大久米主、大伴氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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陸奥国に金を出だす詔書を寿ぐ歌一首の大久米主    大伴の遠つ神祖の その名をば 大久米主と負い持ちて(呼ばれ…

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  • 久米寺
     縁起によれば、聖徳太子の弟・来目皇子による建立というが、これは寺格をあげんがための附会の説で、本来は、当地を本拠とする久米氏が氏寺(私寺)として建立したものという。
     当寺の建立時期は不詳だが、境内にある古い塔の址、出土した瓦の様式などから、奈良時代前期にはあったと推測されるという。

     のた、弘法大師・空海が若いとき当寺を訪れ密教教典である大日経を発見し、密教招来のための渡唐を決心し、また帰国後の空海が当寺に於いて弟子たちに密教教典を講義したともいう。


     なお、伝承では久米仙人が建立したともいう(今昔物語11巻24話)。
  • 新撰姓氏録(815)によれば、久米氏には
     ・左京神別(天神) 久米直 高御魂命八世孫味耳命之後也
     ・右京神別(天神) 久米直 神魂命八世孫味日命之後也
    として2系列があったとする。
  • 大久米命は黥利目(入墨目)であったという。魏志倭人伝に倭人は水人であり、黥面文身すると記され、入墨は海人たる倭人の習俗とされている。故に、久米は海人系の氏族とされる。
     そして、久米の発祥のひとつとして、和名抄にいう肥後国球磨郡久米郷の存在がある。その人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲の地である。
     久米はクマとも発音されるという。古代においてメとマは同じ音とされる。戦前の歴史学者、喜田貞吉は「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん。」と述べ、久米は狗人、のちの熊襲に拘わるとする。

     弥生後期の人吉盆地で、熊襲の至宝とされる免田式土器(重孤文土器)を奉じた特異な集団が、呉の太伯の後を称する江南の渡来民の流れともみえていた。  古く、彼らは列島本来の縄文由来の民と同化、融合し、狗(く)人として九州中南に拡散した。九州中南は西日本域の縄文遺跡の密集度において卓越している

     彼らが八代海沿岸から白川、緑川流域を北上した痕跡は、免田式土器の拡散に投影されている。そして、阿蘇を国邑として大量の鉄器を保有し、かつてない軍事力をもって、その領域を菊池川流域にまで広げ、狗奴国を建国させるというストーリーが浮かび上がっていた。軍事の族、久米の存在とこの集団が重なる。

    阿蘇に山部氏族の存在がある。阿蘇の山部は阿蘇神社を中枢とする阿蘇山の祭祀を司る氏族であった。「山部」は部民制からきた職掌名だが、それが特定の氏族を示すともみえる状況があった。

    姓氏家系大辞典は「山部は太古の大族であり、記紀の大山祇神がその長の意、皇室の外戚たる隼人同族。」とする。即ち、隼人の祖が彦火火出見尊の兄、火闌降命であり、その兄弟の母が大山祇神の女(むすめ)、阿多都比売であった。
    新撰姓氏録は山部を隼人同族の久米氏族の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であったとする説がある。
  • 鹿トーテムの南域の越人の痕跡も、薩摩半島に濃い。 薩摩国一宮、枚聞神社の大宮姫は鹿から生まれたとされ、足にひづめがあったという。薩摩の西方に浮かぶ甑島に残る鹿の子百合は九州西岸から日本海をのぼり、越の村邑に広がる。越の海人が愛した鹿の子の模様を持つ百合。鹿児島とは鹿子の島。
  • 曽於の地、旧隼人町に鎮座する大隅国一宮、鹿児島神宮には太伯が祀られる。
     狗奴国も同じ狗(く)の名をもつ集団。大宰府天満宮に伝わる国宝、唐の類書、翰苑は「女王国の南の狗奴国は、自ら 太伯の後であると謂った。」と記している。
  • 北佐久郡望月町の大伴神社
    この大伴神社の祭神は、金井重道氏・望月政治氏共著による「望月氏の歴史と誇り」によると、
    月読命・須佐之男命・大己貴命・少名彦命・天忍日命・天道根命
    その他の神となっており、「天忍日命」は、大伴氏の祖である。

    「古事記」によれば、天孫邇邇芸命が筑紫日向の高千穂の嶺に天降りたときに、天忍日命、天津久米命の2神が天孫の御前に下がったとされている。

    大伴氏の系図は、「続群書類従」の「大伴氏系図」によると、

    天中主尊→(中略)→高皇彦霊命→天忍日命→天津彦日中咋命→天津日命→道臣命→味日命→雅日臣命→大日命→角日命→豊日命→健日命

    となっており、健日命は、初号武日命で日本武尊東征のときに、吉備武彦と共に従軍している。 「北佐久郡志」では、祭神を武日命・月読命で一説には、武居大伴主神であるとしている。

    古代大伴神社の所在地であるが、延長5年(927)に延喜式50巻ができその中の神名帳に佐久式内社の中に大伴神社が記載されている。しかしながら、望月町の大伴神社がこの式内社の大伴神社と同一のものである確証は、佐久市野沢に伴野という地名があることなど、諸説があり確定していない。
  • 『先代旧事本紀』(国造本紀)などの伝承によると、伊豫豆比古命はカミムスビ(神皇産霊尊・神産巣日神・神魂命・神祝命)の子孫で、さらにその子孫が伊与主命(伊與主命・伊与主足尼)、もしくは伊豫豆比古命=伊与主命とされているようです。

    この伊与主命は、伊豫豆比古命とともに、伊豫豆比古命神社(椿神社)の主祭神とされています。
    また、伊与主命の先祖は、カミムスビの子孫の大久米命ともされていて、大久米命以降の系図は伝わっています(真偽はさておいて)。

    ちなみに、大久米命は神武天皇の東征に従った神の1人です。
    また、伊与主命が第15代 応神天皇の時代に初代の久味国造・久米氏となり、第23代 顕宗天皇の時代に久米小楯が山部の姓を賜り山部氏となったそうです。奈良時代の三十六歌仙の一人・山部赤人がこの久味国造・久米氏→山部氏の出身だそうです。また、山部小楯の孫の那爾毛古比売が中臣氏に嫁ぎ、その孫が中臣鎌足(藤原鎌足)で、藤原氏の祖となります。

    以上、系図にすると下

    神皇産霊尊−○−○−○−大久米命−布理禰命−佐久刀禰命−味耳命−五十真手命−彦久米宇志命−押志岐毘古命−七掬脛命−爾久良支命−[久味国造]伊与主命−加志古乃造−忍毘登乃造−久米小楯(山部小楯)−山部歌子−山部伊加利子−山部比治−山部足島−山部赤人

    伊豫豆比古命は、神皇産霊尊と大久米命のあいだに入るのか、伊与主命と同一なのかは不詳ですが、伊与主命は第15代 応神天皇の時代の人で、伊豫豆比古命神社の創建は第7代 孝霊天皇の時代とされているので、神皇産霊尊と大久米命のあいだに入ると考えたほうが自然ですね。
  • 大伴氏の系図は、「続群書類従」の「大伴氏系図」によると、

    天中主尊→(中略)→高皇彦霊命→天忍日命→天津彦日中咋命→天津日命→道臣命→味日命→雅日臣命→大日命→角日命→豊日命→健日命
  • 「撃ちてしやまむ」で有名な久米歌は、海辺で鯨をしとめた時の凱歌で、久米氏は福岡県糸島郡の久米地区出身氏族だという説もある。
    古事記に、大久米命は黥利目(さけるとめ・入墨をした目)であったとあり、有名な「魏志・倭人伝」の、「倭の水人は、好く沈没(潜水)して魚貝を捕り、大人も少年も身体や顔に文身(入墨)をしている」という記事と合致し、阿曇氏も「阿曇目」といって、目の縁に入墨をしていたことからも、阿曇氏と同族だったのではないかと思われる。

    久米氏が初代神武天皇朝において、大伴氏と共に宮廷の軍事に携っていたことが分かる。
    その一方で、膳手(かしわで)の職掌に関する事柄や、農耕、海人の生活体験からと思われる事柄も歌われている。

    しかしながら、嫡流の系図は伝わっておらず、奉祀する神社も、私には、畝傍山の近くの久米御縣神社一社しか確認できていない。その他にも、神武天皇とその東征の際に武功のあった神々と共に祀られているのを、少数確認するに留まっている。

    万葉集18/4094の大伴家持の歌には「大伴の 遠つ神祖の 其名をば 大来目主と おひもちて」とあり、素直に採れば大伴氏と久米氏は同族ということになる。しかし、「主(ヌシ)」は「ノ・ウシ」の要約した形で、「~を支配する者・領有する者」の意味なので、「偉大なる久米部の支配者」という意味になり、これは、日本書紀の神武紀で、大伴氏が久米部を統率している姿に重なる。

    久米氏と大伴氏は、皇室の親衛隊的な軍事氏族としての性格は、当にそっくりだ。古事記では、大伴氏の祖の天忍日命(あめのおしひのみこと)と、久米氏の祖の天久米命(あめのくめのみこと)が並び立っている。一方、日本書紀では主従関係となり、やがて久米氏の影は薄くなって行く。

    何れにせよ、大伴氏は松浦の小夜姫の恋人である大伴狭手彦であるとか、継体天皇を擁立した、狭手彦の父の大伴金村であるとか、海人系の氏族であろ。
  • December 2016 編集されました
    聖徳太子の弟の来目皇子(撃新羅将軍・登美真人祖)によるという説と、「今昔物語」の、川で洗濯する女の脛の白いのに目を奪われて墜落し、一瞬にして神通力を失ったという、久米の仙人によるものとする二説ある。

    来目皇子が登美真人の祖。登美は鳥見、阿倍氏の本拠地倉梯の近くである。聖徳太子は、海人系ということだろうか。
    左京 皇別 登美真人 真人 出自謚用明皇子来目王也。
    推古天皇10年(602年)2月、任那を滅ぼした新羅に対する新羅征討計画の際、征新羅大将軍として軍二万五千を授けられる。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去。

    周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山)に殯し、土師猪手がこれを管掌した。
    河内国埴生山(はにゅうのやま)岡上に葬られた。現在、同墓は大阪府羽曳野市はびきの3丁目の塚穴古墳(方墳・一辺約50m)に比定され、宮内庁の管理下にある。

    穴穂部間人皇女
    用明天皇崩御後は、用明天皇の第一皇子・田目皇子(多米王、聖徳太子の異母兄)に嫁し佐富女王(長谷王妃、葛城王・多智奴女王の母)を産んだ(『聖徳太子平氏伝雑勘文』 上ノ三 上宮太子御子孫竝后等事条 所引にある『上宮記』逸文に「多米王 父ハ用明 母ハ蘇我女也 父天皇崩後 娶庶母間人孔部王生兒 佐富女王 一也」とある)。

    また、穴穂部間人皇女にとっての長子である聖徳太子は敏達天皇3年1月1日(574年2月7日?)の出生で、末子である佐富女王は用明天皇3年(588年?)以降の出生であることから、女性の出産年齢を考えると、550年代の生まれであると推定できる。
  • 「記紀では、「顕宗紀」の即位前記に履中天皇の御子市辺押羽皇子が皇統争いから雄略天皇に殺されることになった時、弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を連れて丹波国余社郡に避難した日下部連使主と吾田彦(使主の子)の記事が日下部の初見である。日下部連使主の子とされる吾田彦の名から、吾田(隼人)族と日下部氏の関わりが想起される。また、『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”と記載があることは注目に値する。

    伊予来目部小楯、山部連となる(日本書紀 顕宗記): 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主-吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。」
    http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm#日下部

    このように日下部氏は河内王朝では嫡子となるべきが殺された分家の血筋を護る立場にいて、鹿児島県の阿多とのかかわりが深かった。というよりもそこの出身だったと見られる。それが伊予(愛媛県)の久米部ともつながりがあり、こちらは山部となった。

    「二王子を逃亡の先々で庇護した人物はすべて山部と関係があった。その最たるものが播磨国の御料地を管理する来目部小楯であったことはいうまでもない。来目部は久米部で薩摩半島の阿多隼人とふかい関わりをもつことはすでに述べた。二王子に最後まで奉仕した日下部連使主の子の吾田彦も阿多隼人を想起させる名である。
  • 久米部の全国分布
       (a)久米郷 大和国 高市郡
       (b)久米郷 伊勢国 員弁郡
       (c)久米郷 常陸国 久慈郡
       (d)久米郷 伯耆国 久米郡
       (e)久米郡 美作国
       (f)久米郷 美作国 久米郡
       (g)久米郷 周防国 都濃郡
       (h)久米郡 伊与国
       (i)久米郷 伊与国 喜多郡
          肥後国球磨郡久米郷(和名抄) 
          久米(上加世田遺跡、土師器椀墨書)
          久米郷 筑前国志摩郡
          久(多)米駅 豊前国
  • April 2018 編集されました
    金 村 神 社
    奈良県葛城市大屋
    祭神--大伴金村公
    近鉄御所線・近鉄新庄駅の西南西約1km、駅西側の道路を南下、飯豊天皇陵に突き当たって右(西)へ、突き当たった県道30号線を左(南)へに折れたすぐの南藤井交差点(北西角に新庄文化会館あり)を西(右)へ入った、屋敷山公園を過ぎた道路の北側に鎮座する。

    ※由緒
     境内に案内なく、創建由緒・年代等不明。
     ・大和志(1734・江戸中期)--大屋村に在り
     ・神名帳考証(1813・江戸後期)--大伴金村連談連之子 其先高魂命より出ず。大屋村
     ・大和志料(1914・大正3)--新庄村大字大屋にあり。延喜式に金村神社大月次新嘗とあり、今村社たり。祭神詳ならず、大伴金村連を祭るも拠なし
     ・奈良県史(1979)には「新庄町立中央公民館(現葛城市立中央公民館)、屋敷山公園の裏手(西側)に鎮座の社を、式内大社の金村神社にあてられている
     社伝では、大伴金村公の霊を、安閑天皇2年(532か)に勧請したという。金村公は、6世記前半に活躍した人で、武烈天皇から欽明天皇に至る間、大連として朝廷に仕えたが、朝鮮経営に失敗、物部氏の糾弾で失脚した。・・・中略・・・
    大正4年(1915)の神社明細帳に、往古は数十ケ村の氏神として崇敬され、境界も八丁(約800m)四方に及んで、一の鳥居は南葛城郡忍海村脇田にあり、今なお其の沓石が残存していると記している」
    とある。

    当社に対する神階綬叙記録として、三代実録(901)・貞観元年(859)正月27日条に
    「大和国従五位下・・・金村神・・・並に従五位上を授け奉る」
    とあり、9世記前半以前からあったことは確かだが、それが何時まで遡及できるかは不明。

    当社は、往古は八丁四方(約64ha)の境内を有する式内大社だったというが、その後衰微し、明治12年の神社明細帳には境内85坪とあり、今は狭い境内に小祠一宇が寂しく鎮座している(社名の表示もない)。

    なお、奈良県史が引用する神社明細帳(大正4)にいう当社一の鳥居跡の沓石とは、当社の南・葛城市脇田にある脇田神社西方の田畑の中にあったらしいが(径3m弱あったという、笛吹神社神主・持田氏談)、現鎮座地から約1.3kmと離れすぎており、付近から古瓦が出土していることから、その辺りにあった地光寺の塔の中心礎石ではないかという(奈良県史蹟名勝地調査会報告・1960年代か)。
  • 新撰姓氏録では、久米氏は、天神系の神別氏族に分類されている。しかし、その祖先神が、高皇産霊尊だという記述と、神皇産霊尊だという2通りの記述がされてる

    久米氏の発祥地は諸説ある。北九州糸島半島(福岡県糸島郡志摩町大字野北字久米)、熊本県人吉地方(肥前国球磨郡久米郷:熊本県球磨郡多良木町久米)、鹿児島県一帯(例:南さつま市野間岳東 加世田遺跡付近)、大和での本拠地は、大和国高市郡久米邑(奈良県橿原市久米)、などである。久米氏は来目、久味(クミ)とも表記され、クマ、クミ、クメなどと発音されてきた。太田 亮によれば 喜田博士が「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と、久米部は南九州の大種族、肥人にして魏志東夷伝に狗奴国とあるがこの久米部の本拠地なると考えられる。と記している。
    新撰姓氏録では高御魂尊(高皇産霊尊)の8世孫「味耳命」の後裔とする記述と、神魂尊(神皇産霊尊)の8世孫「味日命」の後裔とする記述がある。
  • May 2018 編集されました
    伊与来目部小楯 いよのくめべのおたて

    5世紀後半の豪族。山部連の祖。もともとは伊予国天山郡久米郷(松山市久米付近)を本拠とし,朝廷に出仕,大王の身辺に奉仕した久米部集団の長。清寧天皇の時代,大嘗祭の供奉料を徴収するため,播磨の縮見屯倉(三木市志染町付近)に遣わされた。これは,大王の供膳調理も担当した久米部としての職務にちなむものであろう。そのさい,屯倉を管理する忍海部細目の新築祝いの宴に招かれ,そこで,市辺押磐皇子のふたりの遺児(弘計王,億計王。のちの顕宗,仁賢両天皇)を発見,直ちに朝廷に報じた。この功績により,「山官」として山部(山守部)を統率,管理することになり,山部連の姓を賜った

    久米部小盾は古事記に登場する人物で、播磨塚にある神社では久米部は来目部となっています。
    伊予の播磨塚は南梅本の自衛隊駐屯地のあるなだらかな丘陵地で、平成10年、古墳が発見されました。
    久米部小盾は久米郡出身で、播磨の国司に任命されました。
    父を殺され逃亡中だった二人の皇子(億計と弘計)を見つけ、朝廷に奏上します。
    弘計は即位し、顕宗天皇となり、(億計は後に仁賢天皇に即位)、その功績により、小盾に山官の役と山部連の姓を賜りました。
    小盾は久米に帰り、その墓は「はりまさま」と呼ばれています。

    愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)の記述
    久米地区の原始文化は鷹子町や北久米の山田池周辺の山麓に発生した。国府型のナイフ型石器を出土した旧石器時代の五郎兵衛谷遺跡や縄文時代の久米山田池遺跡(後、晩期)がその例である。
     弥生時代になると二環濠が検出された来住Ⅴ遺跡(前期)、パン小麦出土の来住Ⅲ遺跡(中期)、越智町遺跡・居相遺跡・天山北遺跡(後期)などが洪積台地上や平野部に出現する。
     次の古墳時代は平井町の観音山古墳(中期)をはじめとして、天山・星ノ岡・東山古墳群、温泉郡川内町の北方古墳群、北梅本・南梅本の播磨塚古墳群、平井町平井谷の平井谷古墳群、平井町今吉のかいなご古墳群、鷹子古墳群(芝ヶ峠・山田池・たんちやま古墳)などの後期古墳が山頂や丘陵に分布している。平野部にある高井町の波賀部大塚前方後円墳や、今は消滅してないが巨石古墳と伝えられている新畑のタンチ山古墳は鷹子古墳群に属するものであろう。また、温泉郡川内町南方の川上神社古墳は北方古墳群に含まれるであろう。 波賀部の大塚古墳は後期最大の前方後円墳であり、川上神社古墳ともどもいずれも六世紀末から七世紀前半に比定される首長墓である。播磨塚古墳群は丘陵上に一〇数基立地する群集墳であり、清寧、顕宗両帝の擁立に功のあった播磨の国司、伊予の来目部小楯の墳墓と伝えられており(愛媛面影)、周囲の古墳群は小楯一族の墳墓と推定される。これら終末期の首長墓に対して、やや先立つ首長墓が天山一号墳である。天山一号墳は有銘の半円方形帯神獣鏡を副葬していた六世紀前半の首長墓である。
  • 山祇族諸氏の名前は『丹生祝氏本系帳』に見えて、始祖天魂命の子の高御魂命が大伴氏の祖、その弟の血速魂命が中臣氏の祖、次の安魂命が門部連等(註:久米氏)の祖、次の神魂命が紀伊氏の祖と記されますが、大伴・久米・紀伊の諸氏の分岐は実際にはもう少し後ですから、「高御魂命=安魂命=神魂命」と把握されます。血速魂命は市千魂命に通じる神で、やはり雷神とみられます。『古事記』にはタケミカヅチの父を伊都之尾羽張神(『書紀』では稜威雄走神と表記。市と伊都は通じる)としますが、やはり雷神でしょう。
      天児屋根命か武甕槌神かの別名とみられる速経和気命(『常陸国風土記』に見えて中臣鹿島連の祖・片岡大連が奉斎したと伝える)も雷神に通じます。これらの事情があるのだから、その子孫となる中臣氏の系図にも端的に雷大臣命が見えますが、この者は仲哀・神功皇后紀の中臣烏賊津使主(イカツオミ)にあたります。その五代祖先にも伊賀津臣命の名が見えますが、ともに「雷」を名前にしています。
  • 大伴家といえば古代より武門の家柄で『新撰姓氏録」によると大伴宿禰は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)五世孫天押日命(あめのおしひのみこと)之後也』と記されており、この命の曾孫、道臣命(みちおみのみこと)が神武東征に随伴し大伴氏の祖となり皇室とも密接に繋がっていた古代からの大豪族であったことがわかります。また、「尊卑分脉」や「藤氏家伝」でみると藤原鎌足の父、中臣御食子(なかとみのみけこ)が大伴咋子(おおとものくいこ)の女(むすめ)、智仙娘(ちせんのいらつめ)を娶り藤原鎌足が生まれています。奈良時代には大伴宗家と藤原南家・京家間には相聞往来があり婚姻も成立しており、北家の八束(やつか)は家持の歌友で昵懇の間柄であったようです。家持の養育者で歌人家持を育て義母でもある坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の藤原麻呂との大恋愛、家持が聟の南右大臣家藤原二郎の慈母の死去に寄せた挽歌。藤原不比等が大伴古慈斐(こじひ)の才能を見込んで娘を古慈斐に嫁がす等、大伴氏と藤原氏との意外な関係を知ることが出来ました。
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