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阿蘇氏 ●違い鷹の羽 阿蘇氏は、肥後国一の宮の大宮司職を古代よりつとめてきた名家である。『阿蘇宮由来記』によ…
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また、次のような話も伝わっています。仁徳天皇の時代の話です。神社の北東に高橋山という山があり、この前を馬で通りかかると必ず馬がつまずき、みんな怪しい事だと思っていました。そんなある日、「我はこの山の主なり、我を敬えば万民安全にして、風雨違えず五穀豊穣なり」と言う神の言葉が聞こえたので、祠を立て、お祀りすることにしました。また、地獄田と言うところがありました。そこは水はわき出ず、火が燃えていることがあるという場所でした。時代は下って反正天皇(仁徳天皇の2代後の天皇)の時代、「我は地獄田の霊であり、高橋大明神と一体の神である。よろしく並べて祀るべし。」と言う神の言葉がありました。そこで火の神大明神として高橋大明神の隣に祀るようになり、両神社と呼ばれるようになったといのです。いずれにしても、様々な神話に彩られ、古くから地域の人々から大切に祀られていた神社です。
のとき、物部麁鹿火は同族の新家連を、阿倍臣は同族の伊賀臣を各々遣わしている。
讃岐の阿蘇氏
阿蘇君・阿蘇直を名乗る者はその後の肥後では史料に見られない。
ところが、平安中期になって遠く離れた讃岐に阿蘇氏一族が現れる。『政事要略』五九の承平五年(935)六月十三日の太政官符に弾正少疏大初位下阿蘇公広遠の調を免除するとし、広遠が三年前に出した解状では、讃岐国大内郡白鳥郷の戸主阿蘇豊成の戸口とされている。広遠は累進し、右大史を経て天暦五年(951)には左大史正六位上阿蘇宿祢広遠と見える(『朝野群載』『政事要略』)から、カバネも公→宿祢と変わっていたことが分かる。広遠の子孫は京都の官人として残り、正暦年間(とくに991~994)の右少史として阿蘇有隣が見えるが、世代的に考えると広遠の孫ではなかろうか。
讃岐ではほかにも阿蘇氏が見える。寛弘元年(1004)の同国大内郡入野郷の戸籍(『平安遺文』)には戸主阿蘇氏宗(姓は不明)、同貞町、同中知など十八名の名前が見えるから、大内郡に阿蘇氏の支族が遷住していたことが知られる。
阿蘇氏の同族は、北九州から伊予・讃岐さらには播磨に進出しこれらの地域に国造家として有力者であったから、阿蘇氏自体もこのルートに乗って遷住した支族があっても不思議ではない。
つまり阿蘇氏・阿蘇国造家は熊本の古代では新しい氏族であることになる。従って阿蘇氏を多氏直系氏族とは考えにくい。直系は神八井耳を祖神とする肥直氏であり、その系譜は遡れば「火君」であることが想像できる
記紀がしきりに賊として扱っている熊襲や日向の曽於族=隼人が最初から参加していた。
①肥後国一宮。名神大社。官幣大社。
②祭神:12神祀ってある。
一の宮:健磐龍命 阿蘇大神神八井耳命の御子 主神。
二の宮:阿蘇都媛命 阿蘇大神の妃(草部吉見神「日子八井耳命」の娘)
三の宮:国龍神 吉見神「日子八井耳命」本宮は吉見社
四の宮:比咩御子神 「日子八井耳命」の妃
五の宮:彦御子神 惟人、又は八井耳玉命。速瓶玉命の御子 甲佐宮に住む。
六の宮:若比咩神 彦御子神の妃
七の宮:新彦神 「日子八井耳命」の第1子
八の宮:新比咩神 新彦神の娘
九の宮:若彦神 新彦神の御子
十の宮:弥比咩神 新彦神の妃
十一の宮:国造速瓶玉命 阿蘇大神の第1子。本宮は国造神社。
十二の宮:金凝社 綏靖天皇
③創建:神社由緒:孝霊天皇の御代9年、勅命により神武天皇の御子神八井耳命のまた御子である健磐龍命と阿蘇都媛命を祀る神社として子供である速瓶玉命が創建した。
肥後国誌などによると、12景行天皇は国造速瓶玉命の子惟人に命じて神社を創建とある。
阿蘇系図では神八井耳の子供として「健磐龍(たけいわたつ)」を記しているものもあるそうです。
健磐龍こそが阿蘇の一番の神です。
阿蘇氏の場合、諸文献、伝承から「速瓶玉(はやみかたま)」が大凡 崇神朝の人物だと推定、その曾孫にあたる「宇治部武凝人」という人物がいます。
「宇治部」は一般的には15応神天皇の皇子「宇治若郎子」の「御名代」である。
一般的であるが、宇治部を統括したのは、「宇治連」といい、ニギハヤヒの6世孫伊香我色雄の裔である物部氏だとされている。これが「天武13年」宇治宿禰姓を賜っている。
山城宇治に本拠地を有していたとされている。
阿蘇氏の人物で歴史的にはっきりするのは「宇治角足」あたりからです。
天武朝に宇治宿禰姓を賜ったとあります。角足に付された宇治宿禰とこの物部氏に属するとされる宇治宿禰は関係するのか、説が別れるところだそうです。
延喜時代(901-922)の人物「宇治友成」が初めて阿蘇大宮司職となった記録があります。これ以降大宮司職が阿蘇氏(宇治氏)の世襲となりました。
阿蘇は九州の阿蘇である。例えば以下がある。
平安中期の資料にもとづく阿蘇家略系図では,金 刺舎人直金弓の子の麻背が科野国造となり,長子倉 おとえい
足が諏訪評督となり,次子乙頴が諏訪大神大祝とな るとされる(井原今朝男,1995b)。
さらに,阿蘇氏系図などでは,崇神朝のときに たけいおたつのみこと たけいわたつのみこと
武五百建命(健 磐 竜 命)が日向から阿蘇に入って 科野国造を賜り,息子達のうち,兄の速瓶玉命は阿 蘇国造,弟の健稲背命は科野国造,となるとされる。 いずれにせよ,国造の世においては,諏訪と阿蘇と が共通の系図で描かれる。大化改新の後にはクニはこおり国となり,国の下に 評 をおいて,それまでの国造 ひょうのかみ
は評 督とされた。国には国司が派遣されるため, 遠隔の地同士が一つの系図で結ばれることもあり得 る。先述のように,健御名方命は出雲より入諏する。 阿蘇氏系図などに日向が記されていることは,記紀 における故地との結びつきが,むしろ意図的に創造 されたとも考えられる。