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倭人について、 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八) 周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず…
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青銅製刀子は全長26㎝、刀の部分の長さ16.6㎝、刀の最大幅3.2㎝、BC1300年から1000年と推測される。
また、有孔石斧は山形県羽黒町の縄文遺跡より発見。長さ12.4㎝、幅7㎝、厚さ1.2~1.6㎝、中国の新石器時代から殷・周代まで使われた。三足土器は中国古代の鬲(れき)に類似、青森県東津軽郡平舘村今津才の神の縄文晩期遺跡より出土。中国の鬲を真似て作られたと考えられ、亀ヶ
岡文化の所産である。同じような土器が富の沢遺跡からも出土している。けつ状耳飾は南は
ベトナム・東南アジア・フィリッピン・台湾、東は中国・朝鮮・満州・シベリアまで分布している。起源は長江下流域とされている。浙江省河姆渡遺跡から中国最古のけつが出土している。」などと述べている。
出典 『戦後50年・古代史発掘総まくり』(1996年アサヒグラフ別冊)、川崎利夫氏の『大陸と日本列島を結ぶ日本海』より
これらは隣国からの侵入を防ぐためだが、これとは別に、後世の『万里の長城』の原型となる異民族対策として築かれた長城がある。北方の匈奴に備えた「趙長城」、東胡に備えた「燕長城」、西方の氐(てい)や羌(きょう)に備えた「秦長城」である。
一説には、鉄器文化を発展させた中原諸国が、古代から中原周辺にいた異民族を辺境の地に追い払い、彼らが故地に復帰できないように長城を築いたのだという。
構築の理由は別として、この当時の長城は、騎馬で飛び越えられない程度の規模の土壁でしかなく、騎馬戦に長じた胡族に対応するだけのもので、現存する明時代の万里の長城とは位置も構造も規模ともに大きく異なる。
『通典』東夷上
周封殷之太師之國。太師教以禮義、田蠶、作八條之教、無門戶之閉、而人不為盜。其後四十餘代、至戰國時、朝鮮侯亦僭稱王。始全燕時嘗略屬焉、為置吏、築障塞。秦滅燕、屬遼東外徼。秦遼東郡、今安東府之東地。
周は殷の太師(箕子のこと)を、この国に封じる。太師は礼儀、農業を教え、八條の教えを作る。門戸を閉めなくても族人は盗みをしない。
その後、四十余代、戦国時代に至って朝鮮侯も王を僭称。燕は全盛期の初めに(朝鮮を)侵略して属国とし、統治官を置いて障壁(燕長城)を築いた。秦が燕を滅ぼして遼東の外徼(外境=異民族)を帰属させた。秦の遼東郡は、今の安東府の東の地である。
燕は周王朝の元勲である召公奭(せき)が紀元前11世紀に封じられ、紀元前222年に滅亡するまで約八百年続いた国家。戦国時代には「戦国七雄」の一国とされる大国だが、建国当初から戦国時代までの国情については中国の史籍にも記されていない。
燕は北方から中原の通路にあたる現在の河北省を領域としたことから、延々と異民族との攻防を繰り返していたため、中原諸国との通交がなく、国情が伝わらなかったと思われる。
その燕が「朝鮮を属国とした」とあることから、遠隔地の他国を属国にすることは常識的にありえない。従って、燕の近隣にいたものと考える。では、どの辺りにいたのだろう。
『史記』蘇秦列伝
燕は東に朝鮮、遼東、北に林胡と楼煩、西に雲中と九原、南に呼沱と易水がある。
燕の本拠は河北省北部、その東に朝鮮と遼東(遼河の東部)があるとすれば、記載順序からすれば、朝鮮は遼東より西側、すなわち遼西(遼河の西部)だとなる。
本来、遼西地方は胡族(古代トルコ系遊牧民族)の山戎(さんじゅう)が領域としているはずだが、紀元前475年に趙に敗戦して以来、衰弱しており、すでに遼西から追われ、東胡に亡命していたのかもしれない。ただし、林胡・楼煩・東胡は「三胡」と呼ばれるが、燕の北にいたのは東胡であり、林胡と楼煩は黄河を間にして、蒙古自治区側に林胡、山西省側に楼煩がいた。従って、燕の西の間違いだと推察する。
中国の正史は箕子朝鮮の詳細を伝えておらず、朝鮮は古代の辺境を意味する呼称ではないかとする説もあるが、上記の通典に「そこに長城を築いた」と記されていることから、当時の燕が遼東に設けた「遼東長城」の詳細が分かれば、朝鮮の領域も判明するはず。ただし、歴代王朝が長城の修築増築をしており、長城の東端の位置が時代によって異なることに留意が必要である。
『遼東長城』
『史記』匈奴列伝
燕有賢將秦開、為質於胡、胡甚信之。歸而襲破走東胡、東胡卻千餘里。與荊軻刺秦王秦舞陽者、開之孫也。燕亦筑長城、自造陽至襄平。置上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東郡以拒胡。
燕に賢將の秦開あり。胡(東胡)で人質となっていたが、胡は秦開を甚だ信用した。(秦開は燕に帰還するや、軍を率いて東胡を)撃破し、東胡を敗走させ、東胡から千余里の土地を奪う。荊軻(けいか)と秦王の暗殺に同行した秦舞陽とは秦開の孫である。
燕もまた造陽より襄平に至る長城を築き、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東に郡を置いて、胡族の侵入を拒む。
登場人物が秦開将軍であることから、紀元前三世紀の燕長城だと推察できる。
造陽は河北省張家口市懐来県、襄平(じょうへい)は遼寧省遼陽市の古地名。
『三国志魏書』馬韓伝
魏略曰:昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊為王、欲東略地、朝鮮侯亦自稱為王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之、乃止。使禮西説燕、燕止之、不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗為界、朝鮮遂弱。
魏略には、昔、箕子の後裔の朝鮮侯は、周に衰退が見えると、燕が自ら王と尊号し、東の地を侵略しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称し、周室の尊厳をかけて、兵を興して燕を迎撃しようとした。その大夫の禮がこれを諫言して止めさせた。禮を西に使者として派遣し燕を説得した。燕は進軍を止め、攻撃しなかった。
後に子孫が少し驕慢で暴虐だったので、燕は将軍の秦開を派遣して朝鮮の西方を攻め、二千余里の土地を奪い取り、満番汗(まんばんかん)を国境とした。朝鮮は遂弱した。
ここにも秦開将軍が登場するが、魏略は、燕が定めた国境を「満番汗」だと言っているが、満番汗という地名が見当たらない。『後漢書』郡国志に次のような記述がある。
「遼東郡。秦が配置した。今は幽州に属す。襄平、新昌、無慮は西部都尉が治める。望平、房、候城は中部都尉が治める。遼隊、遼陽、險涜、居就、室僞山、高顯、安市、武次は東部都尉が治める。平郭、西安平、文、番汗、沛水を出れば塞外、西南は海に入る」
清朝を建国した女真族は文殊(もんじゅ)観音を信奉することから、満州(もんじゅ)族と改名した。従って、文と満は同音であることから、文(一説には、汶亭)と番汗が満番汗のことだろう。だが、満番汗は平壌市に近い大同江北岸にある。これでは一挙に遼東地方を突き抜けたことになり、それまでの遼東地方は朝鮮の領地だったということになる。
及秦并天下、使蒙恬築長城、到遼東。時朝鮮王否立、畏秦襲之、略服屬秦、不肯朝會。否死、其子準立。二十餘年而陳、項起、天下亂、燕、齊、趙民愁苦、稍稍亡往準、準乃置之於西方。
秦は天下を併合すると、蒙恬(将軍の名前)に遼東に至る長城を築かせた。
朝鮮王に否が立ったとき、秦の襲来を畏れ、秦に略服しようとしたが、朝議で否決された。否が死に、その子の準が立った。二十余年後に陳と項が起ち、天下が乱れると、燕、斉、趙の民は困苦から、次々と準のもとに逃れて往った。準は彼らを西方に置いた。
秦は秦長城、趙長城、燕長城を大々的に増改修して連結させた。新華社通信の新華ネットに、これに関する『長城修築工程(2003年9月19日)』という資料があった。(http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/ziliao/2003-09/19/content_1089531.htm)
「紀元前214年、秦は数万の労働者を徴用して、十余年の歳月をかけて戦国時代の秦、趙、燕三國が修築した長城を連結させ、修補を加えて、東の起点を朝鮮大同江畔とした。
漢時代、匈奴の侵入に備えて、武帝は師団を動かして新しい万里長城を築いた。この漢長城は中国古代史上の最大規模の軍事工程とされ、その規模と工程は遙かに秦長城を超えている。東は遼東の鴨綠江畔、西はタクラマカン大沙漠で、総延長は二万里を超える」
漢の武帝によって構築された長城からが「万里の長城」になったようだが、この資料では東の起点を大同江畔の満番汗にしたのは「燕ではなく、秦だ」とされる。そして、漢代には鴨緑江まで国境が撤退している。
及漢以盧綰為燕王、朝鮮與燕界於浿 水。及綰反、入匈奴、燕人衛滿亡命、為胡服、東度浿 水、詣準降。説準求居西界、中國亡命為朝鮮藩屏。準信寵之、拜為博士、賜以圭、封之百里、令守西邊。滿誘亡黨、衆稍多、乃詐遣人告準、言漢兵十道至、求入宿衛、遂還攻準。準與滿戰、不敵也。
漢(前漢)代に盧綰が燕王となり、朝鮮と燕の境界は浿 水(ばいすい)とした。
盧綰が(前漢に)叛き、匈奴に亡命すると、燕人の衛滿は胡服を着て逃れ、東に浿 水を渡り、準に詣でて帰服した。満は西界に住み、中国からの流民を(結集して)朝鮮国の藩屏と為すことを求めた。準はこれを信じて寵愛し、博士と呼んで尊敬した、圭の百里を賜り、西辺の令守に封じた。滿が流民を誘導して結集した集団が段々と多くなるに及んで、満は使者を派遣して「漢兵がいずれの街道にも満ちあふれ、宿衛に入ることを求めています」と虚偽の報告をさせた。遂に準は帰還して攻めたが、準と滿が戦っても敵わなかった。
同じ馬韓伝なのに、ここでは浿 水(清川江)を朝鮮との境界だとしている。
上記に「準と滿が戦っても敵わなかった」とあるが、そこから「衛氏朝鮮」に変転する。
なお、朝鮮侯「否、準」ともに氏姓が記されておらず、彼らが箕子朝鮮の末裔なのかは不明。また、衛満に関しても「衛」は衛士の意味で、本姓ではないとされている。
遼西郡、秦置。屬幽州。縣十四。令支、有孤竹城。莽曰令氏亭(應劭曰:故伯夷國、今有孤竹城)。
遼西郡は秦王朝が置いた。幽州に属す。県数は十四。令支県に孤竹城がある。王莽が言う令氏亭、應劭が言うには「昔の伯夷(聖人とされる伯夷を指す)の国、今は孤竹城がある」
遼西郡の令支県に孤竹城があるとは、昔は孤竹国が令支国を属国として、その地に城邑を築いていた証拠になるが、令支国は令支県として存続したが孤竹国はどうなったのだろう。
『唐山市歴史』河北省唐山市人民政府
殷商時代には龍慮の西にあった狐竹国と山戎国が唐山市の東北部の県域で活動していた。周朝になると大規模な封建制が実施され、大小の諸候が出現した。春秋時代、唐山市一体には「狐竹、山戎、令支、无終」などの諸候の国家が出現した。
『遼史』地理志
平州は商時代の孤竹国、周時代は幽州に属し、春秋時代は山戎、肥子の二国で燕に属す。
平州は時代によって位置が移動するが、ここでは五代十国時代(907-979年)の遼国の領土であった平州(河北省の渤海沿岸)のこと。
前段の唐山市歴史に記載されたように、周王朝の凋落で様々な諸侯が誕生したが、完全な独立を維持するのは難しい時代だったのだろう、「戦国七雄」の一国に成長した燕国が近隣に在ったことから、帰属させられていたのだろう。だが、孤竹国の名がない。
魏略曰:昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊為王、欲東略地、朝鮮侯亦自稱為王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之、乃止。使禮西説燕、燕止之、不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗為界、朝鮮遂弱。
魏略には、昔、箕子の後裔の朝鮮侯は、周の衰退が見えると、燕が自ら王と尊号し、東の地を侵略しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称し、周室の尊厳をかけて、兵を興して燕を迎撃しようとした。その大夫の禮がこれを諫言し、止めさせた。禮を西に使者として派遣し燕を説得した。燕は進軍を止め、攻撃しなかった。
後に子孫が少し驕慢で暴虐になったことから、燕は将軍の秦開を派遣して朝鮮の西方を攻め、二千余里の土地を奪い取り、満番汗(まんばんかん)を国境とした。朝鮮は遂弱した。
満番汗(まんばんかん)は、朝鮮の領土だった。
周は商を牧野で撃破したといっても、東夷討伐に専念していた商の東部の軍勢は無傷で、現実に彼らは周の軍門に下らず互角に周軍と戦っていた。従って、残酷な発言ではあるが、当時の知将としては太公望の進言は当然である(現に衛は周の内紛に乗じて反乱を起す)。
太公望と周公旦は衛と宋の監視のため、姫鮮を両国に隣接する「管」の地に封じた。それほど当時の周王朝の中枢は知略に長けていた。そして、建国の元勲である召公奭(せき)が封じられたのは北方の燕(当時は匽)である。
おそらく当時の河北省は周の支配権の及ばぬ辺境で、燕の監視下で箕子を朝鮮(すなわち孤竹国、またはその周辺地)に封じた、あるいは箕子が先に亡命していたので、そこの諸侯に追認したのだろうが、商の王族であった箕子を封じるには最適な位置だと思える。
「朝鮮。晋の張華が言うには、朝鮮に泉水、洌水、汕水があり、三水が合流して洌水となる。定かではないが楽浪や朝鮮は、ここから名を取ったものだとされる」
遼寧省には北から「遼河、太子河、渾河」の三本の大河が流れており、洌水は太子河に比定されている。太子河流域に遼陽市(古地名は嚢平)が在り、遼陽市の沖積平野で前漢代の村落遺跡が発見されており、清朝のヌルハチ一族の陵墓も遼陽市の太子河の東方の陽魯山にある。太子河の上流は、現在でも鉄や石炭の産地である。
征伐自由の権利を得て山東半島に新天地を拓いた太公望の斉国が強勢になり、やがて太公望の末裔である斉の桓公に討たれて孤竹国が衰退すると箕子の末裔も一緒に渤海を北上し、遼東地方に侵入して定住したものと推察する。
そして『通典』のいうように、その地で「朝鮮」を国号としたのではないだろうか。
「大遼医州」が現在の遼寧省西部の医巫閭山の一帯とすれば、これも遼河下流部の西方にあり、高句麗の地がもと孤竹国だというのと符合する。医巫閭山は、遼寧省北鎮県の西北(朝陽から見れば東方)にある遼西でも珍しい高山(最高地の望海山が標高八六七M)であって、奇岩を天空高く聳えさせている山であり、戦国期の燕が山神を祀ったと『周礼』に見える。その山容は、中国の中原で洛陽近隣にある嵩山(中国の聖山五嶽のなかでも中央の中嶽とされ、奇異な峻峰をもつ)に似通うが、嵩山を殷や羌族などが尊崇した。
※
旧唐書の「裵矩伝」には、その奏言に、「高麗(高句麗)の地はもと孤竹国であったが、周が箕子を封じて朝鮮とし、漢代には三郡に分けた、……蠻貊の郷と なすべきや」と見える。この文意はやや微妙で、孤竹の領域が広大であったと想定されるし、箕子の封地が当初から孤竹の地であったかも疑問がある。ともあ れ、孤竹と高句麗との所縁は思わせる。
殷周革命のとき、周の武王が殷の紂王を討つのを諫めた伯夷・叔斉は、『史記』には孤竹の君の子であるとする。孤竹の君は東夷系統で子姓(殷と同族)の墨胎氏とされ(一に姜姓ともいう)、炎帝神農氏の後といわれる。
「伯夷」は羌人の岳神だとも白川静氏は指摘する。
孤竹の故址は、現在の河北省東部の盧竜・昌黎一帯(『姓氏詞典』等)とか唐山市一帯とかされ、この辺りから遼寧省西部の凌源・朝陽にかけての地域(『漢書』 地理志には孤竹城は遼西令支県に在と見える)ともいわれる。渤海湾に面した唐山の辺りでは、古くから鉄鉱石精錬、石炭採掘、陶磁器生産の中心地であった。 これが、明代より前は何時まで遡るか不明だが、興味深い点である。
「檀君朝鮮=箕子朝鮮」であり、前九世紀頃(あるいは、もう少し後の時代か)~前二世紀前葉の時期に遼西地方に在ったが、その王家(ないし支配階層氏族)からどこかの時点で分れたのが夫余・高句麗や南朝鮮の古王家の祖先だったのではなかろうか(こうした見方なら、夫余がさらに北方の地域から南下してきたとはいえない)。それら諸国の系統をひくものにおいて、「朝鮮・辰・晨・震」という同義とみられる国名を次々に名乗った事情も、そこにあったと推される。わが国の天皇家がこうした流れの一つであったのなら、韓地にあった「辰王」との関係もそこに認められよう。箕子朝鮮に先立つ孤竹の国には、それが東夷で同じ種族系統であったにしても、殷代の孤竹の時代に「朝鮮」の語句があったようには思われない。
同書では、別に巻第八小匡に、桓公 は「中のかた晋侯を救い狄王を擒とし胡貉を敗り、……北のかた山戎を伐ち、支を伐ち孤竹を斬り、而して九夷始めて聴き、海浜の諸侯、来り服せざるものな し」「余、乗車の会三たび、兵車の会六たび、諸侯を九合して天下を一匡し、北は孤竹・山戎・穢貉・泰夏に至り、……、寡人(桓公)の命に違うものなし」とも記され、朝鮮という名はあげられない。従って、軽重甲の記事では、孤竹と朝鮮とが同居しているが、朝鮮は時代の異なる(追記的な)表現だったのかもしれず、ほぼ同じ地域だったのではなかろうか。「発」については、貊と同じとみる説があり(三上次男氏)、これも妥当であろう。発は、『史記』五帝本紀の帝舜の功徳の記事に「山戎・発・息慎」と見える。
考古学的にも、旧熱河省のうち遼寧省西部の凌源のすぐ南東に位置する喀柧沁(カラチン)左翼自治県(喀左県)から興味深い出土物がある。この地は、孤竹の地域に含まれるが、殷代後期から西周前期にかけての青銅器がたびたび出土していて、そのなかには燕に服属する啌侯の一族のものもあった。武田幸男編『朝鮮史』では、「啌族は前一二世紀頃から姿を現し、山東の呂県付近(斉)に根拠地をもち、遼寧の大凌河流域(燕)を中心に殷周金属文化圏の東端に位置して燕、さらには殷・周に服していた。……箕子朝鮮の伝説にはこの啌族、つまり箕族の史的動向が反映され、のちに楽浪郡などの漢人らによって形が整えられたのであろう」と記される。
箕子族裔の侯国が遼西にあったことは間違いない。「呂県」は山東省の中央南部(山東半島の付け根辺りで、上記の寿光県の一五〇キロ南方)にあり、大凌河はカラチン・朝陽辺りを流れ渤海にそそぐ河である
こうした事情から見て、渤海国は古朝鮮及び高句麗の後継国家たる認識が強かったことが十分に窺われる。「大氏=韓氏」であれば、檀君の流れで高句麗の後裔を称する渤海王家は、箕子の後裔の称する姓氏に通じる大氏を姓氏として名乗ったことになる。そうすると、ここでも、「檀君朝鮮=箕子朝鮮」という意識が見られる。