天津彦根命、東国諸国造系譜

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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天津彦根命--天目一箇命(天御影命)--意冨伊賀都命--彦伊賀津命--阿目夷沙比止命--川枯彦命--坂戸彦命-…

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  • 多度大社 一目連神社 たどたいしゃ

    三重県桑名市にある。
    多度山(403m)の南麓に境内がある。
    多度神社

    ◆祭神
    本宮 多度神社 天津彦根命
    別宮 一目連神社 天目一箇命

    御祭神の天津彦根命は、天照大御神と速須佐之男尊との御誓約による五男三女の御子神の第三皇子であらせられる。『新撰姓氏録』に「桑名首、天津彦根命の男、天久之比乃命の後なり」とあり、北伊勢地方を支配した豪族が氏神として奉斎した神で国土開拓・産業開発・商工業繁栄の守護神である。
    天目一箇命は、天津彦根命の御子神であり、『古語拾遺』により、伊勢忌部氏の祖であることが知られる。天照大御神が天の岩戸にお隠れになった際にも、刀・斧を作り活躍された神で、金属工業の守護神(製鉄・金作りの神)である。さらに、雨や風を支配され、生きとし生けるものの命のもととなる農業水産を守護し、諸難を滅し、諸願を成就する神で古来神殿には御扉を設けない造りになっている。
    ◆由緒
    古来より標高403メートルの多度山が、神体山として信仰され、古代祭祀を物語る磐座が山の中腹に存する。社伝によると五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる。
    『延喜式』巻九神名帳の桑名郡十五座のうち「多度神社 名神大」とみえ、いわゆる延喜名神大社である。後一条天皇の御代に、東海道六社の一社にかぞえられ、天皇即位後の御一代一度の奉幣に預る神社として大神宝使が派遣され、宣命・幣帛・神宝が奉られ朝廷の厚い崇敬を受けた。
    奈良時代末期に、満願禅師が多度神の託宣を受け、天平宝字七年(763) に多度菩薩を中心とした三重塔二基・法堂・僧房からなる神宮寺(日本で三番目)を建立した。後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となった。さらに、鎌倉時代の弘長元年(1261)には正一位が授けられ、南北朝時代の暦応年間には多度祭の上げ馬・流鏑馬神事が始まったと伝えられる。しかし、元亀二年(1571)に織田信長の兵火にかかり、社殿宝物をはじめ神宮寺も焼失し、一時社頭は荒廃したが、徳川氏が天下を治め平和な世となるとともに、桑名藩主本多忠勝・忠政の支援により本殿以下の社殿・神事が復興された。桑名藩主が松平家に替わった後も、桑名地方の守護神として厚く崇敬され、社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれ、藩例として毎月正月には藩士が代参する習しであった。また、当代の庶民の伊勢参宮の折りには、北伊勢大神宮とも称される当神社を必ず参拝した事が「お伊勢まいらば、お多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と謡れていたことからも明らかである。
    明治六年に県社、大正四年には国幣大社に列格し、天皇・皇后両陛下よりもたびたび幣饌料が供せられ御神威はいよいよ高くなり、全国より多くの参拝者がある。
  • May 2016 編集されました
    三上氏  天津彦根命----天御影命----天麻比止都禰命----意富伊我都命----彦伊賀都命----天夷沙比止命----川枯彦命----坂戸毘古命----国忍富命----天加賀美命(亦名・天世平命、更名・天水與気命)----鳥鳴海命----八倉田命----室毘古命

    煩雑になり過ぎるので系図の中に入れていませんが、三上氏の血族はニギハヤヒに始まるとされる物部諸氏とも深いつながりを持ち、その一端を紹介すると、およそ次のような勢力圏を形成しています(註・物部氏などが伝えている系譜と異なる部分もあります)。

      ① 彦伊賀都命の兄弟が凡河内直(彦己曾根命)および山背直(阿多根命)の祖先となっている。
      ② 川枯彦の姉妹・川枯比売命が穂積氏の祖である大禰命に嫁いで出石心大臣命と大矢口宿禰を生んでいる。また、もう一人の姉妹・御食津媛命は
         恩地神主の祖である御食津臣命に嫁ぎ伊賀津臣命を生んでいる。
      ③ 坂戸毘古命の姉妹・坂戸由良都媛命が物部氏宗家の出石心大臣命の妻となり内色許男命、内色許売命(孝元皇后、開化帝の母)を生んでいる。
      ④ 国忍富命の姉妹・新河小楯姫命が采女臣の祖である内色許男命に嫁いで大水口宿禰を生んでいる。また、もう一人の姉妹・富炊屋姫命は
         中臣連の祖である梨迹臣命に嫁いで三名の男子を儲けている。
      ⑤ 天加賀美命の兄弟・筑箪命の子・忍凝見命(オシコロミ)が筑波を始め各地の国造九家の祖となっている。
         また姉妹である息長水依比咩命が日子坐王の妻となり丹波道主王を生んでいる(孫娘の日葉酢媛命は垂仁帝の皇后)
  • 三重県員弁郡東員町山田に鎮座する、鳥取山田神社

    三岐鉄道北勢線の東員駅から南に七〇〇メートルほどのところです。
    『延喜式』神名帳の伊勢国員弁郡に、「鳥取山田神社」がみえます。

    祭神は、角凝魂命、天照大神、大山祇命、誉田別命、稲倉魂神、火産霊神、須佐之男命、菅原道真公。

    御巫清直『伊勢式内神社撿録』をはじめ、社号の「鳥取」は姓氏、「山田」は地名と考えられています。
    『姓氏録』右京神別に鳥取連氏は、角凝魂命の三世孫・天湯河桁命の後裔であるといいます。
    祭神の角凝魂命は、これを根拠にあてられたようです。
    明治四十一年に近隣の十四社を合祀しています。

    天湯河桁(天湯河板挙)命は垂仁紀に鳥取造の始祖としてみえ、誉津別王に関係して鳥取部の起源が語られる伝説があります。鳥取造は、天武十二年に連の姓を賜りました。
    その鳥取氏が、鳥取部を管理する職掌を負っていました。鳥取部のひとつは、当地一帯にも置かれていたと見られます。

    員弁郡には猪名部氏の奉ずる猪名部神社があり、隣りの朝明郡には穂積氏の穂積神社、殖栗氏の殖栗神社があります。
    鳥取部は、捕鳥部万が物部守屋大連に仕えていたことから見ると物部氏との関係が強く、これら物部氏族と同時期に、北勢地方へ進出してきたのではないでしょうか。
  • 天津日子根命は、凡川内国造(河内国)、額田部湯坐連(北茨城国造額田部連等)、 茨城国造(常陸国茨城郡)、倭田中直(大和国生駒郡内)、山代国造(山城国)、 馬来田国造(上総国望陀郡)、道尻岐閇国造(常陸国多賀郡の一部)、 周芳国造(周防国)、倭淹知造(大和国山辺郡)、高市県主(大和国高市郡)、 蒲生稲寸(近江国蒲生郡)、三枝部造の祖。

    天津日子根命 を祀る神社

    多度大社 三重県桑名市多度町多度1681
    荒木神社 静岡県伊豆の国市原木90
    己爾乃神社 滋賀県守山市洲本町2322
    室津神社 高知県室戸市室津字船久保3241
    高市御縣神社 奈良県橿原市四条町宮坪761
    伊努神社 島根県出雲市西林木町376
    真名井神社 島根県松江市山代町字伊弉諾84
    日前國懸神宮 境内 國懸宮末社 和歌山県和歌山市秋月365
    高田神社 岐阜県飛騨市古川町太江神垣内2669
  • May 2017 編集されました
    ホツマツタエには

    アマテルとアキコの子。 斎名:タタキネ。 
    アメミカゲの父。
      
    滋賀県近江八幡市馬渕町東山、馬見岡 (ムマミヲカ) 社
    滋賀県蒲生郡竜王町鏡、鏡 (カガミ) 神社
    三重県桑名郡多度町多度、多度 (タド) 大社 
    奈良県橿原市四条町宮坪、高市御縣 (タケチノミアガタ) 神社
      

    『古事記』天津日子根命者高市県主等之祖也。 
    「彦根」の地名は、むかし天照大神の御子に天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いきつひこねのみこと) の二神がおられ、このうち活津彦根命が活津彦根明神として彦根山に祭られたことに由来しているとされている。

    カナサキ 金折命。 
    スミヨシ。スミヨロシ。スミノヱ。スミヱの翁。 
    ハヤアキツ姫、ミヤツヒコの父。孫にハデズミ・ホタカミがいる。
    イワクス船で流されたヒルコを、妻と共にヒロタ宮で育てる。 
    イサナキの命により、底ツツヲ・中ツツヲ・上ツツヲを政る
    アマテルの即位時、『日を写します大老臣』。 
    六ハタレ討伐の折、アマテルより『禊司』の役を授かる。また自ら軍勢を率い、シムミチを破る。 
    六ハタレ撃退の功に対し『スミヨロシ』の尊名と『御衣の末』を賜り、枝姓のムナカタ・アヅミと共に筑紫を治めることになる。 

    シマツヒコ─オキツヒコ─シガ───?─?─?─カナサキ─┬ハヤアキツ姫───アマツヒコネ
                      :  ├ミヤツヒコ
                      :… … …アカツチ ├(アヅミ族との婚姻)──ホタカミ
                      :… … …シホツチ │        └──シガ
                      :… … …アヅミ  └(ムナカタ族との婚姻)─ハテツミ
                      └… … …ムナカタ─┬オサコ
                               └アヤコ──────クマノクスヒ
      

    『カナサキが姫の ハヤアキツ アキコは潮の 八百会子 西の典侍 内は ムナカタが オリハタオサコ』6文
    『次は海原 八百会の ハヤアキツ姫や ココタエの』ミ逸文
    『然る後 アキコが生める タタキネは アマツヒコネぞ』6文

    ★『古事記』安曇連等は、其の綿津見の神の子、宇都志日金折命(ウツシヒカナサク) の子孫なり。宇都志日金折命-穂高見命。

    『日を写します大老臣』とは、アマテルの光をカナサキに写して、筑紫を照らすという意味だと思う。つまりカナサキはアマテルの代理として、九州を治める役を仰せつかったということ。これは『スミヨロシ』と同義であり、その象徴として『御衣の末』の授与である。またツハモノヌシが賜った『写し日代治人』とも同義。

  • 垂仁天皇の皇子ホムツワケの出雲詣で

    垂仁は皇子の出雲詣でを即決して「誰人」が介添え人として最も相応しいかを占い、占象(うらかた)に出た名前が「曙立王(あけたつおう)」その人でした。慎重を期した帝は、重ねて曙立王に「宇気比(うけい)」を行わせ吉凶を確認した処、すべてが「吉」と出て彼の資格に全く問題は無いことが明らかになります。
    息子に付き添う王子に垂仁は「倭者師木登美豊朝倉曙立王」という異例の名を下賜して一行を送り出し、出雲に至ったホムツワケは『若し出雲の石くまの曽宮に坐す葦原色許男大神をもちいつく祝の大庭か』と自ら問い掛け、言葉を自在に操れるようになり、朝廷が歓喜して神の宮を造ったと伝えています。

    出雲参詣の陰の主人公「曙立王」が『佐那造(さなのみやつこ)の祖』(古事記)である。

    また、彼の父親は品遅部君の祖先である大俣王であり、祖父母は開化皇子・彦坐王と山代之荏名津媛なのですが、この祖母の血脈を遡ると、

      荏名津媛--大国不遅--長溝命--伊加利乃命--苫麻杵命--知久流美命--阿多根命--意富伊我都命--天御影命(天目一箇命)

    のように系譜付けられ、王子が紛れもなく母方から天津彦根命の血脈を受け継いだ人物であることが分かります。更に、先の鵠捕獲の話に戻れば、鳥取造(連)の祖先とされる天湯河板挙に関して「新撰姓氏録」は、

      右京神別、天神、鳥取連、角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也、垂仁天皇皇子誉津別命、年向三十不言語。于時見飛鵠。問曰。此何物。
      爰天皇悦之、遣天湯河桁尋求、詣出雲国宇夜江、捕貢之。天皇大嘉、即賜姓鳥取連。

    と鳥取連の出自を述べており、彼らの祖先は「角凝魂命」の三世孫である「天湯河桁命」だと主張していたようです。これだけでは、今まで見てきた神々の系譜とは一見して異なるのではないかと思われがちですが、古代氏族研究家・宝賀寿男さんの調査研究によれば、

      角凝魂命--伊佐布魂命--□□□□--天湯川田命--少彦根命

    と云う「三嶋懸主」系譜が伝わっている様ですから、これを姓氏録の記述に重ねあわせると「天湯河桁命=天津彦根命(少彦名命の父親)」の図式が引き出せます。

    また、上で見てきた佐那神社の主祭神である天手力男命には『八意思兼命の子供』で別名を『阿居太都命(あけたつのみこと』と称するとの伝承がありますから、ここで触れられている「あけたつ」の神様が、天津彦根命の子・明立天御影命(天目一箇命)そのものであり、曙立王の名前そのものが神の名から採られていた事を証明していると思われます。

    鳥取連の主張からは、もう一つ「何故、出雲の国の宇夜江」(現在の宇屋谷)で彼らの祖先が鵠を捕まえることが出来たのか、その理由も垣間見えます。昭和60年、出雲市斐川町神庭(かんば)という鄙びた土地の一角から三百五十八本もの銅剣が銅鐸、銅矛と共に「発見」され、考古学学会が大騒動に席巻されたのですが、その位置は姓氏録が伝えた「出雲宇夜江」の比定地斐川町宇屋谷から南西650メートルほどしか離れていません(下の図参照)。「出雲風土記」によれば、そこは出雲の国、出雲郡健部郷に属し、かつて『宇夜都辨命が、その山の峰に天降り』その社も建っている地なので「宇夜の里」と名付けられた場所です。また「健部」の郷名も景行帝が『我が子、倭健命の名を忘れない』様に健部を定めた事に因んだものであると風土記が説明しているように、この地が大和朝と大変深いつながりのあった事を想像させます。
  • 誉津別命の出雲行きから十数年後、垂仁皇子の五十瓊敷入彦命は「茅渟の菟砥川上宮(鳥取の河上宮)」に居ながら「剱一千口」を作り石上神宮に納めたと書紀が記しています。

    天津彦根命関連の系図に興味深い書き込みがあることに気づきました。それは「東国諸国造」各氏の系譜の一部に含まれているものなのですが、天津彦根命の子孫で国忍富命という人物の子供の一人に「加志岐弥命」という名前が見えます(上右の画像を参照)。字が小さくて読みづらいかも知れませんが「○○鍛冶、白根造祖、活目天皇三十九年十月勅使、川上郡にて太刀一千口作る」とあります。一番右端に名前のある「櫛努古理命(クシヌコリ)」は三上氏の祖神「大加賀美命」の別名だと考えられますが、その下にも「川上舎人」の文言が見えます。これらの書き込みが全て正しい内容を伝えているのか検証が必要ですが、天津彦根命系の氏族間では垂仁朝に武器作りに従事した祖先が居たという伝承が存在していた事実があったと言えそうです
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