猿田彦、火明命と邇邇芸命、スサノオ

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
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ホツマツタヱの記事 ヒタカミの天之忍穂耳の二人の子供、火明と邇邇芸 天照(祖父)ーーー天之忍穂耳ーー火明命と邇…

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  • 明神大社 阿射加神社
    由緒
    主祭神 猿田毘古大神
    松阪市大阿坂町

    由緒 第十一代垂仁天皇十八年夏四月、皇女倭姫命が天照大神の神霊を祀 る地を探し求める途中阿佐賀の地を訪れ荒ぶる神伊豆速布留大神を大 若子命をもちて鎮めさせ阿佐賀山の嶺枡形山に社殿を造り種々の幣物 をもたらし祭ったのがこの神社と言われる(神道書、倭姫世記)

    阿射 加神社は平安朝時代から社格の上からも朝廷から破格の崇敬を受け、 八三五(承和二)年従五位下、八五〇(嘉祥三)年従五位上、八五五 (斉衡二)年従四位下、八五八(貞観元)年従四位上、八六六(貞観 八)年従三位を伊勢国阿耶賀神に授け奉ると昇叙の記が見られ第六十 代醍醐天皇延長五(八九〇)年延喜式内大社の格に編入され延喜式神名帳に伊勢国阿射加神社三座並名神大なり二八五座の内となる猿田毘 古神座阿耶訶と古事記にも見られる古社である。
    伊勢国司北畠満雅應永年中阿坂山に砦を築く時に社地を山より今の地 に遷したと記されている。
    享保甲辰(一七二四)年紀州家より禁殺生の石碑建贈ざれる。
    安政丙辰十一月(一八五六)年国主紀伊御代により武運長久領内安全 の奉納が寺社奉行によって奉られている。
    明治六年三月村社に列せられ同三九年十二月三重県告示第三八〇号を もって神饌幣帛料供進指定社となる恒例世多米志祭が一月に行われ 稲作の作柄を占う粥試が行われる神社の右側には龍天大明神の起源と 言われる宮池をもつ由緒ある神社である。
    本殿 神明造一殿三座並名神大

    垣内末社 六社 攝社 三社
    主祭神 猿田毘古大神(伊豆速布留大神、龍天大明神)
    底度久御魂
    都夫多都御魂
    阿和佐久御魂 一殿三座並名神大
    猿田毘古大神は天孫降臨の時天ノ八衢に出られ、上は高天原を照ら し下は葦原の中国を光し迎になったとある。鼻の長さ七寸、背の丈七 尺目の大きさ八寸で鍾のごとくまなこの色赤酸漿である。
    神位 第五四代仁明天皇 承和二年十二月(八三五年)従五位下
    第五五代文徳天皇 嘉祥三年十月(八五〇年)従五位上
    第五五代文徳天皇 斉衡二年四月(八五五年)従四位下
    第五六代清和天皇 貞観元年正月(八五八年)従四位上
    第五六代清和天皇 貞観八年十一月(八六六年)従三位

    第六〇代醍醐天皇延長五年(八九〇年)式内大神社に編入され延喜 式神名帳に伊勢国阿耶賀神社三座並名神大とあり、臨時祭名 神祭二八五座の内となる。
    昇叙の記が日本三代実録などの国史に見られる。
    -境内由緒板を一部修正-

  • 『倭姫命世記』などによると、
    安佐賀の山の嶺に荒ぶる神がおり、宇治の五十鈴の川上の宮へ行くことが出来なかった。
    倭姫命がこの荒ぶる神の所業を天皇に申し上げるため大若子命たち三人を朝廷へ遣わされたところ、
    天皇は大若子命に命じて様々な贈り物を荒ぶる神に捧げ、ついに安らかに鎮めることができ、安佐賀に社殿を建て、荒ぶる神である伊豆速布留神を祀ったのが当社の起源。
    垂仁天皇十八年四月十六日のことであるという。
    その後、山上から現社地に遷座したとも伝えられているらしい。

    この伊豆速布留神が当社の祭神・猿田彦大神のことであるという。

    三棟の中央の祠が龍天大明神、北(右)が神明社、南(左)が熊野社(あるいは春日)とする資料もあり、
    さらに猿田彦大神・伊豆速布留神・龍天大神とする説、
    猿田彦大神の三妃を祀るとする説や、伊豆速布留神・大国主命・天日別命とする説など。
    いずれにしろ、延喜式に阿射加神社三座とあり、三座の神を祀っていると思われる。

    ただし、阿射加神社三座に関しても諸説あり、
    当社に三座とする説の他に、阿佐加山上の社が分離して、
    大阿坂町に鎮座の同名社と他の一社の三箇所を合わせて三座とする説もある。
  • 祭神は、天之細女命で天の岩戸開きの神話の中で活躍された神様

    都波岐神社は、延喜式内の古社で伊勢国一之宮
    創立は、雄略天皇二十三年三月で、猿田彦大神八世の孫、伊勢国造高雄柬命が勅を奉じて伊勢国河曲県中跡里(現鈴鹿市一ノ宮町)に二社を造営し、その一社を「都波岐神社」、また他の一社を「奈加等神社」と称したのが初まりであります。
     その際、天椹野命十五世の孫中跡直広幡が宣旨を受け初代の祭主を務め、その子孫が代々神主を継承し、当代で第五十八代であります。
     平安時代の初めには、弘法大師空海が本社を参籠し獅子頭二口を奉納したと伝えています
  • 猿田彦とは

    富家では稲田宮主大麻比古の事と言われている。それならば、大麻比古神社の祭神が猿田彦から大麻比古に変わったことの説明がつきます。
  • 大麻毘古神社

    神武天皇の御代、天太玉命の御孫 天富命 勅命を奉じて 洽く肥沃の地を求め 阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して 殖産興業の基を開き 国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。
    猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合せ祀ると伝えられる。
    延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。
    清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給ふ。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って、社殿の造営を行ひ、年々祭費を奉らる。明治六年国幣中社に列す。
  • 白方という地名

    出雲と讃岐にある

    売布神社 はらい ど
    水戸の神・祓戸の神 「出雲風土記」に名のみられる古代からのお社 で、白潟全域の氏神様です。人々は、「白潟大明神」 や「橋姫さん」と親しみを込めて呼んでいます
  • 弘仁四年(813年)十月廿七日の太政官符には、「猿女の興ること、国史に詳かなり。其の後絶えず今猶ほ見在す。又猿女の養田、近江国和邇村・山城国小野郷に在り。今小野臣和邇部臣等、既に其の氏に非ずして猿女に供せらる。熟(つらつら)事緒を捜るに、上件の両氏、人を貪り田を利し、恥辱を顧みずして拙吏相容れ、督察を加ふる無く、神事を先代に乱り、氏族を後裔に穢す。日を積み年を経て、恐らくは旧貫(きうくゎん)と成らん。望み請ふらくは、所司をして厳かに捉搦(そくじゃく)を加へ、氏に非ざるを用ひることを断たしめん。然るときは則ち祭礼濫り無く、家門正しきを得ん」とあり、小野氏が猿女に成りすましていたことを断じている
  • 大和郡山にある賣太(めた)神社は稗田阿礼・天鈿女命・猿田彦を祭神とする神社である。 稗田阿礼はこの二人の子孫で、猿女の同族といわれている。 猿女君は巫女なので女性である。そこで稗田阿礼も女性説が唱えられている。

    「内宮の瑞籬の外、乾の方に石段ありて古より祠なく興玉(おきたま)とて崇め奉るは猿田彦なり。宇治の郷の地主なり。」という。 倭姫が天照大御神を巡幸し、伊勢にたどり着いた時土地を提供したのが宇治土公(うじのつちぎみ)という猿田彦の後裔である
  • 佐太大神=御子神

    出雲風土記(733年)によれば
    秋鹿郡の神社の項目に「佐太御子社」(現在の佐太神社)の記載があります。佐太神社では、佐
    太の大神を祀っているのではないのですか?大神ではなくて、その御子(子ども)なのです。御
    子は誰?と、新たな疑問が浮かんできます。

    長い間そのことがわかりませんでしたが、
    谷戸貞彦著『幸の神と龍』(大元出版)を読んでいて、これが答えかなと、思える箇所がありま
    した。
    161頁ですが、
    “サルタ彦神は久那斗の大神の息子なので、「御子神」とも言われる。山陰民俗学会編集の『年
    中行事』に、その記事がある。石塚尊俊(編集代表)の記述は次のとおり。
    「ミコ神という名の信仰は出雲から美作・備中・備前・備後のところどころ、それに四国の讃岐
    の讃岐・阿波・土佐の一部にある。…『雲陽誌』(1717年、出雲国の地誌)の秋鹿郡西谷の条に、
    御子神、天鈿女命をまつる、同郡長江、御子神、天鈿女命なり、と出ている。…祭られている場
    所は、裏側のナンドとユルリノマすなわち台所との間のウチオイと称する部屋で、ここが主人夫
    婦の寝間になっている」”(赤字表記は、私)

    天鈿女命と一緒に祀られるとなると、御子神は猿田彦ということになります。そして猿田彦が御
    子神ならば、父親が久那戸大神で母親が、幸の神というわけです。
  • October 2019 編集されました
    神在月と神在祭、出雲大社の神在祭、神話世界と神事儀礼

     「神在祭」は、祭りといっても一般の祭りのような囃子や太鼓・笛の鳴る賑やかなものではありません。神々の会議処である上ノ宮(かみのみや、出雲大社の西方八百メートル)で神在祭は行われます。そして、御旅社舎である境内の十九社でも連日祭りが行われます。また、この神事の七日間、「神々の会議や宿泊に阻喪があってはならない」というので、地元の人々は歌舞を設けず、楽器を張らず、第宅(ていたく)を営まず(家を建築しない)、ひたすら静粛を保つことを旨とするので「御忌祭」(おいみさい)ともいわれています(※注1)。引き続き、八束郡にある佐太神社に向われ、神在祭が行われます(会議は、二回に分けて行われるといわれています。まず出雲大社で旧暦十月の十一日から十七日までの間開かれ、次に佐太神社に移動して旧暦十月二十六日まで会議の続きを行います)。実際に出雲大社と佐太神社では、その期間に神在祭が行われます(※注2)。そして、簸川郡斐川町の斐伊川のほとりにある万九千神社に向われ、旧暦十月二十六日に行われる神送りの神事を最後に神在月に集った八百万の神々は帰国されるのです。出雲大社だけが全国的に有名ですが、実は出雲地方全体で神々をお迎え・お見送りしているのです

    加賀の潜戸は、佐太神社の祭神「佐太大神」が生まれたとする説話が、『出雲国風土記』(嶋根郡の条などに)に残されている(いくつかの記述がみえる)。

     一つは佐太大神の生まれた加賀郷の名の起こりを説いたもので、「佐太大神が生まれた所である。御祖のカミムスビ命(神魂命、神産巣日神か?、伊邪那美命か?)の御子のキサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)(※注2)が『闇き岩屋なるかも』といって金の弓箭(黄金の弓矢)で射たとき、光り輝いたから、加加という。神亀三年、加賀と改める。」とある。

     もう一つの記載は、「加賀の神埼には窟があり、高さ約十丈、周は約五百二歩で、東西北に通じている。所謂、佐太大神の生まれたところである。生まれる時に臨み、御祖のカミムスビ命(神魂命)の弓箭(弓矢)がなくなってしまった。御祖のカミムスビ命(神魂命)の御子のキサカヒメ命(支佐加比売命)は、『吾が御子、麻須良神(ますらがみ、本来は麻須羅神が佐太大神であったのかもしれません)の御子(佐太御子神?)に坐さば、亡せたる弓箭出で来』と祈願した。そのとき、角製の弓箭が水の随(まにま)に流れ出た。『此は非(あら)ぬ弓箭なり』といって投げ捨てた。また金の弓箭が流れ出てきた。この金の弓箭を取って『闇鬱(くら)き窟なるかも』といって射通す。即ち、御祖のキサカヒメ命(支佐加比売命)の社が、この所に鎮座する。」とある。

     また、佐太神社と祭神については、『出雲国風土記』には「佐太御子社」ともある(『延喜式』神名帳では「佐神社」とあり、祭神は一柱です。本来「佐太御子社(佐太御子神)」と「佐神社(佐神大神)」は別で、二社あったのであろうか? 謎である)。すると、その親神「佐太大神の社」が別に存在することになる。

     もし、佐太神社の祭神が「佐太御子神」(従来、佐太神社が「秘説」としてきた主祭神を、明治になって、「佐太御子大神」と明示するようになった)ならば、『出雲国風土記』にあるように、朝日山(佐太神社の西二キロメートル)の麓に「佐太大神の社」があったことになるのだが、はたしてどうなのであろうか? 
  • 佐太神社では古来、竜蛇(海蛇を神の使いとして信仰する竜蛇信仰)は恵曇の古浦から上がるとされていました。古浦とそのとなりの江角浦とを合わせて神在浜と呼ばれるが、そこには板橋という佐太神社の社人が居住して、松江藩から食禄を受け、竜蛇上げの職を奉していたといわれています。

    竜蛇はセグロウミヘビとよばれる海蛇(背が黒色をしており、脇腹の色が金色をしている)で、この海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉に見えるといいます。

    そして、佐太神社の境内にある舟庫に掲げられた額には「神光照海」とかかれ、「海を光らして依来る神」はセグロウミヘビであったと思われています(お忌み祭の頃の季節風=お忌み荒れによって浜に打ち上げられる。こうした竜蛇信仰は、海の彼方から依来る神という古代信仰である)。

  • 加賀神社より
    出雲国風土記によると
     『ここに窟がある。 いわゆる佐太の大神のお産まれになった場所である。 お産まれになるそのときになると、弓箭が亡くなった。 その時枳佐加比売命が祈願して、「私の御子が麻須良神の御子であるなら、亡くなった弓箭よ出て来い」 と祈願された。 その時、角の弓箭が流れ出た。 その時お生まれになった御子は詔して、「これは私の弓ではない」 と投げ棄てた。 また金の弓箭が流れ出てきた。 これを持ち取って、「なんと暗い窟であろうか」 と仰せられ、岩壁を突き破って射通しなされた。 云々
     その時光が加加とあかるくなった。 よって加加(かか)という。』


    太陽崇拝

    『出雲国風土記』では、洞窟の中にさした金の矢によって、枳佐加比比売命は妊娠し、佐太の大神を産んでいる。 谷川健一氏は『出雲びとの風土感覚』で、

     加賀の潜戸をおとずれて、そこでわかったことは、洞窟が東西に向いているという事実であった。 洞窟の西の入り口に舟を寄せてみると、穴の東の入り口がぽっかり開いている。 そのさきに的島とよばれる小島が見える。 その的島にも同じように東西に貫く洞窟があって、つまり、加賀の潜戸と的島の二つの洞窟は東西線上に一直線に並んで、もし的島の東から太陽光線が射し込むとすれば、その光線は的島の洞窟を貫き、さらに加賀の潜戸の洞窟もつらぬくということが分かった。 

     二つの洞窟の方向は、真東ではなくやや北の方にずれている。 したがって、それは夏至の太陽がのぼる方向に向いている。 夏至の太陽は的島の東に姿を現し、的島の洞窟と加賀の潜戸を一直線に射しつらぬく。 そのときに、それは黄金の弓矢にたとえられたのであり、太陽の洞窟から、佐太の大神は生まれ出たのであった。

    と記している。
  • 猿田彦神は天孫の瓊々杵尊を筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に先導した。
    『日本書紀』一書第二)には、大己貴神が岐神を経津主と武甕槌につけて方々を巡り歩いて、天神は従わない」者を殺した。
    『日本書紀』第九段本文)大己貴神が国を平らげた時に用いた広矛を使者の二神に与えて、これを用いれば、国は平安になるでしょうと言った。。
    吉田敦彦氏は、矛は杖であるとしている。即ち、大己貴神は猿田彦神を共として葦原中国を平定したと言うことが出来る。
  • 伊勢・伊賀
    『伊賀国風土記逸文』 猿田彦神、はじめ此の国を伊勢かぜはやの国に属(つ)く、そして二十余万歳、此の国を知れるなり。猿田彦神の女、吾娥津媛命、日神の御神の、天上より投げ降ろし給ひし三種の宝器のうち、金鈴を知り守り給ふ。またこの神の知り守れる国なるによりて、吾娥の郡といふ。その後、清見原天皇御宇、吾娥郡を以て分かちて国の名とす。

     この伝承によると、猿田彦は伊賀や志摩をふくむ伊勢国(三重県)を長く統治していたと信じられていた。伊賀の土着の神の吾娥津媛命を御子とするのは、その神話的表現である

  • 「埼玉縣下 諸社祭神御事厯」では、

    吾我津比賣命は、猿田彦神の御女なり、総國風土記に載せたる伊賀國風土記に、次の如き記事見えたり、いはく『猿田彦神始此之國爲伊勢加佐波夜之國時猿田彦神女吾蛾津媛命天照大御神自天上投降給之金鈴知之守給其知守給之御斎處謂加志之和都賀野今時云手柏野者此其言謬也又此神之依知守國謂吾蛾之郡其後清見原天皇御宇以吾蛾郡分爲國之名後改伊賀吾蛾之音轉也』と見えたり、この神の御事蹟、古史に多く傳へざるを以て、委しきことを知る能はず、[古風土記逸文、日本書紀傳]
    これによると伊賀國風土記では「猿田彦神の娘の吾蛾津媛命が、天照大御神が天上から投降した金鈴を知り守っていた」、「吾蛾が転じて伊賀という国名となった」。

    注)「が」が「我」だったり「蛾」だったりしているが、これは原文そのままである。

    いままで猿田彦神の系図で知っていたのは、「猿女君」と「太田命」であるが、前の話と結びつくのは「太田命」である。
    倭姫命が天照大御神の奉斎地を求めて巡っているとき、五十鈴川の後江で、猿田彦神の裔、宇治土公の祖の大田命が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「さこくしろ宇遅の国」と申し上げ、御止代の神田を進った。倭姫命が「吉き宮処あるや」と問ふと、「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上は、大日本の国の中にも殊勝なる霊地あるなり。その中に、翁三十八万歳の間にも未だ視知らざる霊物あり。照耀くこと日月の如くなり。惟ふに、小縁の物に在らじ。定めて主の出現御坐さむとする時に、『献るべし』と思ひてここに敬ひ祭り申す。」
     これにより彼の処に往き到って、御覧じれば、昔、大神が誓願されて、豊葦原瑞穂国の内の伊勢のかさはや(風早)の国に美し宮処ありと見定められ、天上から投げ降ろされた天の逆太刀・逆桙・金鈴等が、そこにあったので、甚く懐に喜ばれて、言上げされた。
    それで、倭姫命はこの地に天照大御神を祀ることにして伊勢神宮となったのである。
  • 倭姫命世記(神道五部書の一)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、 猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。
    大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。
  • 竹内文書内に書かれている初代天皇

    1代 元無極躰主王大御神
    2代 中未分主大神尊
    3代 天地分主尊大神
    4代 天地分大底主大神
    5代 天一天柱主大神躰光神天皇



    20代 惶根王天津日嗣天日天皇
    21代 伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇(イザナギ)
    22代 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇(アマテラス)
    23代 天之忍穂耳身光天津日嗣天日天皇(アメノオシホミミ)
    24代 天仁仁杵身光天津日嗣天日天皇(ニニギ)
    25代 天津彦火火出見身光天津日嗣天日天皇(山幸彦)
    不合朝(神武天皇の時代へ続く)
  • 富家伝承(斎木雲州著『出雲と蘇我王国』大元出版)によれば、熊野大社の祭神はサイノカミ三神(クナド大神、佐毘売神、猿田彦大神)と事代主命であったそうである。

    出雲国造出雲臣廣島 編纂の『出雲風土記』(733年)の意宇郡の出雲神戸(いずもかんべ)の説明に
    「伊弉奈枳(いざなぎ)の麻奈子(まなこ)、熊野加武呂乃命(くまのかむろ)」とある。
    イザナギの命の愛しい子どもとあり、熊野の「神聖な祖神」と解釈されている。男神なのか女神なのか具体的にはわからない。

    さらに、『出雲国造神賀詞』(716年~833年 文献に載っているのは)には(いつの段階の文書かわからないが)
    「伊射奈伎乃日真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂伎(かむろぎ)熊野大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」(太字は私)とある。「まなこ」の上に「日」が、付いている。イザナギの命の真奈子で日の神は、天照大神である。だったら、女神かと思いきや、「伎」が付いているので男神である。女神の場合、加夫呂美(かむろみ)となるはずだ。そして、具体的な名として、「櫛御気野命」とある
  • 平安中期の『長寛勘文』に引用される『初天地本紀』──紀国の熊野信仰について述べられた文章であるが、出雲国の熊野大社についても書かれている→ウィキペディア 長寛勘文  ──によると、

    「伊謝那支命(いざなぎのみこと)が恵乃女命(えのめのみこと)を娶(めと)り、大夜乃売命(おおやのめのみこと)、足夜乃女命(たるやのめのみこと)、若夜女命(わかやめのみこと)の三女神を生んだ(このうち大夜乃売命は熊野大神の妃となる。)ところが、陸上に立ち給うとき、左肩を押し撫でたときに加巳川比古命を、また右肩を押し撫でたとき熊野大御神加夫里支久之弥居怒命(かぶりしみけぬのみこと)を、また髻中(もとどり)から須佐乃乎命(すさのおのみこと)を、それぞれ化成した。次に、「此時金国之八熊野之波地降二来伊豆(毛)国一、到二熊野村、一宮柱太知(ふとしり)奉而加夫里支熊野大御神地祇神皇又御児后大夜女命、山狭村宮柱太知奉而、静坐大御神云是也」(松前 健 著作集 第8巻 ㈱おうふう より)(太字は私)

    この『初天地本紀』によれば、熊野大神は、素戔嗚命の兄弟であり、素戔嗚命とは別神となっている。そして、同じイザナギの命の娘の大夜乃売命が、熊野大神の妃神であり山佐村に鎮座しているということだ。
    記紀とは全く別の筋立てであるが、この熊野山の東側には、「延喜式」の「山狹神社」「同社坐久志美氣濃神社」に比定される、山狭神社二社(上山狭神社・下山狭神社)が存在する。熊野山(天狗山)の反対側で、同じ神ークシミケㇴの命を祭っていたわけである。
  • 佐太神社は、本殿が3つという珍しい作りです。
    正殿、北殿、南殿に、秘説四柱を含めて12柱が祀られています。

    正中殿 佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の五柱。
    北殿 天照大神及びニニギノミコト。
    南殿 スサノオのミコト 秘説四柱の計五柱。この秘説というのが意味深です。

    この出雲の国にあって、オオクニヌシノミコトのオの字もありません。
    この佐太大神というのは、どういう神様なのでしょう。

    杵築大神(オオクニヌシノミコト)というように、佐太は、地名を指します。
    「伊予国の佐田岬、大隅半島の佐多岬等の地名にみられる岬の意味で
    島根半島の一円の祖神であり」
    「世に言う猿田毘古大神(さるたひこおおかみ)」です。
    (佐太神社パンフレットより)

    ただ、明治維新の神道再編の折には、神社側は猿田彦であることを拒絶しています。
    →佐太神社 wikipedia

    猿田彦は、ニニギノミコトが地上に降りてくるのを導く役割の神様です。
    「交通の神」と一般的に言われます。
    もしかしたら、出雲王朝を滅ぼすヤマト王権を「導いた」
    役割の神だったのではないかと想像してしまいました。

    また この神社は 母神イザナミの陵墓である比婆山の神陵を
    遷し祀ったイザナミの社として
    八百万(やおよろず)の神々が、佐太神社に集まるとされ
    「神在の社(かみありのやしろ)」とも云われています。

    出雲大社に八百万の神々が集まり、出雲地方は
    神在月になると云われていますが
    出雲の国の東部では、そうではなくて
    母神イザナミをしのび、
    全国から神々が集まってくるのです。
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