初めてですか? 参加するには、どちらかのボタンをクリックしてください!
古事記と日本書紀では、三輪の神、大物主とその子孫の大田田根子に至る系譜がなぜか判らないので、神社伝承から調べて…
Read the full story here
コメント
積羽 (八重事代主神)。
コモリの次男。 三島大明神。
ニニキネのオオモノヌシ・コモリのコトシロヌシとなる。
ホオテミの時、弟のタケフツと共にイフキの宮にて四国24県を治める。
その後、筑紫に行ったカンタチ (アスカ君のモノヌシ) のコトシロとして、アスカの宮にも侍る。
その後は 阿波 → ハラ → ミシマ → ハラ → ミシマ → 阿波 と通い勤め、ミシマミゾクイの娘のタマクシ姫との間に、クシミカタマ・クシナシ・タタライソスズ姫を儲ける。
建布都。タケフツ ホオテミの時、ツミハと共にイフキの宮にて四国24県を治める
櫛玉火明命。 テルヒコ
オシホミミとタクハタチチ姫の長男。ニニキネの兄。 斎名:テルヒコ。
初めイカルガ宮、ついでアスカ宮に座す。フトタマとカグヤマツミが左右の臣を務める。
スガタ姫 (スガタ娘) → ハツセ姫 (トヨマド娘) → アメミチ姫 (カグヤマツミ娘) と后を迎えるも実子はできなかった。
アメミチ姫の兄・タクリ (カゴヤマ) の子のタクラマロを養子とするが、ハツセ姫に憎まれて追放される。
シラニハ村に陵墓が在るという。
一 伊予岡古墳は八幡社殿の周囲に散在する古墳群であってその広大さにおいて県下でも数少ない典型的な古墳である。
総面積は約170アール(5300坪)に及びつくられたのは1400-1500年前だと推定される。
古墳の形は円墳及び、我が国独特の前方後円墳であるが社殿建築風雨戦乱等により長年月のうちに全壊又は半壊され中には全く原型を留めていないものもある。
又埋葬設備として横穴式石室及び竪穴式石室のも見られ石室の一部が露出しているものもある。
なお副葬品としての各種土器(主として食事や祭の時に使用する食器や祭器)も掘り出されており古墳の周囲につくられていた掘の跡も残されている。
一 由来伝説
当古墳は古代にこの地方で勢力を持っていた豪族伊予津彦の子孫達の墓であろうと考えられている。(一説には綏靖天皇の兄神八威耳命の子孫が伊予の司に任ぜられその者達の墓だともいわれている。)
土地の人々は古くよりこの古墳を彦塚とよびこの森を八ヶ森とも云い(現に境内には八ヶ森神社あり)八箇或は多数の古墳を神になぞらえて祭ったものと考えられる。
なお彦塚に対して姫塚も明治の末頃まで近くの米湊部落に現存していた。
由緒(碑文)
当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。景行天皇の二十三年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の八年九月十五日、御年百二十歳にて薨じ給う。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありきと。天正七年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造営、寛文五年、氏子等により再建せらる。明治三年、随神門、同四十三年、本殿、翌四十四年幣殿を各改築、大正六年、社務所を新築す。
由緒
大国主命の御子であらせらせ、御称名も数多く土佐にます神、土佐高加茂大社・高加茂大明神などとも称えまつり日本書記によれば、創建年代は遠く上古時代とも言われます。とくに皇室の御崇敬あつく勅使の参向もしばしば有り、平安時代、朱雀天皇の御代・天慶3年(世紀940年)には神階を正一位に進ませられ、土佐の国総鎮守一の宮として当時は武門の崇敬厚く室町時代、正親町天皇の御代・元亀元年(世紀1570年)には長宗我部元親が本殿・幣殿・拝殿を再興し安土桃山時代、後陽成天皇の御代・慶長6年(世紀1601年)には山内一豊、封をこの地に享けるとともに以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社・末社を始め、鳥居・桜門・鼓桜を増築して土佐の国、最上の祈願所としました。延喜の制が布告された平安時代、後醍醐天皇の御代(世紀901~923年)には大社に列せられ、明治4年(世紀1871年)土佐神社と称して格を国幣社に列し、戦後昭和21年(世紀1946年)には永年つづいた神社制度は終わりを告げて宗教法人になりました。
御祭神
●味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ) ●一言主神(ひとことぬしのかみ)
『日本書紀』の天武天皇4(675)年3月2日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元(686)年の8月13日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
天三降命は宇佐に天降り、宇佐の氏神とされた。御許山の三つの巨石として現れたのは、天三降命が「三女神」であることを意味する。天三降命自体が宇佐神話に基づいて創られた神であるのかもしれない。
また、菟狭津彦は神武天皇東征の折、駅館川の上流に一柱騰宮をつくり天皇を奉饗したという。宇佐の奥域、安心院(あじむ)の妻垣神社がその一柱騰宮とされる。
妻垣神社の由緒では、安心院の地主神である比売大神を「玉依姫命」とする。妻垣山は太古、玉依姫命が降臨した地であり、宇佐神宮の二之御殿であるという。
託宣集では妻垣山は比売大神の在所であり、記紀神話では神武天皇が、母である玉依姫命の神霊を妻垣山に祀ったとする。
各地の八幡宮でも、比売大神を玉依姫命とする社は多く、とくに北部九州では、筥崎八幡宮や宇佐の本宮ともされる大分八幡宮など、主要な八幡宮で比売大神を玉依姫命とする。
神武が甲寅年10月東征に出発。はじめ、早吸之門(はやすいのと)に到り一人の漁夫にあった。珍彦(うずひこ)という国神であると名乗り、天皇を導かんことを申し出た。天皇は彼に椎根津彦の名を賜れた。倭直部らの祖である。その後、筑紫国の菟狭に着いた。菟狭国造祖である菟狭津彦・菟狭津媛が、菟狭の川上に一柱謄宮(あしひとつあがりのみや)を造り饗を奉った。天皇はこれを喜び、菟狭津媛を侍臣の天種子命に賜妻した。この天種子命は中臣氏の祖である。
国造本紀:宇佐国造。神武朝、高魂尊の孫宇佐都彦命を国造と定め賜う。
川部高森古墳群(風土記の丘):3末-6世紀中頃までの前方後円墳が6基ある(銅鏡も出土)。九州最古の前方後円墳である赤塚古墳(58m)などは発掘調査の結果この地方の首長墓と考えられ宇佐国造一族のものと推定されている。これ以降大型古墳が無い。宇佐氏の衰退と関係か。
老上丘古墳群
・菟狭津媛
父:天三降、伊吹戸主命(異説多し)・菟狭津彦 母:市杵島姫(異説あり)
夫:菟狭津彦(異説あり)神武天皇(宇佐口伝)天種子命(記紀)
子供:宇佐都臣命・宇佐稚屋(口伝)・御諸別命(口伝)
記紀:上記菟狭津彦と同じ。
宇佐氏口伝(宇佐公康著):神武東征の時夫菟狭津彦が神武に自分の妻である菟狭津媛を妃として差し出した。この間に産まれたのが宇佐都臣命である。神武はその後媛を連れて安芸国の厳島に行き、ここで御諸別命が産まれた。媛も神武も厳島で没した。
墓所は厳島の弥山である。
『イヨの二名の 治まらで ツキヨミ遣れば イフキ上げ トの宮に治す』6文
『またハタレ イヨの山より キシヰ国 渡り攻むるを トツミヤの 告げに 諸会い 神議り』8文
『先にツミハと タケフツと イフキの宮に 二十四県 して治めしむ』27文
『ハラのオシクモ 召し上す 弟 ヒタチは 若き故 阿波のコトシロ 侍る宮』27文
『国々巡り 真榊の 二方 三方 十方 嘗て無く イヨに至れば コトシロが 館に入れて 主 問ふ』28文
『タナコ姫 イフキト宮に 生む御子の 兄はイヨツヒコ トサツヒコ ウサツヒコ これ 御供に 行きてツクシの ウサに住む』28文
三嶋大社では「事代主命」は「積羽八重事代主命」の名で祀られていました
大国主の息子のアジスキタカヒコネには、また一つ「積羽八重事代主(ツミハヤエコトシロヌシ)神」という別名があったか?
徳島県阿波郡市場町香美字郷社本、建布都 (タケフツ) 神社
徳島県阿波市宮の本、事代主 (コトシロヌシ) 神社
香川県仲多度郡琴平町、金刀比羅宮 (コトヒラグウ) 事知神社
大阪府高槻市三島江、三島鴨 (ミシマカモ) 神社
静岡県三島市大宮町、三嶋 (ミシマ) 大社
★『書記』事代主神、八尋鰐になって三嶋溝樴姫、或いは云わく、玉櫛姫のもとに通い給う。そして姫蹈鞴五十鈴姫命を生み給う。
★『旧事』事代主神は八尋のワニとなって、三嶋溝杭(みしまのみぞくい) の娘・活玉依姫(いくたまよりひめ) のもとへ通い、一男一女を生まれました。
■ツミハヤヱコトシロヌシの『ヤヱ』は『八重・八方』で、文字通り多くのコトシロを同時にこなしたという意味らしい。
■三島の名はミシマミゾクイに起源があるようだが、実際にはツミハが行き巡った地がミシマと呼ばれているようだ。
■三島大神はツミハヤヱコトシロヌシだと言われている。ツミハはミゾクイの娘婿だからミシマを名乗っても不思議はない。
三宅村の案内板によると。
祭神は、三島大明神=事代主命(ことしろぬしのみこと)、その后の伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)、王子の阿米津和気命(あめつわきのみこと)だ、とあります。
また、伊豆七島の総鎮守で、静岡県三島神社の発祥地だとも書いてあります。
多祁御奈刀弥神は、阿波国名方郡の式内社で、徳島県名西郡石井町
浦庄字諏訪213-1に鎮座しています。
地元では、この神社のタケミナトミ神を諏訪大社のタケミナカタトミ神の事であるとしています。
諏訪大社の式内社としての正式な名称に南方刀美神社とあって、出雲の富家のトミを省くと、ミナカタとなります。美称としてタケを付けると、タケミナカタとなります。
諏訪大社上社大祝の系譜に、南方刀美神の五世孫に会知速男命がいて子に阿蘇姫があります。そして神八井耳後裔の武五百建命(磯城瑞籬宮朝定賜 科野国造)の妻となっています。
阿波国の式内社に、天村雲神伊自波夜比賣神社という神社があって、大日本史神衹志には、伊自波夜比賣について建御名方命の孫にあたる
出速雄命の女。天村雲命の妃であるとします。
諏訪大社上社大祝の系譜の南方刀美神の
五世孫に会知速男命があって、娘に阿蘇姫があるという伝承と同じ事を指しています。
旧出雲大社上官家の富家伝承では、事代主命の子(子孫か)が建御名方神であるといいます。富家は、大国主ではなく、事代主を祖としていたそうです。
阿波国には阿波郡と勝浦郡などに事代主命を祀る式内社があり、事代主命を祖とする長国造族が繁栄した阿波の式内社に、タケミナカタやコトシロヌシ、ミマツヒコをを祀る、
事代主神社、大御和神社、多祁御奈刀弥神社、御間都比古神社などがあります。
隠岐国造における系譜は
事代主命(味鋤高彦根命)-天現津彦命-観松彦伊呂止命-大日腹富命-
建美奈命-甕男立命-麻斯命-多米津古命
(古代氏族系譜集成より)
この系図を見る限り、
多祁御奈刀弥とは、観松彦伊呂止命の孫の「建美奈命」の事であり、御間都比古とは観松彦伊呂止命と想定できます。
富家の伝承では、大国主の子としての建御名方神の国譲り神話など無かったと言いますから、建美奈命にこそ建御名方神の元の姿が
あったと言えるのではないか?
http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/14784689.html
この「一言主神」の正体は、「事代主神」または「味鋤高彦根神」。
静岡県の伝承では、伊豆国一宮・三嶋大社の御祭神「事代主神」の本后が、
式内阿波神社の御祭神「阿波咩命(天津羽々神)」。
土佐国、一言主神は、土佐國風土記では「高賀茂神」。
伊豆國賀茂郡 伊豆三嶋神社 名神大。 伊豆國賀茂郡 阿波神社 名神大。
伊豆三嶋神社の元地は、下田市の白浜の長田。
阿波神社の鎮座地は、神津島村の長浜。
とみれば、静岡の伝承によって、土佐神社の御祭神「一言主神」が、やはり「事代主神」だということが裏付けられます。
そして、これらの神々が、阿波、長、白浜、賀茂、そして、かつらの地名でつながるということがはっきりします。
静岡県に現在「勝浦」の地名は見当たりませんが、「桂」で探すと、
静岡県藤枝市岡部町桂島
静岡県伊豆市修善寺桂町 桂川 (修善寺川)
静岡県下田市大賀茂桂
などがみえます。
※天津羽羽命(アマツハハノミコト) 『大日本神名辞書』
天石戸別命の御子なり。
御事蹟明かならず。
別名を阿波咩(アワメノ)命・阿波波(アワワノ)神・阿波(アワノ)神とも稱す。
八重事代主命の后神なり(古史傳、土左國風土記)。
そして、『安房斎部系図』によれば、天日鷲命(阿波忌部の祖)の兄弟姉妹です。
故、此の大国主神、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毘売(たきりびめの)命 娶して生める子は、
阿遅鉏高日子根(あじしきたかひこねの)神。次に妹 高比売(たかひめの)命。
亦の名は下光比売(したてるひめの)命。
此の阿遅鉏高日子根神は、今、迦毛大御神(かものおおみかみ)と謂うぞ。
大国主神、亦神屋楯比売(かむやたてひめの)命を娶して生める子は、事代主(ことしろぬしの)神。
と記されている。
太田田根子が迦毛大御神の血を引くからこそ、その孫の大賀茂都美命は「賀茂」を名乗り、
社名が「鴨都波 八重事代主命神社」なのだろう。
なんでもこの地が、京都を含め全国の「かも」の地名の発祥だそうである。
コトシロヌシを祀る神社は、『延喜式』の神名帳によれば、名神大社である「鴨都波八重事代主神社」であり、現在の葛城山麓、御所市にある「鴨都波神社」なのである
鎮座地 徳島県勝浦郡勝浦町沼江字田中71
御祭神 事代主命
創祀年代不詳。
式内 事代主神社は、全国で阿波の二社のみであり、それ以外で事代主命の名が冠されるのは、奈良の鴨都波八重事代主命神社だけだ。
鴨都波八重事代主命神社の社伝によれば、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建したそうである。
鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)
市杵島姫命 品陀和気命 天照皇大神
「道は阿波より始まる』によれば、
当社裏山の加茂山中腹にある
「丹田(たんだ)古墳」 全長37メートル、古墳時代前期の前方後円墳
が、阿遅鉏高日子根神の陵墓で、当社の本宮「鴨の宮」。
山下の鴨神社は拝所で、つまり本来の御祭神は阿遅鉏高日子根神とのこと。
その母、多紀理毘売とは、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた須佐之男命の御子(三女伸)の長女で、吉野川下流下鴨神社の本来の御祭神だという。
八十子神社
倭大國玉神大國敷神社
大御和神社
勝占神社
八桙神社
と、県下全域で祀られる
阿遅鉏高日子根神の異母兄弟である「 事代主命 」は、
事代主神社 (勝浦郡)
事代主神社 (阿波市)
同じく「 建御名方命 」は、
多祁御奈刀弥神社
で、祀られている。
天石戸別命の御子なり。
御事蹟明かならず。
別名を阿波咩(アワメノ)命・阿波波(アワワノ)神・阿波(アワノ)神とも稱す。
八重事代主命の后神なり(古史傳、土左國風土記)。
そして、『安房斎部系図』によれば、天日鷲命(阿波忌部の祖)の兄弟姉妹です。
朝倉神社風土記逸文(釋日本紀 卷第十四)
土左の國の風土記に曰はく 土左の郡 朝倉の郷あり 郷の中に社あり
神のみ名は天津羽羽の神なり
天石帆別の神 天石門別の神のみ子なり
つまり、天石帆別神が、天津羽羽神の別名で、天石門別神の御子、と説明するものと、
天石帆別神は天石門別神の別名で、天津羽羽神は、その御子、と説明するものがあるのです。
どちらにせよ、天石門別神の子が天津羽羽神、というのは間違いなさそうです。
京都府亀岡市の桑田神社・請田神社においては大山咋命が市杵島姫と共に亀岡盆地を開拓したと伝えられている。また、松尾大社でも大山咋命と市杵島姫が共に祭られている。
市杵島姫は猿田彦命の妻であった。このことは、 奈良市今御門町一番地の猿田彦神社で市杵島姫が妻神として祭られている
『古事記』の大国主命の系譜では、大国主命と多紀理姫の間に阿遅鉏高日子根神と下照姫を生んだと記されている。多紀理姫は、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫の別名としている。大国主命=猿田彦命であれば、三輪高宮家系譜とつながる
「雲梯神社 神名帳に云う 大和国高市郡高市御県鴨事代主神社 雲梯村神森に在り。 社家 長柄首曰く 旧記に曰く 神代、積葉八重事代主命が経津主神の教 えに依り 水鳥と化して雲天に昇る。是に於いて鴨事代主命の号を得、八十万神を集めて天の高市に昇り、其の誠の至りを陳す。時に、高皇産霊尊、天之事代主命に、宜しく八万四千の邪鬼 を統率する大将軍となり、皇孫の為に之を護り奉れと命じて、之を還降せしむ。 是により、天之事代主命は雲梯此をクモノカケハシと云うを降 り高市県に到り、其所を号して雲梯(宇奈提)と云う。然る後に此処に霊畤(神社)を立て之を奉斎す。 出雲国造神賀詞に謂う所の、事代主命の御魂を宇奈提の神奈備に坐させとは是也。 又天武天皇紀に云う所の事代主命が坐す高市社とは即ちこの地なり」
との伝承があり、そこでは、天の高市に昇って恭順の意を表した事代主命が(書紀・国譲り段に同意の記述あり)、高皇産霊神から諸々の国つ神を率いて皇孫を守護せよと命じられて降ったのが高市郡の雲梯で、後になって、其処に神社を造って奉斎した、という。
これらのことから、大物主神は正式には「大物主櫛瓶玉命」と呼ばれていたことがわかってくる。
次に饒速日尊であるが、『特選神名牒』に「饒速日」を含んだ神名のある神社は国津比古命神社だけで「櫛玉饒速日命」である。ところが原田常治氏の調べでは、その祭神は「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」とある。「天照国照彦火明」が付いている。当時の神社にはそう書かれていたと解釈するしかないが、現在はどうなのか、現地に行ってみないとわからない。ただ食い違いが存在していたことは事実である。
ところがこの「天照国照彦火明」と「櫛玉饒速日」が同一人物(神)であることを証明する史書がある。『先代旧事本紀』である。はじめに紹介した「天神本紀」に、饒速日は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」であるとはっきりと書いている。
『先代旧事本紀』は偽書ではないかと言われているが、安本美典氏は「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎」で、多くの史料をもとに、『先代旧事本紀』は820年代に編纂されたもので、偽書とは言えない、としている。私もそう思う。
本当に金毘羅宮の祭神は大歳であろうか?
金毘羅宮では、境内社に八重事代主を祀るので、その系譜につながる大物主神であろう。
ホツマツタエの方が正しいのではなかろうか
オオタタネコの「系譜」
帝に「汝は誰の子か?」と問われた彼が『僕は、大物主の大神、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕、意富多多泥古ぞ』と答えている。
http://tokyox.matrix.jp/ppblog/moby.php?mode=show&UID=1234593443
味酒三輪の祝
味酒三輪の祝の山照らす秋の黄葉散らまく惜しも
味酒 三輪乃祝之 山照 秋乃黄葉乃 散莫惜毛[大神神社の神職たちが慎んでお守りしている三輪山を照り輝かしている秋のもみじ、そのもみじが散ってしまうのが惜しまれてならない。]
長屋王が、まだ藤原京に住んでいた若いころに詠んだ歌といわれているが・・・。この歌には、なにかを託している。
奈良そごうを建設するときに広大な敷地が出てきた。
長屋王邸であった。715年に吉備内親王の子である長屋王は皇孫扱いにされ、長屋親王と呼ばれた。高市皇子の子である長屋は皇孫なので「王」としか名乗れなかったが、元正天皇の妹、吉備皇女と結婚し、親王扱いされた上に、左大臣として活躍していた。
729年2月12日:長屋王の変で自殺(46歳)藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)と対立し、呪詛の疑いをかけられ自殺。
妃の吉備皇女もあとを追い、二人の遺骸は生駒山に葬られた。
味(うま)酒(さけ)を 三輪(みわ)の祝(はふり)が いはふ杉 手(て)触(ふ)れし罪か 君に逢ひかたき :相聞:丹波大女娘子
三輪大神神社の門前町三輪の枕詞が味酒であるように、三輪の大神神社は酒の神様とも云われている。万葉集に詠まれた「巳の神杉(本物の蛇が棲んでいる)」や巨大な切り株が残る「しるしの杉」「衣掛けの杉」など伝説の神木も不思議な霊気をただよわせている。三輪市とは、日本最古の市といわれる海柘榴市が延長4(926)年、初瀬川の氾濫で被害をうけたため三輪に移したのが始まり。藤原家隆の歌「ききわかむ里すみてなけ時鳥(ほととぎす)すぎゆく三輪の市とよむなり」を見ると平安末期ごろ、すでにその存在は知られていたらしい
正暦寺 奈良市菩提山町日本清酒発祥地の碑が建ち、「菩提酛創醸地」の石碑も建つ。
神功皇后が角鹿(敦賀)より還って来られた太子(応神天皇)を迎え、「待酒を醸みて献り」し祝宴におよみになった歌
「此の御酒は 吾が御酒ならず 神酒(くし)の司(かみ) 常世に坐す いはたたす 少御神(すくなみかみ)の豊寿(とよほ)き 寿(ほ)き廻(もと)ほし 神寿(かみほ)し 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ あさず飲せ ささ」
武内宿禰が皇太子の為に返歌を歌って詠んだ。「此の御酒を 醸(か)みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも 此の御酒の あやに うた楽しさ さ」
若い巫女さんが、踊りながら飯を醸んで、醸すことで、甘酒をつくったらしい。麹によって醗酵させたのは、いつ頃からでしょうか?。
祭りの発生:出典 祭りの発生 折口信夫「まつるの語根まつは、期待の義に多く用ゐられるが、もつと強く期する心である。焦心を示す義すらあつた。神慮の表現せられる事が「守(マ)つ」であつた。卜象をまちと言ふのも、其為である。神慮・神命の現れるまでの心をまつと言ふまち酒などは、それである。単なる待酒・兆酒ではなかつた。まつを原義のまゝで、語根として変化させると、まつる・またすと言ふ二つの語が出来た。まつるは神意を宣る事である。そして、神自身宣するのでなく、伝宣する意義であつたらしい。「少御神(スクナミカミ)の、神寿(カムホ)きほきくるほし、豊寿(トヨホ)きほき旋廻(モトホ)し、麻都理許斯御酒(マツリコシミキ)ぞ」(仲哀記)とあるのを見ると、少彦名神が、呪詞神の酒ほかひの詞を、神寿き豊寿きに、ほき乱舞し、ほき旋転あそばされて、宣(マツ)りつゞけて出来た御酒ぞと言ふのか、少彦名のはじめた呪詞を、神人がほき宣(マツ)り続けて、作られた御酒ぞ、ともとれる。」
少彦名神とは大己貴神(大国主神)に協力して国土の経営をされた知恵の神であり酒造の神である、経営の功半ばにして熊野之御碕ないしは淡島(粟島)から常世の郷に渡られたともいわれる。
(讃岐の少彦名)その昔、大水上神社に少彦名神が来て、夜毎泣き叫ぶので、 大水上神は桝に乗せて財田川に流したところ、当地に流れ着いたといわれてます。 古事記における、大国主(大己貴の表記は日本書紀)と少彦名による国づくりとの関連があるか; 讃岐の粟島が近くにある
大物主は金毘羅宮に祀られ、加麻良神社に少彦名命が祀られている。加麻良神社, 香川県 観音寺市,祭神 大己貴神、少彦名神
琴平に大歳神社と櫛梨神社がある
http://tokyox.matrix.jp/forum/discussion/comment/53/#Comment_53
『日本書紀』にも「兵を集めるために(九州に)三輪社を建てた」とある。あるいは三輪氏を中臣氏・物部氏・大伴氏と併せて四大夫と呼んでいる。
住吉大社(摂津一の宮)や粟鹿神社(但馬一の宮)の古文書にも、三韓征伐で三輪氏が活躍した様子が書かれている。
その三韓征伐は壱岐島・対馬を拠点に行われたが、壱岐の一の宮は天手長男神社・天手長比賣神社であり、祭神は手力男命とタクハタ姫であるが、この二柱は内宮の祭神でもある。(手力男命は元外宮の佐那神社祭神)
壱岐には月読神社もあり、天手長男神社・天手長比賣神社と共に格式の高い名神大社である。
壱岐は「一支国」とも表記されるが、外宮の前の地名も伊勢市一志町と一之木である。
また内宮の別宮に月読宮、外宮の別宮にも月夜見宮がある。
彼は、老朽化したカモ社を、垂仁天皇に進言して新築し、宮遷しの勅使を務める。
これまで社を祀ってきた、山背国造大国サラスから、女(神妻)の嫁ぎ先について相談を受け、カモ神の神前で決する。
・翌年、垂仁天皇は、ヤマシロカモ社に行幸。太田田禰子の孫、大鴨積命を別雷社の常任斎主とする。
賀茂建角身命の血は、山背国造家、大物主家と交流し、後の賀茂県主一族が生まれたと見る
これについては、ホツマツタエが答えを出している。
①最初は、賀茂建角身命(八咫烏)が祀った。山背葛野に定着した賀茂建角身命が、最初に別雷命を祀った。
女の玉依姫が神妻となって、大物主とその後裔を祀ったと見る。
②次に、賀茂建角身命の妻、伊可古夜日女の実家が、山背国造となり、その女が祭祀を引き継いだ。
ホツマツタエ人の巻30には、こう書かれている。
神武2年 論功行賞
アタネをヤマシロのカモの県主に任命
ヤタガラスをウガチ村の直頭
ヤタガラスの孫を葛野県主に任命
・神武4年
アタネにカモタケヅミの祀りを継がせて、山背国造にする