古事記に「大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海国の日枝山に坐し、また松尾に坐して鳴鏑を用つ神ぞ」これにより、両大社の神は同神であることが分かる。 ① 日吉祢宜口伝抄」に「天智7年3月3日鴨賀島8世孫宇志麻呂に詔されて、大和国三輪に坐す大己貴神を比叡の山口おいて祭る。大比叡宮と曰ふ」とある。これは日吉大社の祭神は大神神社の祭神と同じということを意味し、大山咋神=大物主神となる。 ② 「群書類従」日吉社の項に、「大宮。三輪同体。號大日枝。山王與三輪一躰事」とあり、これも大山咋神=大物主神であることを意味している。 ③ 古事記では大山咋神は、大歳神と、天知迦流美豆姫の子であると記されている。天知迦流美豆の意味は「天を領する、生命力に満ちた太陽の女」と云う意味で、その兄弟が飛騨国日輪神社に祭られている。 ④ 大山咋命は大国主命と並んで丹波地方を開拓したと伝えられている しかし、大山咋神は大歳神の御子とも云われており、猿田彦命の影も併せ持っている。
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『日本書紀〈応神紀〉』に、「大山守命を山川林野を司る役目」にしたとあり、大山守命がその任に当たったことが記されている。
『古事記』に「大山咋神(おほやまくひのかみ)。又の名は山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。この神は近淡海国(ちかつあふみのくに)の日枝山に坐す。また葛野(かづぬ)の松尾(まつのを)に坐す。鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり」とあるように、近江国(滋賀県)の日枝山(比叡山)に鎮まったとされる。
① 日吉祢宜口伝抄」に「天智7年3月3日鴨賀島8世孫宇志麻呂に詔されて、大和国三輪に坐す大己貴神を比叡の山口おいて祭る。大比叡宮と曰ふ」とある。これは日吉大社の祭神は大神神社の祭神と同じということを意味し、大山咋神=大物主神となる。
② 「群書類従」日吉社の項に、「大宮。三輪同体。號大日枝。山王與三輪一躰事」とあり、これも大山咋神=大物主神であることを意味している。
③ 古事記では大山咋神は、大歳神と、天知迦流美豆姫の子であると記されている。天知迦流美豆の意味は「天を領する、生命力に満ちた太陽の女」と云う意味で、その兄弟が飛騨国日輪神社に祭られている。
④ 大山咋命は大国主命と並んで丹波地方を開拓したと伝えられている
しかし、大山咋神は大歳神の御子とも云われており、猿田彦命の影も併せ持っている。
また、京都賀茂神社系の鴨氏始祖伝では、鴨氏にもいろいろあり、自分たちの先祖は葛野鴨氏であると言っています。同伝の注釈によると崇神朝で絶大な力を持った彦坐王(ひこいますおう)の系統も鴨氏と言うそうですが、これは京都賀茂神社の鴨氏の系統とは別であるとしています。
『三島宮社記』では、推古天皇2年。大三島の南東部瀬戸に鎮座し、大宝元年、現在地へ遷座し、16年の歳月をかけて、社殿を造営。養老3年(719)に遷宮の儀が執り行われた。
各地の三島神社の総本山であり、日本総鎮守とも呼ばれる神社。大三島は古くは御島と書かれ、後に三島となり、大三島となったらしい。
また、三島神を奉祭するが故に、大三島となったとも。
伊豫國風土記逸文には、以下のように記されている。
「御嶋。坐す神の御名は大山積の神。一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済の國より度り来まして、津の國の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。」
風土記では、仁徳天皇の御宇に大阪高槻市三島江に出現し、そこから、伊予へ移ったとされている。
また、山の神でありながら、渡しの神でもあり、瀬戸内海海上交通の守護神として崇敬されている。
高鴨神社=天日方奇日方を頼ってでてきた、同族のタキツ彦が、父のアジスキタカヒコネと叔母の下照姫とその婿・天稚彦を祭った。
上加茂 鴨神社
北緯34度51分6秒・東経133度49分22秒、上加茂471番地に建っています。通称加茂大明神と呼び、旧郷社です。
氏子地域は平岡の一部、上賀茂、広面の一部です。
別雷紳、品田別天皇、足仲彦天皇、神功皇后が祀られています。
弘仁年中、人皇第五十二代嵯峨天皇の御宇(ぎょう)に山城国加茂大明神を勧請し、鴨別命(かもわけのみこと・別雷命・わけいかづちのみこと)が祀られました。
鴨別命は吉備津彦命(五十狭芹彦命・いさせりひこのみこと・大吉備津彦命・第2代吉備彦命)の弟の若建吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと・稚武彦命・わかたけひこのみこと・初代吉備津彦命)の3代目の子孫で、仲彦(賀陽氏の祖、上道氏の祖)、弟彦(三野氏の祖)の叔父にあたります。
古い昔は津高郡を鴨縣(かものあがた)と言い、笠臣(笠国造・かさのくにのみやつこ)の始祖である鴨別命を笠臣が祀ったものとされています。
参道入口に二本の石柱が鳥居代わりとして立っています。石柱の右に「式内郷社 鴨神社」と刻まれた社号標があり、松木立の参道を進むと境内入口に石の鳥居があります。
階段を数段登ると隨神門でその奥に拝殿があり、左右の階段を従え奥の高みに本殿が建ちます。
参拝は年末大晦日(おおみそか)の午後に行われ、お正月であれば参道や隨神門に初詣と書かれた幟が立ち、拝殿前に松飾りが飾られています。
式内社に指定された神社であり、かつては南方500mにある矢阪の山上にあったと言われます。
矢阪山上には大明神屋敷と呼ばれる平坦地があり、また、現在地へ移り来る際に山麓に建てられたと言う假屋跡とされる平坦地があります。
本殿へ続く左手の階段の上に荒神社、御崎神社の境内社があり、境内の右手の金刀比羅宮が有ります。
金比毘羅宮はかつて稲荷神社でしたが、明治末年に金刀比羅宮に変わりました。
木山神社、地神社、川上神社、素盞嗚神社、番神社、今宮社、系普神社、御玉神社、幸神社、祇園神社、山神社、加茂神社、水神社、武甕槌(たけみかづち)神社、大山社、愛宕神社、厄神社、森神社、龍神社、神納社が合祀されています。
本殿には、菊の紋付きの幕が掛けられており、本殿の屋根には二葉葵の紋が見られます。
宮米:上加茂408・491番地等
宮坂:上加茂443・471(鴨神社)・472・473・481番地等
宮ヶ市:上加茂683・687-715
仮屋:上加茂861・875(北緯34度50分54秒・東経133度48分15秒)・876(北緯34度50分55秒・東経133度48分15秒)・902番地等
大鼓町:上加茂2139-2141番地
神納:上加茂2339-2346・2365-2372・2377-2379番地等
上加茂神納:上加茂2378番地
大明神屋敷:上加茂2834-2841番地(北緯34度50分53秒・東経133度48分44秒)
大蔵殿:広面341・401・405-409・412・413・425-430番地
「須佐之男命が大山津見神の女名は神大市比売に娶ひて生みませる子、大年の神」とあり、さらに大年神の子として、大山咋神など16神の名が見える。
その中に、大年神の子の大山咋神、亦の名山末之大主神は、近江国の日枝(比叡)の山に坐し、また葛野の松尾に坐す、鳴鏑(丹塗矢)を用いる神とある。
ところが、『山城国風土記』〔和銅六年(713)~霊亀二年(716)に成立〕には、「いはゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神と市杵島姫命の二座を勧請して創建したものである。
「日吉社禰宜口伝抄」によれば、鳴鏑つまり丹塗矢は、比叡(日枝)―― 乙訓――松尾
という順に移ったとある。
したがって、古事記は、『山城国風土記』にいう乙訓をとばして、秦氏の祭る松尾神社に秦都理が創建した松尾神社を宣殿よって、大年神系譜が『古事記』に入れられたと推測できる。
平安新京の守護神として、「その故国たる韓半島における京城の護り神、即ち”曽富理神”を新たに勧請したもの」とみて、『古事記』の成立を平安遷都後とみる。
中沢見明氏は、大年神系譜の神々がかかわる比叡・松尾・鴨三社の神官が『古事記』を偽作したとする。この三社はいずれも秦氏と関係がふかく、大年神系譜には、秦氏の祭る神々が多い。
宮島弘氏は、普通なら国名を入れて「山代国葛野」とするのを、「葛野松尾」としていることに注目し、『古事記』の筆者は、葛野に住んでいたのではないかという。
京都府亀岡市にある。
亀岡駅の東3Kmほどの保津町に鎮座。
桂川(保津川)にかかる保津橋を北上し、
500mほどで東へ入ると八幡宮が鎮座しているが、
八幡宮からさらに東へ進み、保津川に沿った狭い道を進むと
突き当たりに当社境内がある。
この道は通り抜けできない道で、当社の東側で道が終了。
狭い道なので方向転換は難しいかもしれない。
境内は川に面して南向きで、参道は西から入ってくる形式。
境内の中央に、舞殿のような拝殿があり、
その北側、石垣の上に流造の本殿。
本殿の右手に、境内社の稲荷社が鎮座している。
創祀年代は不詳。
現在の保津峡は、近世には浮田(ウケタ)峡と呼ばれていたため
保津峡の出口にある当社と対岸の桑田神社は浮田明神・請田明神と称されていた。
境内案内によると、
祭神・大山咋命は自ら鍬鋤を持って保津の山峽を切り開き
亀岡盆地を開拓した神。
その開拓の開始の鍬入れを「受けた」ので、請田と呼ばれているという。
社地の名を岩尾と云ったらしく、式内社・石穂神社に比定されている古社。
集落から遠いので、集落内に当社の遥拝所(請田神社)を設けていたが
永禄六年(1563)に兵火にかかり焼失。
寛永十三年、当地の豪族村上氏が、その跡地に八幡宮を創建し、
八幡宮の傍らに請田神社の頓宮を再建したという。
秋の大祭には、当社から八幡宮内の頓宮に神霊を迎える火祭が行われるという。
祭神が、京都松尾神社と同一であるためか、
また、保津峡の両端に対峙した位置にあるためか、
当社を式内社・松尾神社とする説もあるらしい。