美保神社、事代主、三穂津姫

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image美保神社、事代主、三穂津姫

美保神社島根県松江市美保関町美保関 事代主と三穂津姫を祀る。大国主命と神屋楯比売命との婚姻によって事…

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コメント

  • 石見国 二宮 多鳩神社 たばと
    一. 祭神 積羽八重事代主命
    一. 由緒
    積羽八重事代主命(エビスさん)は神代の昔石見の国開拓 のため当地に留り給いその御終焉地と伝えらる
    はじめ多鳩山の山上なる古瀬谷に鎮座せられ 北 西に面しあたかも日本海の中心を御下瞰御守護あ りて御神威は沖を航海中の船舶をしばしば停止せ しめ給うと伝う
    文安年中山麓の現社地に奉遷す 寛平三年三月 「正一位」を賜り延喜の制小社に列せらる 石見の国 二宮として朝野の崇敬厚く都農郷の宗社(総氏神)に して末社二十五社あり明治四年本末とも上地となり 明治六年五月県社に列せらる
    一. 境内社
    大元神社
    八幡宮 高神神社
    若宮神社
  • 石見国 一宮 物部神社

    当社の創建は継体天皇八年。
    祭神・宇摩志麻遅命は勅命により、天香具山命とともに物部氏の一族を率いて、
    美濃、越国を平定し、石見国に入って死去したと伝えられ、
    社殿背後の八百山の古墳は神墓であるという。
    また、播磨・丹波国を経て石見国へ入ったともいう。

    当地には大規模な物部氏配下の部民である「物部」の集団があり、
    古くから集落をなして、中央豪族たる物部氏の部民に編成され
    貢租や労力を徴収されていたという。

    伝承では、祭神・宇摩志麻遅命が白鶴に乗って、川合の地に天降った。その場所を鶴降山という。鶴降山から国見したところ、八百山が大和の天香具山に似ているので八百山の麓にお住いになることにした。

    物部神社(石見一宮) 旧国幣小社
    大田市川合町川合八百山 山陰本線 石見大田駅より四粁
    祭神 宇摩志麻遅命(可美真手命) 例祭 一〇月九日 神紋 日負鶴

    由緒沿革 継体天皇八年勅命により神殿創建、祭神宇摩志麻遅命は物部氏の始祖なり。神武天皇大倭国に御遷都の時大功を表し給いて橿原の朝延を守護し給う。天皇其功を賞で韴霊神剣(石上神宮奉斎)を腸う。祭神も又天祖より拝承せる一〇種の神宝を奉り給う。斯くて辛酉年正月朔日天皇畝傍橿原宮にて天位に即かせ給う時、祭神は十種神宝を安置し神楯を竪て斎い奉る。此年二月朔日十種神宝を斎きて天皇皇后の御為に御魂を鎮め奉り寿祚を請い祈ぎ奉り給う(今宮中に於て一一月二二日夜行はせらるる鎮魂察茲に始まる)。後、物部の軍兵を率い尾張、美濃、越国等の諸豪族を平定し更に播磨、丹波を経て石見に入り八百山の麓に宮居を築き此地に薨去す、御神墓は社の背の八百山にあり。往古当社は天文年間は一萬三千石の社領なりしが天正年間に至り河合郷二千石に滅じ更に徳川年間に至り三百石の朱印地となる、明治四年国幣小社に列す。(神社本庁別表神社)
  • 熱美真味命と天(日方)奇日方命

    物部大明神 安濃郡(大田市川合町川合)にある。
    祭神一座 宇摩志間知(可美真手)命(以上『国花記』による)
    ○饒速日尊〔天照大神の曾孫である〕は御炊屋媛(登美夜毘売)〔長髄彦(登美彦)の妹である〕を娶り遂に子を生み熟美真味命という。地神三代を経て神武天皇に仕えた。時に叔父の長髄彦は神武を廃して熟美真味を立てようとしたが、叔父の謀逆に従わず官軍に合力した。天皇はその忠を喜び(布都御霊の)神剣を授けた。命はまた先に饒速日尊から授かった天璽の瑞宝十種の神物を奉献した。常に殿内に近く宿したので足尼〔足尼は官職の名。天皇を輔けて政を修める、今の大臣の如きものである〕といった。また、内の物部を率いて矛楯を立て内裏を警固した〔今武将を物部と称するのはここに始まる〕。また、東夷を征して大功があった。それで熱美真味命と天(日方)奇日方命の二人を申食国政大夫〔今の大連大臣である〕とした。天皇が崩じてのち三年で大和金峯山に入ったというo(『日本書紀』にあり)
  • 延喜式神名帳
    宮中神の条に、「御巫祭神八座」とあって、 「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」の神名を掲げている。
  • 陶津耳
    三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』には、大陶祇命とあり、娘の活玉依比売命は 天事代籤入彦命(事代主神)の妃で、天日方奇日方命の母。

    陶津耳命 を祀る神社

    大川上美良布神社 高知県香美市香北町韮生野大宮243
    須部神社 福井県三方上中郡若狭町末野字神ヶ谷36-11
    坐摩神社 境内 火防陶器神社 大阪府大阪市中央区久太郎町4-3
  • 古事記」や「先代旧事本紀」には

    「出雲神と宗像神の間にできた子が事代主神である」

    と記しているのだ。大国主命と多紀理姫の子供が鴨族の事代主神となるわけである。
  • 『曰本書紀』の別伝の出雲征服譜の中で、次のように語られている。

     故、経津主神、岐神を以て郷導として、周流きつつ削平ぐ。逆命者有るをば、即ち加斬戮す。帰傾ふ者をば、仍りて加褒美む。是の時に、帰順ふ首渠は、大物主神及び事代主神なり。乃ち八十万の神を天高市に含めて、帥ゐて天に昇りて、其の誠款の至を陳す。時に高皇産霊尊、大物主神に勅すらく、「汝若し国神を以て妻とせば、吾猶汝を疏き心有りと謂はむ。故、今吾が女三穂津姫を以て、汝に配せて妻とせむ。(後略)」

     この別伝は、出雲征服のヴアリアントの中でも最も具体性を感じさせる。従わぬ者は殺戮し、帰頼した者には血縁の女性と結婚させ、連繋を強めるという政略は、神話の世界というよりは、現実政治のものである。その帰順者の大物主神と事代主神が「天」に昇ったとは、征服者の本拠地に参じたことを示すだろう。
  •  和州五郡神社神名帳大略注解

     「雲梯神社 神名帳に云う 大和国高市郡高市御県鴨事代主神社 雲梯村神森に在り。 社家 長柄首曰く 旧記に曰く 神代、積葉八重事代主命が経津主神の教 えに依り 水鳥と化して雲天に昇る。是に於いて鴨事代主命の号を得、八十万神を集めて天の高市に昇り、其の誠の至りを陳す。時に、高皇産霊尊、天之事代主命に、宜しく八万四千の邪鬼 を統率する大将軍となり、皇孫の為に之を護り奉れと命じて、之を還降せしむ。 是により、天之事代主命は雲梯此をクモノカケハシと云うを降 り高市県に到り、其所を号して雲梯(宇奈提)と云う。然る後に此処に霊畤(神社)を立て之を奉斎す。 出雲国造神賀詞に謂う所の、事代主命の御魂を宇奈提の神奈備に坐させとは是也。 又天武天皇紀に云う所の事代主命が坐す高市社とは即ちこの地なり」
     との伝承があり、そこでは、天の高市に昇って恭順の意を表した事代主命が(書紀・国譲り段に同意の記述あり)、高皇産霊神から諸々の国つ神を率いて皇孫を守護せよと命じられて降ったのが高市郡の雲梯で、後になって、其処に神社を造って奉斎した、という。
  • 「 大國主(の)神、また神屋楯比賣命(かむやたてひめのみこと)を娶(めと)して生める子は、事代主神(ことしろぬしのみこと)。」
                ( 『古事記』 岩波文庫版  6 大国主神の神裔 P52 ) 

    この一文は、多紀理毘賣命との間に、阿遅鋤高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)、妹高比賣命(いもたかひめのみこと)、亦の名は、下光比賣命(したてるひめのみこと)が生まれた場面に継続して記されています。
      「 故、この大國主神、胸形(むなかた)の奥津宮(おきつみや)に坐ます神、多紀理毘賣命(たぎりびめのみこと)を娶(めと)して生める子は、阿遅鋤高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)。次に妹高比賣命(いもたかひめのみこと)。亦の名は下光比賣命(したてるひめのみこと)。この阿遅鋤高日子根神は、今、迦毛大御神(かものおおみかみ)と謂ふぞ。」
  • April 2016 編集されました
    大国主の御子、若経津主命

    出雲風土記
    天の下造らしし大神とは大国主のことであり、その子に、和加布都努志命がいる。事代主と兄弟である。

    出雲郡美談郷

    『郡家の正北九里二百三十歩なり。天の下造らしし大神の御子、和加布都努志命、天地の初めて判れし後、天の御領田の長、仕へ奉りましき。即ち、彼の神、郷の中に坐す。故、三太三といふ。』・・・とされています。

    三太三(みたみ)という地名は、「御田」を「見る(監督する)」ことに由来するとされる。 出雲では、領田の管理は国造、あるいは大国主がやっていたはずであります。

    そのような場所の監視・監督のために「和加布都努志命」が長として派遣され、後に「美談神社(弥太弥社・ミダミ)」が置かれたのです。そして、注目すべきは「美談神社(弥太弥社)」の祭神です。出雲では特異なものなのです。
    すなわち、本社には「経津主命、武甕槌命、息長足姫命、比売遅神」が祀られ、その奥に県神社(阿我多社)があり、県神社に祀られているのが、「和加布都努志」なのです。

    出雲郡という出雲を象徴する地域に、「領田」、「正倉」が置かれ、そこの神社の本社には出雲の国譲りの主役ともいうべき「経津主命、武甕槌命」が祀られ、しかも意味ありげに県社には「和加布都努志命」が祀られているのです。

    しかし、この和加布都努志命は、大国主の御子です。
  • 大国主の御子は

    1.アジスキタカヒコネ命
    2.下照姫
    3.事代主
    4.タテミナカタトミ命
    5.ワカフツヌシ命
    6.ミホススミ命

    出雲神族の伝承では、ホアカリノ命(サンガはホアケノ命と呼んだ)も、加えて7神という。


    出雲国造神賀詞に、アジスキタカヒコネ、事代主がでている。賀夜奈流美命も御子と見えるがだれでしょう。

    大穴持命の申し上げられますには、皇御孫命のお鎮まり遊ばされますこの国は大倭国でありますと申されて御自分の和魂を八咫鏡に御霊代とより憑かせて倭の大物主なる櫛厳玉命と御名を唱えて大御和の社に鎮め坐させ、御自分の御子、阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の社に鎮座せしめ、事代主命の御魂を宇奈提に坐させ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社に鎮座せしめて皇御孫命の御親近の守護神と貢りおいて御自分は八百丹杵築宮に御鎮座せられました
  • 神社では、高照姫がカヤナルミ命としている。これは、下照姫(大国主の御子)のことであろう。

    加夜奈留美命神社
    柏森(かやのもり)の集落北東の小高い森に鎮座。社前を稲 淵川が流れる。祭神は加夜奈留美命。旧村社。 江戸時代には葛神と称したが、カヤノモリ とカヤナルミが類似するため、「大和志」が「延 喜式」神名帳の高市郡「加夜奈留美命神社」にあ て、以後式内社に治定されている。加夜奈留美 命は飛鳥の神奈備に坐して、皇孫の守護をした 神で(「延喜式」出雲国造神賀詞)、「五郡神社記」や 「大神分身類社鈔」は高照姫命のこととする。 「延喜交替式」「類聚三代格」には「賀屋鳴比女」と も記し、天太玉神・櫛玉神・臼滝神とともに飛 鳥神の裔神とみえる(貞観一〇年六月二八日「太政 官符」類聚三代格)。「三代実録」貞観元年(八五九、 天安三年)正月二七日条に大和国従五位下賀夜奈 流美神に正四位下を授けたとあり、四裔神のな かでは最の神位が高い。飛鳥神奈備は天長六年 (八二九)鳥形山(現明日香村飛鳥)に移されたが、 その後も賀夜奈留美神の本霊は旧地にとどまっ たものと考えられている。
    -『大和・紀伊 寺院神社事典』-
  • 高鴨神社(たかかもじんじゃ)
    奈良県御所市にある神社。『延喜式神名帳』にある「高鴨阿治須岐託彦根命神社(大和国・葛上郡)」に比定される式内社(名神大社)
    京都の賀茂神社(賀茂別雷神社<上賀茂神社>・賀茂御祖神社<下鴨神社>)の元宮とされ、それらを始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社とされる。

    本殿(天文12年(1543年)再建、重要文化財)の主祭神は阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと=アヂスキタカヒコネ)。

    事代主命、阿治須岐速雄命(主祭神の御子神か。大阪に阿遅速雄神社がある)、下照姫命、天稚彦命を配祀する。

    阿治須岐高日子根命はまたの名を迦毛之大御神(かものおおみかみ)。正式に「大御神」と呼ばれるのは、日本の八百万の神々でもアヂスキタカヒコネを入れて、他に二柱しかなく、天照大御神(アマテラス)と伊邪那岐大御神(イザナギ)。

    この特別な神名を持つ迦毛之大御神が、京都の賀茂神社に流れていったと理解すれば、賀茂神社に対する古代から今現在に至るまでの時の朝廷・政府の崇敬の高さが理解できるかもしれない。

    もともとはアヂスキタカヒコネとシタテルの二柱を祀っていたという。その後、神話の影響を受けつつ、祭神が増えていったと言われている。ただし、アヂスキタカヒコネに関しては、間違いなく当社が本源であり、元宮だと思われる。高知の土佐神社との関わりは指摘されることが少ない。また、同じ市内の葛城一言主神社とも何らかの関連があるか。
  • 『出雲国風土記』の嶋根郡美保郷の条には、

     「天の下造らしし大神命(大国主)の高志の国に坐す神意支都久辰為命(オキツクシ
    イノミコト)の御子奴奈宜波比売命(ヌナガワヒメノミコト)を娶られて生まれた神、
    御穂須須美命(ミホススミノミコト)、この神が坐す。ゆえに美保という」

    と、あり、この記事からだと、美保神社の祭神は事代主ではない。本来の祭神はこの
    ミホススミで、それがいつの頃か、おそらく『古事記』、『日本書紀』成立以降に、祭神
    が事代主に、大国主とヌナガワヒメの御子神がタケミナカタに代わったと思われる
  •  『日本書紀』では、事代主が神功皇后に神託をしているが、この時の名前は、於天事代於
    虚事代玉籤入彦厳之事代主神である。
     松前健(『日本神話の形成』)は、この厳之事代主神と八重事代主神を別神と考え、厳之
    事代主神を海神系の神としている。

    神功皇后は夫の仲哀帝が「神の教に従がわずして早く崩御した」後、自らが神を祭る主人役(神主)となって再び「神の教」を聞こうとしますが、その時、皇祖アマテラスと一緒に顕れた事代主命の名を書紀は『天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神』と格別な表記を採っています(摂政前紀、仲哀九年三月条)。これは恐らく、

    また曰く、事代主神、八尋熊鰐に化為りて、三嶋の溝樴姫、或るは云わく、玉櫛姫というに通いたまう。しこうして児、姫蹈鞴五十鈴姫命を生みたまう。これを神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。            (神代紀より)

    とある神武(天孫)と事代主命(地祇)の姻戚関係を殊更に強調した文飾によるものだとも考えられます。
  • 事代主命の尊称にあった「玉櫛入彦」の文言が俄かに注目されます。ここにある「入彦(イリヒコ)」は彼が三嶋溝杭の家に「婿入り」した証ではないのか?三嶋の地に「鴨神社」が鎮座しているのも事代主命が「ワニ」に化身して大和から摂津へ移動した足跡ではないのか
  • 難波 田使首系譜  
    ①伊久魂命----②天押立命(神櫛玉)③陶津耳命----④玉依彦命----⑤剣根命              (註・陶津耳の兄弟が都留支日子=剣彦)

    鴨  氏系譜  

    ①天神玉命----②天櫛玉命----③賀茂建角身命--④玉依彦命----⑤五十手美命---⑥麻都躬乃命
  • 蝶形の扇と美保田

    青柴垣神事の神事中にお二人の當屋が持たれる『御船籠りをした霊験あらたかな扇』です。
    この扇は、たいへん縁起が良いと言われ、この扇を得る為に遠方から参られる方もおられます。

    事代主の母である三穂津姫命は、高天原から稲穂を持ち降りた農業と子孫繁栄の守り神。

    えびす様こと事代主は大国主の長男。神話では、国譲りのとき、父に命じられて神意を伺い、その託宣で出雲支配権の譲渡を決意。呪術を使い自らの船を踏み傾けて青柴垣に変え、そこに隠れ去った。船上の白天幕の四隅に飾り付けた、榊の青い枝葉の束を青柴垣という。二艘の神船は神社前から沖合へと往来した後、神前に参拝する。

    沖縄の美保田

    青柴垣神事で、當屋の二人が手にする祭具は「蝶形の扇」。
    これが沖縄の蒲葵扇と形がそっくり。かつて蛇研究の民俗学者・吉野裕子氏は「蝶形の扇の襞は48本。蒲葵の葉脈もほぼ48 本」と喝破した。
    久高島の北端・カベール岬(神谷原岬)。方言で「はびゃーん(蝶蝶)」

    http://mihonoseki-kanko.jp/2013/04/15/今年の『蝶形の扇』は誰の手に?青柴垣神事のご/

    美保神社を思わせる伝承が、南城市玉城に残っている。


    琉球の稲作発祥の地・受水走水(うきんじゅはいんじゅ)のある「薮薩の浦原(やぶさつのうらばる)」。その高台にあるイリハンタというところに、戦前まで「美保の松原」に例えられる、松並木があったという。その名もズバリ、琉球の「ミホの松原」。百名の海を一望し、「ミホの御嶽」もあったと伝わる。

    現在は南城市老人福祉センターのある静かな場所だ。
    薮薩の浦原には米地(めーじ)という古代米発祥地があり、神女たちは春になると、そこに重箱を供えて祈願した。米地の別名は、「うさち(上古の)三穂田(みーふーだ)」。
    故仲村ミエさん(玉城王殿内を司祭した神女)は、雨が降っても、風が吹いても、ここでの拝みを欠かさなかった。
    その日とは、旧暦の3月3日。沖縄では、女性たちが海で禊ぎをする年中行事・浜下りの日。
    そして古来、美保神社で事代主にまつわる国譲りの故事を再現する、「青柴垣(あおふしがき)」神事の行われた日であった。

    ミエおばあはまた、次のように言い遺した。
    「昔、うさち三穂田に男の子とと女の子の兄妹がいた。親は3月3日に子どもたちを残して船で出て行った。どこへ行ったのかは分からない。玉城は、この兄妹から始まったという伝えがあるんだよ」
     
  •                                 天若彦
          素戔嗚神―――――田心姫               ∥
          ∥  ∥      ∥――味鋤高彦根神(賀茂大神)・下照姫
          ∥  ∥………大己貴神(だいこく様)       (阿加流姫)
          ∥  ∥   ∥  ∥――八重事代主神・高照姫
          ∥  ∥   ∥  ∥    ∥――五十鈴姫(神武天皇皇后)
          ∥  ∥   ∥ 高降姫  三島溝杭姫
          ∥  ∥ ∥―――――建御名方神(諏訪明神)
          ∥  ∥  沼河姫
          ∥ 櫛稲田姫
          ∥――――――――葛城一言主神
          ○
  • 「旧事」日向賀牟度美良姫(ひむかのかむとみらひめ)
    秀真伝に櫛甕玉。櫛御方命。天日方奇日方命の妻となって、阿田都久志尼命(クシネ)を産む。

    http://gejirin.com/src/A/atatukusine.html によれば、
    注)* クシネがどこの県主にされたのか、ホツマツタヱには記載がない。記載がないのは、"記載する必要が無いほど当り前な場所" ということで、"橿原宮が所在する県" ということなのだと思われる。橿原市久米町に 久米御縣神社 があって、祭神の一人に「天櫛根命」という人がいる。これは「アタツクシネ」を指すと思われるので、クシネは久米県の県主だったと考えたい。


    三代大物主(コモリ)とイクタマヨリ姫ー太田命 (オオタ)ー 日向賀牟度美良姫(ミラヒメ)

    1.天神立命。 コモリの長男。 テルヒコと共にアスカへ下る
    2.積羽 (八重事代主神)。 コモリの次男。 三島大明神。
    3.溝咋。溝杭耳。三島溝咋。コモリの第11男ミシマの別名。ホノアカリムメヒトのスケ・イクタマ姫とウチメ・イクヨリ姫の父。またツミハの妻タマクシ姫の父。

    玉櫛姫命。ミシマミゾクイの娘。
    ツミハの妻。クシミカタマ、クシナシ、タタライソスズ姫の母。
      
    三代大物主(コモリ)とイクタマヨリ姫ー三島溝咋ー玉櫛姫(夫が積羽八重事代主)ー天日方奇日方命、櫛梨、蹈鞴五十鈴媛。 
  • 活玉依媛。 スヱツミ(陶津耳)の娘。 ミホヒコ (コモリ) の妻。18男子を儲ける。


    『ミホヒコの妻 スヱツミが イクタマヨリ姫 十八子 生む』10文
    『昔 モノヌシ スエスミが イクタマと生む モノヌシの オオミワ守の 裔なり』33文
    ミホヒコ=子守神/守。 クシヒコとミホツ姫 (タカキネの娘) の子で、第3代オオモノヌシ。 
      
  • 白玉姫。 越のアチハセの娘。 
    ミホヒコ(コモリ)の妻。18女子を儲ける

    以下、コモリ大物主と白玉姫の子

    天八坂彦命。コモリの第8男。 テルヒコと共にアスカへ下る。 
      
    三重県松阪市井口中町、神麻続機殿 (カンオミハタドノ) 神社
      『旧事』八坂彦命(やさかひこのみこと)。伊勢神麻績連等の先祖。


    建布都。コモリの第9男。 
    ホオテミの時、ツミハと共にイフキの宮にて四国24県を治める。
      
    徳島県阿波郡市場町香美字郷社本、建布都 (タケフツ) 神社。
  • ニギハヤヒ命と三島玉櫛媛の間には、一男二女が生まれる
    天日方奇日方命(大物主家祖)
    五十鈴媛(神武后)
    五十鈴依媛(綏靖后)

    秀真伝に、天日方奇日方命は、母の玉櫛姫と父の八重事代主とあるので

    大物主=饒速日命=八重事代主となるが、、、

    『古事記』によると、
    大物主神は陶津耳命の娘・活玉依毘売と結婚して、櫛御方命をもうけられた。 この櫛御方命の子が飯肩巣見命。、その子が建甕槌命(鹿島神宮祭神の建甕槌命とは別神)。 その子が意富多多泥古、『日本書紀』では大田田根子である。

    三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』
    天事代籤入彦命(事代主神)と大陶祇命の女、活玉依比売命の子、 天日方奇日方命(一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)とあり、 神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の兄で、 『姓氏録』大和国神別に大神朝臣・賀茂朝臣の祖、石辺公の祖ともされている。

  • 古事記
    大物主と活玉依姫ー天日方奇御方命ー飯肩巣見命ー健甕槌命ーオオタタネコ

    三輪高宮家家系
    事代主と活玉依姫ー天日方奇日方命
  • December 2016 編集されました
     下関の北方、黒井村(現・豊浦町)に長門三の宮の杜屋神社

    その祭神三穂津姫命は、『曰本書紀』の別伝の出雲征服譜の中で、次のように語られている。

     故、経津主神、岐神を以て郷導として、周流きつつ削平ぐ。逆命者有るをば、即ち加斬戮す。帰傾ふ者をば、仍りて加褒美む。是の時に、帰順ふ首渠は、大物主神及び事代主神なり。乃ち八十万の神を天高市に含めて、帥ゐて天に昇りて、其の誠款の至を陳す。時に高皇産霊尊、大物主神に勅すらく、「汝若し国神を以て妻とせば、吾猶汝を疏き心有りと謂はむ。故、今吾が女三穂津姫を以て、汝に配せて妻とせむ。(後略)」

     この別伝は、出雲征服の諸伝承の中でも最も具体性を感じさせる。従わぬ者は殺戮し、帰頼した者には血縁の女性と結婚させ、連繋を強めるという政略は、神話の世界というよりは、現実政治のものである。

    その帰順者の大物主神と事代主神が「天」に昇ったとは、征服者の本拠地に参じたことを示すだろう。

     事代主は、『古事記』では大国主=大物主神の子とされているが、ここでは出雲内の一勢力の長、「首渠」と表現されている。事代主は島根県八束郡美保関町の美保神社に祀られている。大国主を祀る出雲大社が出雲西部の大社町に鎮座するので、出雲東部の勢力の中心が美保にあったのであろう。東方の丹波から北陸へと続く航路の要地である。
  •  山口県下関市長府の忌宮神社は、下関のイトテを降服させたと『日本書記』に載る仲哀天皇を主祭神とする古社で、仲哀天皇の豊浦宮の跡といわれ、長門国二の宮とされるほど社格も高い。

    この神社には、仲哀天皇にまつわる次のような物語が伝えられている。

     仲哀天皇は九州の熊襲の叛乱を平定のため西下し、穴門(長門)の豊浦(長府)に仮の皇居を設けたが、朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動して豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが、黒雲に乗って海を渡ってきた塵輪が空から射かけるために苦戦し、宮門を守備する阿部高麿、弟助麿も相次いで討死した。天皇は大いに憤って自ら弓矢をとって塵輪を見事に射落した。そこで賊軍は色を失って退散した。

    忌宮のある長府は古来、瀬戸内の航路の終点であった。それは、ここから西の関門海峡の潮流が非常に激しいために航海の難所となっていて、人びとは、ここで船をいったん降りて、陸路を下関まで向かったのである。おそらく古代には、長府から長門一の宮の住吉神社を通って、弥生遭跡のある綾羅木へと道は通じていたので、忌宮も住吉神社も、その方向に 通が通じるようになっている。

     したがって長府の豊浦宮、現在の忌宮神社は、瀬戸内海勢力の西への前進基地、あるいは防衛拠点だったのだ。先の説話でみると、”新羅の賊軍”は長府まで攻め寄せて、仲哀天皇の軍はあやうく敗退しそうな危機におちいったところを、仲哀の奮戦によってようやくしのいだのである。九州内陸部の熊襲と組んでいた″新羅の賊”の根拠地は、おそらく下関だろ う。またそれは、イタケルが新羅から渡ってきたという伝説、そしてイタケルがイツツヒコと同一人物である、という推定とも符合する。
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