大山祇神社、三島大社、越智・河野氏

2

コメント

  • June 2016 編集されました
    三島神は伊豆白浜に上陸し鎮座したが、やがてその後、中伊豆の発展にともない、伊豆田方郡大仁町田京の広瀬神社のあたりへ勧請されて来て、ここに何百年か鎮座していたようである。大仁町田京の口碑によれば、「三島明神は牛の背に乗って移ってこられた」と伝承されており、広瀬神社には三島明神と最も関係の深い瀬織津比売が祭られている。伊豆白浜から三島神社がこの地に移って来て鎮座されていたことは事実で、次の文献でも明らかである。
     中伊豆の三島神社が文献に現われるのは『吾妻鏡』の治承四年(一一八〇)八月十七日の条であるが、それには、「北条殿が申されて云うには、今日は三神(島…引用者)明神の神事(祭り)である。郡参の輩下の向う間は、定めて衢[ちまた]に満つ。よって牛鍬大路を廻る者は通交違反者と為し、咎[とが]とされ[ママ]べく、之の間、蛭嶋[ひるがしま]をゆっくり行く可[べ]し」というおふれがあって、群衆が出るので、牛鍬大路を通らず、蛭嶋を行くようにと書かれていることである。蛭嶋とは現在の田方郡韮山町蛭ヶ小嶋のことで、ここに源頼朝は十八歳の時より流されていた。そして三十一歳の時この地で源氏再興の旗揚げをして、韮山の山木の平氏を討った頼朝は、三島明神の森に結集したわけであるが、蛭嶋と三島明神は近い距離にあったのである。ここから三島市までは一三キロあって、この当時はまだ現在の三島市には三島神社はなかったのである。
     三嶋大社年表の延長五年(九二七)前後の記述を書き出してみます。

    貞観四年(八六二) 田方郡主政真宗従七位上に叙す。
    貞観六年(八六四) 三嶋神に正四位上を授く。
    元慶七年(八八三) 朝廷、旱災により、三嶋大神神勅を奉じて馬二匹、鋤二丁を献ず。
    仁和三年(八八七) 伊豆国府、新生島図一張を献ず。
    延長五年(九二七) 伊豆三嶋神社、明神大社に列し、月次、新嘗祭に案上の奠幣に預り、神料稲束二千束を奉らる。
    永延二年(九八八) 田方郡大領厚正、外従七位上に叙す。
  • June 2016 編集されました
    播磨国風土記には
    「昔、呉(くれ)の村主(すぐり:村の長)が韓国(からくに)から渡来して、紀伊の国 名草(なぐさ)の郡 大田の村(和歌山市太田)にやってきました。
    その後、分かれて摂津の国 三嶋の加美(上)の郡 大田の村(大阪府茨木市太田)に移り住みました。
    そこからまた、播磨の国 揖保の郡 大田の村に移住してきました。
    この大田という地名は、元の紀伊の国の大田をもって名としたものです」とあります。
    ここでいう「呉」は、中国の三国時代の魏・蜀・呉ではなく、江南地方から朝鮮半島南部に移住していた人びとの地域があったのではないかと考えられています。
    太子町東出(とうで)128には、太子町立太田小学校が風土記の地名を今に引き継いで存在しています。また、現在この太子町太田の北西には、太子町作用岡(風土記には佐比岡と出ています)という地名があります。
    ここには太子町立龍田小学校がありますが、その西側には、「平方(ひらかた)」という小字が残っています。
    この小字名も、播磨国風土記では「枚方の里」の条に現在の大阪府枚方市辺りに住んでいた漢人(あやひと:百済等からの渡来人)がやって来て、初めてこの村に住んだから「枚方」という地名がついたというようなことも記載されています。
    日本に渡来してからこの播磨の国へ移住してくるということは、諸般の事情があったのでしょう
  • June 2016 編集されました
    三島大社
    本殿の御祭神 大山祇神 事代主神

    国史では、『日本三代実録』元慶8年(884年)12月21日条に、「摂津国三島神」に対して正六位上から従五位下の神階を授けたという記述がある。また延長5年(927年)編纂の『延喜式神名帳』には、式内社として「摂津国島下郡 三島鴨神社」の記載があり、その論社とされる。ただし、上記のいずれも、他の論社として高槻市赤大路町の鴨神社も指摘される。

    式内社の比定に関して、当社は島上郡の位置、赤大路町の鴨神社は島下郡の位置とみられ、郡域としては後者が有力視される。また、当社が古くは「幾島大明神」と称したことも、当社を比定しない根拠の1つとされている。一方で、『伊予国風土記』逸文で大山積神の別称として「和多志(渡し)の神」と記すことから、河川から離れた鴨神社はこれに当たらないという指摘もある。いずれにしても、現在も特定には至っていない。

    当社は、元々は淀川の中洲である川中島(御島)にあったとされる。しかしながら慶長3年(1598年)の淀川堤防修築の際に現在地に移されたという。元和5年(1619年)には、高槻藩主・松平家信から2石が寄進された。

    明治に入り、近代社格制度では郷社に列した。明治41年(1908年)、唐崎神社や天満社等周辺の神社を合祀した[1]。

    3社、本殿の西側に、明治末の政府指示により大字から遷座された三殿よりも前から三社がありました。祭神、武甕槌神(大将軍社)、市杵島媛神(厳島神社)、奥津彦神 奥津比売神(竃神社)

    国広大明神、明治41年(1908)7月大阪府の指導により、柱本にあった稲荷社と天神社を合祀し、國廣大明神を三島鴨神社に遷し合併奉祭した。國廣大明神の祭神、宇賀御魂神(稲荷社)、菅原道真公(天神社)
    明治41年(1908)10月大阪府の指導により、西面にあった八幡宮を三島鴨神社に遷し合併奉祭した。八幡宮の祭神、誉田別天皇(応神天皇)。
    明治41年(1908)大阪府の指導により、唐崎にあった唐崎神社を三島鴨神社に遷し合併奉祭した。昭和50年10月21日の秋季例祭を期し、唐崎の神社跡に三島鴨神社の遥拝所として拝殿を落成。唐崎神社の祭神、大山祇神(三島鴨神社若宮) 、天児屋根神(春日神社) 、菅原道真公(天神社)

    wikipediaに
    創建は不詳。当社は元々淀川の川中島(御島)に祀られていたといい、社伝では仁徳天皇が茨田堤を築くにあたって、淀川鎮守の神として百済から遷り祀られたという

    上記の『伊予国風土記』逸文によると、大山積神は百済から当地に祀られ、次いで伊予国の大山祇神社に遷座したとされる。同文に見える「津の国の御島」が当社であれば、大山祇神社が大三島瀬戸に鎮座したのが推古天皇2年(594年)とされているので、当社はこれ以前の創建となる。なお、当社では伊豆の三嶋大社へも当社から御魂が遷されたとしている
  • June 2016 編集されました
    この摂関家領「安満庄(高槻市安満地区)」を取り囲むように春日神社が多数ある。
    その理由は荘園鎮護のためだと推測され、荘園の北端にある成合庄も荘園を開発した「岩」・「日下部」両氏がやはり春日神を勧請した。しかしそれは藤原氏がこの地に勢力を持っていたためであって、早くてもその時期は藤原鎌足が 磐手杜神社(安満神社)を勧請したころ以降のこととなる。
    以前からこの地に勢力を持っていた「岩」・「日下部」氏とは
    日下部氏は、開化天皇(かいか)の皇子・彦坐命(ひこいます)の子、狭穂彦命(さほひこ)の 後で日下部連とも甲斐国造ともいい、また孝霊天皇(こうれい)の第3皇子吉備津彦命の子の大屋田根子命(おおやたねこ)の後ともいわれる、どちらにしてもきわめて天皇位に近いという 実態のつかめない謎の氏族のようだ。

    もう一方の氏族「岩」であるが、播磨国風土記によると伊和大神とは、大汝命(おおなむち)のことつまり大国主命(おおくにぬし)のことを指している。その「伊和」の語源について、神酒(みわ)からとか或いは大汝命が国作りを終えた宣言に「於和(おわ)」と呟いてこの地に鎮まったからとしている。
  •  大山祗神(駿河国一宮三島神社他) 

     大山祗神は素盞嗚尊の妻の稲田姫の祖父として神話に登場する神である。伊予大三島の大山祗神社では天照大神の兄として、最古と言われている薩摩の大山祗神社ではニニギ命の妻吾多津姫の父として祀られている。これらは同一人物とは考えられない側面があり、その土地の有力者(縄文人?)を大山祗神と呼んでいることがうかがわれる。しかしながら、三島神社で祀られている大山祗命は行動実績を伴っている。東日本地域の一宮級の神社の祭祀の原点を探ってみると大山祗神であることが多い。地域の土着神である可能性もあるが、これは一人の同一人物と考えてみる。
     ① 大阪府高槻市の三島鴨神社は、淀川沿いに有り、大山祇命の最初の降臨地と言われている。事代主神が三島溝杙姫(玉櫛姫)に生ました姫が姫鞴五十鈴姫で、神武天皇の妃となった。 また三島溝杙姫の父神が三島溝咋耳命、その父神が大山祇神となっている。また、この神は九州からやってきたとも伝えられている。饒速日尊は大和に侵入する時の伝説地をたどると、まさにこの周辺に上陸したと考えられる。また、伝承上他の人物で、大山祗神に該当するのはいない。このことより大山祗神と饒速日尊がつながる。
     ② 伊予国大三島の大山祗神社には「わが国建国の大神で、地神・海神兼備の霊神で日本民族の総氏神として、日本総鎮守と申し上げた。大三島の御鎮座せられたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の孫小千命が伊予二名島に(四国)に渡り神地御島(大三島)に祖神大山積命を祀った。」とある。「建国の大神」とくれば、素盞嗚尊・饒速日尊が該当する。日本の総氏神・総鎮守と言うのは素盞嗚尊の活躍が西日本限定であるので饒速日尊が該当する。また、小千命の祖神は「新撰姓氏碌」によれば、「饒速日尊」である。
  • 大山祇神社
    今治市大三島町宮浦3327(平成20年3月24日)
    大三島のほぼ中央に鎮座
    伊予国一の宮です。
    日本総鎮守大山祇神社
    大山祇神社は、瀬戸内海のなかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央にいちして、大小の島々に囲まれた国立公園大三島に、日本最古の原始林社叢の楠群に覆われた境内に鎮座している。御祭神は大山積大神一座で天照大神の兄神に当らせられる。
     天孫瓊々杵尊降臨の際、大山積大神、またの名吾田国主事勝国勝長狭命(大山積神の擬神体)は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神と称せられ地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。
    大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮祭したことに始まる。
      本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称せられ歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。延喜式 には名神大社に列し、伊予国一の宮に定められ、官制に依り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。現在官制は廃せられたが、地神・海神兼備の大霊神と して千古に変わらぬ崇敬を寄せられ、全国に奉斎される大山祇神社・三島神社の総本社として、又数万点に及ぶ宝物類を蔵する国宝の島として四季を通して多数 の参拝がある。
    境内由緒書
     現在の住所は今治市となってしまったが、嘗ては越智郡大三島。創建の頃は由緒書に登場する小千命の子孫、越智氏が支配していたのでしょうか。
  • 三木氏は伊予国河野氏の一族 で、当初浮穴氏を称したが、後讃岐三木郡を領し三木を姓 とした。『英城日記』三木氏は武家ではなく、英賀代官の 統制下にあった裕福な交易業者であり、後に武士化したと思われます
  • 河野氏の来歴を記した『予章記』には、「三並の船ノ紋は一ハマニテアリシガ御方ノ紋ニ其類余多アリケレハ別ニ傍折敷ヲ角違ヘニ挿ムテ舷に立ラル。其影高ク海水ニ浮ヒ波ニヒクタケケルカ三文字ニ見タリ。 其後夷国帰朝ノ嘉例トシテ傍折敷ニ三文字ヲ家ノ紋トシテ定メ玉フ。」と記されている。また『越智系図』には「源頼朝公が征夷大将軍に成った折に北条と河野を酒宴によび、源は一を北条は二を河野は三をと折敷の上に置いた事から、この家紋を使用するように」なったとある。 『予章記』に記された時代には家紋はまだ発生していず、頼朝の酒宴において河野氏の座位が三位であったなどは 到底信じられないことである。いずれも、家門を飾るためになした後世の創作というしかない。
     ちなみに『別本河野系図』には、「角ニ三文字ハ、元暦元年、通信三島明神ヲ封ジ、軍神ト崇メ家ノ紋トス」とあり、もっともありえるべき説であろう。大三島神社を祀る越智氏から出た河野氏にすれば、 大三島神社の神紋である「折敷に三文字紋」を自家の紋とし、大三島神社の神威と加護を願ったものと考えるのが妥当なようだ。
  • 伊予国(現在の愛媛県)に在った古代の「越智国」
    越智国とは『国造本紀』に遺る越智氏の国である。
     同書記載の伊予国内5つの「国造くにのみやつこ」のうち、東予地方には2つの国、即ち1つは小市(おち・越智)国造の国(越智国)で今治市朝倉中心の旧越智郡、いま一つはその西隣の怒麻ぬま国造の国(怒麻国)で旧大西町中心の野間郡、というのが今までの考え方である。

    しかし、『国造本紀』にはないが、宇摩地方(現四国中央市)にも前方後円墳の存在やその他の遺跡、そして「馬評」などの遺物があることから「クニ」の存在が窺われる。一方、この越智国と宇摩国(仮称)の間、つまり旧新居郡(旧新居浜市・旧西条市)、旧周桑郡(旧東予市・旧小松町・旧丹原町)の広大な一帯には国がない。つまりこれらの地は空白地帯となっている。
    そこで、越智国の領域について、古墳やその他の遺跡の分布状況をベースに神社・仏閣及び文化や伝承などから考察を試みた。
     越智国は、初め今治市を流れる頓田川とんだがわ流域の朝倉盆地から発して、その後、西は越智郡の東部・蒼社川そうじゃがわの右岸まで、東は旧周桑郡、旧神野郡(のち新居郡となる旧西条市・旧新居浜市一帯)の新居浜の国領川こくりょうがわ左岸までの範囲であった。その後、更に進んで西は怒麻国の領土と思われる蒼社川左岸から西へと勢力を拡大して糸山付近まで、東は国領川を越え新居郡全域、そして越智郡の島嶼部をも支配圏にしたと考える。つまり、大和朝廷の律令体制(「大宝律令」)に入るまでの越智国は、広大な領域を支配していたのである。

    この国の都は、初め朝倉の「古谷こや」から、その後旧今治市の東部にある「新谷にや」へ移り、更に又この辺り一帯が『日本書紀』天武天皇七年(678)十二月の記事にある大地震により壊滅したと見られることから、海岸線の後退により、穀倉地帯となっていた旧今治市に行政の中心域を移していったと思われる。つまり頓田川河口の海岸部「古国分」のある桜井の地へ移ったのである。また、ここはその後「評衙」になり、大和王朝時代に入って大宝三年(703)伊予国での「大宝律令」による行政区画では「郡衙ぐんが」となり(後述)、これにて越智氏も越智郡の郡司ぐんじとなるのである。

    なお、「伊予国府」は越智郡の「国分」(今治市)に置かれたと考えている。
    このように、越智氏の都や行政府を考察する際、「古谷と新谷」、「古国分と国分」という相対する二つの地名がキーポイントとなった。
  • 「熟田津石湯行宮」

    「いさにはの岡」が石岡神社の鎮座地であるならば、その近くに「熟田津石湯行宮」がなければならない。では一体何処にあったのかを見ていきたい。
     西条の「橘新宮神社」にあるご神像の内部及び『旧故口伝略記』に「熟田津は西田なり」とあり、また同書には「熟田」が「西田」に替わったとも書かれていた。ところが、同じ西条の「保国寺ほうこくじ」に伝わる『萬年山保国禅寺歴代畧記』には「熟田津は橘島」(氷見・石岡神社の鎮座地)とある。何れにしてもこの両方とも西条市内の目と鼻の先である。

    この熟田津は、『日本書紀』斉明紀の「熟田津石湯行宮」と『万葉集』の山部赤人の「伊予之高嶺」を詠った飽(熟)田津を指していると考える。

    また、朝倉の岡家に伝わる『岡文書』の『伊予不動大系図巻』には「石湯行宮の地は新居郡なり」とある。
     その比定地とされる所は具体的に二ヵ所あるが、このうち、私は今のところご神像の文字を重視しているところから、西田説を採る。つまり、石湯八幡宮(現在は移転して橘新宮神社の境内にある)が鎮座していたとされる現在の安知生あんじゅうの地に、「熟田津石湯行宮」があったということになる。道後平野には「にぎたづ」の確かな地名遺存はないが、ここにはあったのである。但し、『万葉集』八番歌の額田王が詠ったとされる熟田津は、「熟田津多元説」で有明海の「諸富町もろとみちょう新北にきた説」を私は支持する。拙書『新説伊予の古代』で詳述しているが、ここで一つだけその理由を述べると、“多島海”の、しかもこの近辺は最も潮流の激しい所であり、“夜”船団を出すなどとは到底考えられないため、西条からの出航は無理と思っているからである。
     次に石湯であるが、古田史学の会・今井久氏は「熟田津石湯行宮」の「石湯」は、この地方に数多く見られる“石風呂”であると言っている。氏の論証の概略は次のようである。

    出所:
    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/masakisi/nigita28.html
  •  河野氏は源頼朝が挙兵すると源氏方に組みし、奥州征伐にも参戦、その功績により伊予惣領職となります。
     そして「建武の新政」では足利尊氏に付いた河野通盛が伊予守護職に任ぜられます。 ところが幕府管領細川頼之が伊予国へ侵攻、武力で守護職を奪い取ります。
     河野家再興を託された河野通直は南朝方に降り、幕府征討軍を撃破し、細川勢を伊予国より排除します。 細川氏も反撃に出ますが、幕府内の細川氏対斯波氏の権力闘争に付け入り、河野氏は幕府(北朝方)に帰順して伊予守護職に復帰します。
     その後、伊予国東部の新居郡・宇摩郡の割譲を条件に和睦が成立、河野家再興を成し遂げます。
     その後河野氏は在地の有力土豪や海賊衆らと姻戚・主従関係を結び、着々と勢力を伸ばしていきました。 越智・河野氏流の氏族は以下の通りです。
      別宮・石田・風早・寺町・北条・弘田・児島・小千・高市・吾河・井門・石井・
      水渚・南・浅生・近江・萱戸・梢・御谷・排志・新居・吉田・井出・上戸・周布・
      桑村・高橋・英多・嶋山・得能・土居・別府・久枝・甲曽・大瀬・中川・壬生・
      桑原・壱岐・因島・白石・浮穴・田窪・田井・遠藤・浅海・久万・難波・小倉・
      松末・稲葉・重見・野島

     「応仁の乱」が起こると、守護河野教通は東軍細川勝元に組みし、一方分流の予州家河野通春が西軍に付いたため河野氏の内紛が起こります。 そして有力国人らの反抗、他国の大名の進出によって伊予国は動揺し始めます。
     では戦国期の有力国人勢力をみてみます。
     まず守護河野氏を支えた河野十八将と呼ばれた家臣団は以下の諸氏です。
      村上(3)・今岡・忽那・得能・南・大内・久枝・土居・松末・平岡・和田・戒能・
      正岡・中川・桑原・黒川
     続いて地域別に記します。
     宇摩郡には、豊田氏・馬立氏・河上氏・妻鳥氏・真鍋氏・薦田氏があります。
     新居郡には、越智氏流新居氏の発祥地で一族が広がっています。 また同郡高外木城の石川氏は金子・松木・高橋・藤田・近藤・徳永・塩出・薦田・野田らを配下に郡域に勢力を得ています。
     周布郡には宇野氏のほか、新居郡の新居氏や桑村郡の得能氏が進出しています。
     桑村郡からは、得能氏・壬生川氏・桑原氏・黒川氏が出ています。
     越智郡は伊予国府あった中心地であり、越智氏発祥の地です。越智・河野氏の勢力が強い地域です。 今岡氏・拝志氏・高橋氏・桜井氏・山本氏・岡部氏・村上氏があります。
    なかでも村上氏は海賊村上水軍として知られ、能島・来島・備後因島を拠点に活動し、能島村上・来島村上・因島村上と呼ばれました。室町時代には河野水軍の配下となります。
     野間郡・風早郡は河野氏の発祥地河野郷があり、有力庶家が分出しています。得居氏・南氏・重見氏があります。
     和気郡には、河野氏族が広がり、久枝氏・大内氏・福角氏があります。
     温泉郡には河野氏の本拠湯築城があり、室町時代から威勢を振るった地域です。河野氏族の垣生氏・松末氏があります。 海上の忽那諸島の二神島からは二神氏、忽那島からは海賊衆旗頭忽那氏が出て、戦国期には河野氏の被官となっています。
     久米郡には、田窪氏・白石氏・和田氏・戒能氏・佐伯氏・日吉氏・平岡氏があります。
     浮穴郡には、合田氏・仙波氏・砥部氏・大野氏があります。 なかでも大野氏は喜多郡大野(?)に発祥したとされ、浮穴郡に進出し、郡域に勢力を拡大しています。 配下の諸氏には中川・寺西・宮原・佐川・高岡・赤松・松室・名本・黒川・土居・日野・東・林・小倉・鶴原・梅木・船草があります。
     喜多郡には、鎌倉時代に喜多郡の地頭職を得た下野藤原姓宇都宮氏流の宇都宮氏が定着し、大洲を本拠地に勢力を拡大します。 一族には曽根氏・井上氏・栗田氏があり、被官には都築谷氏・二宮氏・上須戒氏・向居氏・摂津氏がいます。 その他に大野氏族の城戸氏・富永氏があります。
     宇和郡には、京から公家西園寺氏が入り勢力を拡大させます。 配下の諸氏に南方氏・三善氏・熊崎氏・久枝氏・富永氏・鎌田氏・久良氏・白木氏・魚成氏・北之川氏・勝山氏・芝氏・法華津氏・土居氏がありました。 その他、南予の津島からは津島氏、が出ています。
  • October 2017 編集されました
    大山祇神社元宮、横殿宮

    「みたらしの井戸」は、現在も大山祇神社へ献上する禊の水。
    大山祇神社が本来あった場所とされている 元宮のすぐ側にあります。

    大山祇神社に三島明神が祀られたのは、
    現在の神社境内の中央に聳える楠が植えられたとされる2600年前、小千命が、ここに神を祀ったことが始まりとされます。

    一方、大山祇神社の由緒では、大山祇神社はもともと現在の宮浦の反対側、現在の上浦町瀬戸にあったとされます。
    この説が一般的な大山祇神社の始まりとされています。

    594年推古天皇の御代、三島逈戸浜(上浦町瀬戸)に大山祇神社が建てられ、その神社を「横殿の宮」と言ったと書かれています。

    そして更にこれより前、崇峻天皇589年、神託により、小千益躬は三島逈戸浜 「鼻刳瀬戸」の御神木に鏡をかけ祀った(大山積神を)ことが始まりです。

    小千益躬とは、崇峻天皇の御代、靺鞨(まつかつ)の国より鉄人が八千の兵を率いて攻めてきたのを、播磨の国で討ちとったといわれる英雄。
    この横殿の宮に大山祇神社が建てられることになる原点もまた、この小千益躬です。


    589年、三島逈戸浜 「鼻刳瀬戸」の御神木に鏡をかけ祀ったとされる伝承と同じ時、これと同じような伝承の場所が、ここ今治市内にあります。それが、現在「鳥生」と言われる場所、以前お話した今治市鳥生祇園町に鎮座される三島神社です。この三島神社は地元の人からは祇園さんとよばれています。

    祇園町に鎮座される三島神社の由緒
    この神社の原点は、小千益躬にあり、
    第三十二代崇峻天皇、御宇2年(589年)に、この地方の豪族小千直益躬(おちあたいますみ)が、靺鞨(まつかつ)の国より鉄人(強い武人)が八千の兵を率いて攻めてきたのを、播磨の国で討ちとり、木の下の浜(今の鳥生の浜)へ凱旋し、自ら榊の大樹に鏡をかけて大山祇の大神を祀ったので、木の下三島宮と呼ばれていた。この木の枝に多数の白鳥が巣を作り、ひなを育てたので鳥生の宮と称し、地名も鳥生としたと伝えている。


    この鳥生の宮のほうの伝承には、三島明神(大山積神)の本当の姿を伝えている。
    「白鳥」 この白鳥とは 「鷺」のことです。この鳥生に現れた鳥は、烏ではなく 鷺。 それは月の女神の神使だったのです。



    河野氏の来歴を記した文書
    「予章記(よしょうき)の中の鉄人伝説です。

    予章記以外では、
    小千益躬が戦った相手 「鉄人」とは、靺鞨(まつかつ)の国からやってきたとされているのですが、予章記には、「鉄人」とは 「百済」からやってきたと書かれてあるのです。

    この後、斉明天皇時代にかけて日本が見方をし、援護するために多くの軍勢を送ったのは、百済とされているのに、、、、

    「小千家」はこの越智玉澄から 「越智」に変わったとされています。
    そして、小千益躬が祀った場所は、瀬戸ではなく、この鳥生。

    ここ横殿宮 瀬戸に祀られた大山積神は、「三島明神」とは違うのようです。


    安神山の大蛇は、追い出されました。
    『三島宮御鎮座本縁』の中で、そのことも書かれています。

    文武天皇701年、越智玉澄が宮浦へ大山祇神社を建立しようとしていたのですが、安神山にすむ大蛇が悪さをして移すことができないため、この山に「五龍王」を祀り追い出したと。

    この安神山にすむ大蛇とは、姫のことだったのです。

    現在元宮のあったとされる瀬戸周辺には 「曽我」という名前が多く、現在の大山祇神社がある宮浦側には 「藤原姓」が多い

    現在の元宮 横殿宮は、楠の森の中にひっそりと小さな社殿が鎮座されているだけの寂しい境内。大和と出雲を結ぶスサノオと曽我氏
  • October 2017 編集されました
    地元の人は 「祇園さん」と呼ぶ祇園神社

    今治に残る、伝説の人 「小千直益躬(おちあたいますみ)」が、鎮座した神社
    小千直益躬が、靺鞨(まかつ)の国より鉄人(強い武人)が八千の兵を率いて攻めてきたのを、播磨の国で討ちったという伝説は、以前お話しましたが、、その時、木の下の浜(今の鳥生の浜)へ勝って帰ってきました。そして、自ら榊の大樹に鏡をかけて大山祇の大神を祀ったのが、この神社の始まりといわれ、「木の下三島宮」と呼ばれていました。
    そして、この木の枝に多数の白鳥が巣を作り、ひなを育てたので鳥生の宮と称し、地名も、現在の鳥生としたと伝えています。

    現在の地名でも、残っている、鳥生(とりゅう)の原点は、 三島明神だった。

    この神が、大三島から来たとされる、年月です。ここ、鳥生に鎮座したのは、589年です。
    しかし、大三島瀬戸に、大山積命が、鎮座したのは、593年です。もし、大山積命を、勧請したのであれば、この593年以降でなければなりません。それより、前に、この地に勧請しているのですから、この神さまは、大山積命ではないということになる。

    三嶋神社
    今治市祇園町1丁目1番63号
    祭神
     三嶋神社 大山積命(おほやまつみのみこと)
     祇園神社 須佐之男命(すさのをのみこと)
    *境内社
     御鉾神社
     荒神社
     貴船神社
    *祇園神社由緒
     祇園神社は、八坂大神(須佐之男命)を祀ったことにはじまる。

    587年、蘇我馬子は穴穂部皇子を暗殺するという強行策に打って、さらに豪族をまとめ上げ、物部守屋を激戦の末に討ち取ることに成功したのです。当初は蘇我氏側が劣勢でしたが、ここで神秘的な力を発揮したのが14歳の厩戸皇子(うまやどのみこ)、いわゆる聖徳太子だったといわれます。用明天皇の息子である彼は、木で仏像を彫り、兵士達の心の拠り所とすることで大幅に士気を高め、一気に戦局を覆した・・・ようです。どこまで本当か解りませんけれども。
  • 隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、高句麗は孤立した。さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、高句麗の国力消耗は著しくなり、その上に淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを機に唐・新羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、668年に宝蔵王は投降。ここに高句麗は滅亡した。

    滅亡後
    北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。剣牟岑など高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金に取り込まれていき、歴史から姿を消した。
  • 三嶋神社と小田原の曽我村

    大山祇命  (おおやまづみのみこと)
    事代主命  (ことしろぬしのみこと)
    大山咋神  (おおやまくいのかみ)
    伊弉諾尊  (いざなぎのみこと)
    弟橘姫   (おとたちばなひめ)
    伊古那比賣命(いこなひめのみこと)
    宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
    白山媛命  (しらやまひめのみこと)
    菅原道真公 (すがわらみちざねこう)

     創建は詳らかではありませんが、古くから「大井の宮」と呼ばれ、この辺り一帯(旧曽我村、即ち現在の大井町上大井、西大井、小田原市鬼柳、小田原市下大井)の鎮守として祀られていました。

     一方、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、源氏の再興を願って静岡県三島市にある三島大社を祈願所とし、参拝を怠ることがなかった、といいます。
     治承4年(1180)、挙兵に成功し源氏の再興を果たした頼朝は、神々のご加護のおかげであると、まず三島大社を修復再興し、続いて各所八カ所に三嶋神社を勧請しました。当社はそのなかの随一のお社であると縁起録は伝えております。
    頼朝は当社を守護神と崇め、建久元年(1190)後白河法皇に拝謁するために上洛する途中や、同4年(1193)富士野に巻き狩りに赴いた際など、機会あるごとに当社に参拝奉幣しています。
    頼朝によって三島大社のご分霊を受け勧請された当社は、「大願のかなうお社」「武家の守護」として執権北条氏や関東管領足利氏、小田原北条氏など武門武将の尊崇を受けてきました。
    小田原北条氏二代目当主の北条氏綱は、大永2年(1522)に当社に対し神田を認定し、境内の山林竹木の保護、社人の服務などについて厳しい規則の条目を定め、法度状を発行しました。この法度状は、現存する最古の虎の印判状です。
  • 伊予橘氏 
    本姓 越智氏庶流
    家祖 橘実遠
    彼らが祭神とする 大山祇神 はイザナギ・いざなみの子供。
    越智氏の奉祀する大山積神は、「二十一社記」に賀茂社と同じく天神に属するとあり、伊豆の三島大社に賀茂氏系の言代主神と合祀されることから、賀茂氏との親類関係が窺える。

    余談だが、愛媛県西条市にある伊曽乃神社社家の御村別(みむらわけ)氏の支族に、伊予賀茂氏とか賀茂伊予氏という氏族もある。「いその」神社というからには、海人系であろう。

    因みに遠祖は、息長氏系の12代景行天皇と阿倍氏の高田媛の子、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこと)で、吉備氏系の倭建命や、讃岐氏の祖の神櫛別命、空海を出した佐伯氏の祖、稲背入彦命の異母兄弟にあたる。

    また、倭建命と大吉備建比売(おおきびたけひめ)の子、十城別王(とおきわけのみこ)が、伊予別(いよわけ)君の祖となり、伊予を本拠地としていたことから、吉備氏との関係も窺える。御村別・伊予別の両氏は、後に「和気氏」を名乗った。和気が 「佐田」から 出る。

    摂津高槻の 鴨神社は 全国の三島社の大本で、大山祇神が関与する。
  • 足高神社[アシタカ]
    足高神社[あしだか]「大山津見命 配 石長比賣命、木之花佐久夜比賣命」岡山県倉敷市笹沖字足高1033 玄松子の記憶
    足高神社(帆下げの宮)参拝のしおり
    御祭神 大山津見命
    国土御守護の御神で、土上に繁殖する五殻は基より人類草木金銀によらず一切の物を 守り給うので、その功徳の広さは、大きな山を積み重ね足る如くで、その御名が付い たといわれます。

    配神 石長比売命
    寿命御守護の御神で、人の寿命を堅磐常磐に長久するようにと、その御名が付いてお ります。

    木之花佐久夜比売命
    熱の病を治せられ給う御神で、その名のとおり桜の花の様にやさしく美しく安産の御 神でも、あらせられます。

    鎮座
    現存する神社記録の最古の書は、平安時代・醍醐天皇九二七年(延長五年)に編纂さ れた延喜式神名帳です。式内社とは、延喜式内社の略称です。延喜式は、国家行政の 基本的施工細則であり、その第九・十巻が、神名帳で、これには当時の代表的な神社 二千八百余を全国にわたって例載しています。これらは、いわゆる官社で、いずれも 国家の宗祀とあがめられ神社信仰の中心的存在で、この書のなかに足高神社は記載さ れており、備中十八社の一なる最古社であります。御鎮座の年代は、人皇第十代崇神 天皇の御代に勧請され、今から約二千年前です。

    皇室との関係
    寛和元年(九八五年)花山天皇の御代、足高神社神宮寺神遊山、神宮寺遍照院に三重 塔の建立あり。
    天暦元年(九四七年)二月十六日村上天皇は藤原兼成卿を遣わして、奉弊御祈願の儀 あり。翌三年不思議な霊験あり神殿を御造営になり、有紋の御幕勅書を御奉納
    乾元元年(一二四三年)後二条天皇の御代、足高八幡大菩薩の勅額の御下賜。
    延慶元年(一三0八年)花園天皇の御代、勅額と獅子頭一対を御下賜。

    武将の信仰
    建徳元年(一三七0年)九州探題として赴任の今川定世公は、海路の航海の安全を祈 願され狛犬を御奉納。
    徳川時代備前池田公の支藩、鴨方池田氏の祈願所として尊信せられ、代継ぎの際は、 代々必ず参拝なさいました。

    帆下げの宮
    足高山は、四百年前は、海中に浮かぶ一孤島であり、小竹島、笹島、戸島、藤戸島、 吉備の小島、奥津島とも呼ばれ、東西航行の要路であり、潮流が激しく鳴門の如く、 渦が巻いていたといわれており、通る船は、全て帆を下げ、島上の足高の神に、敬意 を表し難を逃れた為、帆下げの宮と称して、あがめ奉りました。古の海路は、現在、 国道二号線バイパスとなり、船に代わり、車の交通安全にお参りされる方が、とみに 盛んとなっております。
  • 『予章記』には、三島大明神の旧祉降臨の時期を、
    崇峻天王御宇、当国迫戸の浦に天降り玉ふ。故に此浦に社壇あり、今横殿と号す。其時迄は見島也。
    との記事もあり、崇峻天皇(すしゅんてんのう)の時代としている。

    また、『三島宮御鎮座本縁』にも、どういうわけか、
    33代崇峻天皇の己酉二年、神託により、大山積皇大神を播磨国より伊予国小千郡鼻繰瀬戸嶋に遷し、小千益躬これを崇め祭る。木枝に鏡を掛けてこれを祭る。
    (木村三千人著『瀬戸内風土記』ほか)

    との記事もある。


    ところが、この伝承は今治市祇園町の三嶋神社の由緒にもあり、こちらは大山祇神社の祭神を祀るとなっているが、
    第三十二代崇峻天皇、御宇2年(589年)に、この地方の豪族小千直益躬(おちあたいますみ)が、靺鞨(まつかつ)の国より鉄人(強い武人)が八千の兵を率いて攻めてきたのを、播磨の国で討ちとり、木の下の浜(今の鳥生の浜)へ凱旋し、自ら榊の大樹に鏡をかけて大山祇の大神を祀ったので、木の下三島宮と呼ばれていた。この木の枝に多数の白鳥が巣を作り、ひなを育てたので鳥生の宮と称し、地名も鳥生としたと伝えている。
    (『愛媛縣神社誌』)

    とのことである。
  • October 2018 編集されました
    日向の大山祇と木花咲耶姫

    大阪府高槻市の三島鴨神社は、淀川沿いに有り、大山祇命の最初の降臨地と言われている。事代主神が三島溝杙姫(玉櫛姫)に生ました姫が姫鞴五十鈴姫で、神武天皇の妃となった。 また三島溝杙姫の父神が三島溝咋耳命、その父神が大山祇神となっている。また、この神は九州からやってきたとも伝えられている

    前方後円墳でも初期のものとされる柄鏡式型の伝大山祗古墳
    この石貫神社からもそう遠くはないところにあるのがコノハナノサクヤヒメを祀る都萬(ツマ)神社です。
    つまり、父は娘にあたる大山祗を祀る石貫神社とコノハナノサクヤを祀る都萬神社が揃っているのです。
  • 西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。(中略)
    由緒
    当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。
    社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。
    (中略)
    石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。
  • October 2018 編集されました
    「大日本史神祇志」によれば、
    伊勢国度会郡の園相神社は、大水上子曽名比々古命を
    祀るという。大水上とは大山祇の別名のことであって「神名秘書」では、伊勢宇治の大水上社は、大山祇御祖神で、倭姫の命の御世に定まった祀なりという。群書類従にもこれはあるにはある。
     寒川神は、その御子神におわせるのである。「神祇志」伊勢国度会郡の条に「牟弥(ムミノ)神社」として大水の上子寒川比古寒川比女命をまつるとでているのは宮下
    本家のものが正しい。


    「大山阿夫利神社は大山祇神をまつりて同社は兼ねて雨の神におわせるなり」と、伴信友はその「神名帳考証」に「阿夫利神社は世に称する大山これなり、平田篤胤が門人守屋に言っていわく、
    『大山を土地の者に雨降山という、八大龍王の社あり八大龍王とは仏者どもの言にて
    は実は雨にておわすのであるゆえ、雨降山という』と教えしを思うべし、右大臣の歌
    に八大龍王雨止め給へと詠じたるも、この山には由緒ありげなりともいうべきなり」
    と、大山祇神を、水上神とはせず雨降らせ神に変え、阿夫利神社であるとし、アブリは
    アマブリとなした。
  • 大三島の大山祇神社(伊予国一の宮で日本総鎮守の肩書きを持つ)を調べていて意外な事実を発見! その意外な事実とは性別不詳の大山積神の別名の一つが吾田国主事勝国勝長狭命であること。薩摩半島南西部に位置する吾田は天孫ニニギノミコトが大山積神の娘コノハナサクヤヒメ(本名・神吾田津姫)に初めて出会った場所。まさに大山積神管轄の土地(奥さんの土地)で両者が出会うようセッティングされています。 時代を遡ると出雲神話に登場していた足名椎&手名椎夫婦も大山積神の子・・ ということは出雲もまた大山積神の領土だったはず。そして大山積神管轄の土地に落ちて来たのが高天原のやっかい者だったスサノオノミコト。スサノオノミコトの妻となり八重垣の宮殿で暮らしたクシナダヒメは大山積神直系の孫ということになり、遠い神代の時代から人の世に至るまで大山積神は大きな影響力を持っていました。
                          
  • 三嶋龍神

    大水上神社という社号からもわかりますが、ここは水源神をまつる社です。境内の由緒案内紙には「悠久の昔、水の恵を求め岩畳なす清流の源に神を祀り、大水上と称えた」とあります。
     同社の過去の祭祀経緯については具体的にふれえませんけれども、現由緒案内は、本社祭神ほかについて、次のように述べています。

    延喜式内社・讃岐二宮  大水上神社
    御本社  祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
     太古より水霊の神として信仰が厚く、延喜式内社で、讃岐二宮と称えられている。社の鎮座する宮川流域は弥生文化の遺跡が多く、境内は古代祭祀遺跡の宝庫。御本社の奥に夫婦岩と称する磐座がある。

    滝の宮神社

     祭神の「滝田比古[たつたひこ]命・滝田比売[たつたひめ]命」は、「滝田」をあえて「たつた」と訓じているところをみますと大和国の龍田神社の祭神に擬したものでしょうが、それはおくとしても、滝宮神が「古くは三嶋龍と称されていた」という伝承の一言には注意がいきます。「古くは」がどれほどさかのぼる古さなのかは不明ですが、「三嶋龍」が滝神であったことは、大三島・大山祇神社(の由緒)がけっして語らないことです。大山祇神社の元の旧跡地の水霊神を御手洗神こと瀬織津姫神とみますと、この神こそ「滝神」でもありましたから、大水上神社の伝承は貴重です。
     ところで、滝宮神は「鰻渕の神」とあり、また「雨の神」(祈雨神)でもあったようです。鰻渕は宮川上流、大水上神社本殿右背後にあり、そこには、次のような案内板が立っています。

    うなぎ淵(竜王淵) 雨乞神事遺跡
     昔から旱ばつ時、参籠潔斎の上、淵の水を桶でかいだす神事が行われた。黒白の鰻がすみ、黒鰻が姿を見せると雨、白鰻がでれば日照りが続き、蟹が出ると、大風が吹くといわれた。
  • 鰻淵(竜王淵)と大水上神社本殿

     うなぎ(鰻)淵は「竜王淵」の異称をもっていたわけですが、「竜王淵」は、ここに「三嶋龍」がまつられていたことによる名称でしょう。
     この竜王淵の近くには「大師参拝の神言」とされる、大師(弘法大師)こと空海の歌を刻んだ石碑があります。

    往来は心安かれ空の海
       水上清きわれは竜神

     空海は大水上神社へ参拝して、その境内社の神をわざわざ詠んだわけではないでしょう。空海は、大水上神社の本来の神を「水上清きわれは竜神」と、神(三嶋龍)になりかわって詠んだものと読めます

  • 風神・龍田大社は、大和川を挟んで、水神・廣瀬大社の真西に鎮座している古社。
    創建は崇神天皇の御世からといわれ、延喜式巻八には『龍田風神祭』の祝詞が記載され、さらに二十二社に指定されている大社

    三郷駅から龍田大社に向かう途中に小高く独立した丘がある。
    生い茂る木々の中にある参道を登ってみると、頂上に祠があった。
    龍田大社の南側に位置するこの社は神南備神社といい、龍田大社の境外末社。

    神南備神社
    神南備とは神様がお住まいになる森という意味で、神名人、甘南備とも書き「かむなび」と読む。
    山が平地に接する端山にある。
    立野の神南備は、飛鳥の神南備と共に有名で、万葉集にも十首以上詠まれている。

    清き瀬に 千鳥妻喚び
    山の際に 霞立つらむ 甘南備の里
    (万葉集 巻七、1125)
    神南備の 伊波瀬の杜の 呼子鳥 
    いたくな鳴きそ 我恋益る
    (万葉集 巻八、1419)
    神名火の 磐瀬の杜の ほととぎす
    毛無の丘に いつか来鳴かむ
    (万葉集 巻八、1466)
  • December 2018 編集されました
    龍田大社は、日本書紀の天武天皇の巻にて、次のように記されている。

    『天武天皇四年(675)三月十日、小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わして、風神を竜田の立野に祭らせた。小錦中間人連大蓋・大山中曽禰連韓犬を遣わして、大忌神を広瀬の河原に祭らせた。

    今から約二千百年前、第十代崇神天皇の御代、国内に凶作・疫病が流行し騒然としている中で、天皇の御夢に・・・
    『吾が宮を朝日の日向う処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定めまつり云々』
    という御神託があり、その通りに御宮を造営すると疫病は退散し豊作に成ったとあり、当社の創建と考えられます。(延喜式・龍田風神祭祝詞より)

    摂社に祀られている龍田比古神・龍田比売神は、この土地周辺の氏神様として信仰されており、「龍田」の地名は、初代神武天皇即位前に遡る古い地名です。(式内社『延喜式・神名帳』より)

    風鎮大祭の締めくくりは、有名な『風神花火』。
    約5メートルもの火柱が上がる壮観な手筒花火、そして拝殿前の支柱に設置された花火はまるでナイアガラの滝のように大地に降り注ぐ。
    風神花火の由来は、廣瀬大社の「水」に対するものとして、龍田大社では「火」が祀られていることとから由来している。
    この両社は陰陽的な関係のお社として今も永く崇敬されている。
  • 風神

    『伊勢風土記 逸文』に、伊勢の国名の由来として、
    「伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、
    出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。
    此の神、石もて城を造りて此に坐しき。
    ここに阿倍志彦の神、来奪ひけれど、勝たずして還り却りき。」
    とある。
    当社の神は、伊勢津彦命であり穴師の神、つまり風神ということ、
    出雲系の神であることなどから、諏訪神に近い存在かもしれない。
    また、ここで争い追い返した、阿倍志彦の神は、敢国の神のことか
  • December 2018 編集されました

    都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか と思われる。我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族) がこの柘植へ移住してきたことは、伊勢風土記逸文に「伊 賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、又の名 は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城 を造り、其の地に坐しき、ここに阿倍志彦の神、来り集い 勝たずして還り却りき。因りて名を為しき云々」とあるこ とからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた 神であることは事実のようだ。
     この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神 ともいって上柘植村の産土神として祀られていたが、寛永 二十一年(一六四四)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年 (一六四六)今の地に移されたことは、種々の古文書から明ら かであるし、その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌 年八月二十七日)も町文化財として今日残されている。
     この神社の祭神は栲幡千々比売命、布都御魂命、布津主命外三十三柱となっているが、又他の一本によるともとの 祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。
     都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治四十二 年四月)後、大正十一年七月に現社号に改称されたもので 倭姫世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、二所皇太神宮遷幸要略等 にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもの で、即ち都美恵は柘植の古語であり神宮縁りの地でもある。

    敢国神社

    創祀年代は不詳。
    「敢國」と書いて、「あへくに」と読む。
    阿拝郡に居住した、阿閉氏が祀ったと考えられ、
    祭神は、その祖神・大彦命。
    孝元天皇の皇子・大彦命は、
    阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖。
    阿閉臣は、大彦命の子・大稲輿命の子孫。
    当社の北1Kmには、大彦命の墓と言われる御墓山古墳がある。

    当社は南宮山の麓に位置しているが、
    南宮山は、円融天皇貞元二年(977)、
    美濃国一宮・南宮大社から、金山媛命を勧請したもの。
    小冨士嶽と呼ばれる南宮山には、それ以前から磐座信仰があったと思われ、
    当社の南400mには、大石明神と呼ばれる黒岩があった。

    また、南宮山は、国見山とも呼ばれており、
    織田信長の伊賀侵攻の折には、信長が南宮山に登り
    国中の様子を観察したという。

    また、『梁塵秘抄』には、当社を
    「をさなきちごの宮」と記されており、
    少彦名命祭神説もある。
  • どちらが伊賀の一宮?

    消された風神、、、、出雲健子
  • December 2018 編集されました
    敢国神社

    当社は、一宮諏方社と記した記録もある。
    当社のある伊賀国と山を隔てて甲賀があり、
    甲賀の地頭であった、甲賀三郎が諏訪明神になったという話は有名。
    当社がこの地方の諏訪信仰の中心であったと考えられる。
    諏訪明神を伊勢津彦神とする説もあり、
    当地と諏訪との関係が興味深い。

    そういえば、諏訪社も諏訪南宮と呼ばれる場合がある。

    また伊勢国風土記で、伊勢津彦神が、神武東遷にともなって、
    天日別命に国を譲れと迫られた時、初めに「不敢聞命」と命令を聞かず、
    最後に「吾敢不居」と答えて、土地を去り国を譲るが、
    この「敢」て国譲りした説話と当社社号は関係あるのだろうか。


    都美恵神社御由緒

     当神社の起源は古く、西紀2、3世紀以前と推定されるが、元は霊山中腹の穴師谷に祀られ、「穴石大明神」として崇められていた。しかし、寛永21年(1644)の大洪水によって社地社殿悉く欠潰し、正保3年(1646)現在の地に遷され今日に至っている。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。