大分の弓削の春日神社、姫大神、天日鷲

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
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大分の田川の弓削の春日神社 由緒 御祭神 武甕槌命 布都主命 豊櫛弓削遠祖高魂産霊命 天津児屋根命 姫大神 &…

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  • 「春日大宮四社大明神 三笠山の麓に御鎮座あり。帝都より行程十一里。[延喜式]神名帳曰、春日祭神四座。



    続古今 春日大明神御歌

    我をしれ釈迦牟尼仏の世にいでてさやけき月の世をてらすとは



    千早振神代のむかし、天津彦天皇はじめて葦原中國に入り給ひし時、邪神支へ奉りしかば、経津主命(香取明神)、武甕槌命(鹿島明神)追討使として國を治むる矛を奉り、天岩戸をおしひらき、常闇を照して萬民の愁をやすんじ、即天照大神・天津児屋根命合体の御契ふかくして、御裳濯川のながれたえせず、三笠山の春風長閑に、示現利生の垂迹は、國を康んじ王法を輔け給ふ。まづ社頭を見揚ぐれば、二階の楼門・三つの回廊、夜燈のほかげは煌々として、四つの社壇整々たり。東第一の神殿は、武甕槌神を祭る。又の御名武雷神・建布都神・豊布都神とも申す。此御神は伊弉諾尊火神かぐつちをきり給ふ其つるぎのつばより、血したたりそそぎてなり給ふ神なり[日本紀]。初は陸奥國鹽竈浦に天降り給ひ、邪神を征し、常陸國鹿島に影向し、神護景雲元年六月二十一日鹿島を出でさせ、同年十二月七日薦生の中山につかせ給ふ。供奉の随身は時風・秀行の両人なり。(時風の末は神宮の預、秀行の末は遣宮の預)舎人には乙野丸(禰宜の祖梅木氏)を召しつれ給ふ。其時時風・秀行供御を獻るに、邊にありし栗をささげしかば、神咸ましまして、植栗の姓をぞ賜ひける。時風・秀行の末葉、中臣の姓の下に植栗氏をあらはすの濫觴なり。同二年正月九日、大和國安部山にうつり、同年十一月九日、三笠山に跡を垂れ給ふ。(已上[春日古記]大意。又[公事根源]の説とはたがふ所もあり。又[盛衰記]に曰く、明神白き鹿にめして、鞍の上に榊をたて、其の上に五色の雲覆へり。雲の上に五ツの神鏡あらはれ、照りかがやきて三笠山にうつり給ふとなり。)第二の神殿は経津主命。又の御名斎主神、又齋之大人ともいふ。伊弉諾尊火の神をきりたまふ劔の刃よりしたたる血、化してなり給ふ神なり、出雲國五十田狭の小汀に天降り、此國の邪神を鎮め給ふ。(已上[日本紀])下総國香取明神是なり。神護景雲二年に三笠山に遷り給ふ。([春日古記])第三の神殿は天児屋根命。中臣祖神なり。又の御名津速魂尊・児市千魂尊・児興登魂尊(已上[旧事紀])興台産神の児ともいふ。([日本紀])此神天照大神天の岩戸に閉籠り給ひて、四海常闇になりければ、太玉命と共に天香山の五百筒真坂樹をねこじにして、上つえには八尺瓊の五百筒御統をかけ、中つえには八咫のかがみをかけ、下つえには青和幣・白和幣をかけ、もろ神達と相共にいのり給へば、其時岩戸ひらき給ふより、つひに常闇の雲はれ、夜昼をわかてり。([日本紀])河内國平岡明神なり。御鎮座は人皇三十七代孝徳天皇四年十一月戊申の日、三神に先だちて三笠山に遷り給ふ。(已上[春日社記]に見えたり。[公事根源]には、神護景雲二年四社明神と共に御鎮座のよりをかけり。)第四の神殿は姫大神。又の御名大日靈貴、又天照大日靈尊ともいふ。即伊勢国五十鈴川の内宮、天照大神にてまします。(已上[春日社記])又一説に天照大神の分神とも、又或説には第四姫大神は武甕槌命の姫君にして、天児屋根の御妻女なり。故に平岡明神の相殿にまします。[続日本紀]に曰く嘉祥三年九月、参議藤原助を遣して勅命あり、建御賀豆智命・伊波比主の二柱の大神には正一位、天児屋根命には従一位、比賣神には正四位上を崇め奉るといふ。此位階によるときは、御妻女の説も可ならんか。

    中院小社六座 瑞牆の外を中院といふ。

    岩本祠 本社の坤にあり。住吉明神を祭る。

    神護寺 東の方にあり。

    青榊祠 神護寺の南にあり。青和幣。

    辛榊祠 青榊の南にあり。白和幣。

    穴栗祠 辛榊の南にあり。穴次神。

    井栗祠 穴栗の南にあり。高魂尊。

    内院小社二座 瑞牆の裏を内院といふ。

    手力男神 南の一座。

    飛来天神 北の一座。天御中主尊。」
  • 弓削大神

     田川が「鷹羽」が転じたものであるとされ、彦山縁起には田川は鷹羽郡であると記される。
     その田川、後藤寺の中枢域に、「春日神社」が鎮座する。この社は豊前国、一国一社弓矢神とも称され、後藤寺の氏神として弓削太神、「豊櫛弓削遠祖高魂産霊命」と呼ばれる高木神を祀る。
     縁起には、弓削連左京天神は高魂産霊命3世孫にて、地域の西、船尾山に天降った天日鷲翔矢命(あめひわしかけや)と、御子の長白羽命(ながしらは)の子孫であると記される。
     宝亀6年(775)に、天日鷲翔矢命より31世孫の弓削連豊麿は、因縁のあった奈良都春日大社の分霊を勧請し、弓削太神の高木神と合わせ祀ったとされる。ゆえに「春日神社」。

     弓削氏(ゆげ)は、その名の通り、弓を製作する弓削部を統率した氏族で、物部氏と関係が深い。「物部守屋」が弓削大連を称して以降、その子孫が弓削氏を称したとされる物部氏の一族や、高御産巣日神(高木神)の後裔、天日鷲翔矢命の子孫を称した、弓削部の総領的伴造氏族などがあるとされる。
  • 物部氏の祖・饒速日命の母は天香語山神の娘といわれ、これが『亀井家譜』には武乳速命の娘と記されますから、「天香語山神=武乳速命」ということになります。武乳速命は「津速魂命の男武乳速命」であって、中臣連一族の添県主の祖と『姓氏録』大和神別に見えますから、武甕槌神や興台産霊に相当する神です。
    天の香具山(香山、香久山、香語山)と祭祀卜占との関係は、『書紀』には三個所(神代巻、神武紀、崇神紀)、同山の霊力・呪力ある埴土などで見えており、天の香具山は「大和朝廷の祭祀を担当した中臣氏に関連の深い山で、同氏の居地がこの山の付近であったと推定されている」と『奈良県の地名』でも記されます
  • 遠賀川流域、直方の神奈備が「鷹取山」であり、鷹羽が転じたとされる田川の中枢域、後藤寺に鎮座する春日神社は、豊前国一国一社弓矢神と称され、後藤寺の氏神として弓削太神「豊櫛弓削遠祖高魂産霊命」なる高木神を祀る。
     後藤寺は古く、弓削田の庄とされ、高木神の後裔、天日鷲翔矢命の裔とする高木神氏族、弓削氏が在った。
    「鷹」の神祇において、田川、後藤寺に在った弓削氏族は弓を作る弓削部を統率した。弓削氏は物部氏と関連が深い。また、後藤寺の北、伊方(いかた)の伝承では、伊方の民は弓に長じ、射方(いかた)として天皇の軍の先鋒とされたという。田川の域は古く「弓」に纏わる地。

    英彦山の南麓、日田には矢に纏わる「靱編連(ゆぎあみ)」の存在がある。「靭」とは矢を入れる容器。靱編連とは靭を作る氏族。やはり、天皇を護る軍団ともされた。その下流域の浮羽は「的(いくは)」に由来し、ここも弓矢に拘わる域であった。
  • 川を挟んで二座の弓削神社が鎮座する形式は、熊本市龍田町、以外にも八尾市の弓削神社、 久留米市の弓削神社等がある。
  • 岡山の賀茂郷 ハグ神社、垪和神社

    垪和は古代は羽具部といって矢柄をつくり、鷹などを捕らえて矢羽根をつけたりする仕事を行う集団の住み処で、隣接する弓削庄は(元々は靭負部(ユゲノベ)という兵器を作る集団を意味していたとも言う)弓削氏との関わりを示す地であった。また所属郡の久米は軍事を事とする古代氏族久米氏の名称であるなど、古代から軍事に縁の深い地である。

    5世紀初めごろ、応神天皇の子の大葉枝皇子が吉備に来て、久米郡賀茂郷を拓き羽具部と和して垪和彦命と号した。この命を祀って垪和社とし、社の周辺を垪和と呼んで、地方一帯を賀茂郷と称した(垪和神社記)。この頃、垪和郷には羽具部といって矢柄をつくり、鷹などを捕らえて矢羽根をつけたりする仕事を行う人々が住んでおり、この地は羽具部の里と呼ばれていた。
  •  物部尾輿大連が妻として、守屋大連らを生んだのが弓削連の祖・倭古の阿佐姫・加波流姫姉妹です。この弓削連が本来の弓削連で、河内の弓削神社を奉斎した一族です。守屋が阿刀の別業を手にしたのはこの通婚・血縁に因ると思われます。

    弓削連の系譜は、天目一箇命の弟・天日鷲翔矢命(少彦名神のこと)の後であり、その系譜は『古代氏族系譜集成』に見えます。

     この系統は弓矢製造や繊維・衣服などの手工業を担った重要な部族です。大和の葛城国造とも同族であり、倭文連・長幡部や三野前国造・伯耆国造などを出しました
  •  田川が「鷹羽」が転じたものであるとされ、彦山縁起には田川は鷹羽郡であると記される。
     その田川、後藤寺の中枢域に、「春日神社」が鎮座する。この社は豊前国、一国一社弓矢神とも称され、後藤寺の氏神として弓削太神、「豊櫛弓削遠祖高魂産霊命」と呼ばれる高木神を祀る。
     縁起には、弓削連左京天神は高魂産霊命3世孫にて、地域の西、船尾山に天降った天日鷲翔矢命(あめひわしかけや)と、御子の長白羽命(ながしらは)の子孫であると記される。
     宝亀6年(775)に、天日鷲翔矢命より31世孫の弓削連豊麿は、因縁のあった奈良都春日大社の分霊を勧請し、弓削太神の高木神と合わせ祀ったとされる。ゆえに「春日神社」。

     弓削氏(ゆげ)は、その名の通り、弓を製作する弓削部を統率した氏族で、物部氏と関係が深い。「物部守屋」が弓削大連を称して以降、その子孫が弓削氏を称したとされる物部氏の一族や、高御産巣日神(高木神)の後裔、天日鷲翔矢命の子孫を称した、弓削部の総領的伴造氏族などがあるとされる。

  • 三重県伊賀市川東に鎮座する「春日神社かすがじんじゃ」

    壬生野インターから南へ進んで直ぐに東の山麓に鎮座しています。真言宗豊山派 藤室山 春日寺に隣接してというか、同境内にあるという感じで同居しているように思えます。


    『春日神社かすがじんじゃ由緒記
    春日神社かすがじんじゃ(旧郷社)

    鎮座地

      三重県阿山郡伊賀町川東

    御祭神

      武甕槌命 第一神殿 鹿島大神 神護景雲鎮座

      経都主神 第二神殿 香取大神 神護景雲鎮座

      天児屋根命 第三神殿 春日大神 神護景雲鎮座

      姫大神 第四神殿 天照大神 神護景雲鎮座

      天押雲命 第五神殿 若宮 天暦四年鎮座

    由緒

    當神社は人皇四十八代称徳天皇の御代神護景雲三年、奈良春日社かすがしゃより勧請せり。

    武甕槌命たけみかづちのみことは、神護景雲元年六月二十一日常州鹿島を出遷。

    和州三笠山に宮居を定められる御途中、伊賀地に入られ、壬生野の庄、現在の春日神社かすがじんじゃ社地に御駐泊されたるを以て、その後三年を経て勧請す。

    御駐泊の上、御出立の時に残されたる神歌に
    「奈良河内春日の杜に移るとも   壬生野の里の夜明けの月」

    此勧請御鎮座には、春日大社かすがたいしゃ宮司時風来りて祭主となり荘厳なる祭典を奉捧、氏子は、長屋座、斎宮座、永座、富永座、御供座、美濃座、台所座の七座に分って奉仕し、九月十七日に斎行せり。
    明治四十一年西之澤村社登牟神社とむじんじゃを合祀。
    社伝は現在の境内社壬生神社みぶじんじゃとして鎮座す。
    拝殿は単層入母屋造割拝殿にして鎌倉時代の遺構なり。
  • March 2018 編集されました
    河内の弓削神社
    弓削氏が祀る社に、物部系の祭神を祀るのは、弓削氏が同じ中河内で勢力を広げた物部氏と結んだためで、弓削連の祖・倭古連の娘・阿佐姫が物部尾輿に嫁して物部守屋を生み(物部弓削守屋大連ともいう)、その子孫が弓削氏を名乗ったことから、父方(物部氏)の祖神を祀ったものと思われる。
     なお姓氏禄・左京神別に、「弓削宿禰 石上同祖 神饒速日命之後也」とあり、この弓削宿禰と河内のそれとの関係は不詳ながら、弓削氏が物部氏系を名乗ったことは確かといえる。

    当社の創建年代ははっきりしないが、当地は弓削氏の本拠地で弓削道鏡(700?--72)の出身地といわれ、道鏡を重用された称徳天皇(在位764--70)の由義宮(ユゲ・弓削宮の佳字、西の京ともいう)が置かれた地で、氏寺・弓削寺(竜華寺)とともに当社もまた氏神社として存在したと思われる。
     由義宮とは、称徳女帝が道鏡の故郷に置いた宮廷で、女帝は神護景雲3年(769)から同4年にかけて何度も行幸しているが(続日本紀)、女帝の崩御とそれに伴う道鏡の失脚により放棄されたという。東弓削社の北約1.4kmにある由義神社(八尾木北5丁目)がその跡というが、確証はない。

     東西弓削神社のどちらが元の神社かは不明だが、延喜式に“若江郡”とあることからみると今の東弓削社がそれに当たり、現在地の東方約30mにあった小字古宮の辺りではなかったかと推測されている(案内板)。

     また、弓削神社が東西2社に別れた理由・時期は不明だが、河内志(1733・江戸中期)に「(若江郡)弓削神社一座」とあることからみて、江戸期以前の何時の頃かに、旧大和川(現長瀬川)の氾濫により村が崩壊し、その一部が川向こう(西側・志紀郡)へ移動したのに伴って、神社も2社に分けられたのではないかという
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