丸亀城主、山崎甲斐守、山崎家治、京極氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 讃岐・阿波・伊予
image丸亀城主、山崎甲斐守、山崎家治、京極氏

丸亀藩は、讃岐国(香川県)の西部を領し、丸亀城(丸亀市)を本城とした藩。藩主は生駒氏、山崎氏、京極氏と続き廃藩…

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  • 1. 秩父郡名栗村の加地氏 上名栗村文化九年馬頭尊に「か治原講中」とあり、今の字八ヶ原の古名なり。越後国北蒲原郡加地庄より起る佐々木氏族加地氏に附会す。秩父志に「名栗村は加持ノ庄に属す。有馬山と云ふ山腹に居跡あり、中古加持源左衛門尉なる者ありて、此地を領地せしとき此に居し所と云。同所に古墳数基あり、思に加持氏の子族の墳墓ならんか」と。風土記稿下名栗村条に「元弘三年に関戸村に於て討死せし加治源太左衛門は、この村を領せしと云ふ」と見ゆ。太平記卷十四の佐々木加治源太左衛門にて、越後国の加地氏なり。

    2.高麗郡加治郷赤沢村の加治氏 幕臣加治氏系図に「加治兵庫大夫頼胤(上杉憲政に仕ふ)―修理亮胤勝(北条氏康に仕ふ)―左衛門次郎正胤(初信胤、氏輝に仕へ、北条家没落の後、加治郷赤沢村に住し、関東入国の時めされて御代官となり二百俵を賜ふ。加治郷赤沢村勝輪寺に葬る)―喜平直胤(弟八郎右衛門盛胤)―藤兵衛則胤(喜八郎、弥兵衛、中山村能仁寺に葬る。後忠次に至るまで葬地とす)―藤兵衛忠胤―喜八郎忠次―藤兵衛駛胤―喜太郎忠倫―吉太郎直方(寛政八年遺跡を継、二百五十俵)。家紋、桝形の内満月、水月、丸に丹字」と。此氏は中居村出身の本名半田氏にて、在名加治氏を称す。風土記稿赤沢村(飯能市)条に「当村勝輪寺に古き過去帳ありて、霊光院殿心月了松大居士・加治兵庫大夫頼胤・享禄元年十月十九日逝去・鎌倉上杉へ御奉公。当村薬師堂の棟札に、清徳院殿源仲本公大居士・加治修理亮胤勝・弘治三丁巳三月二十一日・北条陸奥守氏照公に御奉公。妙見社は元亀二年加治修理大輔・岡部小次郎佐・久林民部少輔再興す。興武院殿雄室全英大居士・加治左衛門信胤・元和八壬戌四月二十二日・江戸へ御奉公とあり。寺の傍に五輪の石碑三基あり、是も加治氏の墓碑なり」と見ゆ。御祭礼之覚写(大徳院旧蔵文書)に「卯正月七日、日さい衆加治伊豆守、かぢ衆兵庫助殿」と。伊豆守は二項の入西郡小代郷住人か。北条氏照書状に「鉄砲衆物主(大将)・加治左衛門」と。高麗陣屋天正十九年以来代官交替覚書に「関八州御代官大久保石見守殿御手代、本宿居・加治左衛門次郎」と見ゆ。風土記稿中山村条に「屋敷跡、加治藤兵衛が居住の跡なり、徐地五千坪ばかり。伝云ふ、長禄元年川越築城の時、人馬の差配せし褒賞として、此地を上杉家より賜り、今にその子孫加治十郎太夫持にて、其地(中山村字前田)は畠山林なり」と。明治三年文書に「加治十郎太夫様御屋敷跡五千坪之地所、往古より御用人方に而御進退、無年貢地に而云々」と。加治氏現存無し。


  • January 2017 編集されました
    忍・川越藩松平伊豆守信綱(大河内)家臣 万治元年川越藩分限帳に「五百石・本国越後生国出羽最上・加治藤左衛門・三十七歳」あり。

    飯能市の加治城 室町時代末期に加治頼胤(加治藤兵衛)が築城。扇谷上杉氏の河越城修築で功労
  • 六角氏と信長の戦い 

    永禄11年(1568)、三好三人衆と松永久秀らの手を逃れて近江、若狭、越前と流浪していた足利義昭は、朝倉氏の家臣であった明智光秀の仲介で、美濃・岐阜城の織田信長を頼り将軍家再興の助力を要請した。
     かねてより江北の浅井長政と同盟を結んでいた信長はこの要請をうけ、永禄11年9月足利義昭を奉じて上洛の途につくが、江南の六角承禎,義治(義弼)父子は三好三人衆と手を結んでいたことや、佐々木源氏の嫡流である誇りもあって、信長の上洛をよしとせず、居城・観音寺城に楯籠もり、箕作城,和田山城の支城と共に守りを固め、信長の上洛阻止を企てた。

     永禄11年9月、信長は観音寺城を目指し中山道を南下、観音寺城の支城である和田山城を落とした信長軍は、六角氏の居城・観音寺城に攻め寄せた。
     織田軍は9月11日夕刻から、観音寺城と中山道を挟んで隣接する箕作城への攻撃を開始し、夜には箕作城を落城させた。箕作城を落とされた六角承禎、義弼父子は観音寺城を捨て甲賀に遁走した。
  • 「信長公記」の元亀元年六月条には下記のように記されている。
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      六月四日、佐々木承禎父子、江州南郡所々一揆を催し、野洲川表へ人数を出し、柴田修理(勝家)・佐久間右衛門(信盛)懸向ひ、やす川にて足軽に引付け、落窪の郷にて取合い、一戦に及び、切崩し討取類の注文、三雲父子・高野瀬・水原、伊賀・甲賀衆究竟の侍七百八十討ちとり、江州過半相静り
  • 京極家の家紋について (丸)

     生駒家 天正15年~寛永17年
      山崎家 寛永18年9月~明歴3年3月 (絶家)
      京極家 万治元年2月~明治2年3月 藩籍奉還
          同2年3月丸亀藩知事任用
      佐々木京極家系図などには「重目結紋なり。惣領家はこれを用う」とある。四
     つ目を紋所とすることは、元久2年、平賀朝雅違勅の罪により追討のとき、佐々
     木太郎定綱の四男信綱が先駆けして勇をふるい、太股に矢傷をうけ、院のお声に
     達して、この紋を賜った。これが、四つ目結である。京極家が四つ目結を家紋
     としたのは、ずっと後のことである。

    多度津の昔の殿様は京極氏である。丸亀の京極氏の2代目高豊の子高通が1万石を与えられて分家したものである。高通は42年間殿様として在職したが平常の生活は丸亀の城内であった。

    第2代目の高慶もやはり丸亀城内で政治をしたがこの時に寛延の百姓一揆が起った。次の高文を軽て第4代藩主京極高賢の時にはじめて多度津に陣屋を造って移転した。文政12年6月であった。この陣屋は居館、倉庫、営門、皷楼、学館、馬場、射場などの外に外郭と外門濠を構えて立派なものであった。殿様は居館に生活して政治をみた。第5代高琢 (ルビ たかてる)は天保5年に多度津湛浦 (ルビ たんほ)の大工事を起し約5か年の歳月と6200両に余る大金を投じて完成し港町多度津としてのその後の発展の基礎を築いた。在職27年で慶応3年に没した。第6代藩主は京極高典で従五位下壱岐守に任ぜられた。元治元年11月には京都で日之御門の警固に当り、また伏見・鳥羽の戦にも参加して勤王につとめた。明治4年には他藩に率先して解藩の議を建白してここに廃藩置県が決まった。従って藩知事も免ぜられたので多度津より乗船して東京に移住した。代々の藩主は文化面にも協力し学問や芸術の興隆を図り陽明学者として有名な林良斉ならびに三谷景信、国文学者の森長見その他の書家や画家が多く出た。京極氏の家紋は菱四つ目定紋でありその図案が今日の多度津町章になっている。多度津藩最後の殿様高典の乗船順風丸は今日では宇多津の西光寺に茶室として残つている。第2代高慶と第5代の高琢の墓は丸亀市の玄要寺にありその外の代々の墓は東京になる。
    第5代高琢の築いた多度津湛浦は現在造成地を擁する大築港として発展しつつある
  • 守護細川氏のもと比較的忠実であったと思われる讃岐武士も応仁の乱後、それぞれ独自の道を歩むようになっていく。そんな讃岐武士達を大きな流れに巻き込んでいったのは中央政局であった。細川政元の後継ぎ争いが次第に周辺を巻きこんでいくと、まず阿波の三好氏が東讃に侵攻をはじめたのに加え、さらに中国の大内義興のもとに身を寄せていた足利義稙も上洛して将軍の地位を狙わんと、大内氏に支援を求めた。すると大内義興は伊予河野氏の協力もあって、村上、塩飽水軍を掌握することに成功し、一気に讃岐諸将を味方に引き入れてしまった。
     しかし大内義興が没する(1528)や、諸将はこぞって細川晴元に従うようになり、やがて細川方の十河一存が讃岐における一大勢力となった。やがて一存の子存保のもとに束ねられたものの、後の長宗我部元親の侵略を止めることができず、讃岐全土は長宗我部氏の手中に帰す結果となった。
     天正十三(1585)元親が土佐に退去したあとは、仙石秀久が宇多津聖通寺城で統治を行ったがやがて領地召し上げとなり、そのあとを尾藤知宣が領主となった。
     天正十五年になると尾藤氏の後をうけて生駒親正が入封してきた。いくつか居城を転々とした親正はやがて高松城を築き、そして西讃のおさえとして子一正を丸亀城に入れた。
     関ヶ原の合戦後は、生駒氏は領地召し上げとなり、西讃には山崎家治が、東讃には松平頼重がそれぞれ入国、それ以来讃岐は分割統治で明治を迎えることになる。山崎氏が断絶になると、播磨龍野より京極高知が入封し、元禄七年(1694)には京極高通が丸亀の支藩として多度津藩に任ぜられた。こうして讃岐は三藩分治により明治維新を迎えることになった。
  • 京極にすぎたるものが三つある にっかり茶壺に多賀越中
    「にっかり」は、刀「にっかり青江」のこと。
    「茶壺」茶壺とは高名な野々村仁清作の茶壺
  • 「香川氏は鎌倉平氏景政の五世孫高経を先祖とす。高経・相模国香川庄に移り居れり、よって香川と称す。経高の子三郎経景、承久の役に功あり、所領を多く賜り、子孫分かれて安芸と讃岐とに居れり。その讃岐に居る者を刑部大輔景則という。時に多度、三野、豊田等の三郡は、詫間氏の領せしを、詫間氏絶えて嗣者なかりしかば、細川氏挙げて、これを景則に賜う。これにおいて城を多度津に築いて居れり。この地寇を防ぐに便ならぬをもって、牙城を雨霧山に築き、事ある時は、ここに移る。」
    — 『西讃府史』

    「香河兵部少輔景房は鎌倉権五郎景政の末孫、魚住八郎の胤なり。細川管領頼之に従いて来たり、貞治元年(1362年)、高屋役に功あり、封を多度郡に受け、多度津に城き、もって天霧山をもって要城となすならん」
    — 『全讃史』多度津城条
  • 宇多津は細川一族の領国支配の一拠点であったといわれています。
    そこで、今回は、南北朝時代の細川一族、中でも宇多津にゆかりのある細川頼之(ほそかわよりゆき 1329年~1392年)について紹介しましょう。
    彼は、室町幕府に守護職を命じられてから、一時期、宇多津に居住していたという人物です。

    細川頼之を語るとき、讃岐の居城がどこかについて、さまざまな推測、諸説がありますが、やはり宇多津にあった可能性が高いと考えられています。
    では、宇多津のどこにあったのでしょうか。

    たとえば、古書「讃岐国古城跡」を見ると、その中に
    「同郡宇多津青山北麓城細川頼之公居城成 右今ハ本妙寺ト也  法華宗也」
    とあります。
  • October 2018 編集されました
    讃岐の安国寺、m

    通説では、全国に設置されたもののうち、安国寺は讃岐国ではただ1か所、かつて宇多津にあった長興寺が充てられたと考えられています。全国66か所のうちの第3番目に設置されたということですから、宇多津は、より認知されていたのでしょう。

    安国寺は、足利尊氏の時代
    14世紀初め、尊氏は、南北朝の戦いで戦死した多数の敵味方の死者を弔うため、全国66か所に一寺一塔を建立、または、すでにあったものを充てました。
    その寺を「安国寺」と呼び、その一対になる塔のことを「利生塔」と呼んでいました。
    南北朝時代には、ほぼ全国に設置されたとされています。尊氏が崇拝したという夢窓国師(夢窓疎石)の勧めであったとされています。


    江戸時代の作の古書「讃岐国名勝図会」には、宇多津の長興寺跡について
    「当国安国寺跡これなり」とあります。
    また、同書には、この付近の井戸について「同所にあり(中略)長興井といへり」とあり、さらに「この所の谷の間に大石を三つ重ねたる、これなり」とあります。
    宇多津の青の山南嶺、ちょうど円通寺のある場所からさらに上に登った所です。この付近は「丸山」と呼ばれたり、「観音山」とも呼ばれたりしています。
    この巨石は宇多津の史跡「三ツ岩」です。
  • 成羽陣屋は、元和3年に山崎家治によって築かれた。 家治は因幡若桜から3万石で入封し、鶴首城の麓に新城(陣屋)を築いた。 山崎家治は、その後天草富岡へ転封、更に讃岐丸亀への移る。 山崎氏の移封後、寛永16年に常陸下館より水谷勝隆が5万石で入封、3年後には備中松山へ再度転封する。 

     山崎家治の丸亀の遺領を嗣いだ俊家没後、継嗣無く山崎本家は改易となったが、万治元年に山崎豊治に家名存続が許され、5,000石の交代寄合として再度入封した。 明治2年に山崎氏は、新田分も加えて13,000石となり大名に列した。  
  • 10/09編集されました
    加賀の穴太衆の祖とは、源太左衛門という人でした。

    現在の大阪城は、徳川家によって大修築されており、
    秀吉時代の遺構は皆無に等しいという
    穴太源太左衛門さんは、近江穴太の出で、織田信長に仕えていました。きっと、源太左衛門さんは安土城の石垣づくりにも関ったのでしょうね。天正10年(1583)に信長が本能寺に倒れた後は、混乱の中、織田家を離れて前田利長が領主をしていた越前府中に移住し、合力金をもらって利長に召抱えられます。そして、利長に従って大坂へ行き、秀吉の大坂城普請の御用を勤めました。しかし、体調を崩して府中に帰り、文禄4年(1595)に病死し、正覚寺というお寺に葬られました。
     越前府中3万3千石は、もと前田利家の所領でしたが、利家が能登に転封となったので、天正9年(1581)、織田信長により嫡男前田利長に与えられたのです。この年利長は20歳で信長の娘永姫と結婚したばかり。本能寺の変はその翌年の出来事です。穴太源太左衛門さんが利長のもとに身を寄せたのは、信長という大きな指導者を失い、世の中が動揺していた時のことでした。
    この源太左衛門さんに例を見るように、信長の抱えていた敏腕の石工集団や大工集団が、前田家の傘下に入り、高度な技術を加賀藩に伝えたと考えられています。
     源太左衛門さんの長男は、源介といいました。源介は、利家・利長親子に仕えて府中から金沢へと引越し、100俵を給せられて金沢城の石垣普請の御用を勤めました。
     また、源太左衛門さんには、ほかに奥志摩・奥泉という息子がありまして、次男奥志摩のほうは、源太左衛門さんとともに大坂に上り、大坂城や淀城の築城普請に携わりました。ところが、次男坊の奥志摩は、その後「内裏の楽人」なんていう東儀秀樹さんみたいな職に転職し、ついには行方がわからなくなったというから人生いろいろです。それにしても石工から音楽家への転身とは驚きですね。

    能登七尾城の石垣 最近は、前田家によって築かれたとの見方が有力


    会津若松城 天守台石垣

    三男坊の奥泉のほうは、兄源介とともに利長に奉公し、後に利長の弟で能登領主であった前田利政に奉公したそうです。奥泉は、七尾城の石垣普請にも関与した可能性がありそうですね。
    この奥泉は、腕がよかったとみえ蒲生氏郷の所望によって奥州会津に行き、会津若松城の石垣普請を勤めました。七尾領主であった利政の妻せきは蒲生氏郷の娘です。蒲生氏郷は利政の舅にあたりますから、蒲生氏郷の所望となれば、前田家としても聞かないわけにいかないでしょう。
    この三男坊奥泉は、よほど会津が気に入ったのか、そのまま会津に留まって加賀には帰らなかったそうです。石の上で踊る会津の遊女と恋仲にでもなったのか。
  • 清龍寺京極家墓所(国指定史跡:滋賀・米原)

    清瀧寺京極家墓所は滋賀県米原市清滝にあり、寺地は京極家の祖・氏信の柏原館があった場所で、1286年(弘安9)に氏信が建立した京極家の菩提寺である。歴史的には、永禄11年(1568年)織田信長が第15代将軍足利義昭を奉じて近江を侵攻した際には京極高吉が当寺に隠棲し、高吉の子・高次が豊臣秀吉に属し大津城城主となったときは、当寺に種々の保護を加え、慶長4年(1599)に徳源院山林の安堵を石田正継に託している。

    墓域には一族の墓が集められ、上段には歴代当主の宝篋印塔が18基、下段にはそれ以降の当主や分家などの宝篋印塔11基と、宝篋印塔を安置した淀の妹・江の姉・初を娶った高次の石廟や当寺を再建した高豊ほか3人の木廟などが並ぶ。境内には本堂や位牌殿、三重塔などがあり、朱塗りの三重塔は1672年(寛文12)に讃岐丸亀藩主の京極高豊が建立した。すなわち、寛文12年、京極高豊は清滝の地が祖先墳墓の地であることから、他の領地との交換を上申し許可され、清滝村と大野木村の一部を領し、以後寺観の整備に努めた。父高和(徳源院殿徳英道達)を清瀧寺に祀り、処方に散在していた祖先の墓碑をこの地に集め、修理し、不足を補うなどして配置、同時に参道両側の十二坊も復興し、境内には三重の塔を建立し、庭園の復興も行い、現在の京極家墓所の形に作り直した。以来この寺は徳源院と呼ばれるようになる。1932年(昭和7)に国の史跡に指定され、2002年(平成14)に追加指定を受けた。

    なお、京極家の菩提寺として、徳源院清瀧寺の近隣には近江長岡の東福寺(京極満信の菩提寺)のほか、西念寺(京極宗綱の菩提寺)、能仁寺(京極高詮の菩提寺),勝願寺(京極高光の菩提寺)等、歴代の菩提寺伝承地があり、清滝一帯が京極家当主の墓地であったことが窺える
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