豊玉姫、淀姫、世田姫

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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卑弥呼の後継の壹與に比定する人もいる 世田姫は與止姫、淀姫と同一人物である 九州王朝始源の人物であること。 甕…

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  • 名神大社 和多都美神社
    御祭神
     彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
     豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
    御由緒
     当社の所在地表示は、現在「下県郡」であるが、以前は「上県郡」 であった。平安時代の律令細則である「延喜式」の「神名帳」の中 に「対馬国上県郡和多都美神社(名神大)」とあるのは当社である。 貞観元年(八五九年)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、また、 「三代実録」によれば、永徳元年(一三八一年)に、更に従一位を叙 せられ、往古より島内は言うに及ばずわが国の名社大社の一つ に数えられた。
     縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を 造り、宮を「海宮」と名づけ、この地を「夫姫」と名付けた。その宮 殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあったという。 そして神々しい神奈美「夫姫山」のさざ波よせるこの霊地に彦火々 出見尊と豊玉姫命の御夫婦の神を奉斎したと伝えている。
     豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は 豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊は失った釣り 針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること三年、そして 豊玉姫を娶り妻とした。この海幸彦・山幸彦の伝説は当地から生 まれたものである。
  • 豊前坊高住神社由緒

    英彦山豐前坊の名は天下の普く知る所であつて、農作牛馬惡疫火難の守護神として霊験あらたなる御神徳は誰も厚く尊信せざる者はない。乍併御祭神の事蹟や御鎮座の由來は未だ精しく知られて居らぬやうであるから御由緒の大畧を述べたいと思ひます。
    豐前坊は高住神社と稱へ奉りて、英彦山の北麓豐前豐後の國境に鎭座し、豐日別命を齋き奉れる大宮であります。
    社傳に繼體天皇二十三乙酉年秋(凡千三百九十余年前)「我此の磐根に居る事年久し我前を齋き奉れ永く豊國人の諸願を滿さむ」この神託を蒙りて、豐後國藤山恒雄(彦山第二世座主)神祀を創建して御鎭祭申上げたと傳へてゐます。

    神世の昔天つ神は伊弉諾伊弉冊の二神に「此の漂へる國を造り固めよ」との詔を下されました。二神は詔のまにまに天地を共に窮りなく隆まさむ皇御國の礎を定めむと相謀りて、大八州國を生み山川草木を産み八百萬神を生みてそれぞれ職務を分担せしめ給ひ、二神は高天原即ち皇都に坐まして萬機の政を總攪し給ひ地方は國つ神をして民生の化育を分掌せしめられました。
    此の時豐日別命は豐國(豐前豐後後元一國ニテ豐国ト云フ)開拓の重任に就かせられたのでありますが、當時の國狀は天つ神の「漂へる國」と宣ひし如く、熊襲土蜘蛛などの未開の民各地に穴居して、山野に狩獵し河海に魚貝を漁りて生食し、所謂原始の生活を營み、廣袤たる沃野は唯雑草の生茂るに委せてありました。
    是に於て豐日別命は一族の神々と共に、山野を開墾し河川を浚渫して水陸の美田を開き牛馬を使役して五穀を耕作する事、木綿麻絹糸を織りて衣服を調へる事、家屋の建方など衣食住の大本を開き、叉醫藥を以て疾病を治し禁厭太占を以て災禍を除き吉凶を判ずる事をも敎へて生活に安ぜしめ、能く蒙昧の民を撫育して自から同化に勉め給ひ、遂に渾然融和して子孫相共に國中に繁榮し産業は益々興隆して萬物豊富となり豐國の美名に背かざる基を建て給ひし神德洪大なる政治産業血統の始祖の大神に坐ますのであります。
    仰祖先を崇拝し神社を尊重するのは人倫の大本治國安民の要道であります。されば豐日別命の血を享け肉を分けた豐前豐後の國人が、高住神社の大氏神と仰ぎて昔も今も換る事なく尊崇し、叉豐日別命の大業を繼承せる歴代の國司領主が厚く崇敬せしも蓋し當然であります。殊に小倉藩主は高百石を奉り、毎年正五九月に代參を遣して奉幣あり。佐賀藩主は屡社殿を修造し奉りしを以て、御本殿其他の建物も整備してゐます。境内は萬仭の靑巖屏風の如く連りてその背景をなし、千古の老杉は森然として天を衝き、滾滾たる社前の淸流は自から塵心を洗ふ幽邃閑雅なる神境であります。

    例祭は十月十七日、神幸祭は九月第二の丑の日、これを丑の祭と稱へ遠近よりの賽者も牛馬加幣の古式なども行はれる盛大な祭事であります。

    高住神社前宮司 故松養具栄氏による豊前坊高住神社略記(時代不祥)
  • 豊秋津師姫、豊明姫、稚姫、豊受姫
    「先代旧事本紀~天神本紀」、天照太神詔して曰はく、豊葦原の千秋長五百秋長の瑞穂國は、吾が御子正哉吾勝々速日天押穂耳尊の知らす可き国なりと、言寄さし詔りごち賜ひて天降りしたまふ時、高皇産霊尊の児思兼神の妹萬幡豊秋津師姫栲幡千々姫命と妃と為て、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊を誕生の時、・・・

    「売布めふ神社」松江市和多見町。主祭神は速秋津比売神。速秋津比売の孫、櫛八玉命が祭祀。

    「大和志料~和州五郡神社記」高市郡東日日女命神社、・・・忌部氏の記録に云う、東日日女やまとひめ神社、是は則ち、朝日豊明姫とよあかるひめ命也。大倭は次第に盛んとなり以て稚日女わかひるめ命の隠號也やと謂う。

    「大和神社」別名朝和之宮。境外末社、大和稚宮神社。
    「増御子神社(大和神社摂社)」、猿田彦命・天鈿女命を祀る。(社伝)成願寺村横馬場より奉遷。
    同じく摂社の「朝日神社(大和神社摂社)」、朝日豊明姫あさひとよあかるひめ神を祀る。

    「大和志料~若宮増御子神社」この社は一に地主神。若宮盆御子は、日神御子豊受姫尊稲靈神也。

    「丹生都比売神社~丹生大明神告門のりと」豊受姫は大和、紀伊の各地を巡航し、御田を作り、・・・稲で大飯や大酒を作り豊明を奉仕した。
    「祝田はふりた神社」祭神、豊受姫命。
    「伊勢降神社」祭神、豊日姫命。

    「十市御県坐神社」奈良県橿原市。祭神は豊受大神。
    「広瀬神社」奈良県北葛城郡河合町。若宇可能売命=大御膳神。別名、豊宇気比売大神。

  • 淀姫神社
    住吉の神は、大海の南面をしばらく御覧あそばして、沙迦羅龍王が潮干珠・潮満玉と言う二つの玉を金の鉢に入れて、いまこれを愛でて遊んでおられる。あの玉をお借りして、力を尽くして異賊を降伏させるべく使いを送るべしと仰った。
    とはいっても、あまりにも強大な龍神に相応しく御使いになれるような方は誰であろう。
    武内(恐らくは武内宿禰)が申されるには、「皇后の御妹であられる豊姫は、如来のような相貌で、世に比類なきお姿である」
    たとえ龍の身なれどもこの女性に対しては争う心なども解されてしまうだろうから、豊姫を遣わしたまへと、住吉の神は計らい申し給う。

    このように、とても美しい姫様だったと言う伝承が残っています。
    この後、龍宮城へ赴いて、沙迦羅龍王より潮干珠・潮満玉を借り受けて、戦いに赴くわけです。

    新羅の天日鉾が追いかけてきた あかるひめ
    この人は 潮干珠の化身ともいわれる。
    神功皇后が 三韓征伐に向かわれるとき 住吉からしおみつ・しおひる の
    玉を借りた。宝珠につながっていました。

    また 河上のことばからは ヤマトタケルが戦った相手は かわかみタケルというのですね。

    皇別 若狭 笠系図
    【傳説】『若狭國鎮守一二宮縁起』を見るに「霊亀元年(715)9月10日若狭國遠敷郡西郷 之内、霊河の源流にありし白石の上に、 神人、初めて跡を垂れ坐す。其形俗躰にして、 唐人の白馬に乗り給ふが如し」と云ふ。 今、若狭彦大明神とお呼びする神は是なり。
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    若狭地方の白石大明神
    遠敷明神(若狭彦大神)は秦氏系と海人系が 融合したような神であり、降臨した下根来において白石大明神として、遠い昔から奈良 時代に至るまで祀られてきたと判明しました。

    上宮若狭彦大明神が彦火火出見尊、 下宮若狭姫大明神が豊玉姫という傳承

    若狭彦、若狭姫の二神を白石大明神として祭祀したのが白石にある白石明神です。 つまり若狭神社、神宮寺、白石明神などは元は皆同じものであり、縄文、弥生、古墳 時代と長き時代の聖地に住む神として崇められていたものと考えています。

    若狭地方の新羅神社
    社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれているが、 『神社誌』及び『遠敷郡誌』は「天日矛命の後裔が此国に留まり、其の遠祖である鵜茅葺不合尊、又は稲飯命を祀りしもの。 地名のシラキは日倉族の新羅人の住みしことあるにより起り、その祖神を祀りしとの説がありこれに従う」としている。 『新撰姓氏録』は新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。 『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)は神武天皇の父とされており、 稲飯命は神武天皇の兄に当る。従って、神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。
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