神皇産霊尊、手置帆負、天太玉

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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神皇産霊の系譜 神皇産霊尊-天御食持命(天道根命)-彦狭知命─手置帆負命─天越根命─比古麻命─天道根命という系…

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  • 明神大社 天太玉神社
    創祀年代は不詳。

    忌部氏の祖神を祀る神社で、
    式内社・太玉命神社四座に比定されている古社。

    現在の四座は、天太玉命、大宮賣命、豊石窗命、櫛石窗命だが
    『五郡神社記』では、第一殿に天太玉命・大宮賣命、
    第二殿には天富命・大比乃理咩命を祀っているとある。

    『古語拾遺』によると、大宮賣命、豊石窗命、櫛石窗命は、
    みな天太玉命の御子。
  • 「古語拾遺」によると、讃岐の忌部の祖・手置帆負命は、彦狭知命とともに、高皇産霊神の子の太玉に率いられ、岩戸に籠った天照大神を出現させるための天御量や瑞殿、あるいは威儀物となる武具を作製したという。

    神武の橿原宮では、太玉の子孫・天富命(あめのとみのみこと)の統率のもと手置帆負命と彦狭知命の子孫が斎斧・斎鋤を使って、はじめて山の材木を伐採して正殿の造営にあたり、その後は矛竿の政策に従事したという。

    「日本書紀」一書では、高皇産霊神が国譲りの条件として、大物主の祭祀を約束した祭祀担当の神のなかに、笠作りで紀伊国忌部の祖手置帆負神がいる。

    「古語拾遺」では讃岐の忌部の祖となっている手置帆負命が、「日本書紀」では紀伊国忌部の祖となっていることから、中央から地方へ派遣され、任地代えもあった役人・国造である可能性が高い。

    斎部氏は、前述の通り、平安時代初頭に神祇官に出仕した。律令神祇官は、律令制下の神祇行政をつかさどった役所で、二官八省の一つ。天神地祇の祭祀を執行するほか、諸国の官社を統轄し、その祝部の名帳と神部の戸籍を掌るなど、神祇行政全般を管掌した。
  • 近江国伊香郡に天比比岐命神社という式内社がある。当社の由緒を引用する。

    「本社原起は古昔 日置部祖神 天太玉命の神霊を奉して此地に来り山獄に登り暦日を掌り給ふと云ふ、今も其の地を称して日波加里山と字す、然るに山地にして参拝の便ならざるにより神亀元年今の地へ遷座せしと云ふ、今猶古昔の神社のありし古蹟を存す 、社殿は原宏大なる建築なししも、天正の頃火害に罹りて今の一小社となりしと伝ふ、是往古の瓦礫等の散在せるを以て知らる。」

     すなわち、かつて日置部たちがその祖神、天太玉命を奉祭してこの地に至り、日波加里山という山に登って暦を定めたというのだ。奇妙な山名、「日波加里」も、おそらく「日計(ひばかり)」の意で、その山で太陽観測が行われたことを示しているのだろう。
  •  天太玉命は忌部の祖親として有名だが、『新撰姓氏録』未定雑姓・和泉国には「日置部。天櫛玉命の男、天櫛耳命の後なり」とあり、『古史伝』はここに登場する「天櫛玉命」が天太玉命のことであるとしているため、当社の由緒もこれに従ったらしい。

     天太玉命は名古屋市中区の日置神社でも祀られているが、当社のほんらいの祭神は社名にある「天比比岐命」であったと考えるほうが率直だろう。もっとも「天比比岐命」が、「天太玉命」「天櫛玉命」、あるいは「天櫛耳命」の別名であったという解釈もできるが。ちなみに天櫛耳命は、滋賀県高島市今津町酒波にある日置神社の配祀神の中にもその名が見えているので、近江にも縁のある祭神である。
  • 伊勢国風土記逸文に「伊勢と云うは、伊賀の穴志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建の子の命、 又の名は伊勢都彦の神、又の名櫛玉命、此の神、昔、石もて城を造り、 其の地に坐しき。ここに阿倍志彦の神、来り奪えど勝たずして還り却りき。因りて名を為しき」とある。同神か。

    天櫛玉命 を祀る神社

    日置神社 長野県長野市信州新町日原西字宮脇2306
    日置神社 兵庫県豊岡市日高町日置字高谷14
    大麻神社 香川県善通寺市大麻町上ノ村山241
  • 滋野氏 (神別) 『新撰姓氏録』
    紀氏と同族で、天道根命の後裔氏族とされ、旧姓は楢原造(ならはらのみやつこ)、次いで伊蘇志臣(いそしのおみ)。同時に、天道根命は神魂神の5世の孫で、伊蘇氏(伊蘇志)・楢原氏・滋野氏の祖と伝わる。

    天平勝宝2年(750年)に駿河守として駿河国へ赴任した一族の楢原東人が同国庵原郡田子の浦で黄金を発見[2]、これを朝廷に献上したことからその功を賞した孝謙天皇が「かいがいしく勤める者」という意味で伊蘇志臣(勤臣とも作る)と賜姓し(「いそし」は「勤(いそし)む」の「いそし」)、延暦17年(798年)に伊蘇志家訳が滋野宿祢と賜姓されて以後、宿祢姓の滋野氏となり、更に弘仁14年(823年)には家訳とその子の貞主が滋野朝臣姓を賜っている。なお、「滋野」の氏名(うじな)は未詳ながら草木の茂る野に因んで一族の繁栄を願った美称ではないかとされる。
  • 『三代実録』貞観元年(859年)12月22日条、摂津守滋野朝臣貞雄の卒伝に「延暦十七年に伊蘇志臣を改めて滋野宿禰を賜ふ」とあり、古代氏族・伊蘇志臣ゆかりの地といわれる。式内社伊和志豆神社はこの地にある伊和志津神社であると『五畿地誌』には記され、当地ではそう信じられており、伊蘇志臣は同神社のある当地の氏族と『宝塚市史』には推定されている。しかし『摂津名所図絵』では伊和志豆神社は広田中村(現・西宮市)にあるとされている。

    延喜式内社伊和志豆神社
    御祭神 伊和志豆之大神
    創立年代は詳でないか清和天皇貞観元年(859)正月27日従五位下より従五位上に.進み、延喜の制には官幣小社に列せられる。 室町時代には白川神祇伯の祓を修あいた六社の内の一社として厚い崇敬を集めていた。
    御祭神は一説によれば彦坐命 開化天皇 の皇子なる白子坐王で広田袖社を創建せられた神功皇后はその四世の孫に当たるを祀祀るといわれている。
    もとは広田本社より東南約1.5kmのところに在り、大正6年7月16日に広田神社の境内に移転いたが、戦後は本社に合氾していた。 平成二年の御大典にあたり社傳を再建し奉斎することになった。兵庫果武庫郡の式内社は広田神社本社、摂社名次神社 摂社 岡田太神社 伊和志豆神社の4社でいずれもは広田神社の所管である。
    社頭掲示板
  • 伊和志豆神社
    祭神は開化天皇の皇子の日子坐王、神功皇后はその四世の孫
  •  高皇産霊神には伝承上6人の子がいる。思兼命、栲幡千千姫命、天忍日命、三穂津姫、天太玉命、天活玉命である。この御子たちの思兼命・天忍日命・天太玉命・天活玉命の4人は饒速日尊と共に大和に降臨して以後マレビトとして活躍している。思兼命は信濃国阿智族の祖であり、天忍日命は大伴氏の祖、天太玉命は忌部氏の祖である。天活玉命は越国に降臨していると思われ、三穂津姫は出雲国譲り後に饒速日尊の妻となり、やはり、大和に降臨している。栲幡千千姫命は日向津姫の長子天忍穂耳命の妻となっている。このように子どもたちは日本各地に赴き、後世に名が残るような氏族の祖となっている。また、高皇産霊神が神話上では天孫降臨、国譲神話、神武天皇東遷時と統一事業にかかわる場面での登場が多い。これは、高皇産霊神が日本列島統一に大変な熱意を持っていたことをうかがわせる。

     高皇産霊神がかかわっている重要な神社を挙げてみると以下のようなものである。

     春日神社(田川市宮尾町6番13号)
     祭神 豊櫛弓削遠祖高魂産霊命(とよくしゆげのとうそたかみむすびのみこと)他、この地は饒速日尊降臨伝承地である。高皇産霊神が最も長い名で祀られている。

     高良大社(福岡県久留米市御井町1番地)
     式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、古えより筑紫の国魂と仰がれていることから饒速日尊と思われる。筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

     高木神社(嘉麻市小野谷1580番)
     祭神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いては当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」 とある。
  • 忌部氏の本貫?
    神社、その分布、名前からは漠然と大宣都比売の阿波の国が浮かびます。

    延喜式神名帳の宮中神の中に大膳職坐神の筆頭に御食津神社があり、祭神を天太玉命としています。腹がへっては戦になりません。

    四国は大和王権に反旗を翻したり、将軍が派遣されて服属を要求されている記事が記紀には見えません。忠実というか、王権の田舎的な所だったのではないでしょうか。忌部氏をそこの豪族と考えれば、王権としては、玄松子さん曰わく「裏方全般を束ね」させるには打ってつけだったのでしょう。

    阿波と讃岐に共通に大麻(比古)神社、讃岐と安房共通に粟井、安房の名を持つ神社が天太玉命を祭神としています。

    丹波に多沼神社[タヒチ]、河内石川郡に佐備神社(丹比郡に近い)また尾張と越中に日置神社[ヒヲキ]が鎮座、日置は丹後にもいたようで、伊弉諾、伊弉冉が天に通ったとされる天橋立の神話を持って歩いたのか、渡来系が丹後から阿波にやってきたのがルーツなのか、案外、籠神社がこの謎のキイかも知れませんね。

    ついでに 常陸国に天速玉姫命神社が鎮座しています。祭神は「天速玉姫命」で天棚機姫命の女で、天太玉命の后神だそうです

  • 「泉神社」(式内論社・旧郷社)
    <茨城県日立市水木鎮座>

    祭神:天速玉姫命

    常陸国の延喜式内社二十八社の一社「天速玉姫命神社」の論社。

    創立年代は不詳。社伝によれば崇神天皇の頃の創建という。霊玉がこの地に降臨し、霊水が湧いて泉となり、霊玉を神体、神霊を天速玉姫命として祀ったのが起源という。
    一説には天武天皇二年(673)に清水が湧き、水木の里民の夢枕に天速玉姫命があらわれ「吾を祀れば百病が癒える」とつげ、里民らは翌日に清水の泉に臨て社殿を建立したともされる。

    鎮座地である泉ヶ森は常陸国風土記に記載される「密築里の大井」と推定されている。しかし風土記には当社の記載はない。

    中世期には佐竹氏の崇敬をあつめ、享禄三年(1530)に佐竹義篤が社殿を造営している。
    近世には元禄期に徳川光圀が当社を訪れ「井泉山」の号をつけたという。
    明治六年郷社列格。
  • 天目一箇命はその名の片目(目一箇)の神で示されるように、わが国の採鉄・鍛冶部族の祖神であり、筑紫忌部、伊勢忌部の祖と史料に見えます。また、天御影命は近江の三上祝の奉斎する祖神であり、宮地直一等監修『神道大辞典』には、ともに天津彦根命の御子と伝える事情などから、「天目一箇命と天御影命とは同神か」(神名表記は少し異なるが)と記述しています。

     「御影」とは鏡の意味であり、剣も鏡も鍛冶製品で、かつ天孫族の「三種の神器」にあげられます。ちなみに、もう一つの神器の「玉」を管掌した玉作部(玉祖宿祢)も、天目一箇命の近親(おそらく父神か)たる櫛明玉命を祖神としています(次の②参照)。鏡作麻気神社を奉斎した鏡作造も祖神の名(石凝姥命で、これは天御影命の妻神か)を異なって伝えますが、これも天御影命の後裔とみられます。

    この辺の系譜事情の殆どは、『古代氏族系譜集成』記載の三上祝関係系図に具体的で詳細に示されます

    天太玉命は忌部首(斎部宿祢)の祖で、阿波・安房の忌部の祖は天日鷲翔矢命で、出雲の忌部と玉作部の祖は櫛明玉命で、筑紫・伊勢の忌部の祖は天目一箇命と伝えて、それぞれ祖神の名を異なって伝えますが、いずれも天孫族の神々であり、その大半が重複します。多くの系譜史料から考えると、「天太玉命=櫛明玉命」で、天目一箇命の近親であり、天日鷲翔矢命はその兄弟で少彦名神と同体と考えられます。


    伊勢の多度神社を奉斎した桑名首の祖・弟凝見命や、菅田首の祖・水穂真若命は、三上祝一族から出たことがその系図に見えます。葦田首は、『姓氏録』未定雑姓大和に掲げますが、葛下郡葦田に起る氏で、弟凝見命の兄である忍凝見命の曾孫の久等宿祢の子孫であり、同族には同じ大和在住の額田部連・倭田中連・高市県主があげられます。


    葛城国造の祖・陶津耳命は天日鷲翔矢命・少彦名神と同神と考えられ、その兄弟として葛城国造の系図に見える都留支日子命(剣彦命の意)は『出雲国風土記』島根郡山口郷条に見えますが、これが天目一箇命にあたるとみられます。『風土記』(平凡社東洋文庫145)で吉野裕氏は、「剣彦命であろう。……採鉄集団の首長の神であろう」と註をつけています。
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