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昆支王(こんきおう、? - 477年7月)は、百済の王族。『三国史記』によれば、第21代蓋鹵王の子で22代文周…
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書紀の雄略5年(461年)に、百済の加須利君が弟の軍君(こにきし)を天皇に仕えるように遣わされる時、軍君の妻が筑紫の加羅島で出産した。その子が嶋君で武寧王であると記載している。また、武烈4年(502年)に武寧王が即位、継体17年(523年)に武寧王が薨じ、翌年(524年)に聖明王が即位とある。書紀の絶対年は、武寧王墓誌と三国史記にほぼ一致しており正確である。
この他にも、書紀の絶対年と三国史記が一致する記事がある。雄略2年(458年)蓋鹵王の即位(己巳[キシ]と記載、癸巳[キシ]の間違い)、雄略20年(476年)の高麗による百済の滅亡、雄略21年の汶洲王の興国、雄略23年の東城王即位である
蘇伐都利―蘇那曷叱智―蘇弥居―金閼智
の子孫金氏が朴姓の王位を継ぐ。
また、日本書紀・崇神天皇六十五年条に
「任那国は、蘇那曷叱知を遣して朝貢らしむ。任那は鶏林(しらぎ)の西南に在り」。
垂仁天皇二年条に
「任那人蘇那曷叱智・請ひて、国に帰らんと欲ふと。蓋し先皇の世に来朝して未だ還らざる歟。故に敦く蘇那曷叱智を賞め、仍りて赤絹一百疋を賚して任那王に賜ふ。然るに新羅人・之を道に遮りて奪ふ焉。其れ二国の怨み始めて是の時に起る也」
と見ゆ。当時の朝鮮語では、蘇は金、那は国、曷は邑、叱智は地域の首長の意味で、金国君長とか、金(くろがね)の産出する国の邑長と解される。那曷(なか)は奈良と同じで、新羅や任那では国・村を称した。中、長は那曷の佳字にて中村は渡来人集落を称す。二字の制度により中井、長井、中江、長江、中尾、長尾、中野、長野等を称す。
魏志の秦韓条の臣智などの官職とも関係してきそうですね。やはりこのあたりが蘇我姓の由来と関係してきそうです。
中臣も上記の鹿島周辺にいた仲臣・那可臣との関係が指摘されていますが、元をたどると、秦・弁韓との関わりを疑うべきかもしれません。
隋書の中の阿蘇山
「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。」
「身長は九尺、則ち殷の天乙、顏は龍のごとくしてまさに漢の高祖、眉の八彩は則ち有唐の高(堯)、眼の重瞳は則ち有虞の舜、其の於月望日即位なり。始現し故に諱を首露(スロ)とす。或は首陵と云ふ。【首陵は是れ崩りて後に諡するなり】國を大駕洛と稱し、又伽耶國と稱す。即ち六伽耶の一なり。餘五人おのおの歸して五伽耶の主と爲る。」三國遺事「駕洛國記」
広開土王碑 一部抜粋】
十年庚子。敎遣歩騎五萬。住救新羅。從男居城。至新羅城。倭満其中。
官兵方至。倭賊退□□□□□□□□來背息。追至任那加羅從抜城。
城即歸服。安羅人戍兵抜新羅城。□城倭満。倭潰城□。□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□。安羅人戍兵~ (□は不明文字)
中国正史宋書からの検証
425~443元嘉年間に倭国王珍が宋朝に入貢して、
「使持節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍倭国王」と自称したという有名な記述があります。ここに、任那という言葉があります。加羅の文字がありません。倭にとって加羅は任那に含まれると考えていたと思われます。
451元嘉28年に宋朝が倭国王済に
「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東将軍倭国王」を初めて加授しています。ここで興味深いのは中国側が百済を外し、加羅を追加したことです。中国としては、加羅国という統一名の国名があるからです。任那を加羅とそれ以外の任那地区と分離したものと思われます。安東将軍が安東大将軍になるのは、宋朝が滅ぶ1年前(478年)倭王武に対してでした。
三国遺事巻二、駕洛国記】(滅ぼされた側の悲惨な記録)
「仇衡(衝)王、金氏。正光2年に即位して、治世42年目の保定(後周の武帝の年号)2年壬午(562)9月に、新羅第24代眞興王が軍をおこして攻めて来ると、王はみずから軍を指揮したけれども、相手は数が多く、こちらは少数で、対戦できなかった。そこで兄弟の脱知爾叱につ今こむはみやこに留めおき、王子、上孫、卒支公らを新羅に送って降伏した。」金思燁訳
【三国史記新羅本紀】(勝利者側の記録)
「(562真興23年)9月、伽耶が反乱を起こした。(新羅)王は異斯夫に命じてこれを討伐させ、斯多含したがんを副将とした。斯多含は五千騎を率いて先鋒隊となり、(伽耶城)の栴壇門せんだんもんにおしいり白旗を立てた。城中では恐れおののいて為すすべを知らなかった。斯多含が軍隊を率いてやってくると、(伽耶軍は)一度にすべて降伏してきた。その論功行賞では斯多含が第一位であった。王は(その功績を)賞して、良い耕地および捕虜二百人を与えようとした。斯多含は三度辞退したが、王が強いて与えたので、その捕虜を受け取り、解放して良民とし、その耕地は(一緒に戦った)戦友たちに分け与えた。(それで)国人は彼のこの行為を賞賛した。」井上秀雄訳注
【日本書紀562欽明23年】(当事者を装う第三者の記録)
「(562年)春1月、新羅は任那の官家を討ち滅ぼした。【-略-】
夏6月、詔して、『新羅は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、わが恩義に背き、官家をつぶした。わが人民を傷つけ、国郡を損なった。神功皇后は、聡明で天下を周行され、人民をいたわりよく養われた。新羅が困って頼ってきたのを哀れんで、新羅王の討たれそうになった首を守り、要害の地を授けられ、要害の地を授けられ、新羅を並外れて栄えるようひきたてられた。神功皇后は新羅に薄い待遇をされたろうか。わが国民も新羅に別に怨があるわけでない。しかるに新羅は長戟・強弩で任那を攻め、大きな牙・曲った爪で人民を虐げた。肝を割り足を切り、骨を曝し屍を焚き、それでも何とも思わなかった。任那は上下共々、完全に料理された。王土の下、王臣として人の粟を食べ、人の水を飲みながら、これをもれ聞いてどうして悼まないことがあろうか。~』」宇治谷孟訳
「雄略記」5年条の記事には、昆支は「軍君(コニキシ)」と書かれていますが、「周書」百済伝には、百済では人民は王のことを鞬吉支(コンキシ)と呼んでおり、鞬吉支は中国語の「王」にあたるとあります。
弟軍君、5人の子と倭へ、途中、嶋君(武寧王)誕生
雄略19(475)
狛の大軍、百済国王を殺す
高句麗、漢城落とす、蓋鹵王殺され都を熊津に、文周王即位
「三国史記」によると、昆支は477年7月に死んだとあります
しかし 475 年の百済滅亡の危機に際し、雄略天皇は早速昆支を帰国させたのであろう。百済本紀 477 年に、昆支は佐平という最高役職に就いた記事があり、その年に死亡したと書かれている。
廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王(天皇)、
479年,百済の文斤王がなくなり,雄略天皇(倭王武)は、
以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。
百済王族の昆支王の五人の子の中で,二番目の末多王が,幼くとも聡明なので,内裏へ呼んだ。
親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、
親しく頭を撫で,ねんごろに戒しめて,その国の王とし,武器を与え,
并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。
筑紫国の兵五百人を遣わして百済に送り届けた。これが東城王である。
その一方武は、新羅を攻略しました。百済再興のための牽制でしょうか。
<己未の年、倭国の兵来たり、侵す。初めて明活城を築き、入りて来るを避く。梁州の二城を囲むも、克たずして還る。>(三国遺事慈悲王二十二年、479年)
このように武はけっこう活躍していますが、しかし雄略紀(記)には記述もありませんね。この479年は、書紀によると雄略が亡くなった年なのです。
倭王武は少なくとも502年までは在位していた
倭王 武は、直ちに使いを出したようです。
<(高祖武帝の天監元年、502年)鎮東大将軍倭王武を進めて、征東将軍に進号せしむ。>(梁書武帝紀)
<高祖即位し、武を進めて征東将軍と号せしむ。>(梁書夷蛮伝)
武が478年春ころ即位したとすれば、足掛け二十五年の在位です。興の弟として即位したころを三十五前後だったとすれば、征東将軍になったころは六十歳ほどでしょうか。
このニ、三年前には、百済の末多王も征東将軍の号を受けています。
この502年は、日本書紀によれば、幼武(雄略)が479年に亡くなったあと四代(雄略から清寧(せいねい)・顕宗(けんぞう)・仁賢(にんけん)を経て)の稚鷦鷯(わかさざき。武烈(ぶれつ))の時代です。
また、『宋書』百済伝に、百済王余慶(蓋鹵王)が大明2年(458年)に宋に上表文を提出し、百済の将軍11名が宋から将軍号を認められているが、その中の征虜将軍の号を受けた左賢王余昆を、昆支王と同一人物とする説もある。
「雄略紀」20年(476)条には、「高麗 (こま )(高句麗)の王 (こきし )、大きに軍兵 (いくさ )を発 (おこ )して、伐ちて百済を尽 (ほろぼ )す」とあり、『日本書紀』は475年の高句麗による百済滅亡を1年繰り下げて記録しているが、この条によると、高句麗の将軍たちが「百済の残兵を駆逐しましょう」と高句麗王に進言した時、高句麗王は、「百済が日本の宮家 (みやけ )となってから久しいと聞いている。また、『其の王 (こきし )』は日本に行って天皇に仕えている。これは周囲の国々がみな知っていることである」といって止めたという。
天皇 (すめらみこと)、百済、高麗(高句麗)の為に破れぬと聞きて、久麻那 (こむな )利 (り )を以 (も )て汶洲王 (もんすわう )に賜ひて、其の国を救ひ興 (おこ )す。
とある。久麻那利(こむなり)は韓国忠清南道公州(コンジュ)の古称。汶洲王は『三国史記』百済本紀にみえる文周王。
なお、この条の分注には、「汶洲王は蓋鹵王 (かふろわう )の母 (はは )の弟 (はらから )なり」と書かれている。
「雄略紀」23年(479)4月条によると、天王 (すめらみこと )が昆支王 (こんきわう )の第2子の末多王 (またわう )を百済の国王にしている。末多王は、『三国史記』百済本紀に、末多王、名は牟大、東城王とある。
書紀の雄略5年(461年)に、百済の加須利君が弟の軍君(こにきし)を天皇に仕えるように遣わされる時、軍君の妻が筑紫の加羅島で出産した。その子が嶋君で武寧王であると記載している。また、武烈4年(502年)に武寧王が即位、継体17年(523年)に武寧王が薨じ、翌年(524年)に聖明王が即位とある。書紀の絶対年は、武寧王墓誌と三国史記にほぼ一致しており正確である。この他にも、書紀の絶対年と三国史記が一致する記事がある。雄略2年(458年)蓋鹵王の即位(己巳[キシ]と記載、癸巳[キシ]の間違い)、雄略20年(476年)の高麗による百済の滅亡、雄略21年の汶洲王の興国、雄略23年の東城王即位である。
第五5番歌の題詞に、「讃岐國(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に行幸された時に、軍王が山を見て作った歌」とあり、また左注には「日本書紀で調べてみると、舒明天皇が讃岐國に行幸した記録はない。また軍王についても未詳である。」と記されている
史学者の青木和夫は、日本書紀の雄略天皇五年四月の条に百済王加須利君(かすりのきし)の弟昆支君(こにきのきし)を「軍君」と記し、釈日本紀以来これをコニキシ・コムキシと訓んでいることに注目し、「軍王」と「軍君」とは類似する用字と見て、「軍王」にコニキシの訓を与え、舒明朝においてコニキシと呼ばれる人物は「余豊璋」(舒明3年[631年]に入朝し斉明7年[661年]に帰国した百済王子)を措いてはないと論じた。
国文学者の吉永登は、訓みは通説のイクサノオホキミとしながら、青木説を参照しつつ、斉明天皇が百済復興のため征途についた折、「余豊璋」が自らの国を救う大将軍であったことから「軍王」の名があったとする説をたてた。
吉永説を支持する国文学者(万葉学者)の伊藤博は、第5番歌の新しさに付いて次のように述べる。
「5番歌は、初期万葉にあって狂い咲きのような新しさを持つ。まず、句数29を数え、他の初期万葉長歌(十首)が最小11句、最大18句からなり、小型長歌の一定性を貫くのに対して段違いに大きい。そして、それに応じて叙述の方法もきわだって新しい。」と。
叙述の新しさについては、これまでの5番歌を「訓む」作業でも、枕詞や序詞また「大夫(ますらを)」の語を用いていることなどに現れていることを述べた。
伊藤博は、この新しさから、吉永がこの作を斉明7年(661年)の作としていることに賛同し、「余豊璋」が入朝してから30年を経ての作品であれば、日本語を操る能力は夙に培われていたことだろうとしている。そして斉明7年の作がなぜ舒明朝に配列されたかについては、この歌を最初に扱った編者には斉明7年の歌であることの知見がなく、「軍王」が舒明3年に渡来した「余豊璋」であるという僅かな手がかりしかなかったからであろうとし、また最初の編者には実像の誰であるかを知られていた「軍王」も時下る編者たちには「軍王についても未詳である」という次第になってしまったのだろうという見解を述べている。
「軍王」を「余豊璋」に擬する仮説は大変魅力的であるが、やはり仮説としておくのが良いと思う。ただ、5番歌・6番歌が舒明朝の作ではなく、ずっと下った斉明朝以降の作品であることはほぼ間違いないと考えられる。またこの長歌と反歌は、「軍王」が、軍を統率するトップとして天皇に従っての征途の途中、讃岐の国の安益郡(あやのこほり)に在って「山を見て作った歌」であることも作品から見て確かなことであろう。
漢の名前は、あるいは、瀬戸内海を挟んで吉備の対岸になる、塩田地帯を持つ讃岐国の綾郡(あやのこおり)(香川県綾歌郡)の首長との関係があったことも考えられます。讃岐は古くは中国地方中部の大豪族だった吉備氏の勢力範囲にあり、倭での吉備氏の本拠地は桜井市吉備のあたりにあったのです。
余談ですが、わが国最古の物語、「竹取物語」の竹取の翁の名は「讃岐の造(さぬきのみやつこ)」です。舞台は奈良県北葛城郡広陵町三吉(旧散吉(さぬき)郷)だとされていることも、これに関連しています。
そこで発掘された吉備池廃寺は、舒明十一年(639年)に造営が始められて皇極期に完成して、天武期に香具山の西に移転されて高市大寺なった、最初の官寺の百済大寺跡と推定する説があります。吉備媛王は、そして宝皇女も、その土地で生まれた可能性が考えられます。
それでは宝皇女の母の吉備姫王の名前は、単に誕生地の名前に拠ったのでしょうか。
これについては鏡王の長女が鏡姫王だっという推定も参考にすると、吉備姫王の父つまり桜井皇子が吉備国の大宰(おおみこともち)の職にあって、「吉備王」と呼ばれていた可能性が推測されます。桜井皇子の妃、つまり吉備姫王の母は『紀』が伏せたために不明ですが、大王家系ではなく、当然吉備氏系か蘇我氏系だったと考えられます。桜井皇子は馬子と守屋との戦い(丁未の乱。ていびのらん)で守屋側についたと考えられていますが、不詳です。