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志摩は一之宮が二社ある。 二社とは伊雑宮と、伊射波神社。 式内社 志摩國答志郡 粟嶋坐伊射波神社二座 並大 志…
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伊雑宮は内宮(皇大神宮)別宮で、内宮背後の島路山を越えた志摩市磯部町上之郷にある。伊勢神宮別宮14社のうち伊勢国外のものは伊雑宮(志摩国)のみ。また神田を持つ唯一の別宮である。
当宮は、10社ある内宮別宮の中で荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ順位とされる。
804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』では天照大神御魂とされる。中世から近世の祭神には諸説あり、中世末以降は伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱命(または玉柱屋姫命)の2座を祀ると考えられた。 伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書において、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれる。同じ箇所に「瀬織津姫神天照大神分身在河」とある。両神はつまるところ同じ神であると記されている。明治以降、伊雑宮の祭神は天照大神御魂一柱とされる(神宮要綱)。
一般に、伊雑宮を志摩国一宮とする。しかし、志摩国一宮は鳥羽市の伊射波神社(いざわじんじゃ)とする異論もある。
佐比邇足尼。出雲氏の一族。成務朝にその孫の出雲笠夜命が島津国造に任じられたという。
伊勢国造
神武朝に、天降る神・天牟久努命(あまのむくぬのみこと)の孫の天日鷲命を、詔して国造に定められた。
伊射波神社(いざわじんじゃ)
三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020
三重県鳥羽市安楽島町(あらしまちょう)の加布良古崎にある神社。式内社(大社)論社で、志摩国一宮。旧社格は無格社。別称として「志摩大明神」・「加布良古大明神」・「かぶらこさん」等とも呼ばれる。
『諸国一の宮』によれば、祭神は以下の4柱。
稚日女尊 (わかひめのみこと)
『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』では天照大神に仕えた神と紹介。
伊佐波登美命 (いざわとみのみこと)
平安時代末期から鎌倉時代中期の成立とされる『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇の御世に皇女倭姫命が皇大神宮の朝夕の御贄を奉る地を探して志摩国を訪れたとき、この神が出迎えたとする。『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』によれば、安楽島の二地(ふたぢ)の鳥羽贄遺跡がこの神の本宮跡で、平安時代後期に現在地へ移ったと言う。
玉柱屋姫命 (たまはしらやひめのみこと)
伊雑宮の『御鎮座本縁』などでは天叢雲命の裔、天日別命の子である。『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』では伊佐波登美命の妃神と解説。
狭依姫命 (さよりひめのみこと)
『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』では宗像三女神の1柱市杵島姫命の別名で、近くの長藻地と言う島に祀られていたが、島が水没したので当社に合祀されたと言う。
当社は稚日女尊を海の道から加布良古崎へ祭祀したのが起源で、志摩国の海上守護神として古代から崇敬されたと言う。
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には「貞コ粟嶋坐伊射波神社二座 並 大」と記載がある。『諸国一の宮』では、志摩市磯部町から鳥羽市安楽島町にかけての粟嶋と呼ばれた地域で、伊射波神社2座のうち1つは当社、1つは伊雑宮と述べる。しかし、『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、伊射波神社2座は合祀されて伊雑宮に祀られたので、当社は式内・伊射波神社ではないとする。
1911年(明治44年)に土地所有者が畑にしようと開墾したときに古墳と判明し、翌1912年(明治45年)に宮内省の調査が行なわれた。この時は盗掘されていなかった鳶ヶ巣1号墳は、のちに盗掘された。
1994年(平成6年)8月発行の『大王町史』では泊古墳と鳶ヶ巣古墳を、志摩国司であった高橋氏の祖先の墓と推測しているが、一般には被葬者不詳とされる。
墳丘
泊古墳は全長32.4m、前方部は幅14m高さ3.7m、後円部は径18.8m高さ3.7m、前方部が北面し、主軸はほぼ南北方向である。後円部墳頂には横穴式石室と見られる5個の巨石の露出があり、石室の開口部が南面していると推測される。
出土品
1911-1912年(明治44-45年)の出土品は、銅鏡2面、瑪瑙(めのう)小玉、鉄槍と鉄刀が数本、くつわ鏡1枚、銀張り杏葉(ぎょうよう)1個・須恵器である。
銅鏡のうち1枚は、鏡の周りに鈴状の突起が5個付いた五鈴鏡と呼ばれるもので、東京国立博物館に所蔵された。
築造時期
当初は出土した須恵器より築造時期は6世紀末から7世紀初頭とされていたが、のちに阿児町(現在の志摩市阿児町)の少年が、泊古墳と鳶ヶ巣1号墳から埴輪を発見し、築造推定時期が変更された。埴輪の特徴より、両古墳ともに伊勢国で小型の前方後円墳が多数築造された5世紀後半から6世紀前半に築造されたと考えられるようになった。
古墳時代は、かなり重要な古墳が多い。阿児町志六島古墳群のおじょか古墳(11号墳)は、とりわ け有名である。この古墳は、1968年に発掘調査が行 われている。遺物は、かつてから枕形埴輪などが出 土したことが知られており調査によっても方格規矩 鏡・珠文鏡・玉類・刀・剣・槍など多くの遺物が出 土している。また、横穴式石室の形態は、北九州の ものと類似しておりその系譜を引くものであろうと 考えられている。
大王町畔名には、前方後円墳が2基所在する。1 基は、全長約32mの泊古墳(9)で、泊古墳から五鈴 鏡・瑪瑙製丸玉・杏葉・刀などが出土している。もう1基は、全長約30mの鳶ヶ巣古墳1号墳(10)である。
大王町波切には、標高48mの海食台地上に径約20mの円墳である塚原1号墳(1 1 )がある。この古墳 は、すでに削平されてしまっているが環状乳画文帯 神獣鏡・勾玉・管玉・ガラス小玉が出土している
海蔵寺東方の高台に所在する後期古墳で、板石積みの横穴式石室が南西に開口している。長さ約2.9m・幅1.7~2.15m・高さ約1.4mの玄室に、「ハ」の字形に開く前庭部(羨道)が付く構造で、九州地方でみられる初期の横穴式石室に類似している。出土遺物は銅鏡や玉類、武器、農具、埴製枕など。5世紀後半の築造。県指定史跡、1969(昭和44)年指定。
「おじょか」は「王女丘」と書くようだ。
令鼓之神天狗貍、神弟地狗貍神,以天班駒皮,造天奇音鼓、天強音鼓兮,調之打之。是兩神者,此飯井宮末社兩鼓社之神也。是鼓調樂,其法元也。
令琴之神天牛首命,並張臥張張天真弓六張,而調之鼓之。此神者,是飯井宮之玉琴社神。是琴調樂之,其法之元也。
令笛之神天鵄面命,採天隱山金竹,兼造作其虛節,雕風孔,通和氣,以調之吹之。此神者,是飯井宮屬御笛社神。是笛調樂,其法元也。
令太鳴鼓神天鳴龍尾命,以天虛木造太鳴鼓,調之打之。今此神者,在飯井宮大嗚社神。是太鳴鼓樂,其法之元也。
令猿女君祖天鈿女聖命,舞手舞足蹈天底神樂曲。是神,飯井宮三御殿奉齋。是神樂舞,其法元也。
天思兼聖命,自造神慰曲,誨八百萬神,同共令謠之。是神科野國吾道大宮神、渡會山田宮左相殿奉齋。是神樂謠曲,其法之元也。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/ts06.htm
天孫本紀 上
于時天祖詔曰:「汝猿田彥大神,金氣金德精神,故強德威德成。天金氣成,汝鎮天主。當制天孫木德過餘,永為天孫守也。何唯先有忠乎。」故授以天下金成乃鍛事。天上四重西方秋時,一年周天。是為人上上而過無所恐,則不免其悔。宜畏德畏威,用良者慎之。及金星御天,依其強剛威。當此宮無慎者,且見災損之悔,夫其理之元也。
二神已降,以大祖詔奏於天孫尊。天孫尊大悅,給天鈿女命於猿田彥命,歸於五瀨國飯井宮也矣。遂於神乳山元產元谷,堀天真直井、高涌三涌井,經營天龍宮,納鎮天元魂物。蓋之以天富石,神祝待日神魂當天降之時,又天奇羽鸛含天安田種天幸稻穗降來,精為炊天甘飯,祭高涌三涌井,而因其飯其井,以此神祠名飯井宮。此祠瑞譽國最初兩大功兩大神鎮坐宮,是故以飯井宮,為日本國總鎮守。是國神宮有總鎮守及別鎮守,其法元也。
是三涌井底一口三,底一理一,口三事三。因三物為三口,三物三軌表識。天神戈宗源,天神籬齋元,天神鈴靈宗。是吾萬法本法,是吾萬物本物。是神之冥寶,戈鈴印靈物,吾國所傳宗源、齋元、靈宗道信,守吾天皇,防異國便神誓璽也。依法傳信,其事元也。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/ts15.htm#ts1501
神皇本紀上卷 下
甲午,午中,天在日輪,直分輪兮,降臨於五瀨國,止渡會竹生縣內海內國天豐石上。眾星共降,在其左右所所崎隈。晝夜明白光耀,暑熱不可邇寄。人是云神明,效之呼神祇,總名謂神明。先是,飯井宮大殿頻嗚動,猿田彥大神現形,飛昇天。此日,俱日太神降臨,而歸本宮。過二十日,日輪大神遷西小山,人呼是處云日在山。經二十日,遷北高山,人又是山云天朗峯。在此處化日形,示天尊皇女質,遂納熱光。經二十日,又納靈質。天皇聞之,欲立天殿,崇齋祭之。在內大神告天皇曰:「今是天降日太神者,吾元魂之真魂之奇魂、幸魂大神也。托魂代在。吾大神者,荒魂、和魂止止。未中時,當有魂集時。」
是日,天皇遣使五瀨,令見天孫降臨狀。奇相在人間之外,理評道斷,辨語通失。唯當時仰尊之,伏信之而已。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/ts18.htm
神皇本紀上卷 下
癸卯,詔曰:「朕見王道。磐余彥神武天皇時,西國、中國皆服,巳歸王化。東國歸服,不及朝貢。有邊國餘。三代御宇邊國大朝,雖然以爾,未知君道正淳誠敬,宗源至正,齋元至淳,靈宗至誠,三傳總敬。此道人不知,故夷戎甚逆。三道人元道也,不知故非人。然當於朕代,方布國國,以定神主,周弘王道。築石吾襲神主,日向吾田神主,谿羽豐食神主,出雲杵築神主,五瀨飯井神主,常陸築羽神主,奧北羽黑神主,奧東鹽竈神主,皆定夏冬祭祠祭日,賜齋元道。」天下始知君道。是弘神道,其教元也。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/ts18.htm
香川県高松市一宮町大字一宮、田村 (タムラ) 神社
★『書紀』彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)。
■他文献では大吉備津彦命とよばれている。ホツマにおいてはキビツヒコはこの人のことではなく、弟ワカタケヒコの子である。
『夏 内侍 ヤマトクニカが 三つ子生む 名は皆ヤマト モモソ姫 ヰサセリヒコに ワカヤ姫 母もヤマトの 大宮姫』32文
『五十三年 西中負えず チノクチと 播磨ヒカワに 斎瓮主 ヤマトヰサセリ これに添え』32文
『"ヰサセリヒコを 逢坂へ" 向かひアタ姫 討ち破り ついに殺しつ オオヒコと ヒコクニフクと 向わしむ』34文
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―引用―
草壁皇子の宮の舎人・人麿が挽歌(167)を、詠んでいる。題名は、日並皇子尊の荒城宮のとき作る歌、となっている。
~中略~
〔太陽の女神のような持統女帝が、高い立場から政策を指揮され ・・・日並皇子は明日香の浄見原宮で、神々しく国を支配されていたのに、この国は皇后が治める国だと遠慮されて、天国での永眠の扉を開け、神隠れしてしまわれた・・・〕
「天照らす」の言葉は「日女の命」の枕詞だったが、この歌の影響で「日霊女貴(ひるめむち)」という太陽神が、「天照らす大神」と呼ばれるようになった。「日女の命」は持統女帝がモデルになっている。
この長歌の反歌(169)がついている。
~中略~
〔持統女帝は輝くようにして君臨しているけども、草壁皇子は哀れにも、この世から隠され、夜空をさ迷う月となっている〕
そして、草壁皇子が月のように、影が薄く扱われ、月神(月読ノ神)の名が、「若ヒルメノ神」と呼ばれるようになった。
古事記と日本書紀を書かせたとき、女帝は高天原の主を「天照らす大神」とし、月読ノ神は書かないように指示された。
宇佐神宮では、主神だった月読ノ命を、姫大神と名を変えた。女帝が月読ノ神を嫌ったので、伊勢の外宮では主神の名を、豊受ノ神とした。
この神は天照大神の食事を作る神だと、説明するようになった。月読ノ神の社は、分けて別に建てられた。
なにやら、草壁皇子の急死は持統女帝の意思によることが示唆されているわけですが、それ故に女帝は草壁皇子を暗示する月神を嫌ったものと思われます。
稚日女は、日神を装いながらもその実はその名の憚られた“月神”であったということになりそうです。
一方同書によれば、伊雑宮の社家は通説どおり「井沢登美ノ命―伊佐波登美命―」を祖とする一族であり、祖たるこの人物はヤマトの出雲系豪族登美家出身の人物であったようです。
つまり、同社の祀る神は三輪山の神と同じ日神であるはずで、月神たる稚日女神であるはずがありません。何故なら、同書を信ずるならば彼らは月神を祀る豊国軍に攻められてヤマトや丹波を追われた一族であるはずだからです。