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660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13…
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「続日本紀」の西暦780年、光仁天皇の宝亀11年7月15日条。
『安きときにも危きを忘れぬは古今の通典なり。縁海(うみそい)の諸国に仰せて、勒(つと)めて警固せしむべし。その因幡・伯耆・出雲・石見・安芸・周防・長門等の国は、一(もっぱ)ら天平4年の節度使従3位多治比真人県守らが時の式に依りて、努めて警護せよ。
また 大宰は、同年の節度使従3位藤原朝臣宇合が時の式に依るべし』(続五 149頁)
「縁海の諸国に警護に勤めることを命じた」この日から11日後の同月26日、『勅して曰はく』とあって「北陸道縁海の諸国に警護6ヶ条」なる、次のような勅命が下されている。
『筑紫の大宰は、西海に僻居(へききょ)して、諸蕃朝貢し、舟楫相望めり。是に由りて、士馬を簡練し、甲兵を精鋭にして、以て威武を示し、以て非常に備ふ。今、北陸の道も亦、…中略… 大宰に准(なずら)へて、式に依りて警虞(けいぐ)すべし。事、
〈其の1〉 縁海(うみそい)の村邑、賊の来り過ぐる見ば、当(まさ)に即ち使を差して速に国に申すべし。国、賊の船なることを知らば、長官以下、急に国衙に向ひて、事に応(したが)ひて集り議(はか)り、管内をして警虞せしめ、且(か)つは行き且は奏せしめよ。
〈其の2〉 賊の船卒(にわか)に来りて我が辺の岸に着かば、当界の百姓、随身の兵(つはもの・武器のこと)を執り、并(あわ)せて私粮を?(もち)ちて要処に走り赴き、死を致して相戦ひ、必ず救兵を待て。逗留を作して、賊をして間(ひま)に乗せしむること勿かれ。
〈其の3〉 軍の集へる処は預(あらかじ)め標榜を立てよ。地勢を看量りて務めて便宜を得よ。兵士已上と百姓との弓馬に便なる者は、程の遠近を量りて隊を結びて分ち配け。事に臨みて彼此雑乱することを得ざれ。
〈其の4〉 戦士已上、明(あきらか)に賊の来ることを知らば、隨身〈常に準備してある〉の兵〈武器のこと〉を執り、兼ねて飯袋を佩(は)き、所在の処を発(い)でて、直に本軍に赴き、各軍名を作り、隊伍を排比(おしなら)べ、静にして動くを待ち、逸(はや)るに乗じて勞(つか)れるを撃て。
〈其の5〉 機(とき)に応(こた)へて軍(いくさ)に赴くに、国司已上は皆私馬に乘れ。若(も)し足らずば、即ち駅と伝との馬を充てよ。
〈其の6〉 兵士・白丁(びゃくちょう)、軍に赴くとき、進止を待つに及びて、公粮を給すべくは、日を計りて家起(よ)り五日なるには乃(すなわ)ち給せよ。その閑処にては米を給し、要処にては糒(ほしいひ)を給せよ。
大日本の救将廬原君(いほはらのきみ)
天智二年(663)秋八月の十三日。新羅、百済王の己が良将を斬れるを以て、直に國に入りて先ず州 柔(つぬ)を取らむことを謀れり。是に、百済、賊の計る所を知りて、諸将に謂りて曰はく、「今聞く、大 日本の救将廬原君(いほはらのきみ)臣、健兒萬余を率て、正に海を越えて至らむ。願はくば、諸の 将軍等は、預め圖(はか)るべし。我自ら往きて、白村に待ち饗へむ」といふ。十七日に、賊将、州柔 に至りて、其の王城を繞(かく)む。大唐の将軍、戦船一百七十艘を率て、白村江に陣烈(つらな)れ り。二十七日に、日本の船師の初づ至る者と、大唐の船師と合い戦ふ。日本不利けて退く。大唐陣を 堅めて守る。二十八日に、日本の諸将と百済の王と、気象を観ずして、相謂りて曰く、「我等先を争は ば、彼自づから退くべし」といふ。更に日本の伍(つら)乱れたる中軍の卒を率て、進みて大唐の陣を 堅くせる軍を打つ。大唐、便ち左右より船を挟みて繞み戦う。須臾之際(ときのまに)に、官軍敗續(や ぶ)れぬ。
百済王は八月、「大日本の救将廬原君(いほはらのきみ)臣、健兒萬余を率て、正に海を越えて至らむ。」 と諸将に伝える。そして自ら白村に迎えて労をねぎらうと言います。救援軍は「大日本」というように日本國から の軍隊であった。司令官は「大日本の救将、廬原君(いほはらのきみ)臣」である。日本國将軍・廬原君とは誰 か不明であるが万葉集に「廬原」という地名が歌われている。
田口益人大夫、上野國の司に任さす時に、駿河の浄見崎に至りて作る歌二首 万葉296番歌
廬原の 清見の崎の 三保の浦の 寛けき見つつ もの思ひもなし 万葉297番歌
晝見れど 飽かぬ田兒の浦 大君の 命恐み 夜見つるかも
「廬原」とは静岡県庵原郡であろう。「白村江」の戦いに救援に駆けつけた軍は静岡県の軍で、日本國の最も 東の國から長駆百済に向かったと思わる。ここが日本國統治の東の境界だったであろう。
8月27日、「白村江」に到着した日本軍はすでに堅陣を構えていた唐の郎将・劉仁軌、新羅の金文武王の軍 へ正面攻撃を挑む。だが、「白村江」に不案内な日本國軍は気象が読めず、満潮から干潮へ変わる潮時に突 入し、舳先を回旋することが出来ず左右から火攻めにあって束の間に敗れる。
「白村江」で唐軍・新羅軍と戦い壊滅に近い敗北を喫したのは日本國の軍であった。中国側の唐の劉仁軌 将軍の記録書には「倭の酋長」を唐の都に送ったと記録している。この「倭」とは古代天皇家ではなく日本國で ある。「白村江」で敗れた日本國は国土防衛のため城を築いている。
敗戦後の国土防衛
阿曇氏(あづみし/安曇族)は古代日本を代表する神格化された有力氏族として「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連(あづみのむらじ)はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。
安曇比羅夫(あずみのひらふ)は七世紀中頃の外交官兼武将で、山城国(やましろのくに/大阪府南河内郡)を本拠地として姓(かばね)を山背連(やましろむらじ)と名乗る。
比羅夫(ひらふ)は百済(くだら・ペクチェ)に使者として派遣されていた縁で百済(くだら・ペクチェ)の王子・翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎え、高句麗(こうくり・コグリョ)が唐帝国と新羅(しらぎ・シルラ)の連合軍の攻撃を受けると百済(くだら・ペクチェ)を救援する為の将軍となって百済に渡り援軍として戦っている。
舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、641年舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐[2]を自分の家に迎えている。661年高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。大錦中に任じられた。
663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命[3]として祀られる。同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる。
筑前国 糟屋郡志珂郷、阿曇郷、志賀海(シカノアマ)神社
壱岐・対馬 和多都美神社
豊後国 戸为山部牛の妻阿曇部馬身賣(ウマミメ)他、海部郡
長門国 下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫
隠岐国 海部(アマ)郡 少領外従八位下阿曇三雄、海部郷
伯耆国 會見(アツミ)郡安曇郷
西伯郡宇田川村 和名抄に安曇郷記載、石剣出土
出雲国 簸川郡大社町杵築 海部が居住していた、銅戈が出土
丹後国 熊野郡湊村函石濱 和名抄に安曇郷記載、石剣出土
與謝郡日置村 海部氏が奉斉する籠神社、石剣出土
播磨国 揖保郡浦上里、石海 安曇連百足
讃岐国 大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他
阿波国 男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰、
和多都美豊玉比賣神社、海部郡
淡路国 三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷
摂津国 安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺
河内国 阿曇連等の地
山城国 阿曇宿禰等の地
近江国 伊香(イカコ)郡安曇郷(東北方湖辺の地であるが所在は明らかでない)
美濃国 厚見郡、厚見郷
三河国 渥美郡、渥美郷
信濃国 更科郡氷鉋、斗賣郷 氷鉋斗賣神社 、埴科郡玉依比賣命神社
信濃国 安曇郡 穂高神社 安曇部百鳥
以上の他に、「信濃の安曇」(笹川尚紀『信濃第 55 巻第 7 号』平成 15 年)によると、肥前国、
周防国、備中国、伊予国にも安曇連、安曇部の存在があるという。
応神天皇紀 (270~313 年) 273 年
日本書紀によるとこの年、『処処の海人、訕彧(さばめ)きて命に従わず。則ち(すなわち) 阿曇連の祖大浜宿禰(おおはまのすくね)を遣わして、其の訕彧を平ぐ。因りて海人の宰(あ まのみこともち)とす』とある。
履中天皇紀(400~406 年) 401 年
日本書紀によると、仁徳天皇死去に伴い、仲皇子は、皇太子を殺そうとして兵を興して皇太 子の宮を襲撃したが、皇太子は脱出した。その皇太子を追ってくる者がいたので問うたとこ ろ、「淡路の野嶋の海人なり。阿曇連浜子、住吉皇子の為に、太子を追はしむ」ともうす」と ある。阿曇連浜子は皇太子側の伏兵にあって捕まった。その後、皇太子は仲皇子を誅殺し、 即位した。そして阿曇連濱子に対し、「汝(いまし)、仲皇子と共に逆ふること謀りて、国家 を傾けむとす。罪、死に当れり。然(しか)るに大きなる恩(めぐみ)を垂れたまひて、死 を免(ゆる)して墨(ひたひきざむつみ)に科す」とある。 さらに、「亦(また)浜子に従へる野嶋の海人等が罪を免して、倭の蔣代屯倉(こもしろのみ やけ)に役(つか)ふ」とある。 この事件により、阿曇氏は中央政界の表舞台から消え、再度登場するのは推古天皇の時代で ある。
日本書紀によると
8 月「前将軍(まへのいくさのきみ)大花下(だいくゑげ)阿曇連比邏夫・小花下(せう くゑげ)河辺百枝臣等(かわべももえのおみら)、後将軍(しりへのいくさのきみ) 大花下阿部引田臣比邏夫臣(あへのひけたのおみひらぶおみ)・大山上(だいせん じやう)物部連熊(もののべのむらじくま)・大山上守君大石等(もりのきみおほ いはら)を遣わして、百済を救わしむ」
662 年(天智元年)
5 月 「大将軍(おほきいくさのきみ)大錦中阿曇連比邏夫連等、船師(ふないくさ)一百七
十艘を率て、豊璋等を百済国に送りて、宣勅(みことのり)して、豊璋等を以て其の位
を継がしむ。」(すでに前年に送って行ったはず?)
663 年(天智 2 年)
3 月「前将軍(まへのいくさのきみ)上毛野君稚子(かみつけのきみわかこ)・間人連大蓋 (はしひとのむらじおほふた)、中将軍(そひのいくさのきみ)巨勢神前臣訳語(こ せのかむさきのおみをさ)・三輪君根麻呂(みわのきみねまろ)、後将軍(しりへの いくさのきみ)阿部引田臣比邏夫(あへのひけたのおみひらぶ)・大宅臣鎌柄(おほ やけのおみかまつか)を遣わして、二万七千人を率いて、新羅を打たしむ。」
685 年 天武天皇
日本書紀によると、「三野王(みののおほきみ)・小錦下采女臣筑羅(うねめのおみつく ら)等を信濃に遣して、地(ところ)の形を看しめたまふ。是の地に都をつくらむとす るか」とある。 また、この年八色の姓を制定し、「安曇連、凡海連、海犬養連等五十氏に、姓を賜ひて宿 禰と曰ふ」とある
持統天皇(687~696 年) 691 年
日本書紀によると18氏に祖先の墓誌を上進させる
大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽
田、阿部、佐伯、采女、穂積、阿曇
「(靈龜)四年(七二〇年)春正月甲寅朔(中略)大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也」
とあり、
斉明朝(655-661)には阿部比羅夫は大錦上という官位で、「筑紫大宰率」であった。
阿倍氏の一族は天武13年に朝臣になっている。
なお筑紫大宰府については、
持統天皇5年(691)春正月の条に、「詔して、直広肆筑紫の史(ふびと)益(まさる)、筑紫大宰府典(ふひと)に拝されしより、以来、今に29年云々」とあり、691年から29年前は662年で、白村江の1年前であり、そのとき筑紫大宰府は実在していたということになる。
百済を救うために出向いたのだが、新羅との戦いに敗れた。
そして、642年3月5日には阿曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。
同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、翹岐(ぎょうき)が従者を伴い来日した。
そして、663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。
長崎の伝承
「肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」
稲佐神の祭神は百済国聖明太子とある。
下清水八幡神社〈住吉神社・船玉神社〉(清水区岡町)。祭神は誉田別命(応神天皇)で清水の8カ町と下清水の総鎮守で、もとは住吉神社(現在は摂社船玉神社)です。
劉仁軌伝は上述の「倭国伝」「日本国伝」を併せた位の記事の量であるが、ここでは「倭・倭人」に関する部分のみ取り上げている。
俄かにして、余豊、福信を襲って殺し、また遣使して高麗および倭国に往かせ、兵を請わしめて以って官軍を拒めり。
右威衛将軍・孫仁師に詔して、兵を率い、海に浮かび、以って之の援けとなさしむ。仁師、既にして仁軌等と相合い、兵士大いに振るえり。
余豊と福信・・・扶余豊(フヨ・ホウ)のこと。百済31代義慈王の子で扶余隆(フヨ・リュウ)の弟。
倭国に人質となって滞在していたが、故国の危機のため、帰国していた。日本書紀の「舒明天皇紀」によれば、その3年(631)3月条に「百済義慈王、王子・豊章を入質せしむ」と見える。また、同じく書紀の「天智天皇紀」の元年(663)に「正月、百済の佐平・鬼室福信に矢を十万隻、糸五百斤、綿一千斤・・・(略)、を賜う。(略)この月、唐人・新羅人ら高麗を撃つ。高麗救いを国家に乞う」とあり、さらに「五月、大将軍大錦中・阿曇比羅夫連ら、船師170艘を率いて豊章らを百済国に送る」とある。
631年から663年まで30年余りを倭国で人質として過ごしていた余豊であったが、660年に滅ぼされた百済王室最後の血統ということで、百済再興のため倭の水軍とともに半島へ渡った。しかし佐平という最高の臣・福信を疑って殺害し、結局は祖国を捨てて逃亡してしまう(後述)。
扶余隆、水軍および糧船を率い、熊津江より白江に往き、陸軍と会し、同じく周留城に趣く趣けり。仁軌、白江の口において倭兵に遇い、四戦にかち、その舟400艘を焚けり。煙焔は天に漲り、海水みな赤く、賊衆大潰せり。
余豊、身を脱して走れば、その宝剣を獲たり。偽りて王子・扶余忠勝・忠志ら士女および倭衆ならびに耽羅国を率いて使いし、一時に並びて降りれり。百済の諸城はみな帰順すれど、賊師・遅受信、任存城に拠りて降りざりき。
倭衆・耽羅国の投降・・・倭国によって百済王に就任したと思われた余豊が逃亡したあと、百済王家の忠勝・忠志はじめ臣(士)や官女たちとともに投降したのが、倭衆と耽羅国であった。
倭衆とは阿曇比羅夫に率いられて行った兵士だけではなく、五島の白水郎のように船運に長じているが故に徴発されて戦地に赴いた人々も含めての「倭衆」であろう。「倭兵」と言っていないことに注意する必要がある。
また、ここで唐突に「耽羅国」が登場するが、耽羅国は現在の済州島のことで、九州島から百済への航路の中にあるといってよい島で、やはりそのような海上交易の関係から倭国に肩入れし、白村江の戦いに参加したのではないかと思う。
700 年、石上朝臣麻呂を筑紫惣領(太宰でない)に。「波多朝臣牟後□を周防惣領に為す。上毛野小足を吉備惣領に為す」とあり。この 700 年の記事 を最後に、惣領も太宰も出て来ないんです。「吉備太宰」679 年初めてこの 言葉が出てきます。これに気づいている人がいないことはない。
総領には坂東、吉備、筑紫、伊予、周防などが知られている。これが瀬戸 内の神籠石がある所と一致した。しかもこれが最初に出てくるのは 679 年。 679 年といえば 663 年白村江敗戦の後です。
663 年の白村江に敗退して九州王朝は実権を失う。しかも 700 年に改めて 筑紫惣領、周防惣領、吉備惣領を任命したのに、701 年に大宝律令が制定 されるとそのあとは、この惣領という言葉は『続日本紀』にいっさい出て 来ないんです。
7世紀中期に造営された文殊院西古墳には、実に精巧な切石技術が施されています。被葬者が確定しているわけではありませんが、安倍氏にまつわる有力人物であることに間違いはなさそうです。巧みに研磨された切石を見ていると、几帳面な古代職人の姿が蘇って参ります
次は白村江の戦であるが、百済は六六〇年にすでに滅びている。畿内の人々は百済救援に出発する前から、「夜中に理由もなく船の舳先の向きが反転していた」と、敗れる事を予想していた。女帝はその事を承知して出かけたのだろうか。書紀の斉明七年正月六日、「御舟は征西して初めて海路に着いた」と書かれ、熱田津を経て、三月一日に娜大津に至る。救援軍ではなく征西とは、如何なる意味だろう。九州を平定に行く意味なのか。中世の後醍醐天皇の皇子の懐良親王は、九州へ征西大将軍として遣わされた。「征西」とは、同じ意味で使われたのだろうか。一行は娜県の磐瀬行宮に入り、娜津を長津と改めた。五月、朝倉の橘広庭宮に入り、七月、斉明天皇は朝倉にて崩御。皇太子は、長津宮で素服して称制。十月、棺は帰途に着く。十一月、飛鳥川原にて斉明天皇の殯。
征西の途中、伊予の熱田津で「熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」万葉の額田王のこの歌の後に、「御舟西つかたに征き、始めて海路に就く」とある。同じ文面である。書紀をなぞっている。同じ意図のもとに編纂されたのである。
これまでの皇太子中大兄は、紂王と言えるのだろうか。
斉明紀までの天智天皇の記述から浮かび上がるのは、圧倒的な政治力である。蘇我入鹿に始まり、異母兄の古人大兄、皇太子妃の父・蘇我倉山田石川麻呂、叔父の孝徳帝、有馬皇子と、身近な人々を眼前から払い落したかに見える。しかも、皇太子の命令に従った人物に対しては、その最後まで手厚く扱っている。義理がたい人だ。記述が見当たらないのは、蘇我日向である。異母兄の蘇我倉山田石川麻呂が無実であった為、太宰府から召還するのが難しかったのだろうか。それにしても、である。蘇我日向臣が太宰府に居たのなら、そこは役所があったであろう。彼が初代大宰帥だそうである。役所はあっても、宮はなかった。神功皇后と同じように、斉明帝も太宰府に立ち寄らなかった。朝倉の橘広庭に入っている。皇太子が素服称制した宮は、長津宮である。政務をとるにも筑紫大宰府の役所は使わなかった。大宰府政庁が白村江以後に建造されたのなら、六四九年時点で大宰帥蘇我日向は何処に居たのか。六五四年(白雉五年)孝徳帝の病気平癒を祈願し建立したという伝承の般若寺も、大宰府市朱雀にある。奈良県にも般若寺があり、どちらも同じ伝承がある。また、どちらも奈良時代の瓦が出土したそうである。日向臣は何時まで太宰府にいたのか。白村江戦後、唐の使者・郭務悰が居た都督府は何処にあったのか