穴師坐兵主神社、天日矛、田道間守

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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景行天皇が皇后に選んだのは播磨稲日大郎姫(吉備氏の娘でヤマトタケルの母親、和邇氏の彦汝命が父親)という女性でし…

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  • 応神記の天日槍(アメノヒボコ)の来日

    新羅王子「天日槍」来帰す。
    新羅王子のアメノヒボコが七物の宝物を持って来帰した。
    播磨国穴粟村に在ったので、天皇が「三輪君の祖大友王」と「倭直祖長尾市」を播磨に遣わし、アメノヒボコに問い正した。(汝や、誰人なるや、かつ、どこの国の人なるや)と。
    アメノヒボコ曰く、僕(やっこ)は新羅国主の子なり。日本国に聖皇(ひじりのきみ)あると聞き、国を弟知古に与えて化帰しました。
  • 新羅の国王の子の天之日矛 渡来の理由

    新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。

    天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神(あかるひめのかみ)であるという(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。

    天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える。また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、

    珠 2貫
    浪振る比礼(なみふるひれ)
    浪切る比礼(なみきるひれ)
    風振る比礼(かぜふるひれ)
    風切る比礼(かぜきるひれ)
    奥津鏡(おきつかがみ)
    辺津鏡(へつかがみ)
    そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという[6](兵庫県豊岡市の出石神社祭神に比定)。『古事記』では、その後続けてこの伊豆志大神についての物語が記される。
  • 日桙の後裔

    『筑前国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)によると、足仲彦天皇(仲哀天皇)による球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲)征伐のための筑紫行幸の際、怡土県主(いとのあがたぬし:福岡県糸島市付近の県主)らの祖の五十迹手(いとで)が出迎えた。五十迹手はその言の中で、自分を高麗国(朝鮮の総称か)の意呂山(不詳。一説に蔚山)に天降った日桙の後裔としている
  • アメノヒボコの名はないが関連伝承として、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)によると、応神天皇の時に新羅国の女神が夫のもとを逃れ、筑紫国の「伊波比乃比売島」に住んだ(豊前国ながら大分県の姫島か)。しかしこの島はまだ新羅から遠くないため男がやって来るだろうと、さらに摂津国の比売島松原に移った。そしてその地名「比売島」は元の島の名を取ったことに由来する、という。

    また『豊前国風土記』逸文(『宇佐宮託宣集』所引)では、新羅国の神がやって来て田河郡鹿春郷の付近に住み「鹿春の神(かはるのかみ/かわらのかみ)」と称されたとする伝承を記す(福岡県田川郡香春町の香春神社に比定)。
  • 大同2年(807年)編纂の『古語拾遺』では垂仁天皇条において、新羅王子の海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し、但馬国出石郡に大社(出石神社)をなしたとする。

    アメノヒボコに関わる神社としては、但馬国一宮の出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内)が知られる。この神社は『延喜式』神名帳では但馬国出石郡の名神大社として「伊豆志坐神社八座」と記載されるが、これは『古事記』の「伊豆志之八前大神」とも一致することから、『古事記』編纂の8世紀初頭に遡る頃から8柱の神々が祀られていたと見られる。現在では、アメノヒボコが将来した八種神宝の神霊が「出石八前大神」として祀られるとともに、アメノヒボコの神霊が併せ祀られている[16]。この出石神社の創祀は、社伝を別とすると、実際にはアメノヒボコを奉じる朝鮮系渡来人の一族がその将来した宝物を祀ったことによると推測される[17]。出石地域ではアメノヒボコは開拓神に位置づけられ、

    この一帯では

    御出石神社(豊岡市出石町桐野) - 式内名神大社。祭神:日矛神。
    諸杉神社(豊岡市出石町内町) - 式内社。祭神:多遅摩母呂須玖。
    中嶋神社(豊岡市三宅) - 式内社。祭神:田道間守命。
    須義神社(豊岡市出石町荒木) - 式内社。祭神:由良度美神。

    出石では、古墳時代に

    森尾古墳(豊岡市森尾、規模不明)や出石茶臼山古墳(豊岡市出石町谷山、直径49メートルの円墳)の築造が知られる。後者の朝来では、より大規模な但馬地方最大の池田古墳(朝来市和田山町平野、墳丘長141メートルの前方後円墳)や、それに次ぐ船宮古墳(朝来市桑市、墳丘長91メートルの前方後円墳)の築造が知られ、但遅麻国造は朝来に置かれたものと推測される。
  • アメノヒボコは『日本書紀』『古事記』では但馬諸助(多遅摩母呂須玖)から神功皇后に至る諸人物の祖、また『筑前国風土記』逸文では怡土県主らの祖とされる。

    『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

    左京諸蕃 橘守 - 三宅連同祖。天日桙命の後。
    右京諸蕃 三宅連 - 新羅国王子の天日桙命の後。
    大和国諸蕃 糸井造 - 三宅連同祖。新羅国人の天日槍命の後。
    摂津国諸蕃 三宅連 - 新羅国王子の天日桙命の後。
  • 「天日槍」の名称自体についても、「ツヌガ(角干:新羅の最高官位)アラシト(日の御子の名)」の日本名になるという説もある。これらの伝説においてアメノヒボコは新羅王子、都怒我阿羅斯等は大加羅王子として相違がある。
  • 『日本書紀』では、清彦が神宝のうち刀子の献上に強い抵抗を示すが、その刀子が韓国慶州の天馬塚(59本)、兵庫県豊岡市の二見塚4号墳(9本)、兵庫県朝来市の城ノ山古墳(9本)で見つかっていることに伝承の歴史的背景が指摘される。

    これらの神宝の献上はレガリアの献上を意味し、出石族一族が抵抗を示しながらもヤマト王権に服属したことを表すとされる。また、これ以後王権に忠節を尽くす様は田道間守伝承に象徴されると見られる。
  • 垂仁天皇

    天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったのは、これに由来するという。また天日槍は但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、麻多烏との間の子に但馬諸助(もろすく)を儲けた。そしてこの諸助は但馬日楢杵(ひならき)を儲け、日楢杵は清彦(きよひこ)を、清彦は田道間守(たじまもり)を儲けたという。

    8種の神宝とは別に「出石(いづし)」という名の小刀1口があったが、清彦は献上を望まなかったので袍の中に隠して身に帯びていた。しかし垂仁天皇が清彦を遇しようと御所で酒を与えたとき、その小刀が袍の中から出た。清彦は隠し通すことを断念し、これが神宝の1つであることを言上すると、天皇はこれと他の神宝とを一緒にして神府(みくら:奈良県天理市の石上神宮の神府か)に納めた。そのしばらくのち、天皇が神府を開くと小刀が自然になくなっており、清彦に人を遣わして問いただすと、清彦は小刀が自然と清彦の家に来たがその日の朝にはなくなったと言った。天皇は畏れそれ以上は小刀を求めることをやめたが、一方の小刀はのちに自然と淡路島に至り発見されたので島人により祠に祀られたとする。



  • 日本書紀』垂仁天皇88年7月条によると、新羅王子の天日槍が持って来た但馬の神宝を見たいと天皇が言ったので、使者を遣わし天日槍曾孫の清彦に勅命を下して献上させた。その神宝とは次の5物、

    羽太の玉 1箇
    足高の玉 1箇
    鵜鹿鹿の赤石の玉 1箇
    日鏡 1面
    熊神籬 1具
  • 『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述がある。

    応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。

    「豊国の比売語曾社」は、大分県姫島の比売碁曾社である。『豊前国風土記』逸文にも、新羅国の神が来て河原に住んだので鹿春神というとある。
  • 『三国遺事』には新羅の阿達羅王時代のこととして、天之日矛説話によく似た伝説が記されている。

    東海の浜に延烏郎・細烏女あり、夫婦同居す。一日、延烏、海にゆき藻を採る。忽ち一巖あり。負いて日本に帰す。国人これを見て曰く、「これ非常の人なり」といふ。すなわち立てて王と為す。 【日本帝記を按ずるに、前後に新羅の人を王と為すこと無し。これすなわち辺邑の小王にして真の王に非ざるなり】。細烏、夫の来たらざるを恠(あや)しみ、これを尋ねゆく。夫の脱ぎし鞋を見て、またその巖に上る。巖、また負いて帰すること前の如し。その国の人、驚き訝しみ奏して王に献ず。夫婦相い会し、立てて貴妃と為す。
    この時に新羅に日月の光無し。日官奏して云しく、「日月の精、降りて我が国に在りしが、今は日本に去にき。故に斯の恠しを致す」といふ。王、使を遣わし二人を求む。延烏曰く、「我、この国に到るは、天の然しむるなり。今、何ぞ帰らんや。然れども朕の妃が織れる細綃有り。これを以て天を祭るべし」といふ。すなわちその綃を賜う。使人来り奏して、その言に依りてこれを祭る。然して後、日月、旧の如し。その綃を御庫に蔵し国宝と為す。その庫を名づけて貴妃庫と為す。祭天の所を迎日県または都祈野と名づく。

    阿達羅尼師今(あだつら にしきん、生年不詳 - 184年3月)は、新羅の第8代の王(在位:154年 - 184年)であり、先代の逸聖尼師今の長男。姓は朴。母は朴氏の支所礼王の娘、王妃は第6代祇摩尼師今の娘の内礼夫人。

    154年2月に先王が死去し、王位に就いた。北方の靺鞨(及びその背後の高句麗)に備えるために、新羅と百済とは緩やかな同盟の態勢を保っていたが、阿達羅尼師今の時代から、交戦状態に入ることとなった。165年10月に阿飡の吉宣(キルソン)が謀反を起こそうとして発覚し、誅滅を恐れて百済に亡命した。阿達羅尼師今は百済に吉宣の身柄返還を求めたが、百済の蓋婁王がこれをかくまったため、百済への侵攻を開始した。このときは百済軍が籠城してよく守ったため新羅軍は食料が尽きて撤退したが、167年7月には百済が新羅の西部辺境2城を奪って住民1千人を捕虜とすると、同年8月には一吉阿飡の興宣(フンソン)に兵2万を率いて百済を討たせるとともに、阿達羅尼師今自身も8千の騎兵を率いて漢水(漢江)まで出撃した。百済はこれを恐れ、先に捕虜とした住民を返還し和睦を求めた。しかし170年10月には百済は再び新羅の国境付近に侵攻した。この後暫く直接の交戦記事は見られなくなる
  •  8 阿達羅 31 255年後半~270年後半か


    新羅王の年表
    代 王 名  修正しない
     在位年数      修正した元年 ~ 死亡年
     1 赫居世 61 150年後半~180年後半
     2 南 解 21 180年後半~190年後半
     3 儒 理 34 190年後半~207年前半
     4 脱 解 24 207年前半~218年後半
     5 婆 娑 33 218年後半~234年後半
     6 祇 摩 23 234年後半~245年後半
     7 逸 聖 21 245年後半~255年後半
     8 阿達羅 31 255年後半~270年後半
     9 伐 休 13 270年後半~276年後半
    10 奈 解 35 276年後半~293年後半
    11 助 賁 18 293年後半~302年前半
    12 沾 解 15 302年前半~309年前半
    13 未 鄒 23 309年後半~320年後半
    14 儒 礼 15 320年後半~327年後半
    15 基 臨 13 327年後半~333年後半
    16 訖 解 47 333年後半~356年後半
    17 奈 勿 47 356 ~ 402
    18 実 聖 16 402 ~ 417
  • 『日本書紀』の神功皇后の条には、波沙(はさ)王や宇流(うる)という人物が登場します。波沙王は新羅の5代婆娑(はさ)

    尼師今で、在位は218年~234年(修正年)です。卑弥呼の時代と重なりますから、卑弥呼とは交流があったかも知れません。

    宇流は、10代奈解(なかい)尼師今の太子の于老(うろう)です。新羅の高官でしたが、12代沾解(てんかい)尼師今の時代の303年(修正年)に、倭人に殺害されました。于老の時代は神功朝より古く、崇神朝の時代にあたります。朝鮮出兵の起源は、思いのほかに古いことがわかります。

    神功皇后の条によれば、波沙王の子の微叱己知(みしこち)を人質として倭国に送ったと書かれています。しかし、この二人は親子ではありませんし、時代も全く合いません。波沙王は3世紀の人で、微叱己知は5世紀の人です。
  • 18代実聖(じっせい)尼師今の元年(402年)の条によれば、前王の子の未斯欣(みしきん)を人質として、倭国に送ったと書かれています。この未斯欣が、微叱己知です。19代訥祇(とつぎ)麻立干(まりつかん)の2年(418年)には、未斯欣が倭国から逃げ帰ったといいます。未斯欣は、応神天皇から仁徳天皇の時代の人なのです。日本側にはしっかりした記録がなかったようです。年代は把握されておらず、記憶も断片的です。そのために、安易に神功皇后に結び付けたようです。
  • 香春の現人神社に「都怒我阿羅斯等」が祀られる。香春神社縁起によると香春神、辛国息長大姫大目命は「阿加流比売」であった。共に香春から豊前に移動した渡来系の秦氏族、辛嶋氏が斎祀った神。「都怒我阿羅斯等」は半島の金属精錬集団が齋祀る神であるという。香春の銅鏡の神を祀る秦氏族「長光氏」も、そして国東で飯牟礼山を祭祀する「土谷氏」も渡来の金属精錬集団であった。

     「飯牟礼山縁起」は秦氏族「辛嶋氏」が斎祀った都怒我阿羅斯等、天日矛、阿加流比売等の説話から派生したものであろう。
  • 辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比賣命
     日本三代実録によると、豊比賣命を辛國息長大姫大目命としている。
     社前には、第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。 第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ。とあった
  • 香春神社の「縁起」に、
    韓地における大姫命の霊は、実に白石の玉と示し給う。
    しこうして、この三山は、白石幽妙の神縁なり。
    けだし、上古より、この山に臨座あり。
    然る後、彼の土に渡り経営終る故、また帰座か。

    一の岳は白い大理石でできていたという。
  • 比売大神の出自については、託宣集による「玉依比売」や、神功皇后の妹ともされる「豊比売命」、国東、姫島の比売許曽神「阿加流比売」など諸説あり、九州古代史の謎のひとつとなっている。

    宇佐の祭祀は、宇佐氏による三つの巨石を比売大神の顕現として祀る、御許山上の奥宮、大元(おおもと、大許)神社の信仰が原初であるとされる。
    、宇佐氏が最も古く奉斎した神は、宇佐神宮の祖宮ともされる中津の薦(こも)神社であったらしい。この社は、境内の御澄池を神体とする。伝承では池守として御澄池を奉斎した「佐知(さち)彦命」が宇佐氏の祖「菟狭(うさ)津彦」と同神とされる。

    阿加流比売は、日本書紀では意富加羅国王の子、都怒我阿羅斯等が追ってきた白石の化生である童女

    比売語曽神について、『日本書紀』では、垂仁天皇の時代に、意富加羅国(おほからのくに。現在の韓国南部にあったと考えられている。)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、白石から生まれた童女(阿加流比売神)に求婚すると、美女は消え失せ、都怒我阿羅斯等が追いかけると日本に渡り、摂津及び姫島に至って比売語曽社の神となったと伝えている。このうち、姫島の比売語曽社が当社であり、摂津の比売語曽社は大阪府東成区の比売許曽神社であるとされる
  • 加羅の王子都怒我阿羅斯等の伝承に、白石が童女と なり、阿羅斯等はこの童女と結婚しようとしたが、「求 ぐ所の童女は、難波に詣りて、比売語曽社の神となる。 または豊国の国前郡に至りて、また比売語曽社の神と なりぬ。並に二処に祭ひまつられたまふといふ」とあ る。
    比売語曽社
    日本書紀(垂仁紀)
  • 姫島

    『古事記』によると、神代の昔、伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱の神が「国生み」で、大八嶋國(淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡ヶ島・本州)を生んだ後、さらに6つの島を生みましたが、その6つの島の4番目に生んだのがこの「姫島」(ひめしま)【女嶋】です。
    亦の名を「天一根」(あめのひとつね)といいます。

    次生女嶋 亦名謂天一根
    ~次に女嶋を生みき。亦(また)の名を天一根(あめのひとつね)と謂(い)ふ。~
    (『古事記』より)


    『日本書記 卷第六』によると、垂仁天皇の御代、意富加羅国(今の韓国南部)の王子都怒我阿羅斯等が、ある日黄牛に田器を負わせて田舎に行くと、牛がいなくなりました。捜していると老翁が現わて、「おまえの捜している牛は郡公が殺して食った。」といったので、阿羅斯等は郡公の館に行って牛の代償を求めると、郡公は白石を与えました。阿羅斯等は白石を持ち帰り寝室に置くと、美女となり、阿羅斯等は大変喜んで求婚すると、美女は忽ち消えてしまいました。阿羅斯等が追い求めると、美女は海を渡って日本国の難波に至り、比賣語曾社の神となり、また難波から國前郡【国東郡】に渡り、比賣語曾社の神【阿迦流比賣神】となったと伝えています。
  • June 2016 編集されました
    『謎の出雲帝国』によると富家伝承等をまとめて以下の年譜を記載している。
    この本によると継体天皇系の王朝では出雲が栄えたが出雲神族にとっての最後の止めとなったのが倭漢氏系の蘇我氏が第29代欽明天皇を立てて出雲を完全に封印したからだということになる。
    それでも出雲は祟り続けて三輪で祭祀されるに至ったという。そしてその神霊はクナト神だという。

    稲背入彦命自身に関する言い伝え

    琵琶湖東岸には天孫一族が祀った御上神社が在り、遠くない湖畔には兵主大社が鎮座しています。祭神と由緒について同社縁起は次のように記しています。
    兵主大社
    当社は大国主神の異名、八千矛神を祀り「つわものぬし」と呼称する。その鎮座は大国主神、天孫の勅に応じて皇御孫命に国土を譲られた時に、御杖とされた広矛を授けられてより宮中に「国平御矛」として御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威をかしこみ宮城近き穴師(桜井市)に神地を占し兵主大神と仰ぎ、皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太(大津市坂本)に求められ、部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、
    稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。

    「広矛(武器)」つまり武力で国を平らげた「神」の象徴と寝食を共にしていた景行帝の身近に在った稲背入彦尊(「尊」の字に注目)が、帝に代わって穴師の地で「これを祀り」、後、景行が都を近江に遷した時にも、同皇子が「社地を穴太」に移し、欽明帝の御代になって稲背入彦命の子孫である播磨別などが三度「今の地」に鎮祭したと謂う訳です。記紀は景行の遷都について、その理由らしきものを黙して語りません。

    五十瓊敷入彦命でもあった帝が若き日に、茅渟の河上の地で「一千口の剱」を拵え、忍坂に収めた後、石上神宮に蔵した故事を思えば、金属鍛冶の技術(武器製造)に深い関心のあった景行を、新たな地に誘った人こそ稲背入彦命だったのではないのか

    そして播磨風土記が、賀古郡、比禮墓の段において、
    昔、大帯日子命、印南の別嬢を誂いたまいし時、御佩刀の八咫の剱の上結に八咫の勾玉、下結に麻布都の鏡を掛けて、賀茂の郡の山直等が始祖息長命<又の名は伊志治>を媒として、誂い下りましし時

    と云う伝承を書き留めている。

    垂仁帝の娘(稚浅津姫命)婿として王室の一員となっていた稲瀬毘古命(稲背入彦命或いは、彼の近親))が、全国制覇を夢見る次の大王の側近として発言力を増し、自らの勢力基盤でもある播磨国に居た一族とも連携して吉備氏の長女を帝室に送り込んだのではないか。

    播磨風土記は景行帝と姫の媒をした別の人物について下記の様に伝えています。

    賀古郡、比禮墓=襟墓と号くる所以は、昔、大帯日子命、印南の別嬢(稲日大郎姫)を誂いたまいしとき、御佩刀の八咫の剱の上結に八咫の勾玉、下結に麻布都の鏡
    を掛けて、賀毛の郡の山直等が始祖息長命、一の名は伊志治を媒として、誂い下りましし時、摂津の国、高瀬の済に到りまして、
    『新撰姓氏録』和泉国神別、山直、天穂日命十七世孫、日子曾乃己呂命の後なり。   [つまり「山直」は出雲国造の同族です]

    大帯日子命(景行天皇)と印南別嬢(播磨稲日大郎姫)
    八咫剣・八咫勾・麻布都鏡で正装した大帯日子命が印南別嬢へ妻問いに明石郡までやってきたが、それを聞いた印南別嬢は驚いて南毘都麻島に隠れてしまった。賀古松原で別嬢を探していると、海に向かって吠えている犬を見つけた。その犬が別嬢の犬であることを知り、天皇は海を渡った。妻がなびた(隠れた)島であるので南毘都麻島(なびつまのしま)と呼ばれるようになった。別嬢と会うことができた天皇は求婚し、夫婦となった。
    年月が過ぎ、別嬢が亡くなって日岡に葬られることになった。遺骸を船に乗せ印南川(加古川)を渡らせていると突風で遺骸が川の中に流されてしまった。遺骸探したが見つからず、見つかった遺品の匣・褶を埋葬し墓としたため、比礼墓(日岡陵)と呼ばれるようになった。天皇は悲しみ、「この川の物は食べない」と言った。これにより、この川の鮎は贄として出されなくなった。
  • June 2016 編集されました
    日岡陵
    墳形は前方部を南西方に向けた前方後円形で、ほぼ完全に遺存する。ただし、元々は円墳であって明治の修陵により前方後円形に改められたとする説、およびその一方で改変は受けていないとする説が挙げられていたが、2011年(平成23年)の測量調査によれば当初より前方後円墳としての築造と見られる。段築の有無は不明(無段または幅の狭いテラス面か)。墳丘上からは葺石・埴輪片・土師器片が採集されている

    この日岡陵古墳の築造年代は古墳時代前期の4世紀代と推定され、日岡山古墳群のうちでは最古とされる。被葬者は考古学的には明らかでないが、『播磨国風土記』では景行天皇妃の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の「褶墓(ひれはか)」に関する伝承が見えることから、現在では宮内庁により同天皇皇后の播磨稲日大郎姫命の陵に治定されている。日岡山古墳群の前方後円墳はいずれも加古川左岸の平野の方向に前方部を向けることから、その平野を支配した首長の墓と推定されている。また古墳群からは他地域と同笵の三角縁神獣鏡の出土も知られ、畿内のヤマト王権勢力との密接な関係が指摘される。

    日岡山南麓には式内社の日岡神社が鎮座し、その社伝では播磨稲日大郎姫命の日本武尊らの出産の際に天伊佐佐比古命(日岡神社祭神)が安産祈願をしたとする。
  • June 2016 編集されました
    日岡神社
    参詣の栞には、
    「日岡神社と伝説
     第12代景行天皇の皇后・稲日大郞姫命が御懐妊なされ、皇子・櫛角別王(クシノワケノミコト)をお産みになられた時、非常にお苦しみになられたので、次に御懐妊なされた時、天伊佐佐比古命が七日七晩、ご安産をひたすら祖神に御祈願なされたところ(加古の亥巳籠も)、無事美乃利の地でご安産なされました。
     御子はまるまると元気な大碓命(オオウス)と小碓命(コウス)の双子の皇子でした。後に小碓命(ヤマトタケル)は倭健命と称しました。
     また皇后・稲日大郎姫命は神社東の日岡御陵に祀られています」

    古事記(景行記)に
     「この天皇、吉備臣等の祖・若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)の女、名は針間之伊那毘能大郞女(ハリマノイナツビノオオイラツメ)を娶りて生みし御子、櫛角別王(クシツノワケ)、次に大碓命(オオウス)、次に小碓命(コウス)亦の名は倭男具那命(ヤマトオグナ・ヤマトタケルの別名)・・」

    書紀(景行紀)に
     「景行天皇2年春3月3日、播磨稲日大郎姫を皇后とされた。后は二人の男子・大碓皇子・小碓尊を生まれた。そのお二人は一日に同じ胞(エナ)に双生児として生まれた。天皇はこれをいぶかって、碓(臼)に向かって叫び声をあげられた。そこで二人を名付けて大碓・小碓といった。小碓尊はは亦の名を日本童男または日本武尊という」(大意)

    参詣の栞には、
     「天伊佐佐比古命は吉備津彦命のことか
      第10代崇神天皇の御代、天皇は勢力を広げるために皇族の御方を派遣しました。北陸・東海・西道・丹波がそれで、世に四道将軍と呼ばれています。
     西道である山陽道には第7代孝霊天皇の皇子・彦五十狭芹命(吉備津彦命)と弟の若建吉備津彦命を派遣しました。彼らは無事大任を果たし、その後この地にとどまりました。
     この吉備津彦命が天伊佐佐比古命であると言われています。また、この吉備津彦命の活躍は桃太郎伝説のモデルとも言われています」
    として、吉備津神社(岡山市)の祭神・吉備津彦命ではないかという。
  • 播磨風土記の印南郡の南毘都麻(なびつま)の条に、

    「志我の高穴穂の宮に天の下知らしめしし天皇(成務天皇)の御代、和邇臣(わにのおみ)の祖、比古汝茅(ひこなむち)を遣して、国の境を定めたもうた。その時、吉備比古、吉備比売の二人が参り迎えた。ここに比古汝茅、吉備比売に娶いて、生める児、印南別嬢(いなみのわきいらつめ)、-----。大帯日古(おおたらしひこ)の天皇(景行天皇)この女を娶んと欲して行幸せるも、別嬢これを聞きて、南毘都麻の小嶋に逃げ隠れた。」とある。
  • 国造本紀
    針間国造(はりまのくにのみやつこ)   志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)の孫の伊許自別命(いこじわけのみこと)を国造に定められた。
    針間鴨国造(はりまのかものくにのみやつこ)   志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に上毛野(かみつけぬ)と同祖の御穂別命(みほわけのみこと)の子の市入別命(いちいりわけのみこと)を国造に定められた

    針間別佐伯直 †
    右京皇別下:佐伯直(さえきのあたへ)。
    景行天皇の皇子、稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)の後なり。男、御諸別命(みもろわけのみこと)、稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)[謚は成務]の御代、針間国を中分(なかばわけ)て給はれり。よりて針間別(はりまのわけ)と号く。男、阿良都命(あらつのみこと)[一の名は伊許自別(いこじわけ)]、誉田天皇、国堺を定むる為に、車駕巡幸(いでまし)て、針間国神崎郡瓦村の東崗の上に到りたまふ。時に青菜葉、崗の辺の川より流れ下りければ、天皇、「川上に人あるべし」と詔りたまひて、すなはち伊許自別命を差して往て問しむ。すなはち答へて曰さく、「己らは是れ日本武尊の東の夷を平けたまひし時に、俘(とりこ)に所(せ)られし蝦夷の後なり。針間、阿芸、阿波、讃岐、伊予等の国に散け遣され、よりて此に居る氏なり[後に改めて佐伯と為き]」といふ。伊許自別命、状(ありつるかたち)を以て復奏(かえりことまう)す。天皇詔して曰はく、「汝、君と為て治むべし」とのたまふ。すなはち氏を針間別佐伯直と賜ふ[佐伯は謂ゆる氏姓なり。直は君を謂うなり]。その後、庚午の年に至りて、針間別の三字を脱落て、ひとへに佐伯直と為き。
  • June 2016 編集されました
    成務天皇の御代、天皇は和邇(わに)臣の祖比古汝茅(ひこなむち)を遣わして、吉備の国との国境線を協定させた。吉備の方からは吉備比古、吉備比売が協議に参会した。この時、比古汝茅が吉備比売を娶って生まれた子が印南別嬢である。

    まず『古事記』景行段には「大帯日子淤斯呂和気天皇、坐纏向之日代宮、治天下也。此天皇、娶吉 備臣等之祖、若建吉備津日子之女、名針間之伊那毘能大郎女」とあり、吉備臣等之祖とされる若建吉 備津日子の女、針間之伊那毘能大郎女を后妃としたことがみえるが、『播磨国風土記』賀古郡条では、 印南別嬢は、丸部臣らの祖である比古汝茅と吉備比売の子とされており、和珥臣は吉備臣と婚姻関係 をもっていたことになる。

    『古事記』孝昭段にみえる和珥臣の同族集団に阿那臣と大坂臣がみえたが、 これらは吉備、なかでも備後を根拠とした氏族であった。『続日本紀』天応元年(七八一)三月庚申 朔条には、安那公御室が采女としてみえ、『三代実録』貞観十四年(八七二)八月八日条には備後国 安那郡人として安那豊吉売がみえる。そして、『先代旧事本紀』国造本紀には、吉備穴国造なるもの がみえるが、これは「纏向日代朝御世。和邇臣同祖。彦訓服命孫八千足尼定賜国造」とされており、 明確に和珥臣の同族とされている。残念ながら、臣姓をもつ阿那氏を『古事記』以外に確認すること はできないが、安那公以外に阿那臣が存在した可能性は十分に考えうるだろう。ちなみに、大坂臣に ついては、その本拠地を明らかにすることができないのだが、備後国安那郡には大坂郷がみえるので、 ここが本拠であったろう。このように、和珥臣の同族とされる集団は吉備にも分布したのであり、こ れは和珥臣と吉備臣との「交流」を反映するものと考えられる。 こうした明確な和珥臣の同族集団ではないが、和珥臣に関連する氏族が吉備にはさらに存在した。 吉備品遅君である。吉備品遅君は、針間阿宗君とともに『古事記』開化段に息長日子王を祖とする氏 族としてみえ、『書紀』仁徳四十年二月条には、吉備品遅部が播磨の佐伯直とともにみえる。『先代旧 事本紀』国造本紀にも吉備品治国造として、「志賀高穴穂朝 多遅麻君同祖。岩角城命三世孫大船足 尼定賜国造」があげられている。吉備の品治部(品遅部)を管掌した氏族であり、備前の西大寺観音 院に伝わる備前国神名帳には邑久郡に品治神社がみえる
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    新撰姓氏録
    針間国造 伊許自別命(成務天皇期) 針間氏(直)、佐伯氏(直) 播磨国北部
    針間鴨国造 市入別命(成務天皇期) 播磨国東部

    上毛野国造と同祖の御穂別(ミホワケ)命の子の市入別命とあるが、『新撰姓氏録』は、景行天皇の皇子の稲背入彦 (イナセイリヒコ) 命の後。御諸別 (ミモロワケ) 命は成務天皇の代に針間国の半ばを賜り、針間別(ハリマノワケ)と号す。阿良都 (アラツ)命、一名は伊許自別(イコジワケ)命。応神天皇の代に針間別佐伯直を賜うと記している。
  • 仲哀の崩年干支、壬戌(みずのえいぬ)は362年で、新羅侵攻は翌年の春、すなわち363年のことと考える。

     朝鮮史書『三国史記』新羅本紀にも、この頃、倭の侵攻が在ったことを伝える。
    その一つ、奈勿尼師今(なこつにしきん)九年四月の次の記事である。
    「倭兵、大いに至る。王之を聞き、恐らくは敵(あた)る可からずとして、草の偶人数千を造り、衣(ころも)を衣(き)せ、兵を持(じ) せしめて、吐含山(とがんさん)の下に列べ立て、勇士一千を斧けん(山+見)の東原に伏せしむ。倭人、衆を恃(たの)み直進す。伏せるを発して其の不意を 撃(う)つ。倭人大いに敗走す。追撃して之を殺し幾(ほとん)ど尽く。」
    奈勿尼師今九年は364年で、神功の新羅侵攻の年次と私が考える363年とは一年の違いがある。新羅本紀の王暦に一年の狂いがあるか?

  • 『日本書紀』は、天日楯に関する次のような話を載せている。
    初め天日楯が船に乗って播磨の国に泊まったとき、播磨の宍粟邑(しさわのむら)にいた。天皇は三輪(みわの)の君(きみ)の祖先の大友主と倭直(やまとあたい)の先祖長尾市(ながおち)を播磨に派遣して「おまえは何者だ。またどこの人間だ」と天日楯に問いただした。これに対し天日楯は「私は新羅国の王子だが、日本国に聖皇がいると聞き、自分の国は弟の知古(ちこ)にまかせて帰化いたしました」と答えた。このとき天皇に献上した物は、葉細(はほそ)の珠(たま)、足高(あしたか)の珠・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の珠・出石(いずし)の刀子・出石の楯・日の鏡・熊の神籬(ひもろぎ)・胆狭浅(いささ)の大太刀あわせて八種類である。天皇は天日楯に、播磨の国の宍粟邑(しさわのむら)と、淡路島の出浅邑(いてきのむら)に住むように言うが、天日楯は、諸国を巡回してから決めると答えた。そして、天日楯は、菟道河(うじがわ)を遡って、近江の国の吾名邑(あなむら)に入ってしばらく住んだ。そこから若狭を経て、但馬の国に住んだ。
    また、『古事記』には、次のような話がある。
    新羅の国王の子、天(あめ)の日矛(ひぼこ)という者がおり、この人が渡ってきた。その理由は、次の通りである。
    新羅国の阿具(あぐ)沼の辺で、ある賎しい女が昼寝をしていた。その時、日の光が虹のようにその女の陰部にさしたのを、ある賎しい男が怪しんでみていた。その女は、昼寝をしたときから妊娠して、赤い玉を生んだ。様子をみていた男が玉を譲り受けて、常に包んで腰につけていた。
    この男が、谷間で田を耕作する人たちの食料を牛に負わせて山谷に入ったところ、天の日矛に会った。天の日矛はその男に、「おまえは、なぜ、食べ物を牛に背負わせて山谷に入るのか。きっとこの牛を殺して食うのだろう」といい、その男を捕えて牢に入れようとした。男が、「私には牛を殺す気はありません。ただ、農夫の食料を運んでいるだけです」といっても、天の日矛は許さなかったので、腰につけていた玉を天の日矛に献上した。天の日矛はその男を許し、玉を持ち帰り床の辺に置いたところ、美しい乙女となったので、妻とした。妻は、常に数々の珍味を作り夫に食べさせたが、天の日矛が奢って、妻をののしったので、「大体私は、あなたの妻になるべき女ではありません。私の祖先の国に行きます」と言って、ひそかに小船で逃げ渡って、難波についた。
    そこで天の日矛が、妻を追って来て、難波に入ろうとすると、その海上の神が塞いで入れなかった。そこで但馬の国に船を泊め、その国に留まった。

    天日楯の系統は、後に皇統と繋がる。『記紀』において「新羅征伐」の話で知られる神功皇后である。神功皇后は、母系をたどると、天日楯の六世孫にあたる。
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