穂積忍山宿禰、物部氏

November 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
image穂積忍山宿禰、物部氏

物部氏の本宗家、弟橘姫を出した一族 穂積の臣等の祖先、内色許男 (ウツシコオ) 命の妹の内色許売 讃岐の大麻神…

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コメント

  • 三見宿禰命 (みつみのすくねのみこと)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の四世孫で大木食命の弟という。出雲醜大臣の子。漆部連らの祖。
    孝安朝に足尼となり、ついで宿禰に任じられて石上大神を奉斎した。宿禰の号はこのとき起こったという。
  • 宿禰命 (むつみのすくねのみこと)

    天孫本紀に宇摩志麻治命の四世孫で大木食命の弟という。出雲醜大臣命の子。小治田連らの祖。
    天皇本紀に、孝安朝に三見命とともに足尼となり、ついで宿禰となったという。(旧)
  • 物部阿遅古連公 (もののべのあぢこのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部金連の弟。水間君らの祖。(旧)
  • 物部麁鹿火大連 (もののべのあらかいおおむらじ)

    物部連麁鹿火、物部麁鹿火連公。

    武烈即位前紀に、天皇が皇太子のとき、麁鹿火大連の娘・影媛を召そうとしたことがみえる。

    継体元年一月四日、大伴金村、許勢男人らとともに、男大迹王擁立を議している。同年二月四日、天皇の即位とともに大連となる。
    継体六年十二月、百済が上表して任那四県の割譲を請い、大伴金村がこれをゆるし、このことを上奏したとき、麁鹿火は宣勅使になり、難波館に向かい百済の使者に宣勅しようとした。だが、妻の諫言で病と称して、宣勅使を辞退している。
    継体二十一年六月三日、筑紫の国造・磐井が叛乱し、征新羅将軍の近江毛野をさえぎった。天皇は大臣大連に将にすべき人物を諮り、金村の推薦によって麁鹿火が将軍になった。同年八月一日、詔を受け、天皇は長門から東を制し、麁鹿火は筑紫以西を制し、賞罰を専権することとなり、継体二十二年十一月十一日、大将軍として、筑紫御井郡で磐井と戦い、ついにこれを斬った。
    『録』和泉国神別に、饒速日命の十五世孫で、高岳首の祖とあり、『旧』天孫本紀には、宇摩志麻治命の十四世孫、父は麻佐良大連とあり、安閑天皇の時代に、大連になり、神宮(石上)を奉斎したとある
  • 物部岐美連公 (もののべのいきみのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の八世孫で物部胆咋宿禰の弟。志紀県主、遠江国造、久努直、佐夜直らの祖。
    成務朝に、止志奈連・片堅石連ら兄弟と共に侍臣として供奉したという。
    国造本紀の遠淡海国造条に、成務朝に国造に任じられた印岐美命が見えるが、伊香色雄命の子とあって十千根命の子とする天孫本紀と齟齬がある。(旧)
    遠江地域の物部氏族の祖先伝承に、広く採用されていた人物と見られる。
  • 物部胆咋連 (もののべのいくいのむらじ)

    物部連胆咋、物部胆咋宿禰。

    仲哀九年二月、天皇が神意による死をとげた時、神功皇后と武内宿禰は天皇の喪を秘密にして、中臣烏賊津、大三輪大友主、物部胆咋、大伴武以の四大夫と善後策を協議している。
    この結果、皇后は四大夫に橿日宮(香椎宮)を守らせ、武内宿禰をして密かに天皇の遺骸を穴門の豊浦宮へ運ばせたという。(『紀』)

    『旧』天孫本紀では、宇摩志麻治命の八世孫。十市根大連の子。
    成務天皇の時代に大臣になり、ついで宿禰になり、神宮(石上)を奉斎した。
    市師宿禰の祖穴太足尼の娘・比咩古命を妻として三児を生み、また阿努建部君の祖太王の娘・鴨姫を妻として一児を生み、三川の穂国造美己止直の妹・伊佐姫を妻として一児を生み、さらに宇太笠間連の祖大幹命の娘・止己呂姫を妻として一児を生んだとある。
  • 物部五十琴宿禰連公 (もののべのいことのすくねのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で、胆咋宿禰の子。神功皇后摂政の時、はじめ大連となり次いで宿禰となって、石上神宮を奉斎したという。
    物部多遅麻大連の娘の香児媛を妻とし、三児を生した。伊コ弗連、麦入宿禰連、石持連がこれにあたる。
    天皇本紀も神功摂政三年正月に、大連に任じられたとする。(旧)
    天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で五十琴宿禰連の弟。
    弟の物部竹古連の娘・弟媛を妻として二児を生したという。目古連・牧古連がこれにあたるか。(旧)
  • 伊コ{クサカンムリ+呂}弗大連 (もののべのいこふつのおおむらじ)

    履中二年十月、天皇が磐余に宮を造ったとき、平群木莵、蘇我満智、葛城円とともに国事をとった。大連とある。(『紀』)

    『録』では伊己布都ともいう。
    『旧』天孫本紀に物部伊コ弗連公。宇摩志麻治命十世の孫で、父は五十琴宿禰。
    履中・反正天皇の時代に大連になり、石上神宮を奉斎した。倭国造の祖・比香賀君の娘の玉彦媛を妻として二児を生み、姪の岡陋媛を妻として二児を生む。目大連らの父。
  • 物部伊勢連父根 (もののべのいせのむらじちちね)

    物部至々連ともいう。

    継体九年二月、百済の使者・文貴将軍を送って百済に赴く途中、沙都嶋(巨済島)に至ったとき、伴跛(はへ)の人が日本に恨みを抱き、暴虐をほしいままにしていることを聞いた。そこで、水軍五百を率いて帯沙江に至った。
    同九年四月、軍を興して攻めてきた伴跛に惨敗。父根は命からがらモン{サンズイ+文}慕羅島へ逃れた。
    同十年五月、百済の使いに迎えられてその国に入り、
    同十年九月、百済の州利即次将軍に送られて帰国した。

    同二十三年三月、百済王は穂積押山臣に託して、加羅の多沙津を請うた。天皇は、父根と吉士老らを使いとして津を百済に賜ったが、加羅王はこの津は加羅の朝貢の寄港地であるとして反対した。
    このため、父根らはその場で百済に津を賜ることは難しいと判断し、大島へ引き返した。
    別に録史(記録官)を派遣して、百済に賜ることにした。このため、加羅は日本から離れ、新羅と結ぶことになったという。
    (『紀』)
  • 物部木蓮子大連 (もののべのいたびのおおむらじ)

    安閑天皇の妃・宅媛の父。安閑元年三月六日条にみえ、名前を「イタビ」と読むとの注がある。(『紀』)

    『旧』天孫本紀では、宇摩志麻治命十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘・全姫とある。
    仁賢天皇の時代、大連となり、神宮(石上)を奉斎し、御大君の祖の娘・里媛を妻にして、二児を生んだ。
  • 物部伊予連公
    (もののべのいよのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で物部印葉連の弟。
    仁徳朝に弟の物部小神連と共に、侍臣となって供奉したという。(旧)

    物部石持連公 (もののべのいわもちのむらじきみ)
    【1】
    天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で物部伊コ弗連の弟。佐為連らの祖。(旧)
    【2】
    天孫本紀に、宇摩志麻治命の十一世孫で物部大前宿禰連の弟。刑部垣連、刑部造らの祖。(旧)
    兄の大前宿禰は履中即位前紀・安康即位前紀に登場する。石持連も、允恭天皇の皇后・忍坂大中姫命と同世代に設定され、この皇后への近侍を以って名代部の設置に関与したとする伝承が刑部氏にあったものか。

    物部今木金弓若子連公 (もののべのいまきのかなゆみわくごのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で大市御狩連や守屋大連の弟。今木連らの祖。(旧)
  • 物部大市御狩連 (もののべのおおちみかりのむらじ)

    『録』左京神別に、弥加利大連といい、饒速日命の十五世の孫で、大貞連の祖という。

    『旧』天孫本紀では、宇摩志麻治命十四世の孫で、尾輿の子。守屋、贄古らの兄という。
    敏達天皇の時代、大連となり、神宮(石上)を奉斎した。
    弟の贄古の娘・宮古郎女を妻として、大人連らを生んだとある。
    帝皇本紀にも、敏達元年四月に大連に任じられたことがみえる。

    大市は河内国渋川郡邑智郷もしくは大和国城上郡大市郷として見える地名で、御狩はこの地に縁故の人物であろう。
  • 物部大前宿禰 (もののべのおおまえのすくね)

    履中即位前紀に、仁徳天皇の没後、履中天皇がまだ皇太子であるとき、住吉仲皇子が皇太子を殺そうとしてその宮を取り囲んだ。大前宿禰は、平群木莵宿禰、漢直の祖・阿知使主と三人で、皇太子にこのことを告げたが信じないので、皇太子を抱きかかえて馬に乗せて大和へ走り難をのがれたとある。なお、脱出に成功した皇太子が拠ったのは石上神宮である。

    安康即位前紀に、允恭天皇の没後、皇太子・木梨軽皇子が同母妹と通じたことが露見し、天下の人はみな穴穂皇子(安康天皇)についたので、軽太子は穴穂皇子を襲うため兵を集めた。穴穂皇子もこれに対して兵を興して戦う意志を示したので、軽太子は群臣、人民の従わないことをおそれて、大前宿禰の家にかくれた。穴穂皇子はこれを聞いて、その家を囲み、大前宿禰は穴穂皇子に軽太子を殺さないよう願ったが、太子はその家で自殺した。一説には、伊予国へ流されたともいう。
    (『紀』)

    『旧』天孫本紀には、宇摩志麻治命十一世孫に、物部大前宿禰連公があり、その弟に物部小前宿禰連公がいる。父は物部麦入宿禰、母は全能媛。大前宿禰は安康天皇の世、はじめ大連、つぎに宿禰になり、神宮(石上)を奉斎したとある。氷連の祖。
    神皇本紀には、允恭二十三年三月に大連に任じられたことがみえる。
  • 物部大連尾輿 (もののべのおおむらじのおこし)

    安閑元年閏十二月、廬城部連幡媛が、尾輿の珠の首飾りを盗み、春日皇后に献上したことが発覚した。尾輿は事件が自分にかかわることを避けるため、大和国十市部、伊勢国来狭狭・登伊の贄土師部、筑紫国胆狭山部を献上した。

    欽明即位前紀(宣化四年)十二月、大伴金村(再任)とともに大連になる。大臣は蘇我稲目。
    欽明元年九月五日、難波祝津宮への行幸に、大伴金村、許勢稲持とともに随行した。
    そこで、新羅を征しうる軍勢の数についての勅問に対して、少々の軍では容易に攻略できないこと、大伴金村がかつて任那四県をたやすく百済に譲ったため、新羅の怨みは深いことを述べ、軽々しく討って出るべきではない旨を答えた。そのため、金村は住吉の家にこもり、出仕しなくなったという。

    欽明十三年十月、百済の聖明王が仏像・経論等を贈ってきた時、礼仏の可否の勅問に対して、蘇我稲目の意見に反対し、尾輿と中臣鎌子は排仏を主張した。
    その後、仏像は稲目が賜り試みに礼拝されていたが、疫病が流行ったため、尾輿らはこれを国の神の怒りであると奏上し、天皇の命を受けて仏像を難波の堀江に捨てさせたという。(『紀』)

    『旧』天孫本紀には物部尾輿連公。宇摩志麻治命の十三世の孫で、父は荒山大連とあり、欽明天皇の時代、大連になり、神宮を奉斎したという。
    弓削連の祖倭古の娘・阿佐姫と加波流姫を娶り、それぞれ四児と三児を生んだとある。御狩、守屋、金弓若子などがそれである。
    帝皇本紀にも、欽明元年十二月に大連に任じられたことがみえる。
  • 物部大母隅連公 (もののべのおおもろずみのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の八世孫で物部武諸隅連の弟。矢集連らの祖。
    成務朝に、兄の大小市連・大小木連と並んで侍臣に任じられて供奉したという。(旧)
    崇神紀六十年七月十四日条に、武諸隅の別名として大母隅が見える。(紀)

    武諸隅命 (たけもろずみのみこと)

    物部武諸隅連。矢田部造の遠祖。
    崇神六十年七月十四日、天皇の「武日照命(穂日命の子・建比良鳥命のこと)が天から持ってきた神宝が出雲の大神宮にある。それが見たい」との詔により、出雲に遣わされる。
    出雲臣の祖・振根は筑紫に行っていて留守だったため、その弟の飯入根が神宝を差し出したという。
  • 多弁宿禰命 (たべのすくねのみこと)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の七世孫で建胆心大禰命の弟。宇治部連、交野連らの祖。
    崇神朝に宿禰となって供奉したという。
  • 十千根命 (とおちねのみこと)

    止智根、十千尼(『録』)ともいう。

    垂仁二十五年二月八日、武渟河別(阿倍氏祖)、彦国葺(ワニ氏祖)、大鹿島(中臣氏祖)、武日(大伴氏祖)とともに、五大夫のひとりとして、天皇から、先帝・崇神天皇は神祇を礼祭し、身を慎んだため、人民は富になり、天下は太平であったので、いま自分の代にあたっても、神祇を祭祀することを怠ってはならないとの詔をうけた。
    同二十六年八月三日、天皇から、たびたび使者を出雲に遣わしその国の神宝を検めさせたが、はっきり報告できるものがいないため、汝が自ら出雲に行き検校して定めよ、との勅をうけたので、神宝をよく調べて分明に報告した。そのため、天皇より神宝のことを掌らされたとある。
    垂仁八十七年二月五日、五十瓊敷命が老年のため石上神宮に収めた神宝を掌ることができないので、以後は妹の大中姫命に掌ることを命じたが、大中姫も、女人のためをもってこれを辞した。そうして、十千根に授けて治めさせたとある。
    物部連が今にいたるまで石上神宮を治めるのは、このためであるという。(『紀』)

    『旧』天孫本紀には、宇摩志麻治命の七世の孫で、伊香色雄の子。垂仁天皇の時代、物部連の姓を賜り、五大夫のひとりで、ついで大連となり、神宮を奉斎したとある。
    出雲神宝の検定、石上神宮の掌治については、『紀』と同様の記事を載せる。
    武諸隅の娘・時姫を娶り、胆咋、印岐美、金弓など五男を生むという。
    天皇本紀にも垂仁四年二月に五大夫のひとりとしてみえ、同八十一年二月に大連に任じられたことがみえる。
  • 時姫 (ときひめ)

    天孫本紀に、十市根命の妻として見え五児を生したとある。胆咋宿禰、止志奈連、片堅石連、印岐美連、金弓連がこれにあたる。物部武諸隅連の娘。(旧)
  • 物部布都久留連 (もののべのふつくるのむらじ)

    懐、布都久呂、ともいう。依羅連、河内の物部らの祖。
    『録』左京神別では饒速日命十二世の孫、河内神別では十三世の孫という。

    『旧』天孫本紀には、宇摩志麻治命十一世孫。伊コ弗の子で真椋の弟。
    雄略天皇の時代、大連になり、石上神宮を奉斎した。
    依羅連柴垣の娘・太姫を妻として、木蓮子らを生んだとある。
    神皇本紀にも、雄略二十二年正月に大連に任じられたことがみえる。

    『旧』に雄略朝の大連とあることは、『紀』の目を大連とすることと合わない。『紀』には目を祖とする石上氏(続紀養老元年三月三日条石上麻呂薨伝)の影響が大きく、布都久留の場合は推古朝~大化以前に大夫輩出氏として物部氏族を主導した依網氏の影響が考えられるだろう。天孫本紀物部氏系譜原資料の形成時期や、物部氏における「画期としての雄略朝」観を窺う上で貴重な例といえる。
  • 物部片堅石連公 (もののべのかたがたしのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の八世孫で物部胆咋宿禰の弟。駿河国造らの祖。
    成務朝に止志奈連・印岐美連ら兄弟と共に侍臣となって供奉したという。
    国造本紀は片堅石命といい、成務朝に珠流河国造に任じられたとするが、その父を大新川命として、十千根命を父とする天孫本紀とは齟齬がある。(旧)
  • 物部竹古連公 (もののべのたけこのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で、物部五十琴宿禰連の弟。藤原恒見君、長田川合君、三川蘊連らの祖。
    景行朝に兄弟の竺志連・椋垣連と共に、侍臣として供奉したという。(旧)
  • 物部多遅麻連公 (もののべのたじまのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で武諸隅大連の子。景行朝に大連に任じられ、石上神宮を奉斎したという。
    物部五十琴彦連の娘の安媛を妻として、五児を生した。印葉連・山無媛連・伊予連・小神連・大別連がこれにあたる。
    天皇本紀に、仲哀天皇崩御を秘することを武内宿禰・大三輪大友主・物部胆咋・大伴武以と共に命ぜられ、神功摂政元年十月には大連に任じられたという。(旧)
  • 物部筑紫連公 (もののべのつくしのむらじきみ)

    【1】
    天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で、物部五十琴宿禰連の弟。奄智蘊連らの祖。
    景行朝に弟の竹古連・椋垣連と共に、侍臣として供奉したという。(旧)

    【2】
    天孫本紀に、宇摩志麻治命の十一世孫で、物部布都久留連の弟。新家連らの祖。(旧)
  • 物部豊日連 (もののべのとよひのむらじ)

    若湯坐連の祖・意富売布(大咩布)連の子。
    景行五十三年十月、天皇の上総国安房の浮島宮行幸のとき、安房大神を御食都神とし、豊日連に火を鑚らせて忌火として、御食を供した。この神は大膳職の祀る神で、忌火を鑚る大伴造は豊日連の後裔であるという。(高橋氏文)
  • 物部塩古連公 (もののべのしおこのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部金連(【2】)の弟。葛野韓国連らの祖。(旧)
    「続紀」延暦九年十一月十日の韓国連源の奏言に、物部連らは各々居地または行う業とにより別れて百八十氏となり、源の先祖の塩児も父祖が使者として遣わされた国の名を以って、改めて物部連から韓国連を称するようになったと見える。
  • 物部贄子連 (もののべのにえこのむらじ)

    贄子大連とも。
    敏達十二年、天皇の召環に応えて百済から日羅がきて桑市村に館を営んだとき、贄子は阿位目、大伴糠手子とともに遣わされ、日羅に任那再興の策を尋ねた。日羅は、兵を強くして、船を多く作り、百済を威圧すべきこと等を答え奏した。
    そのため、日羅は百済の使臣に殺されてしまった。天皇は、贄子、糠手子に詔して、日羅を小郡西畔丘前に葬らせ、残された妻子を石川百済村に、水手らを石川大伴村に住まわせたという。(『紀』)

    『旧』天孫本紀には、物部石上贄古連公とあり、宇摩志麻治命の十四世孫で、尾輿の子、守屋の弟にあたる。異母妹・布都姫(御井夫人)を妻として、鎌束、長兄若子、大吉若子、鎌姫大刀自の四児を生んだという。
    推古天皇の時代、大連になり、神宮(石上)を奉斎したとある。

    『旧』の守屋の弟とする伝の信憑性には問題が残るものの、大連守屋による「近縁者を大夫とすることで大夫層の中に大連支持勢力を形成しようとした意図」に基づき、大夫として国政に参議していたとする加藤謙吉氏の説がある。
  • 物部麻佐良連公 (もののべのまさらのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の十三世孫で、物部木蓮子連の子。
    武烈朝に大連となって石上神宮を奉斎し、須羽直の娘・妹古を妻として二児を生したという。麁鹿火連、押甲連、老古連のいづれかか。
    神皇本紀も武烈二年三月に、大連に任じられたとする。(旧)
  • 物部目大連 (もののべのめのおおむらじ)

    雄略朝の大連。物部目連とも。
    雄略即位前紀(安康三年)十一月十三日、天皇即位の日に大伴室屋とともに大連となった。大臣は平群真鳥。
    同元年三月三日条に、天皇は采女・童女君の生んだ春日大娘皇女を、自分の娘ではないと疑い、養わなかったが、目の進言によりこれを皇女と認め、また童女君を妃としたことが見える。
    同十三年三月、采女・山辺小嶋子を犯した佐保彦命後裔・歯田根命を、天皇の命により責め、歯田根命の贖罪の意を天皇に奏上し、馬、太刀などの資財を餌香市辺に置かせ、その功から餌香の長野邑を賜った。
    同十八年八月十日、物部菟代宿禰とともに、伊勢の朝日郎の征伐にあたった。その時、菟代宿禰は朝日郎の強弓を恐れて、進むことができなかったが、目は筑紫の聞物部・大斧手に楯で守らせ、自ら突撃し、朝日郎を斬った。
    菟代宿禰はその怯えを恥じて、復命しなかったので、天皇は菟代宿禰の領有していた猪使部を奪い、目に与えたという。(『紀』)

    『録』山城神別の錦部首条に、饒速日命十二世の孫・物部目大連とある。

    『旧』天孫本紀には物部目大連公。宇摩志麻治命十一世の孫で、父は伊コ弗とある。清寧天皇の時代、大連となり、神宮(石上)を奉斎したという。ただし、清寧紀にはこのことは記されてはいない。

    天孫本紀には同名の「目」が他に二人いて、一人は宇摩志麻治命十三世孫で、継体天皇の時代大連になり、もう一人は宇摩志麻治命十五世孫で欽明天皇の時代大連となったという。
  • 古連公 (もののべのやまとこのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部金連(【2】)の弟。流羅田部連らの祖。(旧)
    流羅田部連は依羅田部連の誤記で、依網屯倉の田部を管掌した氏か。
  • 連公 (もののべのやまなしひめのむらじきみ)

    天孫本紀に、宇摩志麻治命の十世孫で、印葉連らの姉。
    応神天皇の妃となり、莵道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女を生したという。
    神皇本紀の応神妃に香室媛があり、同じく物部多遅麻連の娘で、莵道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女を生したとある。注記は無いが山無媛と同一人物であろう。(旧)
    「紀」に莵道稚郎子皇子らの母とされるのは和珥臣の祖・日触使主の娘の宮主宅媛で、齟齬がある。
    物部氏族に矢田皇女の子代部の管掌したと称する矢田部連があり、天孫本紀では山無媛連の弟・物部大別連を始祖とする。矢田皇女を物部腹にすることで、関係を強調する目的があったものか。
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