物部守屋、蘇我馬子、用明天皇

December 2018 編集されました カテゴリ: 継体ー推古
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○百済.任那関連主要歴史事実 武寧王即位 五〇一年 聖明王即位 五二三年 聖明王敗死 五五四年 任那滅亡 五六…

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  • 隋の開皇20年(600)、たい国王の姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思北狐が国書を送っ
    た。開皇20年は推古天皇8年に当り、多利思北狐は聖徳太子といわれている。しかし、記紀
    (きき)(古事記・日本書紀)は記さず。ただ、推古8年には境部臣を大将軍、穂積臣を副将軍と
    して1万余の大軍を任那のために、朝鮮半島に送る。と書紀は記す。

    「隋書・たい国伝」は、その
    王多利思北孤は使者を遣わし朝貢してきた。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に
    致す。恙無きや。」「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと」。
  • 六世紀半ば近く、蘇我稲目が宣化天皇の即位に際し、初めて大臣に任命された。当時、大伴金村と物部麁鹿火あらかいが大和政権の執政官たる大連の地位にあったが、これとならぶ地位に稲目が新たに加わった。これが、蘇我氏躍進の始まりである。とくに蘇我馬子は敏達・用明・崇峻・推古と四朝に大臣として仕えた。

     蘇我氏が台頭した契機のひとつに、彼等が朝廷の財政を担当し、大きな功績をあげていた。『古語拾遺』雄略天皇段には、蘇我麻智宿禰まちすくねが三蔵みつのくら(斎蔵いみくら・内蔵うちつくら・大蔵)の検校(管理・監督)を任されたという伝承が記されている。斎蔵いみくらとは神宝や祭器を収めた倉、内蔵うちつくらとは朝鮮諸国からの貢納物を収めた倉、大蔵とは国内からの貢納物を納めた倉とされている。雄略朝に、蘇我氏がこれら三種類の倉の管理を任されたというのである。
     蘇我氏は配下の渡来人を駆使して全国の屯倉を拡大するのに大きな働きがあり、これによって大和政権の勢力拡大に多大なる貢献を果たした。蘇我氏の配下にいた渡来人のなかでも代表的なのが、倭漢氏やまとのあやうじ、鞍作氏くらつくりし、それに王仁わに(漢高祖の末裔、四世紀末、百済から渡来し漢字と儒教を伝えた)や王辰爾おうじんに(六世紀中ごろの百済からの今来いまきの渡来人、船氏 の祖)の後裔を称する中・南河内諸豪族(西文氏かわちのふみうじ、葛井氏ふじいし、船氏ふなし、津氏つし)であった。倭漢氏やまとのあやうじ氏は軍事と土木・建築、鞍作氏くらつくりしは仏教と仏像製作、王仁わに後裔氏族は実務官僚に能力を発揮した。彼らの多くは文字(漢字)を使いこなすことによって、同時期の倭人の豪族たちにはとうてい望みえない、高度な行政実務能力を発揮することができた。
    また彼らは仏教受容に積極的であったし、仏教以外の大陸諸文明の導入にも主導的な役割を果たした。蘇我氏はこれといった軍事的な基盤が存在しない。蘇我氏は、官僚的な性格が強かった。しかも彼らは自分自身が官僚的であるに留まらず、大和政権に参画する中央豪族すべてを国家のために働く官僚に再編していこうとしていた。それが冠位十二階である。この制度の趣旨が、官僚制度を推進していくために出身氏族や姓にこだわらず、個人の功績や能力によって人材を登用しようとしたものである
  • 『紀氏家牒』(きしかちょう)
    紀氏家牒曰、馬子宿祢男、蝦夷宿祢家、葛城県豊浦里。故名曰二豊浦大臣一。亦家多貯二兵器一、俗云二武蔵大臣一。母物部守屋大連亦曰二弓削大連一。之妹、名云二太媛一也。守屋大連家亡之後、太媛為二石上神宮斎神之頭一。於レ是、蝦夷大臣以二物部族神主家等一為レ僕、謂二物部首一。亦云二神主首一。

    蝦夷は、「また家に沢山の兵器を貯えており、俗に武蔵大臣と云った。母は物部守屋大連また曰く弓削大連。の妹で、名は太媛という也。守屋大連家滅亡の後、太媛は石上神宮斎神の頭(かしら)と為る。これにおいて、蝦夷大臣は、物部族神主家等を下僕となし、物部首と謂うようになった。また、神主首と云う。」
  • 多利思北孤は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である
    開皇20年(600年)と大業3年(607年)に隋に使者(遣隋使)を送ったという。

    名編集
    「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。

    妻子編集
    「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は雞彌、後宮に600-700人の女がおり、太子の名は利歌彌多弗利という。

    領地編集
    「夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢東高西下都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」とあり、里数を知らず日で距離を測る。国境は東西を旅するのに五ヶ月、南北を旅するのに三ヶ月かかり、それぞれ海に行き着く。「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺であるとする。

    「有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」とあり、阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、祷祭する。

    隋使の裴世清らの道程は「經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」とあり、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に秦王國他10余国をへて海岸についたという。竹斯國から東はすべて俀であるとい
  • 巨勢氏の史料初見は、突然登場して継体天皇元年に大臣となった巨勢(許勢)男人臣であり、その娘の紗手媛・香々有媛はいずれも安閑天皇妃となったことが『書紀』に見える。男人臣は、継体天皇を迎えるという大伴金村大連の提案に賛意を表して、即位後は大臣となり、娘二人が安閑妃となっている事情から、継体の登場とともにその支持勢力の巨勢氏が力を伸ばした。

    欽明朝には欠名の許勢臣が任那日本府の卿となり、男人の孫くらいの世代に比良夫臣が用明二年(587)に物部守屋大連を滅ぼす際に活動し、その同世代の許勢臣猿が崇峻朝に任那再興の将軍となり、『上宮法王帝説』に見える巨勢三杖大夫などを経て、大化時の徳陀古につながっていく。
  • 茶々、石山寺を建立する

     「江州浅井氏は物部姓なり、しかるに淀殿、守屋大連の子孫ということを忌み嫌い、藤原姓を称したまう。
    守屋公、仏像を難波の堀に捨て給うごとき、その子孫として後の世のおそろしとして、
    石山寺を建立し深く仏に帰したまうとなん」

    (柳営婦女伝系)

  • 天神系の弓削氏
    高魂尊の後裔天日鷲翔矢命(天毘和志可気流夜命)の子孫を称した、弓削部の総領的伴造。姓は連であったが、嫡流は天武朝において朝臣に改姓。雄略朝の弓削豊穂、6世紀頃の弓削倭古、持統朝の弓削元宝がこの系統の氏人とされる。

    平安時代初めの『先代旧事本紀』では物部尾輿が弓削連の祖である倭古連の女子、阿佐姫と加波流姫を妻としたとある。また尾輿と阿佐姫の子守屋は弓削大連と名乗った。
    『日本書紀』でも守屋は随所で物部弓削守屋と呼ばれており、その理由として母方の氏の名をとったとするのは自然である。
  • 葛城の長江のソツビコ 。(玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣らの祖。)


    物部尾輿は凝竈で物具生産に携わる鍛冶王である。 尾輿は弓削連の祖で、石上坐布留御魂神社の本来の奉仕者であった倭古連の女阿佐姫と、剣の神香春神に仕える巫女加波流姫を妻にしている。 ここに物部諸族が石上神宮の祭祀権を入手した。また弓削物部尾輿は、九州の物部の支持をも得た、新たな物部の統率者となった。 尾輿の子が守屋である。
  • 『王代記』の「年代記」部分の金光元年(570)に記された「物部遠許志」
    『日本書紀』には「物部尾輿」とあるが

     「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損

    荒山大連の子である

    十一世孫物部真椋連公 伊菖弗宿禰の子。 弟物部布都久留 (ふつくる)連公
    ■十二世孫物部木蓮子 (いたび)連公 布都久留大連公の子なり。
    ■十三世孫物部尾輿連公 荒山大連の子なり。
    孫物部麻佐良 (ま さら)連公 木蓮子大連の子なり。
    ■十四世孫物部大市御狩 (みかり)連公 尾興大連の子
    弟物部守屋大連公 亦曰く弓削大連
    孫物部危鹿火連公 麻佐良大連の子なり。 『先代旧事本紀』
  • 物部尾輿は534年(復元531年)、 540年に登場している。物部尾興 は530年-540年 ころの人である。
    物部危鹿火は 536年 に死去 している。物部尾輿は物部危鹿火に土地を献上 しているから物部尾輿と物部危鹿火は同世代であろう。
    物部尾輿の子に物部守屋がいる。物部守屋は (崇峻)即位前紀 (587年) に蘇我馬子等に殺される。
    と こ ろ が 『 旧 事 本 紀 』 で は 物 部 危 鹿 火 と 物 部 守 屋 が 同 世 代 に な っ て い る 。
  • 安閑天皇の時代

    (安閑)元年 (534年)二月、有司 (つかさ)、 天皇のために億計 (おけ)天皇の女春日山田皇女を納采 (おさめ)て皇后と為す。別に 三妃を立てる。許勢男人大臣の女紗手媛、紗手媛の弟香香有媛、物 部木蓮子大連の女宅媛を立てる。 『日本書紀』
    三妃に屯倉を賜る。
    (安閑)元年 (534年)十月、大伴大連金村、奏して称 (も う)す、 「小墾田屯倉と国毎の田部とを以て紗手媛に給 (たま)わむ。桜井屯 倉と国毎の田部とを以て香香有媛に給わむ。難波屯倉と郡毎の鑽丁
    とを以て宅媛に給わむ」という。 『日本書紀』
  • 雄略天皇

    雄略十八年 (474年)八月、物部菟代宿禰・物部目連を遣わし て、伊勢の朝日郎を伐たせる。 (中略)物部目連、自ら大刀を執り、 筑紫聞物部大斧手をして楯を執り軍中に叱 (たけ)びしめて倶 (と
    も)に進む。 (中略)物部目連、即ち朝日郎を獲 (と ら)えて斬る。 (中 略)
    天皇、侍臣に問いて曰く、「菟代宿禰は何故服命 しないのか」とい う。ここに讃岐田贔別という人あり、進みて奏して曰く、「菟代宿 禰は怯 (臆病)な り。二日一夜の間、朝日郎を捨執 (と らえ)る こ と能 (あたわ)ず。しかるに物部目連、筑紫聞物部大斧手を率いて 朝日郎を獲 (と ら)え斬る」という。天皇、之を聞いて怒る。すな わち菟代宿禰の所有する猪使部を奪い物部目連に賜う。

    こんな説がある

    物 部 目 大 連 は 十 三 世 物 部 尾 輿 連 の 祖 父 で あ り 、北 部 九 州 を 本 拠 地 に し て い る のであろう。筑紫聞物部大斧手の「聞」は『和名抄』の豊前国企救 (き く)郡 である。今の北九州市である。天皇は筑紫君である。すべて北部九州の人であ る。これは北部九州の話である。「伊勢の朝日郎」の「伊勢」は「伊都国」で あろう。「伊勢の朝 日郎」とは福岡県前原市の朝 日郎である。筑紫君の命令で 物部氏が伊都国の朝 日郎を伐 った事件である。
  • 物部尾輿大連が弓削連の祖・倭古の阿佐姫・加波流姫姉妹を妻として、
    前者に四名、後者に三名の子女を生ませたと記されますが、
    七人のうち確かなのは
    守屋・贄古・布都姫(御井夫人)の三名だけで、
    今木連・屋形連及び榎井連の先祖は後から付合された可能性がある。
  • 蘇我氏は、むしろ親新羅派か

     第一に、大宝蔵(だいほうぞう)殿(でん)の北倉(ほくそう)に戊子年銘釈迦三尊像(ぼしねんめいしゃかさんぞんぞう)という蘇我氏が造顕した仏像があることです。この仏像の光背には四行四十八文字からなる造像記が刻まれおり、「戊子年十二月十五日」「嗽(そ)加(が)大臣」と見えることによって、「戊子(つちのえね)」の年の推古三十六年(六二八)に、蘇我大臣(蘇我大臣蝦夷か?)が造ったことが、はっきりしています。仏教美術の様式学から見れば、この仏像は、新羅を経由して伝わっていた北朝様式の仏像なのです。新羅の仏教美術は北朝様式、百済の仏教美術は南朝様式という明らかな違いがありますので、蘇我氏の造顕した仏像が北朝様式であることは、蘇我氏と新羅との親しい関係を示唆しています。

     第二に、崇峻元年に建立された蘇我氏の氏寺、法興寺には、推古十三年になって止利仏師によって造られた丈六仏が本尊として安置されますが、今日、「飛鳥大仏」と呼ばれているこの仏像も、北朝様式の仏像です。飛鳥大仏を作った止利派の作風は、北朝様式なのです。
  • 鳥居は予備調査で定説とは異なり朝鮮に石器の存在する事を確認した。さらに、平壌付近の大同江畔の古墳について、今西龍、関野貞らの高句麗説に対し、鳥居は、盗掘者の所持する遺物、満州での発掘経験、『漢書』、『魏志』等の資料を考慮し、楽浪郡の漠族の墳墓であるとした。

    鳥居によれば、高句麗説は中国政府に対する政治上のポリシーからも好都合であった。東京での発表に対し、出席者の多数より反駁され、朝鮮研究の権威に対し無礼であると詰責された。『史学雑誌』にも掲載されなかった、と鳥居は述べている。[ただし、実際には鳥居は朝鮮調査を始める前の満州調査で、関野説への反論を『史学雑誌』(1910b『全集』8:603-604)で明確に述べている。]また、その後毎年行われた古墳発掘の仲間に入れず、逆に「鳥居は、樂浪古墳の発掘に関係せず、従って埋葬すら知らない」と嘲笑された(1953170-171)。潔癖な鳥居は、採集品はすべて総督府博物館に納めた。鳥居龍次郎氏を訪問した韓国の学者の話によると、ソウルの博物館に当時の写真乾板が二千点あまり保管されているという。[ちなみに姜仁求『韓国前方後円墳舞妓山長鼓山 測量調査報告書』(精神文化研究所)p.28 によると20,000枚となっている。のベ3年に近いと考えられる鳥居の滞在期間や費用が総督府から出た点からすると、あながち有り得ない数字ではないが、今回の写真の総数が2,500枚余であることを考えると、前者の数字の方が現実性があろう。]また、どういう訳か第1回の報告書が学務課で紛失したので、第5回のみ報告書を提出した。朝鮮の石器時代についての見通しを論文に発表しようと思ったが、最終回の調査以後は、「同府の嘱託はとかれ、黒板博士及び東西大学各位の仕事となり、私にはこれに関係させず...その他の人もこれに入れないで、官学学者唯一となったから、私は遂に総結論をもすることができず、そのままになった。」(1953:174)と記している。このように、孤高を貫いた鳥居の対人関係が、調査の進行と報告の作成にまで直接影響を及ぼした点で、他の地域の調査と比べ特徴的である。
  • 海南方山里長鼓山古墳は、韓半島の前方後円墳のうち最南端に位置する。全長は約77mで、石室にはベンガラが塗られているが、これは韓半島にはない葬制で、倭の影響と考えられる。築造時期は5世紀第4四半期~6世紀第1四半期で、同時期の日本列島内の古墳と比べても規模が大きい。長鼓山古墳と同時期の墳墓で倭との交流を窺わせる墓制・副葬品をもつものとしては、新月里古墳・龍頭里古墳・月松里造山古墳・北門龍日里古墳・外島箱式石棺墓1・2号墳があり、これらを踏査した。
     新月里古墳は、城馬山北麓に位置する方墳である。墳墓表面に葺石が確認される。墳墓に石を葺くのは韓半島にめずらしく、倭の影響を受けていると見られる。北門龍日里古墳は、横穴式石室をもつ可能性がある古墳で、表面採取された土器から長鼓山古墳と同じ時期に造られた古墳と見られる。月松里造山古墳は、6世紀初頭の築造と推測される。それまで古墳が造られていた日平里の古墳群から離れ、あまり古墳が造られていなかった地域に築造される。横穴式石室で、腰石・立柱石・しきみ石をもつ。6世紀代に何度か埋葬があったとみられ、副葬品として、百済土器・馬具・武器などとともに、ゴホウラの貝釧(青銅製の錨で破損部分を修復)・仿製鏡などが出土している。ゴホウラや鏡は倭からもたらされたもので、とくに、それまでの韓半島ではゴホウラなど貝製の装身具は威信財ではなかったことから、埋葬者が倭人であった可能性もある。外島の1・2号墳は、箱式石棺墓であるが、この墓制は栄山江流域に見られないものである。倭系かと思われる短甲・長鼓山古墳の年代よりも若干古い大刀、空堀りの溝などが確認されている。箱式石棺墓は北部九州にみられる墓制である。龍頭里古墳は三山川水系に分布し、海倉湾周辺の集落よりも内陸に築造された前方後円墳である。近隣の住民の話によれば、昔は古墳のなかに入ったことがあったということから、横穴式石室の可能性が高い
  • 咸平礼徳里古墳は1991年に光州博物館が調査を実施した古墳で、その石室の系譜については漢城期の百済説と九州説がある。遺物からは武寧王陵(公州宋山里)の下の位にランク付けされる。土器編年から6世紀第1四半期の築造と見られ、百済系の技術をもつ馬具のほか、倭系の環頭大刀、胸当を副葬品とする。葺石・版築・周溝が検出されている。また木棺には移動を可能にする金具があり、これは葬送儀礼に関わるものと考えられる。1号墳の周溝に隣接して営まれた2号墳は、円墳で陵山里古墳群と同じく泗沘式の石室であり、墳丘が大きい。いずれも見晴らしの良好な台地に立地している。旧交通路である仏甲川を通じて、西海(黄海)に出ることが可能で、栄山江流域の複雑な政治関係があるが、在地の首長層ではないとみられる。

     古墳の近くには、3世紀以来築造された万家村古墳群がある。この古墳群は長方形ないし方台形の形状で周溝をもつのが特徴である。同じく周溝をもつ韓国の前方後円墳が、日本の前方後円墳に淵源をもつのではなく、韓半島独自の墓制として発展したとする学説の論拠になっている。
  • 久米神社
     野北村久米にあり。祭神久米皇子,志賀海積三柱神,即ち中つ小童,上つ小童,底つ小童これなり。
    野北村南方に川を隔てゝ山あり其地を総て久米と称す。其地に古墳あり俗に久米様と称ふ。山下に御社ありて志賀三神相殿に久米皇子を齋き奉る。社家の伝にいふ此地は皇子薨去の地なりと。
     祭日は旧七月六日,十一月二十日なり。宮崎元胤著久米山稜考あり。
     筑前國志摩郡野北村の南の方に川を隔てて山あり久米の社と称す。祭る所は志賀三神,相殿に久米皇子を斎き奉る。社家の伝に云ふ,此の地は皇子逝去の地也と。毎歳霜月廿日に神祭し奉るに里民等饗宴して是に仕ふること尤も嚴なり。此の御社の近所に一株三幹の古杉あり,俗に久米皇子の御母様の御墓なりしと云ふ。其地広き畠にして古代より是を崇めり。また御社の右方に佛殿あり是を伽羅牟と云ふ(地蔵菩薩を安置せりとぞ,是古の久米寺の旧跡か)。當社の本地なりと云伝へたり。此の所は甚閑静の地にして古昔繁昌の時ぞ偲ばれ侍る。御社の前石階下に清泉あり,是を久米の一ツ井云とふ,尤も清潔なり。また山下西方に谷を隔てて小墳あり此所を地籠と云ふ。これより天保の頃に古鏡刀剣の類をも掘出せし由を伝う。また戌亥(北西)の方に中局と云ふ所にも石櫃の埋ありて顯にも窺れ侍る由なり。己元胤の畏も考へ侍に卅四代推古天皇の御紀に十年壬戍來目の皇子云云とあり。船舶を集めとあれば,此時海上安全の為に志賀三神を斎ひ賜ひしにも有べし。偖この郡の久米郷の名は和妙抄,また式及元亮二年の民部省圖帳等に見れて今の岐志村芥屋村西貝塚等の諸村を云へり(後年此説を改めて芥屋は鶏永郷,貝塚は鶏永塚にして久米郷に含ますと改正せり。)扨神部を帥ひ賜ひしは專らとは天津神國津神また海原の諸神等を祭崇め賜ふ為なるらめ。
     因に云ふ。志摩郡船越の津の戌亥の方に三韓に向ふ淨地の濱地あり(其地広大なり),其所を齋と云ふ。(神代と云ふも其近にあり)。古昔神齋の跡と云ふ。毎歳八月朔日には此村の少年等産土神の社内に集りて陳道と称して東西に立分れ,古門を守り式を為す事于今絶ず。此は古老の伝に昔皇后の諸神を祭り賜ひし旧跡と云ふも,竊に考れは神后は本よりにて此皇子も神部をして祭り賜ひしならむか。
     扨て此皇子は用明天皇の御子におはして坐て上宮の廐豊聽耳命の御弟に坐せり。御母は庶妹間人穴太部王(ハシヒトハナホヘミヤ)に坐り。此の皇子重き御身ながら此筑紫の島のはてなる荒波寄る鄙までも玉體を厭ひ賜はず,新羅降伏の為に出御,遠き海原を頓て渡り賜むとして其の事果し賜はなとする程に御病に臥て此里にしも春の霞と惜此世を立去ましぬるは,昔を偲び奉上ると記れたり。時に父天皇是を聞し召して大いに驚たまひ,皇太子及び蘇我大臣を招して曰く,新羅を征賜ふ大将軍來目の皇子其大事に臨まし未遂して薨ぬ。大に悲み賜ふと有るは此の皇子の御上のこと御悼く思召になも。依りて其御屍を周芳國なる娑婆に殯し賜ふ。後にまた河内なる埴生山の岡に葬ふ由を記され侍る。然れば志摩郡の久米の里なる陵墓は御屍の納り賜ぶには坐ねど,當昔暫し殯し奉りし旧跡なれば,玉體に餝賜しお手習の物等をも納め奉りて後葉の印とし賜しにも有べし。然れば假初の御奥に坐て如斯形ばかり此の地に遺し有ぞ彌よ尊く覚ゆ。
  • May 2018 編集されました
    方墳に石棺が蘇我氏の墓制だったようです。
    石舞台の近くの都塚古墳(方墳)の家形石棺は、
    同じ蘇我氏の墓と思われます。

    竹内宿禰の方墳:神原神社

    1972年の斐伊川水系の河川改修工事で 河川敷にあった方墳が発掘調査された。その石室を移設保存したのが境内にあり、屋根が掛けられている。

    この古墳を作ったのは 武内宿禰の腹違いの弟 ウマシウチの宿禰である。彼は山代の国加茂付近にいたが、武内宿禰が出雲王家(向家)に助けられて 意宇の森に住んだのを知り、加茂町から沢山の人を引き連れて移住して来た。
    そのためこの付近も加茂町と名が付いた。彼は出雲王家の姫と結婚し臣の称号をもらい 額田部の臣と名乗りその子孫たちも この地に住み続けた。

    武内宿禰の祖先の高倉下(初代ヤマト大王天の村雲の腹違いの弟)は 出雲王家の大屋姫と徐福
    (記紀では素戔嗚と書かれた)の長男五十猛(後の名を香語山)との間に生まれたのです。だから武内宿禰は出雲王家の血を引いているのです。
    そして彼は向家の保護の下で松江市の意宇の森で生涯を終え御霊は 松江市竹矢町の武内神社に祀られています。

    ーーーー

    叡福寺の聖徳太子の墓(用明天皇の皇子)、用明天皇陵(蘇我堅塩媛の所生)、敏達天皇陵とその皇后の推古天皇陵(堅塩媛の生)、竹内街道沿いには孝徳天皇陵がある。そして、ここには、蘇我馬子と蘇我倉山田石川麻呂(馬子の弟)の墓もあるそうです。
    天皇陵の近くに馬子の墓がある。
    馬子が近津飛鳥の王家の谷に眠っている。
    それも、上宮王家の聖徳太子の墓の前に「伝・馬子の墓」は在る。
  • May 2018 編集されました
    葛城氏の衰退と滅亡後、皇極天皇の即位と同時に蘇我蝦夷は葛城氏の本拠であった葛城高宮に祖廟を造立し、武内宿禰の霊を祀った。
    平林章仁によると
    これは、蘇我氏が武内宿禰の直系の後裔氏族の中核に位置することの宣言であった。と述べている。

  • May 2018 編集されました
    神原神社古墳に納められた副葬品
     神原神社古墳から出土した副葬品は、鏡だけではありません。棺の中には被葬者に副えて多くの鉄製品が納められていたのです。主なものとして、大刀、鉄剣、鉄鏃、などの武器や、鏨、錐、鎌、鋤先といった農工具類があげられます。このうち、とても興味深い副葬品に鉄鏃があります。出土したほとんどの鉄鏃は、鑿頭式(さくとうしき)とよばれる先端が鑿のように水平になった鉄鏃でした。調査の結果、この鉄鏃は、地元ではなく畿内で製作され、神原に持ち込まれたらしいことがわかったのです。
     このようにみてくると、埋葬法や副葬品からは、畿内の香りが漂っているともいえそうです。「三角縁神獣鏡」とともに眠っていた神原神社古墳の被葬者は果たして、在地の豪族であったか、それともヤマト王権から派遣された人物であったかなど、謎は尽きません。

    島根県雲南市加茂町の、神原神社の境内から発掘された三角縁神獣鏡である。三角縁神獣鏡は日本国内で470面見つかっているが、景初3年の銘があるものは、これ1枚のみである。翌年の正治元年の銘を持つものは、山口、兵庫、群馬から3面見つかっている。いずれも中国の魏の年号で、西暦239年、240年ということになる。後漢が滅んで晋によって統一されるまでの魏、呉、蜀のいわゆる3国鼎立時代である。

    魏志倭人伝によると、景初2年(238)に倭の女王卑弥呼が帯方郡の太守を仲介にして、朝貢の使者を魏の明帝に送った。明帝はよろこび親魏倭王に叙し、金印紫綬とともに銅鏡100枚を贈ったという。

    ここで、この景初2年という年号が問題となる。日本書紀にはこの卑弥呼の遣使を景初3年(239)とする。中国の史書梁書も景初3年とする。なぜか。日本書紀や梁書の著者は、魏志の間違いに気づいていたのだ。当時、魏は東方の燕王公孫淵と対立していて、東方との交流を断たれていた。魏の将軍司馬懿が公孫淵を殺すのが景初2年8月23日である。従って、倭人伝が、卑弥呼の使者が、景初2年6月に帯方郡の太守に会って、魏の天子へ朝貢したいと伝えたというのは、矛盾しているわけだ。
  • 出雲で忌み祭が行われる神社は七社(出雲大社、佐太神社、神魂神社、朝酌下社、朝山神社、神原神社、万九千神社)この七社のうち出雲大社以外はすべて神奈備山並びに神戸里に近いところに位置している。
  • 葛城の方墳

    鴨都波遺跡は弥生時代における南葛城最大の拠点集落で、弥生時代前期から古墳時代後期にかけて長期間営まれ、南葛城地域の古墳時代前史を知る上で貴重な遺跡。

    神社の南に位置する県立御所高校の敷地内の調査が多く、数年前には高校の敷地から、鋤とか鍬など多くの木製品が大きな井戸の中から出土したと云う。

    特に、2000年の済生会御所病院の増設中に発見された古墳は注目に値する。

    鴨都波1号墳と名付けられた方墳は、南北20m・東西16mほどを測り、墳丘の周り幅3~5mの周濠が巡らされ、墳丘の中には高野槙で作られた木棺が納められていた。

    この埋葬設備は盗掘されておらず手つかずの状態にあり、三角縁神獣鏡4面をはじめとして、数々の副葬品が出土したと云う。

    鴨都波1号墳の築造時期は、古墳前期の4世紀中頃と推定されているが、その後5世紀前半になると、南の室の地に200mを越す巨大な宮山古墳が突然出現している。そのため、両古墳の被葬者の関係に興味が持たれている。

    本古墳は、一辺20mほどの方墳にもかかわらず、豊富な副葬品を有することが注目される。

    この程度の規模の前期古墳で、棺の内外合わせて4面もの三角縁神獣鏡を副葬する例はほかには見当たらない
  • September 2018 編集されました
    「都加使主(つかのおみ)」は 大伴室屋直属の部下として活躍するのであるが、その後阿知王の子孫が東漢氏と呼ばれるようになってからは、阿知王の子孫は蘇我氏直属の部下として活躍する。 飛鳥が政治の中心地となるのは蘇我氏の勃興による。蘇我氏が台頭したのは、雄略天皇の頃、蘇我満知(そがの まち)が大蔵の管理をすることになってからである。蘇我氏は東漢氏を中心とする帰化人を管理することによって、経済官僚として登場してきたのである。

    この時代は、倭の五王の時代であり、朝鮮半島や中国との軍事的、経済的関係が深 い時代であった。こういう時代に、国際状勢に通じ、文書を書く能力を持っていた帰化人の力がますます必要になり、東漢氏を管理する蘇我氏の力がますます強くなっていったのである。明日香における蘇我氏の遺跡は石舞台をはじめ数多い。

    物部氏の莫大な財産を手に入れた蘇我氏は、その後50年ほど経った蘇我蝦夷の時代、甘 樫丘に家を並べて建て、蝦夷の家を上の宮門(みかど)と呼び、蘇我入鹿の家谷(はざ ま)の宮門と呼んだ。また息子や娘を王子(みこ)と呼ばせた。 蘇我蝦夷は天皇になっ たつもりであったらしい。それらは言うまでもなく物部守屋殺戮に端を発している。
  • 物部守屋殺戮の主役は蘇我馬子ではなく、
    実は、その妻・物部守屋の妹であったらしい。

    谷川健一は、彼女をマクベス夫人になぞらえているが、蘇我馬子の妻は悪知恵に長けた人であったらしい。穴穂部皇子を殺し、守屋を殺し、崇峻天皇を殺し、東漢直駒を殺すことはすべて蘇我氏の勢力拡大に働いたが、それら事件を背後であやつったのは馬子の妻に他ならなかったのではないかと、谷川健一は言っているが、馬子の妻はマクベス夫人顔負け
    の人であったかもしれない。

    それでは、崇峻天皇殺害の経緯を谷川健一の著「四天王寺の鷹」(2006年5月、河出 書房)にしたがって説明しておこう。

    崇峻天皇は、用明天皇の弟で、用明天皇の後の天皇。用明天皇の子供が聖徳太子であるから、聖徳太子の叔父に当たる。蘇我馬子が直接手を下したのではないが、馬子の命により崇峻天皇が殺害されたのだから、蘇我氏はまさに逆賊といって良い。その背後に馬子の妻がいた。

    蘇我馬子の娘に河上娘(かわかみのいらつめ)という人がいた。このは、崇峻天皇の嬪 (ひん)、すなわち天皇の後宮の中でいちばん身分の低い者ではあったが、よほど男好き のする人であったらしく、谷川健一によれば東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)とも 通じていたという。

    また、大伴連糠手の娘で小手子(こて こ)という人がいた。崇峻天皇の第一夫人だったが、崇峻天皇の心は河上娘に大きく傾いていったために、小手子(こてこ)は嫉妬して、天皇に馬子抹殺 の気持ちがある旨を馬子に密告したらしい。そこで、谷川健一の説であるが、馬子の妻の 崇峻天皇暗殺の唆しがあったという。
    『日本書紀』には、小手子(こてこ)が天皇の寵愛が衰えたことを恨み、献上された猪 (いのしし)を見て天皇が漏らした「いつの時かこの猪の頸(くび)をきるがごとく朕 (ちん)が嫌(にく)しと思うところの人をきるであろう」という独り言を、蘇我馬子に 密告したことが、崇峻天皇暗殺事件のきっかけとなったという記述がある。崇峻天皇暗殺 を実行したのは東漢直駒であるが、 小手子(こてこ) の 密告を聞いてから自分自身に何か思い当たる節があるのか蘇我馬子が多少身の危険を感じ ていたこともあり、妻の唆(そそのか)しによって東漢直駒に天皇暗殺を命令したのである。いちばん悪いのは馬子の妻であるかもしれない。
  • 中大兄皇子と中臣鎌足によって蘇我入鹿が暗殺された直後、中大兄皇子の革命側は、蘇我 氏の氏寺・法興寺(のちの飛鳥寺)に入って、それを城とする。飛鳥川をへだてた甘樫丘に陣する蘇我氏と対決する形となったが、結果的には、決戦らしい決戦は起こらなかっ た。東漢氏が寝返りをして、蘇我氏に味方しなかったために、戦い利あらずとみた蘇我蝦 夷は、 上の宮門(みかど)で自刃したという。

    蘇我蝦夷の時代になるが、上の宮門(みかど)は蝦夷の家、谷(はざま)の宮門は蝦夷の子・入鹿の家であり、蘇我蝦夷は天皇になったつもりであったらしいと述べたが、あっけない結末である。

    その蘇我氏の邸宅跡とみられる遺構が、明日香村川原の甘樫丘の東麓でみつかった。7世 紀前半の石垣が見つかり、大規模な整地が行われて多大な労力が投入されたと推定されることから、当時最も権力を持っていた蘇我氏に関連した遺構の可能性が高いと報道された。
  • September 2018 編集されました
    「調月」、この地名を町外の人や調月に縁のない方で「つかつき」と読める方はまず居ない。
    日本語で調を、「つか」とは読めないからである。こんな地名を、いつ、誰が、どんな因縁で名付けたのであろうか。
    当地は、今から千四百六十余年前、欽明天皇の皇子、吉仲麻呂が所領し、丸栖を含めて吉仲庄と呼んでいた。その後、紀男麿宿禰調月が当地に来て耕作の道を教え村を拓いたことから、その人の名が地名になったとされてきた。

    しかし、幾つかの古文書を年代考証すると、同氏が当地に来たのは推古天皇(在位593-628年:女帝)の時代のこと。
    吉仲麻呂が健在の用明2(587)年、すでに調月の地名が決まっていたことが新たにわかった。
    紀男麿宿禰が調月と名乗ったのも、当地に来てからのことであろう。

    要約すると、当時、仏教排斥を主張した物部守屋と戦った崇仏派の蘇我馬子と厩戸皇子(後に聖徳太子)の軍勢が二度、三度と戦いを繰り返したが敗退、戦況はかばかしくなかった。

     用明2(587)年、当地に布陣していた太子軍の一人、藤原朝臣*)菅吉永(吉仲麻呂)は椋に向かって、「心あらば丸(麻呂)を助け給え」と祈った。すると椋が二つに割れ、それに御馬を乗り込んだとき弓を取り落とした。落とした弓は三日月と化し、即、二つのいなりの蝶となって水田に落ちた。その有様を見た物部守屋の目が眩み、慌てて引き返した。

    注*)「藤原朝臣」とあるが、「朝臣」の呼称は天武天皇十三(681)年に初めて下賜されたもので、この時代には藤原朝臣はまだなかった。これは後世の創作とみられる。

    二つに割れた椋に、吉仲麻呂は馬を乗り込んだ いなりの蝶 経蔵谷に塚を築いてお経を奉納  その場に居合わせた十二人の僧の一人、師薬正人が太子に向かい、「御運開ける兆しあり」と云い、僧らは八万堂で一心にお経を誦じた。その結果、物部守屋の調伏に成功した。万事思し召すままに調(整)ったことから、お経の霊験を崇め塚を築いて奉納し、当地を「塚築」(つかつき)と云う。

     しかし、文字には御調物(みつぎもの)の調を頭に、下には三日月の月を書くなり。よって、調月(ととのうつき)と書き、「つかつき」と云う事、この代よりのことなりとある。したがって、「つかつき」の呼び名に「調月」の文字をあてたものとみられる。

     経文を経筒や経箱に入れて地中に納める習わしは古くからあり、その塚を経塚と呼んだ。

     とき恰も、河内で木の上から弓を引いていた物部守屋は、迹見赤檮(とみのいちい)に討たれて木から落ち、秦河勝に首を切り落とされたとあり、両者の時期(用明2(587)年)が合致する。
    お経の霊験が功を奏したのか、はたまた偶然の一致かは知るよしもなく、真偽の程は読者の想像にまつしかない。

    その後、吉仲麻呂の従者でもあった紀男麿宿禰は、河内・紀伊において物部の残党を退治し、当地に来て村を拓き、紀男麿宿禰調月(ちょうげつ)と名乗ったものである。

     同氏は、もと聖徳太子の馬方を務めていたことから、吉仲麻呂とともに「塚築」の大事に関わり、調月の地名決定にも関与していたものと思われる。しかし、自身の名前は一般に読める調月(ちょうげつ)とし、調月(つかつき)とは名乗らなかった。

    紀男麿宿禰調月の五代目、紀朝臣麻呂は紀朝臣道成と称し、大寶年中(701~703年)に於いて紀伊国日高郡(現川辺町鐘巻)に道成寺を創立。十一代、紀朝臣興道は嵯峨天皇の御宇(在位809-823年)、紀伊伊都郡および河内国において領地を賜るとある。

    伊都郡中に恩地(もと坂上、のち生地)の姓があるが、これは紀氏の支流)という。
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