素戔嗚と韓半島、曽志茂利

December 2018 編集されました カテゴリ: 韓半島
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曾尸茂梨については『日本書紀』 卷第一第八段 一書第四のヤマタノオロチ退治の前段に記述がある。 一書曰 素戔嗚…

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  • 幣立宮縁起書
    天神の大神が幣(ぬさ)を投げられた時に、その幣が原に立ったのでその地を幣立といいます。
    イザナギ、イザナミの命は二峰山で結婚され三神をもうけられました。オオヒルメノミコトは高天原日の大宮にあづけられ、ツキヨミノミコトは竜宮に、スサノウノミコトは五ケ瀬川の川上に預けられました。両神は引退後、高天原日の小宮に鎮座されました。
    地神五代に天岩屋戸から御輿に乗って来られて天照大神が鎮座されました

    幣立神宮
    901~923年(延喜年間)に、阿蘇の大宮司が天照大神を主祭神として祀りました。
    元伊勢宮として、祖神を天之御中主とする日の神が祭られています。世界の全ての神は天之御中主から生まれたとしています。

    一説には、神武天皇の孫である健磐龍命が、九州鎮護の使命を帯びて下向し、宮崎県の日向に上陸し神武天皇の霊を祀つた後、延岡から5ヶ瀬川を逆のぼつて幣立神宮に赴き、天神地祗を祀りながら住民を和らげて草部へ向かったとも伝えられています
  • 二世紀には、北部に高句麗と漢の楽浪郡、南部に馬韓50カ国、辰韓12カ国、弁韓12カ国があったという。高句麗が勢力を伸ばし、楽浪郡の支配は有名無実となっていた。
    後漢の献帝(190-220)のとき、遼東太守の公孫度たくは、自立して遼東郡を支配して勝手に任命権を取得し、対岸の山東半島北岸を占拠して、営州刺史を置いた。度の子の公孫康は建安年間に楽浪郡を奪って、その南部に帯方郡を置いて、韓、歳#を制し高句麗に出兵した。
  •  「山海経~海南北経」、蓋国は、鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属する。
     「山海経~海南東経」冒頭、鉅燕は、東北の隅にある。
     「山海経~海南北経」朝鮮条、朝鮮は、列陽の東にある。海の北、山の東にあり、列陽は燕に属する。
  • 『日本書紀』巻一第八段一書第五 

    素戔鳴尊は、「韓郷之嶋には金銀があるが、もし吾兒が治める國に舟がなかったら良くないだろうと言って、鬚を杉とし、胸毛を桧に、尻毛を槇に、眉毛を樟にした。杉と樟は舟を作るのによい。」と言われた。素戔鳴尊はその子を五十猛命と名づけた。妹を大屋津姫命、次を抓津姫命。此の三神は木種を蒔いた。紀伊国にお祀りしてある。
     「吾兒が治める國」とは、韓郷之嶋のことである。素盞嗚尊-五十猛命は王族であった。
  • 素戔嗚命については、姫路市の広峯神社の説明によれば「素戔嗚命は武塔天神、武大
    神、新羅国明神、白国明神、白国大明神、兵主神、牛頭王の異名を持つ。薬師如来の転身
    である」という。

     『出雲風土記』には「神須佐能袁命の国を須佐と定めた」とあり神を冠している。藤貞
    幹『衝口発』は新羅第二代の王、南解次次雄と素戔嗚命とは古音相通ずとし「辰韓は秦の亡人にして、素戔嗚命は辰韓の王なり」と述べている。
      水野祐『入門・古風土記』は <素戔嗚命は新羅から出雲へ移動してきた移住者集団
    が奉祀していた神である。古くは出雲や隠岐など日本海沿岸では須佐袁・須佐乎・須佐
    雄・荒雄・雀雄というような字音をもって表す「スサヲ」の神という神の信仰があった。
    さらに新羅第二代の王の「次次雄」は「スサング」と同義語で巫を意味する」>と説明し
    ている。

    李炳銑『日本古代地名の研究』には須佐は「城を意味し 城主である男尊である」と説明してい
    る。
      素戔嗚命は子神の五十猛命とともに新羅に降り、曾尸茂梨(新羅の首都)に住んだが、
    そこにいることを望まず 出雲国の鳥上山に到ったと言われている。
  • 島根県大田市に五十猛神社がある。この神社に伝わる伝承では、
    「祭神は素盞嗚尊の御子神・五十猛命。父神とともに新羅へ天降り、新羅より埴舟に乗って我国へ帰り来たった神。その帰路、磯竹村(現五十猛町)の内大浦の灘にある神島に舟上がり、父神・素盞嗚尊は大浦港(韓神新羅神社)に、五十猛命・抓津姫神・大屋姫神の兄妹神らは今の宮山(当社)に鎮まり給うたという。」
     このことから五十猛命と行動を共にしていた人物は素盞嗚尊であることがわかる。古事記にもこのことは記録されており白日別神は素盞嗚尊のことらしい。
  • 韓神新羅神社
    江戸時代の風待ち港であり貢米の積み出し港でもあった大浦港を見おろす泊山に鎮座する。祭神は須佐之男命・大屋津姫命・抓津姫命で、境内社として竜宮神社がある。創建年代は不詳であるが、社伝によると須佐之男命が五十猛命と大屋津姫命・抓津姫命を連れて新羅国に天降り、そこから埴舟に乗って日本に帰るとき、大浦海岸の神島に上陸、さらに須佐之男命のみがここに社を作って留まったが、のちに姫神二柱をも併せ祭ったとい

    五十猛神、大屋津姫、抓津姫三神の神は父神、武進雄命と共に新羅の国に至り給いしが彼国不詳な風俗なるを以て、御帰国、其の時、磯竹村の内大浦の灘なる神島に舟揚り、武進雄命は、大浦港に御社を建て今日に至る。
  • 須佐之男の尊の2代目の子孫
    『 注釈 上紀(うえつふみ) 』(八幡書店、上巻、P158)より
    (1) 八島篠眞(やしましぬま)の命
       別名、八島士奴美(やしましぬみ)の命
       別名、八束水臣津野(やつかみづおみづぬ)の命
    (2) 都留伎比古(つるぎひこ)の命
       別名、山口(やまぐち)の神
    出雲国風土記・嶋根郡山口郷に「須佐能烏の命の御子、都留伎比古の命、詔りたまひしく、吾が敷き坐す山口の処なり、と詔りたまひて、故、山口と負ほせき」とある。
    (※)『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)P22より
     山口の郷→松江市東西川津町、東西持田町、西尾町辺を含む地区。
     都留伎比古(つるぎひこ)の命→ 刀剣の霊神で、嵩山(だけさん)の布自支弥社の祭神。
    (※)布自支弥社は、布自伎美神社(松江市上東川津町嵩山→マピオン)のことだろう。

    (3) 国押別(くにおしわけ)の命
       別名、形結(かたゆゐ)の神
    出雲国風土記・嶋根郡方結郷に「国忍別の命、詔りたまひしく、吾が敷き坐す地は、国形エしとのりたまひき。故、方結という」とある。
    (※)『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)P23より
     方結の郷→ 八束郡美保関町北岸中央一帯の地区。
     国忍別(くにおしわけ)の命→ 方結神社(島根県松江市美保関町片江)の祭神。

    (4) 磐坂日子(いわさかひこ)の命
       別名、恵曇(えとも)の神
    出雲国風土記・秋鹿郡恵曇郷に「岩坂日子命、国巡行でましし時、此処に到りまして、詔りたまひしく、此処は国稚く美好しかり。国形、えともの如くなるかも。我が宮は是処に造らむ、とのりたまひき。故、恵伴といふ」とある。
    (※)『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)P39より
     秋鹿郡恵曇の郷→ 鹿島町江角、古浦、佐陀本郷辺を含む地区。恵曇神社はその遺称。
     磐坂日子(いわさかひこ)の命→ 祭神とするのは佐陀本郷の恵曇神社。恵曇の恵曇神社

    (5) 衝桙等乎留(つきほことウる)の命
       別名、多太(たた)の神  
    出雲国風土記・秋鹿郡多太郷に「衝桙等乎与留日子命、国巡行でましし時、此処に到りまして詔りたまひしく、吾が御心は、照明く正真しく成りぬ。吾は此処に静まり坐さむと詔りたまひて、静まり坐しき。故、多太という。」とある。
    (※)『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)P40より
     秋鹿郡多太の郷→ 松江市東西長江町、秋鹿町の大部を含む地区。秋鹿町の多太神社はその遺称。
     衝桙等乎留(つきほことウる)の命→ 祭神とするのは多太神社。 松江市岡本町。

     以上、八束水臣津野(やつかみづおみつぬ)の命以下、衝桙等乎留(つきほことウる)まで、出雲風土記は全てスサノヲの子として上紀の記述のあう。
  • June 2016 編集されました
    須佐之男の尊の3代目の子孫
    (1) 布波能母遅久奴須奴(ふわのもぢくぬすぬ)の命
    不明
    (参考)布波能母遅久奴須奴(ふわのもぢくぬすぬ)の命ー『神道大辞典(縮刷版)』(臨川書店、昭和61年縮刷復刻版)より
     八島士奴美(やしましぬみ)神の御子。御母は木花知流比女。
     御名義、布波(ふわ)は地名、能は助辞、母遅は大名牟遅の牟遅に同じく、持の意、久奴は国主、須奴は知主(しりぬし)なるべきかといわれている。
    (2) 八束戸喜姫(やつかときひめ)の命

    須佐之男の尊の4代目の子孫

    (1) 深渕水夜礼花(ふかぶちみづやれはな)の命
       別名、八束(やつか)の命
       別名、八束深惠水(やつかふかえみづ)の命
    不明
    (※)不明につき、いろんな記事の引用。
     或るお年寄りの話。「昔は浅間神社といって、木花佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメノミコト)と深渕水夜礼花(フカブチノミズヤレハナノカミ)を祀っていたが、明治六年に滝川神社と改め、郷社に列せられ、流鏑馬祭も盛大だった。
       滝川の浅間さん(滝川神社祭典)より引用
    (参考)深淵水夜礼花(ふかぶちみづやれはな)の命ー『神道大辞典(縮刷版)』(臨川書店、昭和61年縮刷復刻版)より
     須佐之男命の神裔。布波能母遅久奴須奴(ふはのもぢくぬすぬ)神の御子。御母は淤迦美(おかみ)神の女日河比売。
     御名義は母神及び祖母神と関係がある。
     深淵は碧潭ある地名、水夜礼は水を遣る意、花は花で、深き淵のその下に水を下し遣る初めなる由の御名かという。
     この神、天之都度閇知泥姫(あめのつどえちねひめ)神を娶って、淤美豆怒(おみづぬ)神を生みました。
     高知県香南市野市町西野(→マピオン地図)に鎮座の県社・深淵神社の祭神。
    (参考)深淵神社(ふかぶち)ー『神道大辞典(縮刷版)』(臨川書店、昭和61年縮刷復刻版)より
     高知県香南市野市町西野(→マピオン地図)に鎮座。県社。深淵水夜礼花(ふかぶちみづやれはな)命を祀る。
     深淵水夜礼花(ふかぶちみづやれはな)命は、布波能母遅久奴須奴(ふはのもぢくぬすぬ)神の日河比売の日河比売を娶りて生みませる神で、社伝によれば、本社孝安天皇の御宇この地に鎮祭せられたという。平安朝初期より史上に現われ、貞観12年従5位下、元慶3年従5位上の神階を授けられ、延喜の制小社に列し、祈年の国幣に預かる。
     古来、佐太郷の総鎮守として尊信をつかむ。
    (2) 波多道依姫(はたちよりひめ)の命
    (3) 八雲立日奴(やぐもたつひぬ)の命

    須佐之男の尊の5代目の子孫
    (1) 八束水臣津野(やつかみづおみつぬ)の命
    八束水臣津野(やつかみづおみつぬ)の命と布帝耳の命は、白浜神社(→マピオン地図)に祭られている。
    (2) 簀狭之八箇耳津野(せせのやつみみつぬ)の命

    須佐之男の尊の6代目の子孫
    (1) 天之冬衣(あめのふゆきぬ)の命
       別名、天之葺根(あめのふきね)の命
     天之葺根(あめのふきね)の命の伝承は、日御碕神社(→マピオン地図)創建の伝承に残る。
    (参考)天之葺根命ー『神道大辞典(縮刷版)』(臨川書店、昭和61年縮刷復刻版)より
     天之冬衣神と同神。素戔嗚尊五世の裔孫。
     のち素戔嗚尊の命により高天原に至り、天叢雲剣を天照大神に奉り給うた。
     日御碕神社で毎年季冬晦の日に神職が天一山(→下の地図を参照)に登って行う神剣奉天の古儀は之に基づく。
     現在日御碕神社神社境外摂社経島(ふみしま)神社(→下の地図を参照)の奉仕神で、その神裔は代々日御碕神社に奉仕し、小野氏という。

    (参考)天之冬衣命ー『神道大辞典(縮刷版)』(臨川書店、昭和61年縮刷復刻版)より
     「フユ」は「フ」とつまり「ヌ」は「ネ」に通う音であるから、この神は草薙の剣を持って天上に至り天照大神に奉り給うた天之葺根神と同神であろう『古事記伝』に解く。
     淤美豆怒(おみづぬ)神の御子で、御母は布帝耳(ふてみみ)神。
     あるいは、大国主神をその御子神と立てる説もある。

    (参考)日御碕神社の由緒書きより(下の地図を参照)
    林神社(摂社) 天葺根命(天冬衣命)
     境外、宇竜港附近の山上に鎮座す。天葺根命は天照大御神を経島に祀り、素盞鳴尊を隠ケ丘に祀り絡うた。即ち日御碕神社の祭主であって、命の子孫は世々その職を嗣ぎ(中世以降日御碕検校と称す)現小野宮司は実に九十七代の後 に当る。
    熊野神社(未社)伊弉冊尊
    境外、宇竜港の権現島(蓬来島)に鎮座す。毎年旧正月五日の和布刈神事は有名である。

    (2) 赤衾伊農岐(あかふすまいぬき)の命
    ●『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)P40より
     出雲郡の伊農(いぬ)郷に坐しし赤衾伊農(あかふすまいぬ)意保須美比古佐和気(おほすみひこさわけ)の命
     伊努神社(祭神:赤衾伊努意保須美比古佐倭気命) 出雲市西林木町山持(→マピオン地図) 
    ●『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)P40より
     出雲郡の伊農(いぬ)郷に坐しし赤衾伊農(あかふすまいぬ)意保須美比古佐和気(おほすみひこさわけ)の命の后、天甕津比女(あめのみかつひめ)の命、国巡行し坐しし時、此の処に至り坐して詔りたまひしく、「伊農(いぬ)はや」と詔りたまひき。故、伊努(いぬ)という。
     伊努神社(祭神:天甕津比女の命 あめのみかつひめ)  平田市美野町(→マピオン地図)。
    (※)『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)P40・56より

     上紀(うえつふみ)では、赤衾伊農岐(あかふすまいぬき)の命と意保比古佐和気(おおひこさわけ)の命と二柱で表現されているが、出雲国風土記では、赤衾伊農(あかふすまいぬ)意保須美比古佐和気(おほすみひこさわけ)の命と一柱の名として表現されている。
     赤衾(あかぶすま)はイヌ(寝ぬ)にかかる枕詞。
     神名は伊農の大洲見日子、狭別の神の意であろう。沖積地の神。

    (3) 意保比古佐和気(おおひこさわけ)の命
    ●『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)P40より
     出雲郡の伊農(いぬ)郷に坐しし赤衾伊農(あかふすまいぬ)意保須美比古佐和気(おほすみひこさわけ)の命
     伊努神社(祭神:赤衾伊努意保須美比古佐倭気命) 出雲市西林木町山持(→マピオン地図) 
    ●『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)P40より
     出雲郡の伊農(いぬ)郷に坐しし赤衾伊農(あかふすまいぬ)意保須美比古佐和気(おほすみひこさわけ)の命の后、天甕津比女(あめのみかつひめ)の命、国巡行し坐しし時、此の処に至り坐して詔りたまひしく、「伊農(いぬ)はや」と詔りたまひき。故、伊努(いぬ)という。
     伊努神社(祭神:天甕津比女の命 あめのみかつひめ)  平田市美野町(→マピオン地図)
    (※)『出雲国風土記』(松江今井書店、加藤義成 校注)P40・56より

     上紀(うえつふみ)では、赤衾伊農岐(あかふすまいぬき)の命と意保比古佐和気(おおひこさわけ)の命と二柱で表現されているが、出雲国風土記では、赤衾伊農(あかふすまいぬ)意保須美比古佐和気(おほすみひこさわけ)の命と一柱の名として表現されている。
     赤衾(あかぶすま)はイヌ(寝ぬ)にかかる枕詞。
     神名は伊農の大洲見日子、狭別の神の意であろう。沖積地の神。
    側室 須賀之女(すがのめ)の産んだ子は3柱の姫御子
    側室 現人女(うつどめ)の産んだ子は4柱の姫御子

    須佐之男の尊の7代目の子孫
    (1) 大名牟遅(おおなむぢ)の命(→大国主の命のページを参照)
    外 八十神の命
  • 佐太大神は『出雲国風土記』に登場し、神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれたという。
  • スサノヲの御子神が『出雲国風土記』に出てくるのを網羅し、その地名と、そこで祭神とされている神社をあげると、次のようになります。

    青幡佐久佐日古命(アオハタサクサヒコ): 意宇郡大草郷(八重垣神社)、大原郡高朝山 。
    都留支日子命(ツルギヒコ): 島根郡山口郷 (布自伎美神社)。
    国忍別命(クニオシワケ):島根郡方結郷 (方結神社)。
    磐坂日子命(イワサカヒコ): 秋鹿郡恵曇郷(恵曇神社)。
    衝桙等乎而留比古命(ツキホコトオルヒコ): 秋鹿郡多太郷 (多太神社)。
    八野若日女命(ヤノノワカヒメ): 出雲郡八野郷(八野神社)。
    和加須世理比売命(ワカスセリヒメ):神門郡滑狭郷(那売佐神社)。

    『古事記・日本書紀』に
    御子神は
    ①『日本書紀』の「一書(あるふみ)」には、『五十猛(イソタケル)命は、父神(スサノヲ)と天降るとき、樹木の種を持って降りたが、それを韓国(からくに)には植えず、すべて我が国土に植えたので大八洲はどこも青々と繁茂した山々を見ることができた』とあります。
    ②さらに別の「一書」では、より具体的になり、『須佐之男(スサノヲ)命が「髭を抜いて散らすとそれが杉となり」、「胸毛を抜いて散らすと檜となり」、「尻の毛は槙に、眉毛は楠となった」。そこで「杉と楠は船を、檜は宮殿を、槙は死者を葬る棺の材料とせよ」と教えた』とあります。
    「スサ」という名を「砂鉄」というように解釈すると、スサノヲと関係する様々な神社名や地名に、「スサ」・「スガ」・「スゲ」・「スカ」といったものがあり、それは、製鉄・産鉄に関わるのではないか、木そのために植えたのではないかとの推測が成り立つ
  • 天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まりともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。
  • オオカラ国(任那加羅)の王子で、名をツヌガアラシト、別名をウシキアラシチカンキという。
    とある。

    ソナカシチは朝鮮語。 ソ=牛 ナカ=出て来る シチは尊称で「牛のように角の出ている貴人」

    ツヌガアラシト=角がある人

    ウシキアリ=額に角があること

    「韓国史」の中で韓国の学者は、弁韓及び辰韓人たちが、かぶった冠の前面に角状のものがついているのを見てこう呼んだ。と述べている。

    牛頭=朝鮮の地名で、ソシモリ(江原道春川村の牛頭州)という。

    「日本書紀」にもスサノオがソシモリへ行ったことが記され、朝鮮の牛頭山には天主堂があった。

    この神を祭神とする京都の八坂神社の社伝には、「斉明天皇の二年(656)新羅の牛頭山における、スサノオノ命の神霊を迎え祀る」と見える。
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