天孫降臨、邇邇芸命、神武天皇

December 2018 編集されました カテゴリ: 神武ー開化
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邇邇芸命は天照大神の孫にあたる神で、一般的に天孫と呼ばれます。 父は天照大神の子である天忍穂耳尊で母は高皇産霊…

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コメント

  • 大山津見神は、山を掌らせ給ふ男の神様で、伊弉諾イザナギ、伊弉冊イザナミの尊ミコトの御 子である。


    大山津見神の御子神
    脚摩乳     ― 櫛稲田姫                    
    木花知流比売神                    
    磐長比売命                    
    神大市比売                    
    木花開耶比売命



    初め此神様は今の薩摩の阿多の郡に御住居あらせられ、御独りに て、しかも、脚摩乳、木花知流比売などの五人を御作りになったが、御妹 の鹿屋野比売神を御嫁様となされて、この間に沢山の御子が出来た。  茲で、兄妹の結婚に就いて申しておかう。今の世では勿論非倫であったが、当時は神 々も極めて少くあらせられたから、他の国ツ神などあり、国土のものなど思もよらない ので、神々も仕方なく、御兄妹結婚遊ばされた。  そこで御兄妹結婚の結果八人の御子が生れられた。
    大山津見神   の御子 鹿屋野比売神 ― 天之狭土神                      国之狭土神                      天之狭霧神 ― 遠津待根神                      国之狭霧神                      天之闇戸神                      国之闇戸神                      大戸惑子神                      大戸惑女神  
    これである。  この大山津見神は、早くから方々を御征服になって、御威勢おさおさならぶ ものもなかったが、御子達の御出世も大に其威勢を増した原因であった。それは木花開耶比売コノハナサクヤヒメが天孫邇々杵命に嫁カせられたことで、この木花開耶比売の生れた方に 彦火々出見尊ヒがあらせられる。そして此彦火々出見尊の御孫が神倭伊波羅毘古命即ち神武天皇であらせられるから、この大山津見の御神は、それか ら引いて、天津日嗣の外曾祖父に当らせらるゝと云ふ尊い神様となった。

    この木花開耶比売の天孫邇々杵命に嫁カしづかれるに就ては、面白い神話がある。

    ある時天孫邇々杵命が、日向から薩摩方面に御巡狩の折柄、道の辺に一人の美しい姫 様を御覧になったので、御家来の方々に、あの乙女は誰で、何をしてゐる人であるかを 尋ねさせた。すると、家来の復命は、  「あの美しい姫様は、この地方を開拓なされ、日本の山々を支配してゐられる大山津 見神の第二女で、木花開耶比売と仰せられます」 と、詳しく報告であったので、そんなら大山津見神に相談して見やうと、天孫が右の旨 を物語り、是非姫を妃に立てたいと御仰せになると、大山津見神は非常に喜んで、早速 御長女である磐長比売イハナガヒメと倶どもに差し上げた。  処が、この磐長比売は、御妹御オンイモウトゴの木花開耶比売に較べてみると、非常に醜い 方であったから、天孫は磐長比売は御親御の家に帰され、美しい木花開耶比売とお暮ら しになった、然し、木花開耶比売は美しいけれど、御命が永くあらせられず、是に反し 磐長比売は非常に御長命であったから、若し、醜いけれ共この磐長比売を御嫁取り遊ば されたならば、天孫の御寿命は磐の如く、万代不易であったらうに、木花開耶比売を妃 とせられたから、花の散る如く、天孫の生命が御短くあらせられたと云ふ。
  • この説が有力か

    天孫降臨の話は、宮崎県の高千穂ではなく、福岡県の高祖山連峯です。筑紫の日向の高千穂の櫛触峯―ちくしの、ひなたの、たかちほの、くしふるたけ。糸島市と福岡市の境です。日向峠、日向山、高祖山の隣に櫛触山があり、福岡市側に日向川が流れ出して、室見川と合流しています。この地帯が日向地域です。日向・ヒムカではなく、日向・ヒナタです。この場所に吉武高木遺跡遺跡があります

    糸島市側の高祖山―たかすやま―西側に高祖神社があり、ヒコホホデミノミコトを祀ってあります。この場所が、ヒコホホデミノミコトの墓か。神奈備山です。

    天照の子であるアメノオシホミミの妻神の父は、タカミムスビノカミ―高木ノ神です。
  • スサノオとクシナダヒメの間に出来た子供に八島野尊とありますが、八嶋士奴美尊とも云います。この神様は、猿田彦尊―クナトノオオカミで、古代出雲族―オロチ族の祖神です。イザナギ尊とイザナミ尊の間に出来た長男です。後から、藤原氏に付け足されたのです。古事記においては、ヤシマジヌミはコノハナチルヒメをめとって、フハノモヂクヌスをもうけます。フワノモヂクヌスは、ヒカワヒメをめとって、フカフチノミズヤレハナノカミをもうけます。フカフチノミズヤレハナノカミはアメノツドヘチネノカミをめとって、オミズヌノカミをもうけます。オミズヌノカミはフテミミノカミをめとって、アメノフユギヌノカミをもうけます。この神がサシクニワカヒメをめとって、大国主―大己貴をもうけます。

    大己貴は、実の名は、己になります。コトと読み、又は事と書くのでしょう。後継ぎは、親の名前をもらいますから、息子は、事代主です。
  • 古田史学会より
    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou46/kaihou46.html
    西村氏は
    天孫・瓊瓊杵尊は降臨時点においてはまだ乳飲み子であって、降臨の主体はその母・萬幡豊秋津媛命であり、その出発地はその豊秋津からして別府湾岸ではないかとした。

    そして豊国を中心とする比売神信仰は彼女を祭祀するものであり、それは香椎宮の女王に重なるとし、これまでの我々の認識を一変させた。


    倭国の国父となった瓊瓊杵尊は、本来は母系の高皇産霊尊の天孫として謳われたが、倭国滅亡から新たな日本国(大和朝廷)の成立の中で天忍穂耳尊の父系系譜にねじられ、天照大神を顕彰するものとなったとした

     高皇産霊尊―萬幡豊秋津媛命
              ∥ーーーー瓊瓊杵尊
     天照大神ーー天忍穂耳命

    『古事記』
    天孫について「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」と書いたが、古田武彦は「天津日高日子番能」をその職能を示すものとして、その役職を対馬の比田勝の海軍長官とした。

    「天邇岐志国邇岐志」を単なる美称として「アマニキシ、クニニキシ」としているのを不満とし、「アマのニキシのクニのニキシ」とすることによって、天は天国、邇は美称、岐は壱岐で、志こそが彼の本貫を示すものであるとした。
    つまり、その本貫は対馬ではなく壱岐の郷之浦町の現在の志原辺りに求めた。そこは一大国の跡地として高名な原ノ辻遺跡から二、三キロのところ。確かに壱岐には高皇産霊尊を祭祀する高御祖神社があり、天孫の本貫とするにふさわしい。
     
    伊勢神宮が別宮四社の中に月読宮を祭祀し、天皇家は異変があるごとになぜ月読宮に慌てて奉弊したかについて触れ、その大和朝廷の神統譜は倭国の月読命を中心としたものを天照大神中心に書き換えたものとした。ところでその月読を祭祀する神社が壱岐にあるのはよく知られている。

     その月読命の遷座地の変遷を、私は壱岐の月読神社(現在の地ではない)→糸島の高祖神社→太宰府の天満宮→筑後の高良大社と、、、、

    天武の藤原宮造営の歌とされた「大君は神にしませば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ」(巻十九―四二六一)の歌が筑後の三潴への遷宮の歌に奪回する古賀達也の論証によって、その初代・高良玉垂命の高良廟の横に月読神社を見出したことによって新たな裏付けを見た

    天孫降臨の主体となった瓊瓊杵尊の母である萬幡豊秋津媛命である。紀本文に栲幡千千姫とあるその人は、一書では萬幡姫、記には萬幡豊秋津師比賣とある。その豊秋津に注目した西村は、それを国東半島のおなじみの安岐に求めたのは先に述べた。栲は「木の皮の繊維で織った綿布」で、はたやのぼりの幡に通じ、師は軍隊の指導者の意とし、栲幡千千姫を豊秋津にあった海人(天)族軍団の女将軍としたのである。
     とするとき万葉集の「わたつみの豊旗雲に入り日さし、今夜の月夜さやけかりこそ」の豊旗雲を空に浮かぶ雲と見ず、海に雲集する海軍の豊旗と見るべきだと今度上梓する『万葉集の向こう側』(五月書房)で私が述べたのにそれははからずも重なっていく。

     八幡神はやはたの神、つまり多くの秦氏の神と考えており、それを幾つも集めたというのは、栲幡千千姫の名に明らかである。そしてその秦王国が豊前にあったとする論証を大和岩雄や泊勝美の論があるのは周知のところである。とするとき萬幡豊秋津媛命の父・高皇産霊尊は秦氏の族長とするしかない。
     この渡来人の秦氏を追って私はすでに韓半島に上陸する論を成し、秦氏の出身地を金官伽耶とする一方、漢氏を安羅伽耶出身者とした。というのは彼らの渡来は、動乱を事とした韓半島南端での高句麗・百済・新羅に追い詰められた伽耶(任那)の存亡に関わる。私は仁徳五五年の筑後遷宮は、この伽耶の王女が物部保連にお輿入れすることによって倭国の梃入れをはかったものに始まると先の本で述べた。

    伽耶王を戴く秦氏は、伽耶から壱岐に至り一大国を形成し、そして壱岐から豊秋津を経て筑前へと天孫降臨し、倭国を建国した
  •  『宗像大菩薩御縁起』によると、神功皇后の三韓征伐に際して、宗大臣(ムナカタの神)が奮戦して武勲を輝かしたという。
    その時、宗大臣は『御手長』を捧げ来り、これに武内宿禰の織り持てる赤白二流の旗を付けて、軍の前陣で『御手長』を振り下げ、振り上げして敵を翻弄し、最後にこの『御手長』を息御嶋(オキノシマ)に立てた。
    この息御嶋は宗像の沖ノ島であり、そして『御手長』については、「異國征伐御旗杆也」とある。
    これが壱岐島の「天手長男神社」「天手長比賣神社」の『天手長』の由来。
    そして武内宿禰がこの「御旗杆」に付けられた「赤白二流之旗」を織ったので、織旗の神が祀られ、織幡神社の社記によると、「壱岐真根子臣の子孫の人つたへて是を祭る」とあり、織幡神社の社家は壱岐氏である。
  • 『古事記』には万幡豊秋津師比売命とあり、高木神の娘で、天忍穂耳命の妻となり、天火明命、日子番能邇邇芸命を生む。

    『日本書紀』本文には、思兼神の妹・万幡豊秋津姫命。 一書第二に、高皇産霊尊の娘・万幡姫。 一書第六に、高皇産霊尊の娘・栲幡千千姫万幡姫命、または高皇産霊尊の娘・火之戸幡姫の子、千千姫命。 一書第七に、高皇産霊尊の娘・天万栲幡千幡姫、または高皇産霊尊の娘・万幡姫の子、玉依姫命。 一書第八に、高皇産霊尊の娘・天万杵幡千幡姫。
  • 天萬栲幡千幡比賣命 を祀る神社
    皇大神宮 内宮 三重県伊勢市宇治館町
    伊勢神社 岡山県岡山市北区番町2-11-20
    諏訪神社 福井県越前市五分市町11-10
    磯部稲村神社 茨城県桜川市磯部字稲置779
    須智荒木神社 三重県伊賀市荒木108
    神戸神社 三重県伊賀市上神戸317
    都美恵神社 三重県伊賀市柘植町2280
    爾自神社 長崎県壱岐市郷ノ浦町有安触997
    手長比賣神社 長崎県壱岐市勝本町本宮西触1212
    天手長比賣神社 長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触
    天手長男神社 長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730
    幡井神社 鳥取県鳥取市青谷町絹見802
    椿大神社 三重県鈴鹿市山本町御旅1871
    物部神社 境内 漢女神社 島根県大田市川合町川合1545
    菅忍比咩神社 石川県七尾市中島町笠師ソ236
    真清田神社 境内 服織神社 愛知県一宮市真清田1-1
    船橋大神宮 千葉県船橋市宮本5-2-1
    栃木県足利市粟谷町1149
    戸隠神社日之御子社 長野県長野市戸隠
    山口大神宮 山口県山口市滝町4-4
    浅間・神部・大歳御祖神社 静岡県静岡市葵区宮ケ崎町102-1
    皇大神社 元伊勢内宮 京都府福知山市大江町内宮宮山217
    天忍穂別神社 境内 棚機神社 高知県香南市香我美町山川字スミガサコ
    乎豆神社 静岡県浜松市北区細江町中川4641-1
    須倍神社 静岡県浜松市北区都田町6284
    わら天神宮 京都府京都市北区衣笠天神森町
    池坐朝霧黄幡比賣神社 奈良県磯城郡田原本町法貴寺502
    吉野水分神社 奈良県吉野郡吉野町吉野山字子守1612
    竹佐々夫江神社 三重県多気郡明和町山大淀3004
    今宮神社 境内 織姫神社 京都府京都市北区紫野今宮町21
    桐生天満宮 境内 機神神社 群馬県桐生市天神町1-2-1
  • 伝承

    嘉麻市・射手引(いてびき)神社社伝
     筑紫・鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり。帝王山と 伝う。かく言い云う所以(ゆえ)は昔、神武天皇(東征の時)、豊前宇佐島より阿柯(あか)小重に出でて天祖・吾勝(あがかつ)の命(みこと)を兄弟山の中 腹に祀(まつ)りて西方に国をもとめたまわんと出御したまう時、この山路を巡幸したまう故に、此の名あるなり。神武山。
    田川の地をしろしめす。天皇、駒主(こまぬし)の命を道案内とし、帝王越えを経て嘉穂(かほ)の郡(こおり)に入らせられ、夢に手力男命(たじからのおのみこと)の神霊を受けたまひ、猪位金(いいかね)村の一端、兄弟山に登って天祖の祖霊を祭られた。その神跡を帝王山という。
  • 飯塚市鹿毛馬・厳島神社、牧野神社
     神武天皇、陸路 筑紫にご行幸ならせらるるとて、豊の上毛(こうげ)の蜘蛛手(くもて)山を経て、田河あたりより方に此処の御山を越えたまわんとする時、御山自然に鳴動し て風雨俄(にわ)かに起こる。多くの軍卒やすく越ゆべくもあらざれば、天皇はなはだ驚き怪しみ思召(おぼしめ)すの時、身にわら蓑(みの)を着し、頭に柴 をかざし、おずおずながら寄り来る翁(おきな)あり。
    奏上して曰く、この御山は昔、比売(ひめ)神いまして豊国宇佐島より宗像の沖合に鎮まり賜いき。この如き畏(かしこき)御山なれば、しばらく乗り越えたまわんこと礼なきことなりと、必ず比売神のとがめたもうことにもあるらめ。
    時に天皇、その言の理あるをはなはだ嘉(よみ)したまいて詔(みことのり)し・・・まず比売神を厚く祀りたまいぬれば神験たちどころにあらわれ、風雨やみて御山自ら静かになりぬ。
    登山し、四方晴る るままに遠方、近方を見晴らしたまう折から、目近き戌亥(いぬい=北西)のすそ野にるい多く馬立ち騒ぐ声を聞し召す。仇や寄すらんと驚きたまえる時、翁ま た進み出て奏上、彼こそはわが村の放れ馬なれ・・・足白の駿馬、足鍬をつけしまま騒ぎたち、南を指して駆け出しぬ。これによりこの村を鹿毛馬(かけま)と云う。けだし「駆け馬」ならん。或は云うその馬、鹿毛なりし、と。
    馬に乗り鞭あてて駆け出したまへば・・・南の高根をめがけてまた馳せゆきぬ。(先に行った)馬を見つけ「馬見ゆ」と詔(のり)たまう。以てここを名付けて馬見と云う。
    ついに筑紫の岡田の宮に至りたまいて≪一年≫ましましぬ。・・・この山(馬見山)の根に瑞宮(みずみや)建て、比売神とともに天照らす御祖の神を祀りき。故にその牧野尾に狭野命と豊宇気(豊受神)、大山積の牧野尾神社と崇(あが)め奉りき。
  • 九州人は自らの国を「い国」あるいは「いい国」と称していたと考えられる。「い」は「壹」または「井(いい)」であろうと考えられる。

    北部九州には熊本県産土(うぶすな)村を中心に多くの「井(いい)」さんが住んでおられる。中国の西安で墓誌が見つかった「井真成」や幕末の大老・井伊直弼らもこの一族だ。神武の息子にも「神八井耳命」と「井」がついている。「壹」は魏志では邪馬壹国となっているからだ
    『(旧)唐書』には「倭(い)はいにしえの倭奴(いと)国である」と明記
  • 2004年に中国の古都西安で見つかった遣唐使の墓誌に刻まれていた、日本人・井真成の人物像をめぐり、日中間で説が割れている。日本では奈良時代に遣唐使に選ばれた留学生という解釈が一般的だが、中国では、唐の学校制度などから見て異論があり「留学生ではなく、遣唐使の随員(役人)」との主張が登場した。「井真成はどんな人?」との疑問に迫ろうと研究が続くが、日中間の議論はいっこうに収束しそうにない。

     留学生説を否定したのは、復旦大(上海)の韓昇教授だ。昨年末に出た専修大の東アジア世界史研究センターの年報に、「井真成墓誌の再検討」との論文を寄せた。

     墓誌によると、井真成は奈良時代の734年に36歳で死亡した。懸命に勉強したとの記述があることから、717年の遣唐使船で派遣された留学生と見られてきた。

     だが、韓教授は、733年に到着した次の遣唐使の随員だったとの論を展開する。

     まず、唐の制度では、官立学校の在学期間は最長9年までで、それ以上は滞在もできなかったと指摘し、「十数年にわたり留学したとの見解は成立しがたい」とする。

     また、井真成の死後追贈された役職「尚衣奉御」は、皇帝の衣服を管理する部門の責任者で単なる留学生に与えられるものではないことや、亡くなった場所の官第は短期滞在の外国の使節の宿泊所であることなどから、「井真成は留学生では決してない」と強く否定している。

     さらに、井真成の死は皇帝に報告され、葬儀の費用は唐政府が負担したとも墓誌には記されているが、それは三等官以上の外国使節に対する扱いであることを紹介する。だが、遣唐使の三等官以上に相当する人物は見あたらない。
  • May 2018 編集されました
    井寺古墳の直弧文の装飾壁画写真は、参考資料のものです。写真資料以外に古墳の内部を見ることはできません。石室の積石も阿蘇ピンク石です。

    井寺古墳の西には普賢岳。おつぼ山神籠石のあいだには熊ノ岳。江田船山古墳→打越古墳→井寺古墳と、三か所の古墳は直線上に乗ります。三か所の有名古墳がつながるのは、珍しいことです。

    浮島神社(うきしまじんじゃ)は熊本県上益城郡嘉島町にある夫婦神を祀った神社。
    熊本県上益城郡嘉島町井寺2827

    平安時代の長保3年(1001年)、この地を治めていた井王家3代目 井王 三郎直久は、湿地帯のため五穀の収穫が思うようにいかないため、屋敷神である、熊野坐神社に日夜祈っていた。ある夜、枕元に熊野の神が現れ、「屋敷の北側を掘れ!」との教えを授けられた。そこで、掘ってみると、みるみる周辺の水が集まり、大きな池になった。おかげで、湿地から水気がなくなり、作物の収穫が上がり、みな喜んだ。

    その晩、黄金色に輝く大きな石が池に現れ、人々を驚かす。これを「兜石」と名付けた。「兜石」は、現在も池のどこかに沈んでいる。その日から、ひっきりなしに人々が見物に来て、にぎわった。「兜石」をご神体とし、屋敷神を神社へと移行し、井王三郎自身が神主となった。以来、千年、井王家が神職を担っている。現在の宮司は41代目。
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