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奈良盆地西部、広陵町と河合町にひろがる馬見丘陵に築かれた奈良三大古墳群の一つです。古墳総数250基を超える大規…
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御由緒でも三諸山(みもろやま)
と表記されています。
しかし、地元の人々は
銘菓みむろ、清酒三諸杉(みむろすぎ)というように
三諸山はみむろやまと呼んでいます。
葛城葦田宿禰
彼は襲津彦の子で、北部葛城(葛下郡)を拠点に勢力をほこっていた5世紀の人物です。すなわち馬見古墳群を作った勢力です。 葦田宿禰の系流は、積極的に大王家と姻戚関係を結び、葛城氏の隆盛に一役買った一族ということになります。
葦田宿禰の娘、黒媛(くろひめ)は、仁徳天皇と磐之媛の子である第十七代履中天皇の后となります。また孫のハエ媛(はえひめ・ハエ=草かんむりに夷)を、履中天皇の子である、市辺押磐皇子(いちへのおしはのみこ)に嫁がせることで、勢力の拡大を図りました。
葛城玉田宿禰
襲津彦の孫(一説には子)で、南部葛城(葛上郡)を拠点にし、5世紀に活躍した人です。
こちらはどちらかというと、朝廷内部において政策実務をこなすことで、葛城氏の地位を押し上げて行った一族とでも言えましょうか。
玉田宿禰が第十八代反正天皇の葬儀を任されたり、玉田宿禰の子、円(つぶら)が、第十九代允恭天皇の時代に、大臣(おおおみ)という朝廷の重要ポストに就任していたことからも想像ができます。
またこの系統は吉備とも姻戚関係を築いており、倭国のアジア外交を支えていたとも考えられるのです。
安康天皇 反葛城派に属する人です。
安康天皇が、安康元年(454年)、仁徳天皇と日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)との間の子、大草香皇子(おおくさかのみこ)を讒言によって殺害するのです。
安康はそれ以前、同母兄の木梨軽皇子(きなしかるのみこ)に近親相姦の罪をかぶせて殺害しているので、これはおそらく自分より長子の政敵を片っ端から殺して、皇位についたということではないでしょうか。
安康は殺害した大草香皇子の正妃である中蒂媛(なかしひめ)を奪い、后に入れました。
しかし安康は、安康三年(456年)、安康の大草香殺しを偶然知ってしまった大草香と中蒂媛の子である眉輪王(まよわのみこ)に、隙を衝かれて殺されてしまうのです。
安康殺害を知って激怒したのが、安康の実弟、雄略です。
まず雄略は実兄である八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を疑い、責め問いました。しかし八釣白彦が、よい返事をしなかったので、これを殺してしまいます。
さらに実兄である坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を疑い、これを責め問いました。
坂合黒彦は恐れおののき、眉輪王とともに、葛城円大臣(玉田宿禰の子)の家に逃げ込んだのです。雄略は兵を挙げ、円の家を取り囲みました。
円大臣は家を出て、雄略と対峙します。「事の顛末はどうであれ、君王が臣下である私を頼って逃げてきている。二人を差し出すわけにはいきません。自分の娘である韓媛(からひめ)と、葛城の土地七ヶ所を献上するので、なんとか二人を助けてはもらえないでしょうか。」
しかし雄略は聞く耳を持たず、家ごと三人を焼き殺してしまいました。
もしかするとこの事件は、葛城円大臣が葛城派の市辺押磐皇子擁立を狙った、安康に対するクーデターだったのかもしれません。
允恭~安康と続いた反葛城派の皇位継承に楔を打ち込もうと考えた、円大臣のクーデター・・・八釣白彦も坂合黒彦も味方に引き入れました・・・しかし雄略の強硬な反撃に屈し、その計画は無残にも頓挫してしまったのです・・・
さらに雄略は、円大臣の娘、韓媛と葛城の土地を奪い取りました。葛城氏に服従を迫った結果でしょう。
玉田宿禰系葛城氏は滅亡に至りました
まだ葦田宿禰系は健在です。
しかし、雄略天皇の死後に、復興
雄略天皇の死後、皇位継承者がいないという危機的状況の中で、ヤマト豪族層は市辺押磐皇子の娘(一説には妹)である、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)に執政をとらせたようです。
飯豊青皇女は市辺押磐皇子のごく近い親族であり、また政務をとった場所は忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)という所で、
現在の葛城市忍海にあたることからも、彼女が葛城系の皇族だったことがうかがえます。
男性天皇を擁立するまでの中継ぎ的処置であったことは否めないでしょう。
そうこうしているうちに、逼塞していた市辺押磐皇子の二人の皇子が発見され、ヤマトに迎え入れられます。後の第二十三代顕宗天皇と第二十四代仁賢天皇です。彼らも血脈的には葛城系と言えますね。
彼らは父である市辺押磐皇子が雄略天皇に殺害されたとき、自らの身の危険を感じて、丹波を経て播磨の明石へと逃亡したのです。丹波も播磨も葛城氏とは交流のあった地域ですから、二人は葛城氏の同盟国に逃げ込み、身を隠したというわけです。
雄略が亡くなった後(清寧の後)、飯豊青皇女~顕宗~仁賢と、葛城系皇族が執政した、または皇位についたことになるのです。
これは葛城氏復興の兆しというわけではありません。継体天皇まで、権力の空白期間があったか?
小千御子(天狭貫(さぬき)王)です。越智氏の祖神として愛媛県今治市の矢矧神社で祀られています。
前方後方墳である
広陵町誌本文編(平成13年)には、同古墳について、
「備前車塚古墳に見られる吉備地方の性格を引き継いでいるのか」という記述がある。
出土した鏡の総数は34面。玉杖の一部や直刀20などの出土を伝える。
備前車塚古墳(岡山市中区湯迫ゆば)も、前方後方墳であり、三角縁神獣鏡11面が出土している。
古墳は奈良県北葛城郡広陵町にある、後方部を南南東に向けた前方後方墳。全長127m、後方部幅67m、高さ11m、前方部幅60m。明治18年に後方部の竪穴式石室が発掘され、34面の鏡他豊富な遺物が発見され、中でも金銅製の帯金具は中国製のもので、最古のものは2世紀に出現しているという。現在この古墳は、埴輪等の検証から4世紀の中葉に築造されたものと推定されている。
この古墳の出土品の中で現在最も注目されているのが金銅製の帯金具といわれる。この帯金具は当時の大和王権の対外交渉の結果、日本にもたらされたものと推定されている。この帯金具は現在加古川市の行者塚古墳しか出土例のないものだとされる。
この古墳は西条古墳群の1基で、加古川河口付近の丘陵台地先端に所在する。この河口付近に関して興味深い事実がある。それは古事記孝霊天皇の条に見える一文である。古事記は記している。「針間の氷河の前に忌甕を居ゑて、針間を道の口と為て吉備の国を言向け和したまひき」とある。
これは、地名に詳しい方の見解では氷河の岬の意味で、当時の地形から判断すると、西条古墳群一帯の尾根を指しているものとも解釈できる。弥生後期の段階では、この加古川を境として土器文化の様相が異なることが早くから指摘されており、上流に氷上郡(現丹波市)があること、さらには日本書紀遺文に氷上刀女の名が現れる点などから、古事記が記すこの氷河とは、現在の加古川を指しているものと、現在ではほぼ定説となっている。
この古事記の一節は記紀の信憑性を問う貴重な一文だと思われる。初期大和の王権が加古川下流域を足掛かりとして、吉備さらには播磨、丹波地方へと勢力を広めていった経緯が読み取れるように思われる。
新山古墳のの埋葬者は明らかではないが、推察を許されるならば私は「比古布都忍之信」を挙げたいと思う。彼は皇室第8代・孝元天皇と穂積臣の遠祖と伝える、内色許男命の女・伊迦賀色許賣との間に生まれた皇子とされる。直系皇族でもないのにかかわらず、かなりのスペースを割いて語られている。この皇子は葛城曽津毘古の祖父と伝えられ、妃の一人に葛城之高千那毘賣の名が挙げられていることからして、葛城地方と関わりが深い人物であったと思われる。崇神天皇以前の天皇は直系相続であり、問題視されているが、異母兄弟の開化天皇は末子相続であり、何よりも、庶母を娶ったとの伝えはいかにも真実味が感じられる。
しかし『新修名古屋市史』では、この歌は本来8世紀頃に尾張南部に伝わっていた民謡であるとし、ヤマトタケル伝説とは無関係であったと指摘している。この「氷上姉子」の原義は必ずしも詳らかでないが、『新修名古屋市史』では氷上の女性神官を指した語としたうえで、これが神格化されて祭神に転化し、さらに尾張氏の手のもとでミヤズヒメと習合してヤマトタケル伝説に組み込まれたと推測している。
なお、『延喜式』神名帳では社名が「火上姉子神社」と見えており、社伝ではもと当地の地名は「火高火上(ほだかひかみ)」であったが、火災を忌んで現在の「大高氷上」に改めたとする。しかし上代特殊仮名遣において「火」は乙類に属するのに対して、「氷」は甲類、「比加彌阿禰古」の「比」も甲類に属することから、実際には元から「氷」で平安時代以降に「氷」と「火」の表記が混ざったと見られている。特にこの「氷上」を本来「日上」であると見て、氷上姉子神社の原始祭祀を日神信仰とする説もある。
祭神の別説としては、日本武尊の姉の両道入媛命に比定する説がある。
奈良県北葛城郡広陵町大塚667
祭神
天兒屋根命 配祀 天照皇大神、品陀和氣命
由緒 広瀬郡の式内社の於神社に比定されている。
川合の広瀬神社の摂社の水分神社を式内於神社とする説もある。
讃岐国苅田郡には於神社、同じく鵜足郡には宇閇神社(ウヘ)が鎮座、ここ広瀬郡には讃岐神社が鎮座、葛城の地域と讃岐、どのような関係があったのだろうか。
讃岐については、他に御歳神社の神封、また大和の寺院の寺封も讃岐にある。小治田寺、橘寺、薬師寺など。
讃岐の酒部
宇閇神社(丸亀市・旧綾歌町)
宇閇神社は、延喜式内24社の一つと言われている神社。
鳥居の横に「宇閇神社古墳」があることから、古い神社ということは想像できる。
道路側からぐるりと回り込むように、参道を進み、少し薄暗い鳥居をくぐり境内へ。お参りをすませた後、境内端にある公園のような場所で昼食。
由緒を読むと、西側の敷地を役所に売却したようで、社叢は今よりもっと大きかったようだ。
丸亀市からまんのう町にかけて、酒部黒麿の伝説を伝える神社は、多い。
酒部黒麿は、讃岐國の始祖神櫛王の末裔。酒造りが上手で「酒部」の姓を名のることを許された。
宇閇神社建築神苑整備記念碑より写す
祭神は鵜羽葺不合命。由緒は日本武尊の子武殻王の六代目にあたる酒部益甲黒丸の創祀と伝えられ延喜神名式に列している。神域に泉がなく栗の大樹があった。
ある朝鵜のむれが栗の下をほると清水がわき出た。夜は星影が水に映って王の井と言われた。
鵜足郡・栗隈・隈玉の名もあり。その後幾星霜鎮守の神として祭られた。
平成二年綾歌町が西谷・定連線改良のため神社用地一五九〇平方米を町に売却した。