったとする伝承が『日本書紀』や『播磨国風土記』に残されているのです。
     目弱王の乱に関連して葛城円大臣が雄略天皇に滅ぼされた直後、今度は市辺之忍歯王とその弟の御馬皇子が殺害されてしまいます。この時、市辺之忍歯王とその妻の、葛城氏の女性ハエヒメとの間に生まれたオケ王とヲケ王の兄弟は難を逃れるために大和を脱出します。
     その際に、二皇子の逃走を手伝ったのが日下部連使主(くさかべのむらじおみ)とその子吾田彦(あたひこ)のふたりです。
     使主は丹波国余社郡(後に丹後国与謝郡)に二皇子を連れて行き、そこで名を田疾来(たとく)と改めますが、なおも追手が来るのを恐れて播磨国の縮見山の石室に二皇子を連れて行き、この地で自決します。
     その後、二皇子と吾田彦は忍海部造細目に仕え、吾田彦は二皇子に離れることなく従った、
    といいます。

    それにしても、日下部氏がここまで二皇子に尽くした理由は何だったのでしょうか?

    河内国, 皇別, 日下部連, 連, 彦坐命子狭穂彦命之後也, 201. 281
    山城国, 皇別, 日下部宿祢, 宿祢, 開化天皇皇子彦坐命之後
  • June 2016 編集されました
    彦坐王の系譜が日下部連、日下部宿禰、日下部首。

    古事記によればサホビコを始祖にしています。

    「沙本毘古王(サホビコノミコ)は、日下部連、甲斐国造の始祖」

    『新撰姓氏録』には「日下部首。日下部宿禰と同祖、彦坐命の後なり」

    と、あるので、日下部氏は連、宿禰、首の三家があり、同族の関係にあったことがわかります。

    『新撰姓氏録』は、日下部首と日下部宿禰をともに和泉国皇別のところに記すので、和泉が本貫だったことになります。
     日部氏の拠点は大鳥郡日部村であったと見てまず間違いないでしょう。堺市西区草部に日部神社が鎮座しますが、これは日下氏が祭祀した神社です。もっとも、現在の日部神社の鎮座する場所はその昔には八坂神社で、元々の日部神社は別の場所にありました。それが明治時代に八坂神社、菅原神社、熊野神社が日部神社に合祀される
    こととなった時に、八坂神社が鎮座する地に移転した、といういきさつがあります。
     日部神社は日下氏の祭祀する神社ですが、等乃伎神社も日下氏が祭祀した神社です。両社は
    近い距離にそれぞれ鎮座しています。
     
    そして、等乃伎神社からのぞむ冬至の朝日は日部神社の旧社地の方角から昇るといいます。
    このことからも、日下氏が太陽信仰に関わる氏族だったことが推測されるわけですが、等乃伎神社の祭神は、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)で、日部神社の祭神は、神武天皇、彦坐王、道臣命です。
  • June 2016 編集されました
    彦坐王(日子坐王)も日下部氏の祖であり、浦嶋子や神功皇后はその彦坐王の後裔です。

    粟鹿神社の日下部伝承

    但馬国朝来郡の粟鹿神社の社家には、粟鹿大名神元記という文書が残っております。和銅元年に粟鹿神社祭主の神部直根麻呂が勘注上申した竪系図で、京都九条家の秘庫に蔵されていたものを、昭和三十年に是澤恭三博士が発掘されたもの

    それによれば粟鹿神社の神主は、素戔鳴尊、大国主神の後裔である神(みわ)部氏であり、 大三輪氏と同族で、鴨朝臣の系譜を持ちます。

    粟鹿神社の社家は日下部宿禰であった。ところが、『粟鹿大明神元記』という古文書がある。これは、和銅元年八月に但馬国粟鹿神社の神主(祭主)神部根が勘注上申した案文の写しで、その内容は大部分が特殊な竪系図から成っている。
     それによれば、粟鹿神主は古代素戔鳴命の後裔を称する神部氏が奉斎していたことが知られる。また、系図を見ると素戔鳴尊より五世に大国主命がみえ、さらに太田々弥古命に連なる。系図を信ずる限り、大三輪氏の分かれであり、賀茂朝臣とも同族ということになる。また、太田々弥古命の子太多彦命の子孫の速日・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となり併せて粟鹿大神祭主となったと記されている。

    太多彦命の子孫の速日・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となって、粟鹿大神祭主となったと記されている。
    根麻呂の祖父にあたる「都牟自」は日下部氏の系図に見える日下部氏の祖、表米の子都牟自と同名であり、のちの粟鹿神社の社家が日下部宿禰であるところから、同一人物とも考えられる。
  • 現在の出雲市の鼻高山の麓に日下町という所があります。
    出雲風土記時代(733年)、「出雲郡伊努郷」であり、その頃に既に日下部氏由来の神社が
    あります。

    狭穂姫命の子ホムチワケ伝承で、なぜ日下部氏なのか…と思われるかもしれませんが、垂仁天皇の御子
    ホムチワケの母は、そもそも、日下部氏の系譜であるからです。

    日下部と書いて、なんで「くさかべ」と読むのか、
    和歌の枕詞、「日の下の草加(ひのもと の くさか)」から来ていると言われていますね。

    ウィキペディアから抜粋すると2説あって
    1.開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。
    2.孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。
    古い氏族なので、いろいろな説があって然るべきなのかもしれません。
    ホムチワケと出雲の旅に同行する曙立王 と菟上王は、開化天皇のひ孫なので、日下部氏と同族です。
  • 但馬国造の日下部宿禰

    赤淵神社(あかぶちじんじゃ)は、兵庫県朝来市にある神社。『延喜式神名帳』にある「赤淵神社(但馬国・朝来郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。

    創建は、御祭神である赤淵足尼命が亡くなった時、第二十六代継体天皇25年(531年)とされている。赤淵足尼命は、第九代開化天皇の皇子・彦坐王(ヒコイマス)の子孫で、但馬国造だったという。その孫が日下部表米、表米親王などとも呼ばれる日下部宿禰。大化3年(647年)、新羅の多くの軍船が但馬の海岸に侵攻、その際、勅命を受けて丹後国与佐郡白糸の浜でこれを迎え撃ち、追い払ったのが日下部宿禰。
    新羅軍を隠岐の島より向こうに追い払う際、行きも帰りも日下部宿禰の軍船は鮑(アワビ)に助けられ、凱旋する際には大きな船が先導、港について確認てみると、その船は無人で大きなアワビだけが乗っていた。日下部宿禰は戦勝が海神の加護と、そのアワビを大事に持ち運び、当社に祀ったという。
    現在の御祭神は、大海龍王神、赤渕足尼神、表米宿禰神。大海龍王神は日下部宿禰を救ったアワビに象徴される海神を祀ったもので、赤渕足尼神は日下部宿禰の祖として、表米宿禰神は日下部宿禰の孫とも伝わるが、日下部宿禰その人と考えてもよさそう。

    但馬日下部氏の氏神となったと考えられる。『赤淵神社由来記』には、日下部宿禰から、朝倉、絲井、奈佐、日下、八木、本山、太田垣、宿南の各氏が生じたとする。

    近隣の二宮神社(朝来市和田山町和田山)にも関連の伝承が残り、日下部宿禰の第二子である朝倉殿が御祭神とも。
  • 日下部氏は、9代開化天皇の皇子・彦坐命の子、狭穂彦命の後(日下部連・甲斐国造)とも、吉備氏の大吉備津彦命の子の大屋田根子命の後とも、16代仁徳天皇の皇子、大草香・若草香王の御名代部ともいわれ、各地に存在するのだが、実態のつかめない謎の氏族である。

    開化天皇
    丸邇臣之祖(みおや)日子国意祁都命之妹(いも)意祁都比売命を娶せ、生れましし御子(みこ)、日子坐王(ひこいますのみこ)【一柱なり。】
    又、葛城之垂見宿祢之女(、鸇比売(わしひめ)を娶せ、生れましし御子、建豊波豆羅和気(たけとよはづらわけ)【一柱なり。】
  • 垂仁帝の長子、誉津別王(品牟都和気命、ホムツワケ)に関する伝承では、彼が言葉を中々話すことが出来なかったのは「出雲の大神の祟り」だったと古事記などが記しているのに対し

    「尾張国風土記」(逸文)は、全く異なる内容を詳しく伝えています。

      丹羽の郡、吾縵(あづら)の郷。巻向の玉城の宮に御宇しめしし天皇のみ世、品津別の皇子、生七歳になりて語いたまわず、あまねく群臣に問はすれども
      能言さざりき。その後、皇后(狭穂姫)の夢に、神ありて告りたまいしく「吾は多具の国の神、名を阿麻乃彌加都比女という。吾、未だ祝を得ず。
      若し吾がために祝人を宛てば、皇子能言い、また、これ、み寿考からん」とのりたまいき。
    そこで垂仁帝が、誰に祀らせれば良いか占うと「日置部等の祖、建岡の君」が吉とでたので、早速彼を美濃の国の花鹿山(現在の揖斐郡?)に赴かせ、榊の枝を捩って「縵(かづら)」に作り、手厚く呪術を施し、その縵が落ちた所に神がおられることを確かめ、その地に社を建てて日女神を祀ったと言うのです(阿豆良神社か?)。そこには「祟る大神」などは存在しておらず、何より「炎の中で兄・狭穂彦と共に焼死した」はずの狭穂姫自身が生きて霊夢を見ていることになっているのです。「多具の国」と呼ばれたのは今の島根県松江市鹿島町辺りだと研究家が比定していますが、出雲系の神様が物語の核になっている「神話の構図」自体には変わりないようです。自らを祀って欲しいと皇后に直接要求した女神は「出雲風土記」(秋鹿郡、伊農の郷)にも登場する天甕津日女命(アメノミカツヒメ)で系譜上、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(阿遅須枳高日子命の別名とする)の后神であるようですが、その神名に含まれている「ミカ(御食、ミケ?)」から類推すると、その父親は紀伊の櫛御食野神(熊野大神)ではないかとも想像され、古代における紀伊と出雲との地縁の濃さを感じさせます(宍道湖を挟み湖の南岸近くには熊野神社が建立されており滑稽な亀太夫神事でも知られています。)
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