八幡、宇治の古墳、石清水八幡宮、菟道稚郎子

December 2018 編集されました カテゴリ: 応神ー武烈
image八幡、宇治の古墳、石清水八幡宮、菟道稚郎子

石清水八幡宮 男山山頂にある石清水八幡宮は、応神天皇、神功皇后、ヒメ大神(八幡三所大神という)をまつる旧官幣大…

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  • 巨椋池はずいぶん大きいでした。
  • 宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)
    宮主宅媛(みやぬしやかひめ)
    応神天皇の妃。難波根子建振熊命の孫。日触使主(ひふれのおみ)の娘。
    菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)、矢田皇女、雌鳥皇女を産んだ。


    応神天皇が近江に行幸した時、宇治の野で宮主矢河枝比売に出会い、都への帰り道、姫の家へ立ち寄った。和邇の家では大御饗を献り、宮主矢河枝比売に盃を持たせて酒も献じた。天皇は姫に盃を持たせたまま、「この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ 伊知遅島み島に着き 鳰鳥の 潜き息づき しなだゆふ 佐々那美道をすくすくと 我がいませばや 木幡の道に逢わしし嬢子 後方は小楯ろかも 歯並は椎菱なす 櫟井の和邇坂の土を 初土は膚赤らけみ 底土は丹黒きつゑ 三つ栗の その中つ土を かぶつく真火には当てず 眉画き こに画き垂れ 逢わしし美女 かくもがと 我が見し子ら かくもがと 我が見し子に うたたけだに向ひ居るかも い添ひ居るかも」と歌ったと「古事記」にある。
    角鹿の蟹とは、敦賀(角鹿)をはじめとして北陸の海でとれるズワイ蟹のことである。敦賀の海人が、ズワイ蟹を朝廷に献上していたことがわかるし、和邇氏と敦賀の気比神宮を奉斎する息長氏が親戚関係にあった証拠であろう。「鳰鳥の 潜き息づき」というフレーズが海人の潜水作業を思わせる。「記」は「一時(ある時)」としているが、この道程からして、応神が気比神宮へ参拝した帰りではないか? 名替えの神事は皇太子時代だから、敦賀には何度も足を運んでいたのだろうか? 佐々那美は琵琶湖西南岸一帯の古称であり、木幡は宇治市の木幡で、大津から宇治へ通う道筋にある。敦賀から横ばいに移動したとすると、伊知遅島は音から言っても市杵島姫神を祀る竹生島ではないかと思う。
    もう一つ特筆すべきは、櫟井の「和邇坂」の赤土を焼いて眉を画いていることだろう。彦国葺命も和邇坂に神酒を供えて戦勝祈願しているところを見ると、この和邇坂が和邇族にとっての聖地であったことが分かる。また、赤土=丹土を神聖なものとするのは、海人族独特の風習であり(「丹土」参照)、「初」「底」「中」と物事を三分断するのも、海人族の発想である(袁杼比売参照)。

    大国主神の孫、国忍富神の妻に「八河江比売神」という方がいらっしゃる。またの名を葦那陀迦神(あしなだかのかみ)というが、どうしても蛇神を思い浮かべるお名前だ。
    この姫神は、琵琶湖の南岸のその名も安曇(あど)川のある、滋賀県高島郡の天川神社の祭神であるから、その可能性が無きにしも非ずである。宮主矢河枝比売も、「宮主」というからには、和邇氏の巫女的な女性であったのだろう。
  • 宇治 (うじ)

    菟道ともいう。連姓のほか、天武十三年には宿祢姓を賜ったものがいた。
    ウヂ名は山城国宇治郡宇治郷を本拠としたことにもとづく。山城国宇治郡の郡領を多数輩出した。ほか、摂津国八部(矢田部)郡に宇治郷があるのもこの氏に関係するか。
    また、三代実録元慶元年十二月に山城国宇治郡の人、宇治宿祢常永・宇治宿祢春宗が本居を改めて左京三条に移ったことなどがみえる。
    宇治宿祢墓誌に「物部神八継孫宇治宿祢」とある物部神は、饒速日命か宇摩志麻治命か。

    饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」山城国神別)

    宇治部 (うじべ)

    連姓。宇遅部ともいう。
    応神天皇の皇子、菟道稚郎子の名代部とされる宇治部を管掌する伴造氏。

    饒速日命の六世孫・伊香我色乎命の後裔。(「録」河内国神別)
    韓国連に同じく、神饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」和泉国神別)

    宇摩志麻治命の七世孫・多弁宿祢命、同十四世孫・物部臣竹連公の後裔。(「旧」天孫本紀)

    宇治山守 (うじのやまもり)

    連姓。宇治は山城国宇治郡の地名であり、宇治氏の同族だったことにもとづく。山守は山守部の伴造だったことによる。

    饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」山城国神別)
  • 菟道稚郎子
     書紀・応神紀によれば、ウジノワキイラツコは、応神天皇と妃・宮主宅媛(ヤカヒメ=ヤカワエヒメ)との皇子で、応神に愛され、応神40年に皇太子に立てられている。一を聞いて十を知る賢者だったと記し、その師として百済から招かれたのが王仁博士という。

     書紀・仁徳天皇即位前紀によれば、
     「応神崩御後、ワキイラツコは『兄を越えて皇位を嗣ぐのは道に背く』として皇位を異母兄・オオササギ(仁徳天皇)に譲ろうとし、オオササギは『父帝の意志』としてこれを拒み続け、互いに3年もの間譲り合いを繰りかえし、最後にはワキイラツコが自殺したことで、オオササギが皇位についた」(大意)
    とある(古事記は、「ウジノワキイラツコは早く崩りましき。故、オオササギが天下治らしめしき」と簡単に記している)。

     書紀には、オオササギとワキイラツコが互いに皇位を譲り合った儒教的美談として記されているが、ワキイラツコとオオササギが皇位を譲り合っていたとき、
     「時に、海人(漁師)が鮮魚の大贄(オオニエ)を菟道宮に奉った。しかし、ウジノワキイラツコは吾は天皇ではないとして難波に持って行かせたが、オオササギもまた受けとらなかった。海人が両者の間を行き来しているうちに、魚が腐ってしまった」(大意)
    との話がある。
     オオニエとは天皇に捧げられる献上物をいう。それを菟道宮に持っていったことは、ワキイラツコが即位して菟道を都としていたことを示唆し、
    また、山城国風土記逸文・宇治条に
     「応神天皇の子の宇治の若郎子(ワキイラツコ)は、桐原の日桁(ヒケタ)の宮を造って宮室(オオミヤ)となされた。その皇子の名によって宇治と名づけた・・・」
    とあり、ワキイラツコの居た桐原日桁宮(菟道宮ともいう、ワキイラツコの離宮とも応神天皇の離宮ともいうが、ワキイラツコが居住していたという)を宮室・オオミヤ(天皇の宮居)と呼んでいること、
    あるいは、播磨国風土記揖保郡条に
     「宇治天皇(ワキイラツコ)の御世に・・・」
    とあることなどから、ワキイラツコが皇位についていたともみられ、そこから、宇治にいるワキイラツコと難波のオオササギの間に対立・抗争があり(それは両者を担ぐ豪族間の抗争ともいえる)、それに勝利したオオササギが仁徳天皇として即位し、河内王朝の基礎を固めたとする見方もある(宇治市史他)。

     また、皇位が空位だったとき、異母兄・大山守命が皇位をねらってワキイラツコを殺そうとした。それを知ったオオササギはワキイラツコに知らせ、ワキイラツコは宇治川の畔に兵を伏せ、自らは渡守に変装して大山守を騙し討ちにした(大意)、という記述がある。応神から仁徳への皇位継承には、記紀のいうような美談ではなく、3皇子間の抗争があった、ともとれる。

     因みに、ワキイラツコの宮居という桐原日桁宮の跡に創建されたのが宇治上神社(宇治神社ともいう)といわれ、醍醐天皇が神託をうけて延喜元年(901)に社殿を造営したことに始まるというが、詳細不明。
  •  書紀には、「ワキイラツコは菟道の山の上に葬られた」とあるが、今の陵墓は山の上ではなく宇治川左岸の平地にあり、書紀にいう山の上とは異なる。
     この陵墓は、明治22年(1889)にワキイラツコの墓と定められたものだが、その比定理由は不明。その時、前方後円墳(L≒106m・H≒4m)に改築されたといわれ、学術的には宇治丸山古墳と呼ぶ。

     陵墓比定以前、当地には古墳状の円丘があり、ワキイラツコの母・ヤカワエヒメの墓、あるいは異母兄・大山守命の墓との伝承があったという。

     この伝承あるいは地形が書紀と異なることから、本当の陵墓は、東南の山上にある宇治二子山古墳(円墳+方墳)あるいは北方の五ケ丘二子塚(前方後円墳)のいずれかではないか、ともいう。
  • 宇治上神社--菟道稚郎子・応神天皇・仁徳天皇
    宇治神社--菟道稚郎子

    菟道稚郎子を主祭神とする神社は、畿内でも当2社以外には見当たらないが、何故か、遠く離れた神奈川県平塚市(旧相模国大住郡)にも主祭神とする「前鳥神社」(サキトリ・式内社)がある。
     その社伝によれば、書紀の「ワキイラツコは、駆けつけた兄・オオササギの呼び声をうけて生きかえり、オオササギが皇位に就くべきこと、妹・八田皇女を后にして欲しいことを告げて、ふただひ亡くなっ」(大意)との記述をうけて、
     「ワキイラツコは死んだのではなく、一族を引き連れて東国に下り、曾祖父ヤマトタケルに由縁のある前鳥の里に宮居を建てた」
    との伝承を伝えている、という
  • 鳳凰堂の正面に当たる対岸には、高さ100mばかりの低い山が並び、これらの山を総称して朝日山と呼ばれる。
    朝日山の山麓に宇治上神社がある。宇治上神社のすぐ近くには宇治神社がり、宇治上神社とは二社一体の存在であった。
    古くは平等院の地主の神で、朝日山はその神体山であった。朝日山が朝日を受けるときが、鳳凰堂の最も美しく見える時期といわれているそうだ。

    京都府向日市「向日神社」から見て、冬至の朝日が昇る方位に朝日山がある。
    「向日神社」がこの山の冬至の朝日遙拝地点になっているのは、偶然とは言えない。夏至の日の出方位に清水山があり、この山の東面を「日の岡」といい、西麓に「日向宮」があるからで、「日向宮」は宇治郡の式内社「向日神社」に比定されていると述べる。
  • 勘注系図
    九世孫とされる玉勝山背根子(たまかつやましろねこ)は山背(山城)の祖とされる人物である。
    『勘注系図』は六世孫建田勢命が宰(みこともち)となって丹波に赴いたとする。その後山背の久世水主村(くぜみずしむら)に遷り、更にその後大和に遷ったとする。

    久世水主村とは現在の京都府城陽市久世である。ここに水主神社という延喜式に記載される古い神社がある。祭神は彦火明命を始めとして天香語山命、天村雲命、天忍男(あめのおしお)命、 建額赤(たけぬあか)命、建筒草(たけつつくさ)命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山背大国魂(やましろのおおくにたま)命を祀る。まさに尾張氏の一族を祀る。
    山背大国魂命が 玉勝山背根子である。

     そしてこの水主神社には大縫(おおぬい)命と小縫(おぬい)命も祀られる。
    新撰姓氏録によると、成務天皇の時代、志賀高穴穂宮(しがたかほのみや)に仕え、糸縫針の職についたが故に子孫に衣縫の氏を与えられたとされる。

    十世孫とする大原足尼(おおはらのすくね)命は、成務の時代に筑紫豊国の国造と成ったとされる人物である。
    また『勘注系図』には登場しないが、尾張氏系譜の十世孫大八椅(おおやつき)命は成務時代に、飛騨の国造と成ったとされる。
    おおよそこのあたりが成務天皇の時代であり、四世紀の中頃である。
  • May 2016 編集されました
    摂津 広田神社
    広田神社略記によれば、
     ・本殿  天照大御神荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)
    (右脇殿)住吉三前大神(筒之男三神)
               八幡三所大神(応神天皇・神功皇后・仲姫命)
    (左脇殿)諏訪御名方冨大神(大国様の御子神・恵比寿様の弟神)   
               高皇産霊大神(宮中八神殿の主神)
    とあり、主祭神は天照大神荒御魂。古くは“五所大明神”と総称され、個々には広田神・住吉神・八幡神・南宮神・八祖神とも呼ばれたという。

    *撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
    アマテラスの別名とされる撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは、書紀・神功皇后摂政紀にのみ、「伊勢国の度会の県の、五十鈴の宮においでになる、名は撞賢木・・・」
    当社祭祀を携わった葉山媛の父・山背根子にかかわつて、新撰姓氏禄(815)に「摂津国神別(天神) 山直(ヤマノアタイ) 天御影命(天津彦根命の御子)十一世孫山代(山背)根子之後也」
    との氏族がある。
     この山氏(山代氏)とは、山城国南西部(現京都府南部)を支配した山背国造(ヤマシロノクニノミヤツコ)から出た氏族で、当地の東に近接する摂津国川辺郡為奈郷(現尼崎市付近)に居住していたらしいが、当地との関係はよく分からないという。
     なお山背(山代)国造とは、天津彦根命(アマツヒコネ、アマテラスとスサノヲのウケヒで生まれた御子)の後裔といわれる氏族で、同じアマツヒコネの後裔氏族として摂津国西部に勢力を張っていた凡河内氏(オオシコウチ)と同族ともいう。
    別説として、広田との地名から、新撰姓氏禄に
      「左京諸蕃 広田連 百済国人辛臣君より出る也」
    とある渡来系氏族・広田氏だったのでは、という説もあるが、広田氏も当地での痕跡は見えないという。
  • June 2016 編集されました
    5 世 紀になると宇治市から城陽市にかけた台地上 久津川古墳群の想像復原図(早川和子作画)
    に久津川車塚古墳(全長180 m)を中心とした久津川古墳群が築造されます。前期の古墳が 少ないこの地に府内最大の古墳群が築かれるのは、この頃、ヤマト 政権の大王墓が大和から河内に移動することに連動するものと考え らます。
    近鉄久津川駅徒歩で5分。久津川車塚古墳は、5世紀前半に築造された山城地域最大の前方後円墳です。外濠(がいごう)を含めた全長は272mで、墳丘長は180mあります。埋葬施設は長持形石棺(ながもちがたせっかん)を直接埋めたもので、石棺の内外からは鏡や甲冑(かっちゅう)など多くの副葬品が出土しています。南山城地域を支配した有力者の墓と考えられます。
     丸塚古墳は、5世紀前半に築造された前方部が短い帆立貝形の前方後円墳です。周濠(しゅうごう)を含めた全長は104mで、墳丘長は80mあります。前方部から大型の家形埴輪(いえがたはにわ)が出土しています。久津川車塚古墳の被葬者の地域支配を支えた有力者の墓と考えられます。家形埴輪は城陽市歴史民俗資料館で展示しています。

    宇治神社の川向こうが、平等院。
    宇治神社のあたりが菟道稚郎子尊の宮居跡とされています。
    宇治の観光スポットになっていて多くの観光客が訪れていました。ここから北へ歩いて13分ほどのところに宮内庁が管理している菟道稚郎子尊の墓もあります。
  • 宇治上神社
    左殿:菟道稚郎子命 (うじのわきいらつこのみこと)
    『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記。応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄・大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
    中殿:応神天皇
    第15代。菟道稚郎子命の父。
    右殿:仁徳天皇
    第16代。菟道稚郎子命の異母
    当社のすぐ近くには宇治神社があるが(位置)、当社とは二社一体の存在であった。当社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる。

    今の祭神は、いずれも菟道稚郎子(以下「ワキイラツコ」という)を主祭神とし、宇治上神社では応神・仁徳の両帝を合祀しているが、延喜式には「宇治神社二座」とあり、ワキイラツコ他一座を祀るとする。

     当社の祭神・二座について、
     ・菟道稚郎子+応神天皇説
     ・菟道稚郎子+仁徳天皇説
     ・菟道稚郎子+母:宮主矢河枝比売説(ミヤヌシ ヤカワエヒメ、和邇臣の祖・日触使主の娘、書紀では宮主宅媛-ヤカヒメ)
     ・菟道稚郎子+忍熊皇子(オシクマ、下記)
    などがある。
     応神・仁徳・ヤカワエヒメはワキイラツコの家族(応神一家)であり、いずれも併祭神としておかしくはない。

    併祭神が誰かということについての定説はないが、上記3神のうち、母・ヤカワエヒメが当地の豪族・和邇氏の出身であること、応神一家に母子神信仰(神功皇后と応神天皇)が伴うことからみて、ヤカワエヒメであった可能性は強いが、それを証する資料はなく、今、その面影はない。

    オシクマ皇子とは、応神応神の皇位継承に反対して乱を起こし敗れた異母兄で、宇治市史は、「弟の誉田別皇子(応神天皇)に皇位が奪われるのを恐れて反乱を起こし、最後の陣を菟道に張ってついに敗れ、その死体が菟道河より出たと日本書紀に記される皇子」という(書紀・神功皇后摂政前記には、菟道で敗れ、近江の戦いでも敗れて瀬多で入水して死んだが、数日後、菟道川から死体が見つかったとある)。
     この伝承から、宇治市史は、「菟道にゆかりの深い伝承が、オシクマ皇子祭神説を生みだす背景となっている」というが、疑問である。
  • June 2016 編集されました
    播磨国風土記揖保郡条に
     「宇治天皇(ワキイラツコ)の御世に・・・」
    とあることなどから、ワキイラツコが皇位についていたともみられ、そこから、宇治にいるワキイラツコと難波のオオササギの間に対立・抗争があり(それは両者を担ぐ豪族間の抗争ともいえる)、それに勝利したオオササギが仁徳天皇として即位し、河内王朝の基礎を固めたとする見方もある(宇治市史他)。
    また、皇位が空位だったとき、異母兄・大山守命が皇位をねらってワキイラツコを殺そうとした。それを知ったオオササギはワキイラツコに知らせ、ワキイラツコは宇治川の畔に兵を伏せ、自らは渡守に変装して大山守を騙し討ちにした(大意)、という記述がある。応神から仁徳への皇位継承には、記紀のいうような美談ではなく、3皇子間の抗争があった、ともとれる。
  • June 2016 編集されました
    菟道稚郎子陵墓
     京阪宇治駅の西北、宇治線と宇治川に挟まれた堤防脇にある陵墓(宮内庁所管)。電車が宇治駅に近づいた右手に見える、樹木に覆われた小高い丘が当陵墓。

     書紀には、「ワキイラツコは菟道の山の上に葬られた」とあるが、今の陵墓は山の上ではなく宇治川左岸の平地にあり、書紀にいう山の上とは異なる。
     この陵墓は、明治22年(1889)にワキイラツコの墓と定められたものだが、その比定理由は不明。その時、前方後円墳(L≒106m・H≒4m)に改築されたといわれ、学術的には宇治丸山古墳と呼ぶ。

    京阪宇治駅前に菟道稚郎子の墓の標識があり、三室戸駅まで歩いて行って確認しました。

    兎墓
    菟道稚郎子の墓の標識
    この古墳は明治22年、
    当時の宮内省が「浮舟の杜」とよばれていた場所を買い取り、
    巨大な丘陵をつくり、長さ八十メートルの前方後円墳に仕立て
    「莵道稚郎子の墓」と設定したそうです。
    近代に造った陵墓だということです。

     陵墓比定以前、当地には古墳状の円丘があり、ワキイラツコの母・ヤカワエヒメの墓、あるいは異母兄・大山守命の墓との伝承があったという。

     この伝承あるいは地形が書紀と異なることから、本当の陵墓は、東南の山上にある宇治二子山古墳(円墳+方墳)あるいは北方の五ケ丘二子塚(前方後円墳)のいずれかではないか、ともいう。

    二子山古墳は古墳時代中期の地方首長を代表する古墳で、応神天皇の皇子莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓という見方もある。

    宇治二子山古墳は、宇治川の谷口部を見下ろす山上に築かれており、時期と共に『日本書紀』の記述とよく合う。

    しかし皇太子であった菟道稚郎子の墓として、直径40mの円墳は、適当とは思えない。

    五ケ庄二子塚古墳は、規模や墳形はまさに王墓に相応しいものである。

    しかし古墳があるところは、菟道稚郎子がいた菟道の地域ではなく、広い意味で木幡(こわた)と呼ばれる地域である。
    また、古墳の時代は応神・仁徳の頃ではなく、雄略・継体の時期である。
    ここで注意されるのは、(『日本書紀』にはないが、『古事記』によれば)応神天皇が菟道稚郎子の母である宮主矢河枝比売と出会ったのは木幡の地であった。宮主矢河枝比売は和珥(わに)氏の娘であり、和珥氏が木幡にも居住していたことが分かる。
    考古学的には、木幡地域で古墳の築造が盛んになるのは二子塚古墳以後のことであり、有力氏族の居住は五世紀以降のことと考えられる。
    このように考えると、菟道稚郎子の伝承は、五世紀末頃に木幡地域を中心とした宇治郡内に居住していて、大王家と強い繋がりを持った和珥氏の伝承を、応神・仁徳の時代にやきなおしたものである可能性もあるのである。
    この場合、菟道稚郎子の墓として、あるいは菟道稚郎子の伝承が生み出された背景として、最も相応しいのは二子塚古墳といえるかもしれない。

    歴史読本特別増刊 事典シリーズ「天皇陵」総覧
  • 遠く離れた神奈川県平塚市(旧相模国大住郡)にも主祭神とする
    「前鳥神社」(サキトリ・式内社)がある。
     その社伝によれば、書紀の「ワキイラツコは、駆けつけた兄・オオササギの呼び声をうけて生きかえり、オオササギが皇位に就くべきこと、妹・八田皇女を后にして欲しいことを告げて、ふただひ亡くなっ」(大意)との記述をうけて、
     「ワキイラツコは死んだのではなく、一族を引き連れて東国に下り、曾祖父ヤマトタケルに由縁のある前鳥の里に宮居を建てた」
    との伝承を伝えている、という。
  • 和邇日触・・応神紀に応神天皇の大臣。丸邇之比布禮能意富美。系図・伝承では米餅搗大使主の弟、または同一人物。

    米餅搗大使主(鏨着大使主)・・建振熊(和邇の祖)の子。応神天皇に、しとぎ餅を奉ったとされる。子の人華(仲臣)は春日氏らの祖。

    天足彦国押人命七世の孫である米餅搗大使主の子・市川臣を祖とする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。子としては米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰らの名が記載されている。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人となる。

    米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)
    孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命とされる。
    応神天皇にしとぎを作って献上したとの伝承があり、小野氏、春日氏、柿本氏らの祖となり、小野氏の祖神を祀る小野神社などで祀られている。
    大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。

    小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人(甥と叔父)となる。
  • June 2016 編集されました
    興聖寺(こうしょうじ)
    宇治上神社の東にある。
    曹洞宗の寺院。日本曹洞宗最初の寺院で僧堂がある。山号は仏徳山(ぶっとくさん)。本尊は釈迦三尊。参道は「琴坂」と称し、宇治十二景の1つに数えられている。

    道元は宋から安貞元年(1227年)に帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、同寺を去って深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院に閑居した。寛喜元年(1229年)頃のこととされる

    道元は深草に興聖寺を開創する。嘉禎元年(1235年)の「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」(『建撕記』所収)によると、当時の興聖寺には仏堂はあったが法堂と僧堂はまだなく、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていた。
    興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶した。その後慶安2年(1649年)、淀城主の永井尚政が万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが今ある興聖寺である。
    拝観の際に頂いたしおりによれば、尚政が両親の菩提所として建立したそうで、その後も永井宗家の菩提寺の一つとなったのであるが、現地で耳にした話では、建立の目的については「小牧・長久手合戦で父・永井直勝によって討ち取られた池田恒興の菩提を弔うため」というような興味深い異説もあるらしい。
    法堂の裏にある位牌堂には永井家のものだけでなく、池田恒興の位牌も安置されていて、尚一層の興味を掻き立てられる。
  • 宇治神社            宇治市宇治山田
    創建年代は不明であるが、このあたり宇治川右岸は応神天皇の離宮の跡であった/皇子の兎道稚郎子命(ウジノイラツコノミコト)は父から皇位を継ぐように命じられたが、兄(後の仁徳天皇)を差し置いてはできないとこの地で自殺した/聡明で謙譲の美徳もありその勇気も讃えて仁徳天皇がこの地に祠を建て兎道稚郎子命の神霊を祀ったのが当社の始まり /延喜式には宇治神社二座の記載があるように江戸期以前は宇治上神社と一体であり、当社を下社(若宮)、宇治上神社を上社(本宮)、上下合わせて宇治離宮明神(八幡宮)と云われていた/明治以降分離され
  • 【宮道氏】
    饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する。発祥地は三河国宝飯郡宮道郷と推定される。
    ほかに日本武尊系宮道氏、大江姓説、春日氏族説、三枝別姓説など諸説が存在する。宮道彌益は宇治郡大領で、娘の列子は中納言藤原高藤の妻となり宇多皇后(胤子)を生む。
    宮道氏の後裔を称する蜷川氏は、宮道式幹の孫親直が越中国新川郡蜷川に住して称し
  • 木幡(こはた)村に到着した際、村の辻で端麗な乙女と出会い、一目惚れしてしまいました。正后を含めた尾張三后は周りが決めた政略的な結婚で恋愛感情は湧かず、吉備の兄媛(えひめ)は恋人というよりも姉のような存在でしたから、胸がはりさけるような激しい恋心は初めての経験でした。
    「お前は誰の娘なのか」とホムタ王が尋ねますと、「私は和邇(丸邇)氏の日触使主(比布禮能意富美ひふれのおほみ)の娘、名は宮主矢河枝(みやぬしやかはえ)比売でございます」と答えました。すると王は「明日にでも、都に戻る際に、お前の家に立ち寄ることにする」と再会を告げました。
     宮主矢河枝比売の祖父はオキナガタラシヒメと武内宿禰による第二王朝成立で貢献した和邇氏難波根子建振熊でした。建振熊は米餅搗大臣、日触使主(比布禮能意富美)、大矢田宿禰と石持宿禰の4人の息子を持ちましたが、長男の米餅搗は王朝の大臣となって本家を継ぎ、次男の 日触使主は宇治に邸宅を構えていました。
  • 宇治神社・宇治上(うじがみ)神社 鎮座地 京都府宇治市宇治郷
    菟道宮主(うじのみやぬし)矢河枝媛(やかわまたひめ)の祖神
    および菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)尊を祭る神社。

    宇治川をはさんで平等院の対岸にあり、昔、応神天皇の離宮があったところと伝え、同天皇皇子菟道稚郎子が、仁徳天皇に皇位を譲ってこの地で自殺したため、のちにここに祭って宇治若宮といったのに始まる。

    延喜神名式に「宇治神社二座」とあるように上下二社があり、若宮下社である。宇治離宮または離宮八幡宮と呼ばれ、治承3年(1179)離宮明神の号が贈られた。長承2年(1133)の離宮際は宇治郷民が主催し、極めて盛大であった(『中右記』)。

    下社の現本殿は三間社流造で鎌倉時代の建築、神宝の菟道稚郎子木造とともに現在重要文化財とされている。

    一方上社は下社の左後方にあり、一般に宇治上神社と呼ぶ。
    祭神は応神天皇・菟道稚郎子・仁徳天皇。

    本殿が現存最古の神社建築として重要であり、また流造の遺構最古である。もと藤原時代の一間社三棟が横に並んでいたのを、鎌倉時代に五間三間の覆(さや)殿で包んだといい、寝殿造風の拝殿とともに国宝に指定されている。

    旧府社であって例祭はともに五月八日。

    岡田米夫 著 日本史小百科「神社」より
  • 讃岐の大内
    この一帯は、和名抄に記される唯一の難波(郷)です。

    この鵜の部山古墳は、仁徳天皇の皇后の御陵である、という、地元に伝わる言い伝えがあります。
    そこにこのような言い伝えが残ることに意味があります。

    岩利大閑氏が『道は阿波より始まる』の中で、この鵜の部山古墳を「私は八田若郎女の御陵と考えている」と書いてあった

    『古事記』では、仁徳天皇の大后は、石之日売命、御一人となっています。

    石之日売が「きの国」へ行幸されている間に、天皇は難波宮に八田若郎女を招き入れ、怒った大后は実家のある「葛城」(鳴門)方向へ向かいます。
    ただし、実家には戻らず、筒木の韓人、奴理能美の家に入ります。

    つぎねふや、山代川を宮のぼり、我が上れば、あをによし  
    那良を過ぎ、小楯、倭を過ぎ  わが見が欲し国は、葛城、高宮、我家のあたり

    この歌を詠んだ後、 

    如此歌而還 暫入坐筒木韓人 名奴理能美之家也 (記)
    更還山背 興宮室於筒城岡南 而居之 (紀)

    と記され、山代(山背)に引き返しています。
    天皇は使者を送ったり自ら出向いたりして、石之日売命のご機嫌を伺います。

    その後に記される女鳥王(めどりのみこ)=八田若郎女の妹の事件

    後日談として、女鳥王の亡骸から腕輪を奪い、自分の妻に与えた山部大楯連に対し、宴席でそれに気づいた石之日売命が、その非礼な行動に死刑(ころすつみ)を言い渡す逸話が記されます。

    八田若郎女は、

    天皇、八田若郎女を恋ひたまひて、御歌を賜はり遣りたまひき。
    その歌に曰りたまひけらく、

    八田の 一本菅は 子持たず 立ちか荒れなむ あたら菅原 言をこそ 菅原と言はめ あたら清し女

    八田の一本菅は、子を持たないままで立ち枯れてしまうのであろうか。惜しい菅原よ。
     言葉では菅原と言うが、まことに惜しい清々しい女であるよ。

    爾、八田若郎女、答へて歌曰ひけらく、

     八田の 一本菅は ひとり居りとも 大君し よしと聞さば ひとり居りとも
     八田の一本菅は、一人でいようとも、大君さえそれでよいと仰せられるならば、
     一人でいようともかまいません。

    故、八田若郎女の御名代と為て、八田部を定めたまひき。と、一人を通したことになっています。

    『日本書紀』では全くの逆になっています。

    石之日売(紀では、磐之媛)は、天皇の説得に応じず(大妃の留守中に八田若郎女(八田皇女)を反対を押し切って妃としたため)、難波へ戻らず、そのまま筒木(筒城)宮で亡くなりました。

    そしてその2年後、皇后を那羅山(奈良山)に葬った、とあります。

    八田若郎女が皇后となったのです。
    女鳥王の腕輪の事件で厳罰を命じたのも八田若郎女とされています。自分の実の妹の飾り物だからこそ、それが盗まれたものと気づいたとみれば、納得できます。

    紀によれば、仁徳天皇35年(347年)6月に磐之媛命が崩御し、同38年(350年)1月6日に八田皇女が新たな皇后に立てられたとなっています。
    石之日売が葬られたのが、奈良山ならば、津田(難波)に葬られた皇后とは、日本書紀に照らせば、八田若郎女ということになります。

  • 矢田神社 式内村社 海部村大字海士小字宮ノ奥鎮座
    祭神 建田背命。相殿 和田津見命、武諸隅命。
    由緒 式内社にして其の創立最も古し、按ずるに海士の地は往古神服連海部直の居住地にして、館跡を六宮廻(ロクノマハリ)といふ。海部直は丹後の国造但馬国造等の祖にして、扶桑略記にも丹波国熊野郡川上庄海部里為二国府一とあり、されば海部直の祖たる建田背命及び其御子武諸隅命和田津見命を斎き祀れるも、深き由緒の存する処にして、また其の子孫の祝として代々仕へ来れるも、縁由する処を知るに足る。而して口碑の伝ふる処に依れば、元矢須田に鎮座ありしが、中世現地に移転せりといひ伝ふ。さればにや古来橋爪海士両所の氏神として尊崇し来れる処なり。

    由緒の概要を現代文にします。

    海士(あま)の地は遠い昔から神服連海部直の居住地であり、館跡を六宮廻(ロクノマハリ)と言う。海部直は丹後国造、但馬国造等の祖で、扶桑略記にも丹波国熊野郡川上庄海部里は国府であると記載あり、海部直の祖である建田背命とその御子武諸隅命、和田津見命を祀るのも、深い由緒が存在する。しかしながら、言い伝えによれば元は矢須田に鎮座していたが、中世になって現地に移転したと伝えられている。だから古来より橋爪と海士の両所の氏神として尊崇されてきたものである。
  • 大矢田宿禰
    人皇十三代成務天皇の臣下即位四年甲戌諸国に立長置稲置神服連の府跡海部の矢須の里を国府とす此代葛野浦日村味鎌麿を朝子長者と號くと倭国史に傳見えたり。本朝歴史伝に曰く大矢田宿禰は成務、仲哀、神功の三代に仕て神功三韓征伐の後新羅に留り鎮守将軍となる新羅毎年八十艘の貢を入れる。

    矢須田が上記では矢須になっています。矢須が正しいのなら須田とは関係しないことになりそうです…。それはさて置き、「丹後舊事記」における大矢田宿禰の記事では、大矢田宿禰が海部の矢須の里を国府にしたと読めます。矢田神社に関係するのは名前からしても大矢田宿禰か
  • 『新撰姓氏録』右京皇別真野臣条では、「彦国葺命(天足彦国押人命三世孫) - 大口納命 - 難波宿禰 - 大矢田宿禰」と続く系譜が記されるが、武振熊が「難波根子」と称されたことから、このうちの「難波宿禰」との関連が指摘される。

    上記からすると難波根子武振熊命の子が大矢田宿禰になりますが、「勘注系図」には難波根子武振熊も登場しています。
  • 天神松
     天神松は、谷田部郡須磨村の民家より南海面の方の森の中にある。この松は菅公が筑
    紫に流されたとき、この浜辺に舟を留め風波の難を凌がれ、この松の下に纜トモヅナを執っ
    て休まれたので、天神松と云い、その後夜々海中から灯を捧げたので、竜灯の松とも云
    う。「摂陽群談」神戸市須磨
  • 溝谷神社に掲げてある『溝谷神社由緒記』には次のように記載されている。

    「当社は延喜式所載の古社にして、社説によれば、人皇第十代崇神天皇秋十月、将軍丹波道主命、当国へ派遣せられ、土形の里に国府を定め居住あり。或時、神夢の教あり、眞名井ノト(トはウラ又はキタとも云ふ)のヒツキ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞鳴尊の孫、粟の御子を以って三寶荒神とし斎き奉らば、天下泰平ならんと。道主命、神教に従ひ丹波国眞名井ノトヒツキ山の麓の水口に粟の御子を以て三寶荒神と崇め奉る。其の御粟の御子は水口の下に新宮を建てて斎き奉る。因て、水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ。溝谷村、字溝谷を旧名外(との)邑と云ひしは眞名井名ノトと云ふ字を外の字に誤りて云ひしものなりと。その後丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。

    其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞鳴尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」

    「従って当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅(しらぎ)将軍大矢田宿禰の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである」

    溝谷神社本殿溝谷神社の由緒についての記載は、他にも見られる。『竹野郡誌』によれば、各文献の記述を次のように記載している。
    溝谷神社村社字ヒツイ鎮座
    『延喜式』溝谷(みぞたに)神社
    『丹哥府志』溝谷神社は今新羅大明神と称す
    『丹哥舊事記』
    溝谷神社 溝谷庄外村
    祭神 新羅大明神 素盞鳴命
    延喜式小社牛頭天皇新羅国より皈朝有けるを祭りし神号なり、勧請の年暦いつよりと言事を知らず
  • 5世紀(401-500)初頭、莵道稚郎子は自ら命を絶つ。兄・大鷦鷯(おおさざき)は、遺骸を「莵道の山の上に葬りまつる」とされる。(「日本書紀」)
     年代不詳、現在地(莵道)には古墳状の円丘があり、一帯の小字は丸山(まるやま)と呼ばれていた。円丘は、菟道稚郎子を攻め、宇治川で討たれた大山守命(おおやまもり)の墓とも、菟道稚郎子の母・宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)の墓とも伝えられていた。また、付近には浮舟宮という古社が祀られていたという。一帯は「浮舟の森」とも呼ばれ、榎木の大木が茂っていた。
     近世(安土・桃山時代-江戸時代)、現在地の南東にある朝日山山頂(宇治市、標高124m)が莵道稚郎子の葬地とされた。
     江戸時代中期、寛永年間 (1741-1744)、付近の浮舟の宮は廃絶した。跡地には、三室戸寺により「浮舟之古蹟碑」が立てられた。


    莵道稚郎子墓 莵道稚郎子の墓は確定されていない。
     莵道稚郎子は自ら命を絶ったため、兄・大鷦鷯(おおさざき)は、「莵道の山の上」に莵道稚郎子を葬ったという。(『日本書紀』)。また、墓は山城国宇治郡に在り、兆域(東西12町、南北12町)あり、守戸(しゅこ、御陵番)が三烟(えん)あったという。(『延喜式』)。これは仁徳陵、応神陵の規模を凌ぐ大規模なものになる。このため、この「山上」 とは、朝日山、三室戸山山頂ともいう。
     かつて、現在地(莵道)には古墳状の円丘(円墳)があり、小字は丸山(まるやま)と呼ばれていた。伝承として、菟道稚郎子を攻め、逆に宇治川で討たれた兄・大山守命(おおやまもり)の墓、菟道稚郎子の母・宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)の墓ともされた。
     近世、朝日山山上(宇治市)が莵道稚郎子の墓とされた。これに基づき、江戸時代、1733年、並河五一郎は、朝日山山上に墓碑(1m)を立てている。
     近代、1889年、『延喜式』により宮内省は現在地を墓と治定し、前方後円状の墳墓を造成した。現在、墓は宮内庁が管理している。長さ80m.。
    ◆墓浮舟宮 菟道稚郎子宇治墓の西隣に「浮舟宮跡」という石碑が立てられている。
     かつて、付近に浮舟宮(浮舟社)という古社があったという。一帯は「浮舟の森」ともいわれ、榎木の大木が茂っていた。『源氏物語』「宇治十帖」の浮舟の宮を祀り、里人に親しまれていたという。
  • 『日本書紀』によると、莵道稚郎子は「莵道の山の上」に葬られたとあり、江戸時代には、宇治川東岸の朝日山山頂のを莵道稚郎子墓とされていました。

    宇治市内には、他にも古墳はあります。
    "莵道稚郎子"は、あくまでも"お話の上での皇子"ですが、その元となったこの地域の有力者〈豪族〉のお墓は、いろいろ考えられます。

    何故、ここ?
    この地点は、「莵道の山の上」ではなく、宇治川右岸に接するところです。またあとでも書きますが、ひと度、大水が出ると、水没してしまうような場所です。

    治定以前、この地には円丘があったそうです。そして、その円丘については、莵道稚郎子のもう一人の兄である大山守皇子の墓、または莵道稚郎子の母である宮主宅媛の墓といった伝承があったようです。
    明治22年(1889)、当時の宮内省は、ここを「莵道稚郎子の墓」に治定しました。そして、「浮舟の杜」と呼ばれていた場所を含む一帯を買収し、前方後円墳に整形し、現在の形にしたのです。
  • 豊臣秀吉は、宇治川の流れを北に流れる流路にまとめ、すなわち巨椋池から切り離し、伏見城下に導きました。
    大和街道を兼ねた小倉堤を小倉から伏見豊後橋(今の観月橋)まで造り、あわせて宇治川を伏見に迂回させる槇島堤を造りました。

    平成19年(2007)夏、ここ宇治川右岸で、豊臣秀吉が築造したと思われる「太閤堤」の遺構が発見されました。
    今回見つかった「太閤堤」は、槇島堤の右岸施設です。槇島堤は、現在の宇治川堤防に受け継がれています。
  • 宇治稚郎子が詠んだ歌

    ちはや人 宇治の渡に 渡り瀬に 立てる 梓弓檀(あづさゆみまゆみ) い伐らむと 心は思(も)へど い取らむと 心は思へど 本方(もとべ)は 君を思ひ出 末方(すゑべ)は 妹(いも)を思ひ出 苛(いらな)けく そこに思ひ出 愛(かな)しけく ここに思ひ出 い伐らずそ来る 梓弓檀(古事記)

    【通釈】宇治川の渡りに、川を渡る浅瀬に、立っている、梓の木と檀の木。それで弓を作るために、木を伐ろうと、心には思うけれど、一方には君を思い出し、他方には妻を思い出し、痛々しく、あれにつけては思い出し、可哀想にと、これにつけては思い出し、結局伐らずに来てしまったよ、梓弓・檀の木を。
    【由来】大雀命は父応神天皇の命に従い、末弟の宇治稚郎子に天下を譲ろうとしたが、大山守命(長子)は弟の即位を認めず、宇治稚郎子を殺そうと謀った。宇治稚郎子は大雀命から兄の計画を聞き知り、逆に計略を以て大山守命を宇治川に葬った。船とともに沈んだ大山守命の屍を引き上げたときに宇治稚郎子が詠んだのが、上の歌であるという。
    ー千人万首ーより
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