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天香語山命の異母弟は可美真手命(うましまで) 天香語山命の妃は熟穂屋姫命(うましほや) 物部神社の祭神・宇摩志…
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コメント
香用比売命 かよひめのみこと ・大年神の妻
大香山戸臣神 おおおかがやまとおみのかみ
御年神 おとしのかみ
・上記二柱が大年神と香用比売命の御子神
・御年神は父神と同じく農業神
・御年神をまつる神社として大和神社(官大、奈良天理)
大歳御祖神社 父 建速須佐之男神 母 神大市比売
大年神 ― 大国御魂神
韓神 妃 伊怒比売
曽富理神 妃 香用比売
白日神 妃 天知迦流美豆比売
聖神 以上 母伊怒比売(神活須毘神の女)
大香山戸臣神
御年神 以上 母香用比売
奥津日子神
奥津比売神
大山咋神
庭津日神
阿須波神
波比岐神
香山戸臣神
羽山戸神
庭高津日神
大土神 以上 母天知迦流美豆比売
大年神オも亦、日本建国の時、大国主命と共に力を合せて、悪神を平 げたる有名なる神であって、大国主命は、この大年神の力を蒙ること非常に多かった。 初め大国主命は少彦名命の力を得て、大に天下を治められたが、更らに出 雲朝廷を拡張する為に、諸神の助力を乞はんものと思はれて、
「アゝ、この国を治むるや実に容易の事にあらず、誰か、偉らい神様があって共々に 国家経営の事に力添がして欲しいものである」
と独言してゐられると、海上遥に光輝き来るものあり、よくよく見れば豈アニ計らんや、 一人の神であった。その神は声張り上げて、
「大国主よ、汝若し、吾が住する前をよく治めば、吾汝と共によくこの国土経綸ケイリン に力を添ふべし」
と、大国主命重ねて、
「然らば、治め奉るには如何にしたればよろしきにや」
と尋ねらるゝと、彼の神は、
「左様、大和国ヤマトノクニ青垣山アヲガキヤマの東の方の山の上に奉祠するがよいぞ、私は、御 諸山ミモロヤマの上に鎮座してゐる大年の神と云ふものである」
と御仰せになったので、大国主命はその通りになさると、茲で大年神は、伊怒比売イヌヒメ と申す、神活須毘神カムイクスビノカミの御女オンムスメと結婚して、大国御魂神オホクニノミタマガミ、韓神 カラガミ、曽富理神ソホリノカミ、白日神シラヒノカミ、聖神ヒジリノカミの五人を生み、更に香用比売命カヨウ ヒメノミコトと云ふ美人を娶って大香山戸臣神オホカグヤマトベノカミ、御年神ミトシノカミ、の二人を設けら れ、次に、天知迦流美豆比売アマチカルミヅヒメを御嫁様にして、奥津日子神オキツヒコノカミ、奥津比 売神オキツヒメガミ(亦名大戸比売)と云ふ竃ツツイの神様や、大山咋神オホヤマクヒノカミ、庭津日神ニハ ツヒノカミ、阿須波神アスハノカミ、波比岐神ハヒキノカミ、香山戸臣神カグヤマトベノカミ、羽山戸神ハヤマトノカミ、 庭高津日神ニハタカツヒノカミ、大土神オホツチノカミ等の十人の神様を生まれ、この御子神達が色々の 方面に発展して、大国主命を助け、国土経営上に御力添えになったのである。
宇摩志麻治命。
この命は、橿原宮で統治された天皇[神武天皇]の御世に初めて足尼になり、次に食国政申大夫となり、大神を斎奉る。活目邑の五十呉桃の娘の師長姫を娶り二児が誕生した。
孫の味饒田命[阿刀連等の先祖]
弟の彦湯支命[亦の名は木開足尼]この命は、葛城の高丘宮で統治された天皇[綏靖天皇]の御世に初めは足尼になり、次に食国政申大夫と成って大神を斎奉る。日下部馬津、名は久流久美の娘の阿野姫を娶り、一男を生む。出雲の色多利姫を妾とし、一男を生む。淡海の川枯姫を妾とし、一男を生む。
三世の孫の大禰命[彦湯支命の子供]この命は、片塩の浮穴宮で統治された天皇[安寧天皇]の御世に、侍臣となって大神を斎奉る。
弟の出雲醜大臣命[彦湯支命の子供]この命は、軽地の曲峡宮で統治された天皇[懿徳天皇]の御世に初め食国政申大夫となり、次に大臣となって大神を斎奉る。その大臣の名はこの時より始まった。倭の志紀彦の妹の真鳥姫を娶って、三児を生む。
弟の出石心大臣命。この命は、腋上の池心宮で統治された天皇[孝昭天皇]の御世に大臣となって大神を斎奉る。新河の小楯姫を娶り、二児を生む。
四世の孫の大木食命[三河国造等の先祖。出雲醜大臣命の子供]
弟の六見宿禰命[小治田連等の先祖]
弟の三見宿禰命[漆部連等の先祖]この命は、秋津島宮で統治された天皇[孝安天皇]の御世に近くに宿直する縁で初めに足尼になる。次に宿禰となり大神を斎奉る。その宿禰はこの時が最初で有る。
児の大水口宿禰命[穂積臣・釆女臣等の先祖。出石心大臣命の子供]
弟の大矢口宿禰命。この命は、廬戸宮で統治された天皇[孝霊天皇]の御世に宿禰となり大神を斎奉る。坂戸の由良都姫を娶り、四児を生む。
五世の孫の鬱色雄命。この命は、軽境原宮で統治された天皇[孝元天皇]の御世に大臣となり大神を斎奉る。活馬の長沙彦の妹の芹田真稚姫を娶り、一児を生む。
妹 鬱色謎命。この命は、軽境原宮で統治された天皇が立てて皇后とし、三皇子を生む。大彦命、次に春日宮で統治された天皇[開化天皇]、次に倭跡命である。春日宮で統治された天皇は皇后を尊んで皇太后とされた。また、磯城瑞籬宮で統治された天皇[崇神天皇]が尊んでは太皇太后とされた。
弟 大綜杵命。この命は、軽境原宮で統治された天皇の御世に大禰となり、春日率河宮で統治された天皇の御世に大臣となり、皇后・大臣は大神を斎奉った。高屋の阿波良姫を娶り、二児を生む。
弟 大峰大尼命。この命は、春日宮で統治された天皇の御世に大尼となって仕えた。大尼の起こりは是より始まる。
六世の孫の武建大尼命[鬱色雄大臣の子供]この御子は同天皇の御世に大尼となって仕えた。
孫妹 伊香色謎命。この命は、軽境原宮で統治された天皇が立てて妃とし、彦太忍信命を生まれた。天皇が崩御され、春日宮で統治された天皇が庶母を立てて皇后とし、皇子を生まれた。磯城の瑞籬宮で統治された天皇である。この天皇は皇太后とされた。纏向天皇[垂仁天皇]の御世に太皇太后を追贈された。
弟 伊香色雄命。この命は、春日宮で統治された天皇の御世に大臣となり、磯城の瑞籬宮で統治された天皇から大臣の詔を受け、神の種類を分け、天社(天津神の神社)と国社(国津神の神社)を定めた。物部八十手が作った、神祭りの方法で、八十萬の神を拝んで祭った。この時、建夫都大神の社を大倭の国の山邊の郡の石上邑に遷した。饒速日尊が天祖から授かり、天より持ってきた天璽瑞宝も同じく収めて祭った。石上大神と名付けた。国家の為また氏神として崇め祀り鎮めた。皇后・大臣は神宮を斎仕えた。山代県主の先祖の長溝の娘の眞木姫を娶って、二児を生む。山代県主の先祖の長溝の娘の荒姫と妹の玉手姫を妾とした。それぞれ二男を生む。倭の志紀彦の娘の眞鳥姫を妾とし、一男を生む。
七世の孫の建膽心大禰命[伊香色雄命の子供]この命は、磯城瑞籬宮で統治された天皇[崇神天皇]の御世に初めて大禰となって仕えた。
弟 多辨宿禰命[宇治部連・交野連等の先祖]この命は、同天皇[崇神天皇]の御世に宿禰となって仕えた。
弟 安毛建三命[六人部連等の先祖]この命は、同天皇[崇神天皇]の御世に侍臣となって仕えた。
弟 大新河命。この命は、纏向珠城宮で統治された天皇[垂仁天皇]の御世に始めは大臣となり、次に物部連公の姓を賜る。改めて大連となり神宮に斎仕えた。大連の名はこの時より始まる。紀伊の荒川戸俾の娘の中日女を娶り、四男を生む。
弟 十市根命。この命は、纏向珠城宮で統治された天皇の御世に物部連公の姓を賜る。五大夫の一人となり、次に大連となり神宮に斎仕えた。天皇は物部十市根連に
「しばしば、使いを出雲の国に遣わして、その国の神の宝を検案しようとしても、明確に報告するものは無かった。汝自ら出雲の国に行き検案して定めよ。」
と命じられた。十市根大連は神宝を検案し定め、明らかにして報告した。神宝を掌って定めた。
同天皇の御世に五十瓊敷入彦皇子命は河内の国の幸乃河上宮で大刀千口を作った。名を赤花之伴と云う。亦は裸伴剣と云う。今は石上に納められている神宝である。この後、皇子命に石上神宝を司るよう命じられた。
同天皇の御世から八十七年を経て、五十瓊敷入彦皇子命は妹の大中姫命に
「私は年をとって神宝を掌ことが出来なくなった。今より後は汝が必ず掌りなさい」
と仰られた。大中姫命は驚いて
「私はかよわい女です。どうして天神の倉庫に登る事が出来ましょうか。」
と答えられた。五十瓊敷入彦皇子命は
「天神の倉庫が高いというなら、私が天神の倉庫に登る為の梯子を作ろう。そうすれば、天神の倉庫に登る事を煩わなくても済む」
と言われた。諺に「天之神藏も梯子のまま」と云うのはこの事が起こりで有る。しかし、大中姫命は遂に物部十市大連に授けて石上の神宝を治めるよう命じられた。是が起こりで有る。物部武諸隅連公の娘の時姫を娶り五男を生む。
弟 建新河命[倭の志紀県主等の先祖]
弟 大??布命[若湯坐連等の先祖]
この二人の命は、同天皇の御世に侍臣となって仕える。
八世の孫の物部武諸隅連公[新河大連の子供]この連公は、磯城瑞籬宮で統治された天皇[崇神天皇]の六十年に天皇は群臣に
「武日照命が天より持ってきた神宝を出雲の大神の宮に収めた。是を見たいと思う。」
と仰られ、矢田部造の先祖の武諸隅命を遣わした。検案し明らかに定め報告した。この時、大連となって神宮を斎仕えた。物部膽咋宿禰の娘の清媛を娶り一男を産む。
弟 物部大小市連公[小市直等の先祖]
弟 物部大小木連公[佐夜部直・久奴直等の先祖]
弟 物部大母隅連公[矢集連等の先祖]
これら三人の連公は志賀高穴穂宮で統治された天皇[成務天皇]の御世に侍臣となって仕えた。
孫 物部膽咋宿禰[十市根大連の子供]この宿禰は、志賀高穴穂宮で統治された天皇の御世にはじめは大臣となり、次に宿禰となり神宮に斎仕えた。その宿禰の官は始めてこの時に起こった。市師宿禰の先祖の穴太足尼の娘の比??古命を娶り、三児を生む。阿奴の建部君の先祖の太玉の娘の鴨姫を妾とし、一児を生む。三川穂国造の美己止直の妹の伊佐姫を妾とし、一児を生む。宇太笠間連の先祖の大●命の娘の止己呂姫を妾とし、一児を生む。
弟 物部止志奈連公[杭田連等の先祖]
弟 物部片堅石連公[駿河国造等の先祖]
弟 物部印岐美連公[志紀県主・遠江国造・久努直・佐夜直等の先祖]
弟 物部金弓連公[田井連・佐比連等の先祖]
これら四人の連公は同朝の御世に侍臣となって仕えた。
九世の孫の物部多遅麻連公。この連公は、纏向日代宮で統治された天皇[景行天皇]の御世に大連となり神宮に斎仕えた。物部五十琴彦連公の娘の安媛を娶り、一児を生む。
孫 物部五十琴宿禰連公[膽咋宿禰の子供]この連公は、磐余稚桜宮で統治された神功皇后の御世に、始めは大連となり、次に宿禰となって神宮に斎仕えた。物部多遅麻大連の娘の香児媛を娶り、三児を生む。
妹 物部五十琴姫命。この姫は、纏向日代宮で統治された天皇が立てて妃とし、一児を生む。五十功彦命である。
弟 物部五十琴彦連公。この連公は、物部竹古連公の娘の弟姫を娶り、二児を生む。
弟 物部竺志連公[奄智藪連等の先祖]
弟 物部竹古連公[藤原恒見君・長田の川合君・三川の藪連等の先祖]
物部椋垣連公[城藪連・比尼の藪連等の先祖]
この三人の連公は同朝の御世に侍臣となって仕えた。
十世の孫の物部印葉連公[多遅麻大連の子供]この連公は、軽島豊明宮で統治された天皇[応神天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
姉の物部山無媛連公。この連公は、軽島豊明宮で統治された天皇が立てて妃とし太子の兔道稚郎皇子を生む。次に矢田皇女、次に雌鳥皇女。その矢田皇女は難波高津宮統治された天皇[仁徳天皇]が立てて皇后とされた。
弟 物部伊與連公
弟の物部小神連公
この二人の連公は同朝の御世に侍臣となって仕えた。
弟 物部大別連公。この連公は、難波高津宮で統治された天皇の御世に、侍臣となって神宮に斎仕えた。軽島豊明宮で統治された天皇の太子の兔道稚郎皇子と同母の妹の矢田皇女を難波高津宮で統治された天皇は立てて皇后とされたが皇子が生まれ無かったので、大別連公に命じて皇子代となって皇后の名を氏として、改めて矢田部連公の姓を賜る。
孫 物部伊莒弗連公[五十琴宿禰の子供]この連公は、稚桜宮[履中天皇]と柴垣宮[反正天皇]で統治された天皇の御世に大連となって、神宮に斎仕えた。倭の国造の先祖の比香賀君の娘の玉彦媛を娶り、二児を生む。娣岡屋媛を妾とし、二児を生む。
弟 物部麦入宿禰連公。この連公は、遠飛鳥宮で統治された天皇[允恭天皇]の御世に大連となり、次に宿禰となって神宮に斎仕える。物部目古連公の娘の全能媛を娶り、四児を生む。
弟 物部石持連公[佐為連等の先祖]
孫 物部目古連公[五十琴彦の子供。田井連等の先祖]
弟 物部牧古連公[佐比佐連等の先祖]
十一世の孫の物部眞椋連公[伊莒弗宿禰の子供。巫部連・文島連・須佐連等の先祖]
弟 物部布都久留連公。この連公は、大長谷朝[雄略天皇]の御世に大連となって、神宮に斎仕えた。依羅連柴垣の娘の太姫を娶り、一児を生む。
弟 物部目大連公。この連公は、磐余甕栗宮で統治された天皇[清寧天皇]の御世に大連となって、神宮に斎仕えた。
弟 物部鍛治師連公[鏡作・氷軽馬連等の先祖]
弟 物部竺志連公[新家連等の先祖]
孫 物部大前宿禰連公[麦入宿禰連の子供。氷連等の先祖]この連公は、石上穴穂宮で統治された天皇[安康天皇]の御世に大連となり、次に宿禰となって神宮に斎仕えた。
弟 物部小前宿禰連公[田部連の先祖]この連公は近飛鳥八釣宮で統治された天皇[顕宗天皇]の御世に大連となり、次に宿禰となって神宮に斎仕えた。
弟 物部御辭連公[佐為連等の先祖]
弟 物部石持連公[刑部・垣部・刑部造等の先祖]
十二世の孫の物部木蓮子連公[布都久留大連の子供]この連公は、石上廣高宮で統治された天皇[仁賢天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。御大臣の祖の娘の黒媛を娶り二児を生む。
弟 物部小事連公[志陀連・柴垣連・田井連等の先祖]
弟 物部多波連公[依網連等の先祖]
弟 物部荒山連公[目大連の子供]この連公は、檜前廬入宮で統治された天皇[宣化天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
弟 物部麻作連公[借馬連・矢原連等の先祖]
十三世の孫の物部尾興連公[荒山大連の子供]この連公は、磯城島金刺宮で統治された天皇[欽明天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。弓削連の先祖の倭古連の娘の阿佐姫、次に加波流姫を娶って兄四児を生み、弟三児を生む。
弟 物部奈流連公[木蓮子大連の子供]この連公は、泊瀬列城宮で統治された天皇[武烈天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。須羽直の娘の妹古を娶り、二児を生む。
弟 物部目連公。この連公は、継体天皇の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
弟 物部長目連公[軽馬連等の先祖]
弟 物部金連公[借馬連・野間連等の先祖]
弟 物部呉足尼連公[依羅連等の先祖]この連公は、磯城島金刺宮で統治された天皇の御世に宿禰となった。
弟 物部建彦連公[高橋連・立野連・都刀連・横廣連・葛井連・伊勢荒比田連・小田連等の先祖]
十四世の孫の物部大市御狩連公[尾興大連の子供]小語田宮で統治された天皇[敏達天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。弟の贄古大連の娘の宮古郎女を娶り、二児を生む。
弟 物部守屋大連公[亦は弓削大連という。]この連公は、池辺雙槻宮で統治された天皇[用明天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕える。
弟 物部今木金弓若子連公[今木連等の先祖]
妹 物部連公布都姫夫人[字は櫛井夫人、亦は石上夫人という。]この夫人は、倉梯宮で統治された天皇[崇峻天皇]の御世に夫人に立てられる。また、天皇の政治に関わり神宮に斎仕えた。
弟 物部石上贄古連公。この連公は、異母妹の御井夫人を娶り、四児を生む。小治田豊浦宮で統治された天皇[推古天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
弟 物部多知髪連公
弟 物部麁鹿火連公[麻佐良大連の子供]この連公は、匂金橋宮で統治された天皇[安閑天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
弟 物部押甲連公。この連公は、檜前廬入宮で統治された天皇[宣化天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
弟 物部老古連公[神野の入州連等の先祖
弟 物部金連公[目大連の子供。野間連・借馬連等の先祖]
弟 物部三盾連公[鳥部連等の先祖]
弟 物部臣竹連公[肩野連・宇遅部連等の先祖]
弟 物部倭古連公[依羅田部連等の先祖]
弟 物部塩古連公[葛野の韓国連等の先祖]
弟 物部金古連公[三島の韓国連等の先祖]
弟 物部阿遅古連公[水間君等の先祖]
十五世の孫の物部大人連公[御狩大連の子供]この連公は、物部雄君連の娘の有利媛を娶り一児を生む。
弟 物部目連公[大貞連等の先祖]この連公は、磯城島宮で統治された天皇[欽明天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
孫 内大紫冠位物部雄君連公[守屋大連の子供]この連公は、飛鳥浄御原宮で統治された天皇[天武天皇]の御世に氏の上の内大紫冠位を贈わって、神宮に斎仕えた。物部目大連の娘の豊媛を娶り二児を生む。
孫 物部鎌束連公[贄古大連の子供]
弟 物部長兄若子連公
弟 物部大吉若子連公
妹 物部鎌足姫大刀自連公。この連公は、小治田豊浦宮で統治された天皇[推古天皇]の御世に参政し、神宮を斎仕えた。蘇我の島の大臣の妻となり、豊浦大臣を生む。名を入鹿連公と言う。
孫 物部石弓若子連公[麁鹿火連の子供。今木連等の先祖]
弟 物部毛等若子連公[屋形連等の先祖]
孫 物部奈西連公[押甲大連の子供。葛野連等の先祖]
孫 物部恵佐古連公。この連公は小治田豊浦宮で統治された天皇の御世に大連となって神宮を斎仕えた。
十六世の孫の物部耳連公[大人連公の子供。今木連等の先祖]
孫 物部忍勝連公[雄君連公の子供]
弟 物部金弓連公[今木連等の先祖]
孫 物部馬古連公[目大連の子供]この連公は、難波朝[孝徳天皇]の御世に大華上の氏の印の太刀を授けられ、食封を千畑を賜って、神宮に斎仕えた。
孫 物部荒猪連公[佐古大連の子供。榎井臣等の先祖]この連公は、同朝の御世に大華上の位を賜る。
弟 物部弓梓連公[榎井臣等の先祖]
弟 物部加佐夫連公[榎井臣等の先祖]
弟 物部多都彦連公[榎井臣等の先祖]この連公は、淡海朝[天智天皇]の御世に大連となって神宮を斎仕えた。
十七世の孫の物部連公麻侶[馬古連公の子供]この連公は、浄御原宮朝[天武天皇]の御世に天下の萬の姓を八色に改めて定められた。連公を改めて、物部朝臣の姓を賜い、同朝の御世に改めて石上朝臣の姓を賜う
その後の武内宿禰は葛城族へ入り婿して、葛城族を支配したのは当然の成り行きであった。八坂入彦の父も豊城入彦の父と同じ崇神である。その妹の渟名城入姫は倭国魂神を祭るが、髪落ちて痩せ細り、祭ることができなかった。替わって倭国魂神を祭ったのは倭直の祖長尾市であったが、これが後の倭国造である。それまで倭国を支配していたのが三輪山を祭る磯城族であったとすれば、その消滅とともに倭国造が現れたことになる。
この中で注目すべきは珍(ちぬ)県主である。三輪山の磯城族に代って大物主神を祀った大田田根子は、茅渟懸の陶邑から呼び出されていた。しかも、八綱田命が勲功として授けた倭日向武日向彦の号とは、三輪山頂の神坐日向神社の神社号に他ならないから、八綱田命と大田田根子の関係は根深いものとみなせるのである
「弁官苻 上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡
和銅四年三月九日甲寅宣 左中弁正五位下多冶比真人 太政官二品穂積親王
左太臣正二位石上尊 右太臣正二位藤原尊」
この碑文のなかの「給羊」を「羊に給ふ」と読み、「郡成給羊多胡郡」を「郡と成して羊に給ひて多胡郡と成す」と読むのが一般的である。あるいは「羊」の文字は人物のことではなく、祥や養の略字その他いろいろの説があるやうではあるが、地元には「羊太夫」の根強い伝説があり、この碑自身が「ひつじ様」と呼ばれて信仰の対象でもあったので、羊太夫と関連づけられて解釈されてきたのである。羊大夫の伝説とは、次のやうな話である。
むかし羊大夫は、八束脛やつかはぎといふ足の長い男を従者を使ひ、この男の力で空を飛び、驚くほどの速さで毎日のやうに大和へ通ってゐた。ある日八束脛が昼寝をしてゐるときに、大夫は悪戯に八束脛の脇の下の黒い羽のやうなものを抜いてしまった。そのために大和へ通へなくなった羊大夫は、謀反の疑ひをかけられて、都から差し向けられた軍に滅ぼされたといふ。八束脛は金の蝶と化して月夜野の石尊山まで逃れ、洞窟に隠れ住んだといひ、その遺跡に八束脛神社(利根郡月夜野町後閑)がまつられ、鳥居に「八束脛三社宮」とある。…… 羊大夫は、和銅年間に武蔵国の秩父で銅を発見して富み栄えたともいふ。羊神社は安中市にある。(歌語り風土記)
○ 長髄彦(ナガスネヒコ)は、昔、天神の御子が天磐船に乗って天降られた。名を櫛玉饒速日(クシタマニギハヤヒ)命といい、我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶り、生んだ子が可美真手命(ウマシマデ)であるといった。
○ 磐余彦尊(イワレビコ=神武天皇)は、饒速日(ニギハヤヒ)命が天から降りてきた事が事実だと知り、いま忠誠を示した(長髄彦を殺して帰順した)ので、これをほめて、臣下に加えて寵愛した。この饒速日命が物部氏の先祖である。
『古事記』神武紀
邇芸速日(ニギハヤヒ)命が参上して、天神の御子(磐余彦尊)に「天神の御子が天降りされたと聞きおよび、後を追って降って参りました」と申し上げ、天の神宝を献上してお仕えした。邇芸速日命が登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ=登美毘古トミヒコ)の妹の登美夜毘売(トミヤヒメ)を娶って、生んだ子は宇麻志麻遅(ウマシマヂ) 命。これは物部連、穂積臣、采女臣らの祖先である。
『先代旧辞本紀』天孫本紀
○ 饒速日 (ニギハヤヒ) 尊は天神の御祖の命令を受け天磐船(アメノイワフネ)にのって、河内の国の河上の哮峰(イカルガノミネ)に天下った。大倭の国の鳥見(トミ)の白庭山(シラニワノヤマ)に移った。饒速日尊は長髄彦(ナガスネヒコ)の娘の御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)を娶り、懐妊させた。だが、生まれる前に饒速日尊はお亡くなりになった。
○ 天孫の天津火瓊瓊杵 (アマツホノニニギ) 尊の孫「磐余彦尊」が天下を治めようと、軍を興して東征されたが、往々に命令に従わない者が鉢のごとく起り、中州(ナカツクニ)の豪雄の長髄彦は、饒速日尊の御子の宇摩志麻治 (ウマシマチ) 命を推戴して、君として仕えていた
出雲大社が杵築(きつき)へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。
クナトノ大神は、岐神(ふなと)、来名戸之祖神(くなとさえのかみ)、衡立船戸神(つきたてふなとかみ)、八衢神(やちまた)、久那斗神などと書く。
天孫族も、この神は畏敬しており、常磐国などの東国は、この神が開拓したもので、香取神宮の主祭神(普都大神)ともなっている。
富家の伝承に「女の神」はあるが、アマテラスは無い。
天皇家でも古くは祀ってはいなかった。
「延喜神名式」によると、タカミムスビ・カミムスビ・タマツムスビ・イクムスビ・タルムスビ・オホミヤノメ・ミケツカミ・コトシロヌシである。
天皇家の氏神、守護神は所謂ムスビ系の神のようだ。
アマテラスに当てはまる神社は、いくつかあるがいずれも男性神で、女神のアマテラスは存在しなかった。
「大和国城下郡:鏡作坐天照御魂神社」・「城上郡:他田坐天照御魂神社」
「山城国葛野郡木島坐天照御魂神社」・「久世郡:水主神社十座の中に水主坐天照御魂神社」
「摂津国嶋下郡:新屋坐天照御魂神社」・「丹波国天田郡:天照玉神社」・「播磨国:揖保坐天照神社」
「対馬国下県郡:阿麻氏留(あまてる)神社」
これらは男性神で伊勢の女神アマテラスとは関係ない。
対馬のアマテル神社(祭神:アメノヒタマノ命)を除き、ほとんどが尾張氏およびその同族とされる丹波氏の祖神を祀っている。
祭神は、アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノ命です。
ニギハヤヒは出雲神族のナガスネ彦の妹トミヤ姫を妻とし、物部氏の祖ウマシマジをもうけたことになっているが、富家の伝承には登場しない。
ニギハヤヒは尾張氏の祖神で、物部氏とは無関係なのだ。
物部神社の主祭神もニギハヤヒではなく、ウマシマジである。
つまり、ここではアマテラスなどという女神は存在しないとしている。
四千年前の戦いが今も続く
出雲の旧家で国ゆずりを単なる伝説とか、作り上げられたものと考える家は一軒もない。
出雲神族の富家はアメノホヒノ命の後裔の国造家(北島、千家)、神魂神社宮司の秋上家とは婚姻関係を結び、形の上では、同族になっている。
しかし、秋上氏の口から千家氏に対する怨念の言葉が洩れるなど、いまだに対抗意識をもっている。
一般の人にはわからない血の争いが今でもあるのでしょうね。
この本の著者がクナト大神を祀る出雲井神社に行こうと大社の社務所で道を尋ねたそうです。
ところが、なかなか教えてくれなく、うさん臭そうにこちらの顔を眺めながら「なぜ、そんなところに行くんですか? 小さな社がポツンと立っているだけで、なんにもありませんよ。」と言われたそうだ。
道順を聞きだすのに五、六分も押し問答をしたそうだ。 (今は、この本を読んでるでしょうからそれは無いかも知れませんね。)
社家では出雲井神社(土地ではサイの神さんと呼ぶ)と聞いただけで神経をピリピリさせるという。
社家にとって出雲井神社を訪れる者は危険人物なのであろう。と云ってる。
言い換えれば、クナトノ大神が出雲神族の大祖神であった証明なのかも知れない。
※アメノホヒノ命=天孫族の先発隊
「出雲国風土記」にヤマタノ大蛇や国ゆずりの話がないことに関しても、富氏は明解を与えてくれた。
「敗れた記録を残した者はいない、それらは怨念の歴史として口から口へと語り継がれるものだ。
風土記はアメノホヒの後裔の出雲臣広嶋がまとめたのだが、われわれの祖先が敗残の記は載せさせないように圧力をかけたのだ。
物部姓の保津氏が居住したという保津環濠集落の中に鎮座する。典型的な城塁で、北側は街道に面し、道端の堀と二重堀になっている。
伊多は、板で銅板・鉄板の意であり、鏡の制作の際に必要となる金属を加工した地、ということになる。
一説に、鏡を板のごとく鍛え上げた作業を行った地とも。やはり式内社である鏡作麻気神社は、それを磨き上げた地だとされる。
当社の創建年代は不詳。御祭神は石許利止売命とされる。本殿は二座あり、もう一座は、その父である天糠戸命とも。
境内社に宇間志麻遅神社があるという。石見の鏡作神社を連想させる。関連して、八尾には鏡作坐天照御魂神社がある。
当社の北150メートルほどの宮古に、同名の神社があり、式内社「鏡作伊多神社」の論社。両者の間には池があり、鏡作りに活用されたとの指摘もある。
近世以前、現在地の東約300メートルほどの小字伊多敷(いたしき、板敷)の地に鎮座し、保津集落の移転にともなって、現在地に遷座したという。
保津の地名から、幕末から明治時代初期にかけての儒者である西谷綱奄が当社を「富都神社」に比定した。他の論社に、富本に式内同名神社がある。
また、伊勢国多気郡、現在の三重県松阪市には保津町があり、鏡作部の遠祖とされる天香山神が祀られたとも考えられる天香山神社がある。
創建年代は不明。祭神の宇麻志麻治命は物部氏の祖神とされ、延喜式神名帳にある尾張国春日郡味鋺神社であるとしている。周辺はその昔には百塚と呼ばれており、味鋺古墳群と呼ばれる約50基以上の古墳があったが開発によって滅失した。
味鋺神社が物部氏の祖神を祭る神社であり、その地に50基以上もの古墳(多分物部氏のものと推定される)があったなら、味鋺の地名は可美真手命に由来すると考えて間違いなさそうです
白山神社に関しては以下Wikipeidaより引用します。
1659年(万治2年)、尾張国春部郡味鋺村白山薮(現在の名古屋市北区楠町5丁目)にあった白山神社が現在地に遷座。その際に、味美二子山古墳の墳丘上に鎮座して延喜式神名帳にも記されていた物部神社(式内小社)を合祀して建立された。前身となった両神社とも創建年代は不明。社殿は味美白山神社古墳の墳丘上に位置しており、残存する周濠の一部は池として利用されている。
白山神社が現在地である古墳の上に鎮座したのは1659年ですから、白山神社そのものに関しては検討の対象になりません。しかしです。それに続く文面には驚かされました。何と味美二子山古墳の墳丘上には物部神社が鎮座していたとのこと。当然のことながら、可美真手命を祀っていたのでしょう
石見国一の宮
ご祭神で物部氏の祖神である字摩志麻遅命(うましまじのみこと)が鶴に乗って降臨したという言い伝えが残されている。
折居田のお腰掛岩
むかし物部神社の御祭神字摩志麻遅命(うましまじのみこと)が白い鶴に乗ってこの川合に天降られました。そのところを鶴降山(つるぶやま)といいます。鶴降山から国見をなされたところ、八百山(やおやま)(神社の後山)が大和国の天の香具山(あまのかぐやま)によく似ているので、八百山の麓にお住まいなさることになりました。このとき鶴降山から白い鶴に乗って降りられたところを折居田(おりいでん)といいます。
折居田には御祭神が腰を掛けたという大きな岩があり、また、むかしから大きくもならず枯れもしないといい伝えのある一本の桜の樹がありました。
ここから東へ六百メートルくらいのところにあって、石碑が建ててあります。
近くには清らかな泉もあり。十種神宝(とくさのかんだから)を祀る石上布瑠神社(いそのかみふるじんじゃ)もあります。
昭和五十六年の秋、道路の拡張工事のためお腰掛岩(こしかけいわ)と桜の樹を境内に移して伝説とともに永久に保存することになりました。
御祭神が白い鶴に乗って天降りなされたという伝説によって、物部神社の御神紋は「日負鶴(ひおいづる)」となっています。
大田市川合町の物部神社は石見国一の宮。ご祭神で物部氏の祖神である字摩志麻遅命(うましまじのみこと)が鶴に乗って降臨したという言い伝えが残されている。
司馬遼太郎の「歴史の中の日本」という随筆集に「生きている出雲王朝」という随筆があり、その中で物部神社が取り上げられている。
この神社も、いまでこそ、神社という名がついているが、上古はただの宗教施設として建てられたものではなく、出雲への監視のために設けられた軍事施設であった。その時代は、前記の天穂日命などのころよりもずっとくだり崇神朝か、もしくはそれ以後であったか。とにかく、出雲監視のために物部氏の軍勢が大和から派遣され、ここに駐屯した。神社の社伝では、封印された出雲大社の兵器庫のカギをここであずかっていたという。出雲からそのカギをぬすみに来た者があり、物議をかもしたこともあったという。(27-28P)
北は、国乳別皇子を始祖とする水沼君(水間氏)が支配したという。
「国造本紀」には「魏志倭人伝」にある「末羅国」に物部氏同族の穂積氏が国造に任じられたこと。筑後国に物部や物部系の弓削の名がみられ、山門郡など周辺にも、物部の密集地帯が確認できる。
ここの社伝では、ウマシマジは神武東征にあたって神武を助け、その功績が認められてフツノミタマの剣を賜ったとある。ウマシマジはその後、天香山命(ウマシマジの腹違いの兄)とともに兵を率いて尾張・美濃・越を平定し、さらに西に進んで播磨・丹波をへて石見に入り、そこの鶴降山(つるぶせん)で国見をして、八百山が天香具山に似ていたので、そこに居を構えたというふうにある。
神武に恭順したのはニギハヤヒの子のウマシマジのほうで、そのウマシマジこそが各地の平定を引き受けたというのだ