讃岐 空海、佐伯直と阿刀氏

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  • 月読命を祀る「西照神社」(美馬市脇町)
     標高946mの大滝山の山頂に、伊邪那岐命から生まれた三貴神の一人、月読命を祀る西照神社がある。脇町の中心部から車で山道を登ること約30分。ひっそりとした静寂の中に鎮座している。神社由緒によると、伊邪那岐命から夜の食国(おすくに)の統括を任された月読命が、航海の神である田寸津姫命即ち宗像三神の部族を率いて伊予から阿波に移り、大滝山の頂に瀬戸内海難波及び大和の動向を監視するために櫓を設けたとある。
     神社由緒にあるように、香川県側を見ると高松市街その向こうに瀬戸内海が一望できる。屋島もはっきりと見えた。
     徳島県側を見ると、吉野川の流れと吉野川市辺りが見える。絶景である。
     神社境内には、狼から母子を救ったという伝説を残す、天保14年(1873年)に奉納された狛犬や日清日露戦争の折りに穂先に突如明かりが灯り周囲を煌々と照らしたという灯明杉などがある。

     西照神社は、明治の神仏分離までは西照大権現と称した。弘仁6年(806年)空海が42歳の時に、大滝山に登った際に、空海の遠祖天忍日命の使いという翁が現れ、頂上にある古塚がその神の神跡であると教えられた。空海はそこに草庵を構えてその霊を祀った。その草庵が大滝寺であり、その神が西照大権現であるという。
     大滝山山頂からは、阿波・讃岐の両方を見渡せる。神社由緒は、櫓を設けた目的を瀬戸内難波と大和の監視と語る。しかし、ここからさすがに奈良大和は監視できない。その眺望からもこの地が交通の要所であり、防衛の重要地であることはわかる。愛媛にある​笠置峠古墳​のように、こういった峠の頂上に古墳が築かれていることもよくある。空海が草庵を建てた古塚は古墳ではなかったか?月読命が宗像一族を率いてやってきたとすれば、古墳の被葬者は宗像一族ということになる。西照神社が記すものは、海人族である宗像氏が、九州→伊予→阿波と移り住んだということであろうか?それにしても、大滝山山頂から監視した大和とはどこをさすのだろう?
  • 白方海岸寺

     「御産盥(みたらい)山古墳」(多度津町西白方海岸寺)は、黒藤山から北に続く経尾山(標高138m) から北東にのびる丘陵尾根にある。経尾山には経尾山古墳、経尾谷1.2号墳などがあるなかで、もっとも海に近い丘陵(御産盥山)の先端(標高/比高50m)にあり、舟運の基地を望んだであろう。現在は、空海の産湯に用いた盥が残ると主張する「屛風ヶ浦海岸寺」の奥之院の裏山にあたる。
     墳長50.5m/後円部径25mの前方後円墳で、前方部はくびれ幅14.5m/先端.幅19mを測るバチ型とされるが、墳丘は大きく削平されている。段築があったというが、不明。葺石があり、円筒・壺形・器台形埴輪片の検出を伝える。
     1975(昭和50)年に後円部付近で箱式石棺(長さ1.7m)が見つかり、鉄剣、土器片が出土したという。4世紀末ごろの築造とみられる。
  • 先代旧事本紀 巻第三 天神本紀 によると、
    天照太神は・・・天児屋命と天太玉命に仰せられた。
    「お前たち二神は、共に同じ建物の中に侍って、よくお守りの役をせよ」
    「この鏡は、ひたすらに私の御魂として、私を拝むのと同じように敬ってお祀りしなさい。そして、思金神は私の祭りに関することをとり扱って、政事を行いなさい」
    …とあることから「祝の神事」は、天児屋命-中臣-藤原・・白川伯王家へと伝えられたのだろう。

    「日抱きの御魂鎮め」は途中、出雲神道を濃厚に受け継いだが、思金神の伝える霊宗道が、「祝の神事」であっただろうと推測される。

    「日抱きの御魂鎮め」の池は、やがて鏡に代わり「祝の神事」となって受け継がれているのではあるまいか。

    それゆえ、古来の御魂鎮めの修法とは…
    池を囲んで、池に太陽の光、月の光を浮かべてその光をジ-ッとみつめながら心から感謝をして先祖を拝み、心を静めたという「日抱きの御魂鎮め」そのものである、と思う。

    弘法大師空海は、月輪観(がちりんかん) ・日輪観(にちちりんかん) を「阿字観(あじかん)」と言った
  • 不動明王は、元々ヒンズー教のシヴァ神だったと言われています。シヴァ神は暴風雨の威力を神格化したもので、災害を起こす半面、雨によって植物を育てるという破壊と恵みの相反する面を持っている神。不動明王も仏法に従わないものを厳しく屈服させ、仏道に入った修行者には常に守護をして見守る相反する面を持っているのです。確か降三世明王にシヴァ神って踏みつけられていましたよね。

    持物(密教では三昧耶形)は、左手に羂索(けんさく/けんじゃく 戒めや煩悩から抜け出せない人々や言うことを聞かない人を救いあげるための縄のようなもの)を、右手に三鈷剣(魔物を降伏させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る。大日如来の智慧の鋭さを表す。)を持っています。たまに、剣に倶利伽羅竜が巻き付いているものもあり「倶利伽羅剣」と呼ばれることもあります。

    目や顔、手足が複数あるものが多い密教の明王像の中で、不動明王は私達人間と同じ姿で作られたものがほとんどです。大抵は座っていますが、稀に立っている像もあります。体の色は青いものが多いです。炎の中に毒のある動物を食べるという伝説の鳥・迦楼羅(かるら)を表した不動明王独特の真っ赤な光背(迦楼羅焰)が背についているものが多く、すべての毒を焼き尽くしてしまうそうです。

    左目は天の方を、右目は地を見ている天地眼で、口からは牙が見えています。怒りに満ちた鬼のような形相。怖い様相から戦いの仏として武将たちに愛されたり、疫病退散の守護神として扱われてきました。

    東寺の不動明王像は、両目を見開き、下唇を噛んで両方の牙を下に出していて、一般的に知られている不動明王像とは異なります。不動明王は空海が日本に持ち込んだとされ、この東寺の不動明王像は空海自らが刻んだと伝えられ、空海の創意に基づくという意味で「弘法大師様(よう)」と呼ばれています。確かに他の不動明王像と比べると柔和な印象です
  • 曼茶羅寺(まんだらじ) 
     四国霊場七十二番札所。幼年時代の空海が修業したといわれる我拝師山の北麓にあり、号は延命院です。その由来は古く、推古4年(596)に建立され、はじめは世坂寺(よさかじ)といい、空海の生家佐伯氏の氏寺でした。その後、唐からの留学を終えて帰朝した空海が、亡き母の菩薩を弔うために唐の青竜寺に模して伽藍を造営し、大日如来を刻んで本尊としました。このとき、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界(たいぞうかい)の両界曼荼羅を安置し、寺号を曼荼羅寺と改めました。当時の曼荼羅寺は善通寺にも劣らぬ程の名刹伽藍だったといいます。
     その後数百年を経るうちに衰退し、殊に永禄元年の兵火にかかって堂宇を焼失してから益々荒廃しましたが、文祿年中生駒家の旧臣三野氏が諸堂を再建し若干の寄附をしました。その後貞享9年に沙門宥盛、本堂が再興されました。現在の本堂は明治29年の改築です。
     境内には多くの松の大樹があり、前庭には弘法大師のお手植えといわれる「不老松(ふろうのまつ)」があります。中心の高さ4メートル、枝張り18メートル程のほぼ正円形をしており、大きく傘をひろげた姿から「笠松」とも云われています。
        (御詠歌) わずかにも曼陀羅おがむ人はただ ふたたびみたびかえらざらまし
     また、境内には西行法師にゆかりがある「曲水式枯山水の庭園」、「笠掛桜」、「昼寝石」が残されています。西行法師は庭園を築庭したと伝えられ、寺に来たときには境内の石でしばしば昼寝をしたといいます。あるとき同行した旅人が桜の枝に笠をかけ忘れたのを見て、
               笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなき天が下かな
    と詠んだという。
    (関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師” “最初は88ヶ所以上あった四国霊場” “やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅”

    ●出釋迦寺(しゅっしゃかじ) 

     四国霊場七十三番札所。空海が7才の時、衆生救済の誓願をたて、現在奥の院がある我拝師山の頂上から身を投げた時、釈迦如来が現れたことから、如来像を刻んで寺を創建したと伝えられています。本堂、大師堂、虚空蔵菩薩堂が建っており、山の頂上近くにある奥の院の裏には、石の護摩壇と稚児大師像が祀られています。
           (御詠歌) 迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出ずる釈迦寺
  • August 2019 編集されました
    空海の母方の叔父、阿刀宿禰大足

    阿刀氏の祖神は河内国渋川群(今日の東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られました。明治3年に完成した神社覈録(かくろく)によると、その祖神とは阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)から神宝を授かり、神武東征に先立って河内国に天下った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の孫、味饒田命(アジニギタノミコト)の子孫にあたります。平安初期に編纂(へんさん)された新撰姓氏録にも阿刀宿禰は饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記述があり、同時期に書かれた「先代旧事本紀」第10巻、「国造本紀」にも饒速日命の五世孫にあたる大阿斗足尼(おおあとのすくね、阿刀宿禰)が国造を賜ったと書かれています。古文書の解釈は不透明な部分も多く、「先代旧事本紀」などは、その序文の内容からして偽書とみなされることもありますが、物部氏の祖神である饒速日命に関する記述については信憑性が高いと考えられます。その結果、明治15年ごろ、京都府により編纂された神社明細帳には、阿刀宿禰祖味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されることになりました。阿刀氏の出自が、国生みに直接深くかかわった饒速日命の直系であることは、大変重要な意味を持ちます。

    饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔、大阿刀足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の代に熊野国造となり、その子・稲比が熊野直の姓を賜ったという。また、大阿刀足尼の弟がもとの河内阿斗に住み阿刀氏の祖となったという。
    「阿刀」の起源の地は、河内国渋川群跡部郷で「跡部神社」はこの一族の奉斎する神社です。一族から空海(母は阿刀氏)を輩出した。
  • September 2019 編集されました
    雲辺寺来歴汚隆記、中之坊地蔵院 縁起は全く同一のもの
    両寺について調査しなければ 本当の歴史は知り得ない。

    香川と徳島の県境をまたぐ雲辺寺山(標高 927m)の山頂にある雲辺寺は、霊場の中で 最高峰に位置し、僧侶の学問修行の場として 栄えたことから、別名「四国高野」とも呼ばれて いる。所在地は徳島県だが、讃岐「涅槃の道 料 大人往復2,060円 場」最初の霊場。この険しい山中に寺が創建さ れたのは延暦8年(789)、弘法大師が16歳 の頃、善通寺建立の材木を求めて登山したと ころ、霊山の趣に惹かれ、一夜にして堂宇を建 立。鎌倉時代には関所の役割も兼ねた大寺院 であった。戦国時代に土佐の長宗我部元親が この寺を訪れ、四国統一の野望を住職に打ち 明けたが、土佐の国造りに専念するよう説かれ
    香川県観音寺市大野原町丸井1974-57
    0875・54・4968
    7:20~17:00(12~2月は8:00~) 見学自由
    香川県観音寺市大野原町田野々 0875・54・2035(豊稔池土地改良区) 休 無休
    日本遺産「四国遍路」~回遊型巡礼路と独自の巡礼文化~
    弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路は、阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全 長1400キロにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路であり、札所への巡礼が 1200年を超えて継承され、今なお人々により継続的に行われている。四国の険しい山道 や長い石段、のどかな田園地帯、波静かな海辺や最果ての岬を「お遍路さん」が行き交う風 景は、四国路の風物詩となっている。キリスト教やイスラム教などに見られる「往復型」の 聖地巡礼とは異なり、国籍や宗教・宗派を超えて誰もがお遍路さんとなり、地域住民の温 かい「お接待」を受けながら、供養や修行のため、救いや癒しなどを求めて弘法大師の足跡 を辿る四国遍路は、自分と向き合う「心の旅」であり、世界でも類を見ない巡礼文化である。

    御詠歌/はるばると雲のほとりの寺 に来て月日を今は麓にぞ見る 本尊/千手観世音菩薩
    真言/おん ばざら たらま きりく 宗派/真言宗御室派 開基/弘法大師

    沿革
    当地方は土佐街道や伊予街道の出 発点であった。また阿波も近く古来 「四国の辻」と呼ばれ各方面から多く の人々が往来し、この寺を中心に発展した。 地蔵院は建立当時は役所の職務を持ち、荘園の起りかけた中世の頃か らは支配者が仏法の力を借りた治政 に利用し、近世には庶民の信仰や教 育などで生活の中心になったという のが歴史のアウトラインであろう

    ーーー
    空海上人はこの有縁の地に条里制 に準拠して寺域を経始し、中央に中 ノ坊、周辺に四十九院を配置したの ではなかろうか。
    地名から中ノ坊の 伽藍配置は法隆寺様式か池泉式様式 のものと推定される。

    古代、荒服(エビスフク)の地方 に夷族を配移させた歴史がある
    (記:西讃府志)。 この夷族を佐伯部、監督する家を
    佐伯の直(アタイ)と呼んだ。播磨、 阿波、讃岐、伊予、安芸の5ヵ国に 配移しているが、阿波(美馬部)、讃
    岐(苅田部)、伊予(宇摩部)は地図 で表すと一ヶ所になり、当地方を指 す。大野原町海老済は、このような 歴史と結びつくようだ。
    佐伯の直の家系に生まれた空海上 人は、宿縁あるこの地に祖先の顕影 と供養をしたと理解できる。
    空海上人の住宅は、琴弾山の東方 に在ったことが七宝山縁起から推定 される。このような歴史を示した土 地が地図上に表された。
  • September 2019 編集されました
    弘仁六年、空海が三角寺を訪れ、十一面観世音菩薩像と不動明王像を刻んで安置し、加えて、三角の護摩壇を築いて二十一日間の降伏護摩の秘宝を施されたと伝えられていますが、空海が当地に滞在していた間、身を寄せていた場所が、現在の村松大師堂であり、空海はここを拠点にして三角寺に登り、また、仙龍寺にも足を運んでいたようです。

    現在、村松大師堂は四国中央市村松町の工場地帯にあります。
    讃岐街道の海岸線沿いにひっそりと建っていて、工場地帯の騒々しさはあまり感じられません。
    山門や石柱門は無く、入口には、へんろ石と松があり、隣接して手水舎が建っています。
    整えられた境内は至ってシンプルで、落ち着いた空気に包まれています。
    大師堂の右手、軒下の扁額には、空海ゆかりの石の絵画が設置されていました。大師堂の内陣の左側にその石が保管されていました。
    『空海踏み止めの石』と呼ぶようです。
    また、大師堂の前、右手に建つ石碑には『遺跡 五左エ門大師』と刻まれています。
    当大師堂の縁起にある『関五左エ門』という人物のことでしょう。
    村松大師堂は『のぎよけ大師』と呼ばれていて、その云い伝えの話をリンクしましたので、参考にしてください。
    『のぎよけ大師の昔話』
    そんな村松大師堂は、地元では『村松のお大師さん』と呼ばれて、多くの住民から親しまれています。


    かつて空海が身を寄せていたと伝わる村松大師堂から三角寺へ至るへんろみち

    今から約44年ほど前に作成された地図に何か手掛かりはないものかと確認してみると、なんと村松大師道と思われる道が記載されていました。
    山道は点線で記されていますが、太陽の家の前身である旧川之江学園の西側を通過して、上柏村と妻鳥村の境に沿って三角寺へ上る道が記されています。
    三角寺道の林道に建つ『左村松大師道』と記された標石は、現在の上柏町と妻鳥町の境付近に建っていて、この場所で旧川之江学園の西側から上ってきた道と合流するようです。確かこの標石付近に三角寺道とは別の林道が残っています。
    ちなみに、この地図には、山神社から三角寺へ至るルートの旧道も記されており、この地図が作成された当時、かなり念入りな調査が行われたと思われ、そいう点からもこの道が村松大師道である可能性が高いと考えられます。
  • 愛媛には、三島神社が沢山ありますが、これは大三島の大山祇神社(三島大名神)を
    崇拝していた、村上水軍が勧誘したと言われています。

    四国中央市 旧伊予三島にある三島神社は、
    奈良時代の初期越智玉澄宇摩の大領に任ぜられ
    今の上柏町御所の地に新館を建て宇摩郡を経営したが、
    年老い毎月の大三島宮参籠も出来なくなったので、
    養老4年旧8月23日大三島宮より奉遷し八綱浦三津名岬加茂川上冠岡の地を選び
    奉斎したのが始でだそうです。
    そして、それより此の地を三島と云う様になりました。
  • 宮島の厳島神社は、社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命(いちきじまひめのみこと)を祀る社殿を創建したことに始まるとされる(wiki)。以降、代々、厳島神社の宮司は佐伯氏が行っている(一時的に藤原氏にとられたことはあるが・・)。
    佐伯氏は、安芸国造である飽速玉男命(あきはやたまおのみこと)の子孫である。飽速玉男命は、 饒速日命が東征した際の随身の一人、天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)の5世の孫とされる。天湯津彦命は、安芸津彦神社で祭られている安芸津彦と同神とされる(なお、飽速玉男命の子孫がなぜ佐伯氏を名乗るに至ったのかについては佐伯直参照)。

    飽速玉男命は、速谷神社に祭られている。その宮司は厳島神社同様に代々佐伯氏が行っている。佐伯氏はその後朝廷から安芸の田所職(たどころしき)に任じられて、田所(たどころ)姓を名乗るようになり、安芸国の国司に任命されている(田所明神社)。
    田所明社がある広島市府中町は、安芸国府があったところで、神武天皇東征のおりには、多祁理宮(タケリノミヤ・古事記)又は埃宮(エノミヤ・日本書紀)がおかれていた。神武天皇はここに7年滞在されたとされている(多家神社・たけじんじゃ)。なお、神武天皇は、宮島にも立ち寄ったとの伝承がある(神武天皇東遷経路 安芸埃宮)。

    さて、天湯津彦命が何者かについてはよくわからないが、安芸は素戔嗚尊系の出雲族の支配地であったから、出雲系の豪族である可能性が高い。その子孫の佐伯氏がなぜ厳島神社の宮司をするのかもよくわからないが、市杵島姫命が宮島に来たという伝承があることから、天湯津彦命は市杵島姫命の子孫なのかもしれない(父は饒速日?猿田彦?)。
  • October 2019 編集されました
    常陸国風土記によると「香島郡に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた。それが茨城の語源である」とあります。穴を掘って住んでいたのであれば、関係ないことになりますが、穴を掘るということは、鉄や金銀銅の金属を掘っていたのではないかと思われます。捕らえられた佐伯の人々は西国へ連行され、播磨、阿波、讃岐、豊後などで採鉄させられたことになっています。

    この阿波、讃岐、伊予とは吉野川の中流域であり、3つの県の県境のエリアである。佐伯直の一族は、御門を守る一族であり、東国から連れてきた佐伯の部民を支配したものである。

    母の阿刀氏です。饒速日命の末裔に、大阿刀足尼と小阿刀足尼の名前が見えます、又、物部氏の中に、阿刀部と言う名前も見られますから、物部氏と関係があるのかもしれません。

    上記のことから、想像すると、空白の5年間は、和歌山と四国の水銀の鉱山を歩き回っていたのではという推理は、当っているかもしれません。帰国後、高野山の山奥に、寺院を造営するのにも、お金がかかります。お金のことは、全て、水銀で解決と言っても良いでしょう。
    佐伯 渤海国(698~926)と日本は、30回ぐらいの交易があったが、遭難した船の名前に、「能登」の記録が残っている。船に対して位階が授けれられ、その船の名前に、遣唐使船の「佐伯」(706年)がある。他に、「播磨」「速鳥」に従五位が授けられている。

    佐伯今毛人は、吉備由利(きびのゆり)の亡くなった翌年の宝亀(ほうき)6年(775)に遣唐大使(けんとうたいし)に選ばれます。
     この時、佐伯今毛人は56歳です。正四位下、左大弁(さだいべん)、造東大寺(ぞうとうだいじ)長官、 造西大寺(ぞうさいだいじ)長官など、数々の重職を歴任しています。
     今さら、命がけで遣唐使として、唐の国に渡る必要があったのでしょうか?
    しかし、私は、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)が遣唐大使に選ばれたのには、佐伯今毛人自身の意思もあったのではないか?と思います。
    佐伯今毛人には、佐伯全成(さえきのまたなり)が生命を落とした橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)と楊貴妃事件の真相を、唐の国に確かめに行きたいという想いもあったのではないでしょうか?

    佐伯今毛人は、佐伯院(さえきいん)という私寺(しじ)を建造し、そこに、地方から集めた佐伯の子弟を集め、宿泊させ、人材の育成に貢献しました。

     そして、その中に、後に空海となる15歳の真魚(まお)がいました。

     佐伯今毛人は、この真魚の才能を認め、自分が果たせなかった唐への渡海と楊貴妃事件の真相をさぐる夢を、少年に託(たく)したのではないでしょうか
  • October 2019 編集されました
    佐伯今毛人が唐の国に渡る事はありませんでした。宝亀(ほうき)7年(776)、4月15日、遣唐大使(けんとうたいし)の印である節刀(せっ とう)を受け取り、佐伯今毛人は渡唐のため、大宰府に行き、渡唐の準備をしますが順風を得られず、11月15日、帰京し、節刀を返上します。次の年の宝亀 8年(777)、4月17日、再び、暇(いとま)乞(ご)いをして、なんとか任地へ向かおうとしますが、羅生門(らしょうもん)まで来たところで、体調の 悪化を理由に出発を断念します。4月22日に、輿(こし)に乗って出発しますが、摂津(せっつ)職(しき)まで来た時、さらに体調が悪化し、そこでついに渡唐を断念しました。

     結局、遣唐副使の小野石根(おののいわね)が、大使を代行して、唐に出発します・・・・しかし、唐からの帰り、小野石根の乗る船は、暴風雨のため、真っ 二つに裂け、小野石根と唐の大使の趙宝英(ちょうほうえい)は、ともども、海の藻(も)くずと消えました。しかし、船は、舳(へさき)と艢(とも)の真っ 二つに別れたまま、漂流(ひょうりゅう)し、艢(とも)は甑嶋郡(こしきしまぐん)に・・・舳(へさき)は、肥後(ひご)の天草郡(あまくさぐん)に漂着 (ひょうちゃく)しました。


    続日本紀の11月15日の記事には、「遣唐大使(けんとうたいし)の佐伯(さえきの)宿禰(すくね)今毛 人(いまえみし)が待機中の大宰府から帰って節刀(せっとう)を返上した。副使の大伴(おおともの)宿禰(すくね)益立(ますたて)・判官(はんがん)の 海上(うなかみの)真人(まひと)三狩(みかり)らは大宰府に留まって入唐の期を待つことにした。世間の人々はこの態度をよしとした。」とあります。この 「世間の人々はこの態度をよしとした。」は、大宰府に留まった大伴益立・海上三狩の態度だとする見方も出来ますが・・・それから、すぐ後の12月14日に 大伴益立は、遣唐副使を解任されています。したがって、「この態度をよしとした。」は、佐伯今毛人の事と捉えてよいのではないでしょうか。また、佐伯今毛 人は、この後も、佐伯氏の出の者としては異例の出世をとげていきます。もし、臆病風に吹かれ、渡唐をサボタージュするような男だったのだとしたら、こんな 事はありえないでしょう
  • 空海の活躍と同時期、奈良時代後期から平安初期にかけて法相宗を隆盛に導いた法相六祖の僧侶の一人、大和国出身の善珠に注目です。八世紀の終わり、南都六宗では経典暗誦よりもその解釈を極めることが重要視され、その結果、経典の釈義に長けていた法相宗が他宗を圧倒するようになりました。当時、法相宗のリーダー格であった善珠は、朝廷とも深い関わりを持ち、皇太子安殿親王の厚い信頼を受けていただけでなく、殉死した早良親王とも交流がありました。また、秋篠寺を開基し、そこでは後世において法相宗と真言宗が兼学されることになります。
    この善珠こそ、法相宗法脈の頂点に立った玄昉の愛弟子であり、しかも玄昉が護身を勤めた藤原宮子との間にできた子とも言われています。そして善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄昉も「玄昉姓阿刀氏」と書いていることから、ともに阿刀氏の出であることが伺えます。さらに「東大寺要録」を参照すると、玄昉の師である義淵(ぎえん)も阿刀氏なのです。つまり義淵から玄昉、そして善珠と引き継がれてきた法相宗の法脈は、まぎれもなく阿刀氏によって継承され、奈良から平安時代初期にかけて、その宗教政治力は頂点を極めました。
    平安初期、朝廷が悩まされた早良親王の怨霊問題についても法相宗は積極的に関わり、特に善珠は、早良親王の「怨霊」を語るだけでなく、霊力をもって鎮めることもできたため、天皇の厚い信任を得ました。南都六宗の影響下から逃れるために遷都に踏み切った経緯からして、これまで一見、対立関係にあったと思われていた朝廷と南都六宗との関係ですが、実際には朝廷と法相宗のリーダーは緊密な関係を保っていたのです。朝廷は怨霊を恐れるあまり、藁をも掴む思いで霊力を有する者であれば躊躇せず登用しており、最澄ら地元で活躍する宗教家だけでなく、奈良を拠点とする善珠らにも声が掛けられました。こうして多くの優れた宗教学者を輩出した法相宗は、霊力をもって朝廷に仕え、祭祀役割を担う人材にも恵まれていたのです。
    その法相宗の流れをくむ学者の一人が、空海の母方の伯父である、阿刀大足です。彼は朝廷において桓武天皇の子である伊予親王の侍講を勤めただけでなく、空海にも教えていました。つまり伊予親王だけでなく、空海も阿刀大足を通じて法相宗の僧侶らと親交を深める機会があったと考えられます。それゆえ、空海は南都六宗のありかたを批判することはあっても、友好的な関係を保ち続け、後に高野山を開いた際も、穏やかに聖地を構えることができたのです。当時、宗教界においては圧倒的な勢力を誇る阿刀氏の出であり、天皇をはじめとする朝廷と、南都六宗で一番の勢力を持つ法相宗、双方の人脈に恵まれた空海は、国家の平和と皇室の大安を願いつつ、自ら立ち上がります。
  • 乙訓寺

    真言宗豊山派長谷寺の末寺。洛西観音霊場第6番札所。本尊。合体大師像。

    寺伝によれば、推古天皇の勅願によって聖徳太子が開いたとされる。長岡に都があった延暦4年(785)に早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉された地として、また嵯峨天皇の弘仁2年(811)に空海(弘法大師)が別当となった寺院として、歴史の舞台にも登場し乙訓随一の大寺院として栄えていた。

    江戸時代の元禄8年(1695)に護持院隆光が5代将軍綱吉の母桂昌院の援助により再興した。また、重要文化財の毘沙門天像や市指定文化財の11面観音像等がある。境内には、ぼたんが2千株余りあり「ぼたん寺」としても名高く、洛西屈指の古刹である。長岡京市観光協会
  • 早良親王(750~785)

    平城京から長岡京に遷都して間もない延暦4年(785)、造長岡宮使(造営の最高責任者)藤原種継が、当時の桓武天皇の留守中のに暗殺されてしまいます。事件に激怒した桓武天皇は、首謀者である大伴継人らをはじめ、関係者数十名を処刑しました。桓武天皇の実弟・早良親王も、事件への関与を疑われ、乙訓寺に幽閉されてしまいます。(※暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明)。親王は身の潔白を訴え、抗議のために断食しますが、淡路島へ流罪となり、途中、恨みを抱きながら絶命したといわれています。

     早良親王の死後、桓武天皇の身の回りには不幸が相次ぎます(生母・高野新笠の病死や皇后・藤原乙牟漏の突然死、第1皇子・安殿親王(後の平城天皇)の原因不明の重病の発病など)。また、日照りによる飢饉・疫病の大流行、小畑川の氾濫による大規模な洪水被害など、天災にも苦しめられました。

     延暦13年(794)、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は平安京への遷都を決意します。「長岡京」が廃都になった理由は定かではありませんが、桓武天皇が早良親王の祟りを恐れていたとする説もあります。

    延暦19年(800)、桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の諡号を贈り、淡路島から大和国に遺骸を移しました。ここ乙訓寺の境内にも、早良親王の供養塔があります。
  • 道隆寺の歴史・由来

    仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養する。

    大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、弘法大師自ら90センチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。
    朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。第3世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、次の第5世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。高僧が相次いで寺勢は栄えたが、貞元年間(976〜78)の大地震による堂塔の倒壊や、康平3年(1060)の兵火、また「天正の兵火」に遭うなど興亡をくり返しながらも、法灯を守り続けている。
  • 大宮神社

    仲多度郡まんのう町吉野843-1(平成21年3月31日)

    東経133度51分37.35秒、北緯34度11分8.43秒に鎮座。

     この神社は満濃中学校の東約900mに鎮座しています。御旅所や一の鳥居の建つ所から神社までは参道が200mも続きます。神門を潜ると広々とした明るい境内中央奥に大きな拝殿と本殿が建っています。境内右側の大宮集会所東には毘沙門天社も祀られていました。そして境内左側には「迎春」の飾り物も飾ってありました。

     御祭神:倭姫命、合祀祭神:事代主神、素戔嗚命、大国主命、倉稲魂神、猿田毘古神、少彦名命、五十猛命、天御中主神
     境内社:毘沙門天社、梅の宮天神社
     由緒:社伝によれば、延喜5年(905)和気隆従が託宣により創祀したと伝られています。
     和気隆従の出自は不明ですが、聖武天皇の世、豊原村に道隆寺を建立した和気道隆の一族とも、又、酒部成善の子孫とも考えられていますが、社家の黒木氏もまた和気氏であるといわれています。
     古より近郷の大社であったので、大宮大明神と称えられています。
    (県神社誌より)
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