讃岐 空海、佐伯直と阿刀氏

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  • 弘法大師の弟

    貞観寺を建立したのは真言宗の僧真雅(801~79)である。真雅に関する根本伝記として、寛平5年(893)に真雅の弟子等よって編纂された『故僧正法印大和尚位真雅伝記』全1巻と、『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条真雅卒伝がある。後者は前者をもとに編纂されたため、略された箇所もあるが、『故僧正法印大和尚位真雅伝記』には大僧都の補任記事に誤りがあるなど、双方は一長一短がある。『故僧正法印大和尚位真雅伝記』は長谷宝秀編『弘法大師伝全集』第10巻(六大新報社、1935年3月)に翻刻されている。

     真雅の本姓は佐伯直で、もとは讃岐国多度郡に属していたが、のちに佐伯直氏は宿禰の姓を賜って佐伯宿禰氏となり、右京に戸籍を移すことになる(『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条、真雅卒伝)。真雅の実兄は弘法大師こと空海であり、27歳も年が離れていた。真雅は9歳の時郷里を辞して都にのぼり、16歳で兄空海を師主として出家した。真雅は19歳の時には具足戒を受けている(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。

     23歳の時、すなわち弘仁14年(823)勅があって内裏に参入し、御前にて真言三十七尊の梵号を唱え、声は宝石を貫いたようで、舌先はよどみなかったため、皇帝はよろこび、厚く施しをした(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。ちなみにこの年に空海は10月13日には皇后院にて息災の法を三日三夜修法しており(『類聚国史』巻178、修法、弘仁14年10月癸巳条)、さらに同年12月24日には大僧都長恵・少僧都勤操とともに清涼殿にて大通方広の法を終夜行なっている(『類聚国史』巻178、仏名、弘仁14年12月癸卯条)。真雅が皇帝、すなわち淳和天皇をはじめとした朝廷の面々の知遇を得ることができたのは、兄であり師である空海の尽力によるものであったとみられ、そのことは空海の後継者の一人としての地盤を固めるのに役立っていたとみられる。

     承和2年(835)には兄であり師である空海が示寂したが、真雅は同年中に弘福寺別当に勅任されることになる。この時35歳、臈年17であった(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。嘉祥元年(848)6月28日には権律師に補任され(『続日本後紀』巻18、嘉祥元年6月乙卯条)、同年9月20日には律師となった(『続日本後紀』巻18、嘉祥元年9月丙子条)。さらに嘉祥3年(850)には仁明天皇崩御による陵寺として、嘉祥寺を建立している(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。
  • June 2018 編集されました
    宮坂宥勝氏は、著書『空海』で空海を下記のように紹介しています。

    「寛平 7 年(895 年)3 月 10 日の年記のある 貞 観寺 座主の『贈大僧正空海和上伝記』には“宝亀 5 年(774 年)甲寅誕生す”とある。」と空海の生年を述べ、又、「空海の弟子の 真済 が書 そうず わじょう もと いみな かん いたとされる『空海 僧都 伝』には次のようにある。(段替)和上 、故 の大僧都、諱 は空海、潅頂 の号を 遍照 金剛 という。俗称は 佐伯 直 、讃岐国 多度郡 の人なり。その源は天尊より出づ。次の祖は昔、日本武尊 に従って、毛人 を征して功あり。因 って土地を給う。便 ち、これに家す。」と書いています。
  • 平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。
     神願寺が実際どこにあったのか、確かな資料が残っていないため、いまだ確認されていないが、その発願は和気清麻呂がかねて宇佐八幡大紳の神託を請うた時「一切経を写し、仏像を作り、最勝王経を読誦して一伽藍を建て,万代安寧を祈願せよ」というお告げを受け,その心願を成就するためと伝えられ、寺名もそこに由来している。
     また、私寺として建てられた高雄山寺は、海抜900メートル以上の愛宕五寺のひとつといわれているところからすれば、単なる和気氏の菩提寺というよりは、それまでの奈良の都市仏教に飽きたらない山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考えられる。
     愛宕五寺または愛宕五坊と呼ばれる寺は白雲寺、月輪寺、日輪寺、伝法寺、高雄山寺であるが、残念ながら現在にその名をとどめているのは高雄山寺改め神護寺と月輪寺のみである。
     その後、清麻呂が没すると、高雄山寺の境内に清麻呂の墓が祀られ、和気氏の菩提寺としての性格を強めることになるが、清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込んでいる。
     弘世、真綱の兄弟は、比叡山中にこもって修行を続けていた最澄に、高雄山寺での法華経の講演を依頼している。
     この平安仏教の第一声ともいうべき講演が終わると、最澄は還学生として唐にわたることとなる。
     また、空海は留学生として最澄とともに入唐するが、二年で帰国、三年後にようやく京都に入ることが許されるや高雄山寺に招かれ、以後数年にわたる親交が続けられ、天台と真言の交流へと進展してゆく。
     やがて天長元年(824)真綱、仲世の要請により神願寺と高雄山寺を合併し、寺名を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、一切を空海に付嘱し、それ以後真言宗として今日に伝えている。
     神護寺は最澄、空海の活躍によって根本道場としての内容を築いていったが、正暦五年(994)と久安五年(1149)の二度の火災にあい,鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の状態となった。

  • 伴氏系図
    http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/keizu.htm

    --道臣命(神武朝)--味日命--稚日臣命--大日命--角日命--豊日命
    --武日命(垂仁朝五大夫のひとり、日本武尊東征に随伴)--大伴連武持(仲哀朝)--大伴室屋--

    姓氏家系辞書/太田亮によれば、上記伴氏系図で略されている空海につながる9代は、
    「歌連」(佐伯氏姓を賜る)--平曾古連(安芸厳島に住)--平彦連
    --伊能直(讃岐多度郡縣令)--大人直--枳都直--男足(初めて佐伯直を号す)
    --田公(少領)--道長(大領)--空海(774-835)
    です。

    太田亮は平彦連から伊能直の接続を疑い、姓氏録とその他資料から伊能直が讃岐佐伯部の伴造(讃岐国造)であり佐伯直の祖であるとしています。
    すなわち佐伯直は景行天皇(稲背入彦命)の後裔であって、伴氏系譜ではないということです。
    (伊能直から空海へ至る系譜は正とみています、他に複数の資料がある)


    伴氏系図において大伴連談の子の大伴連歌が「佐伯」という姓を賜る。
    談は雄略紀9年に新羅との戦いで戦死していますから、歌が佐伯を賜ったのは雄略時代でしょう。

    雄略紀では葛城氏が滅ぼされ、秦の民の管理者が秦酒公へ移管されるなどの変革(政変)があります。

    すなわち、仁徳系(景行天皇後裔)であった佐伯部の管理者も、雄略系(伴氏系)に切り替わった可能性が大きいとみます。
    そのためにそれ以降の系譜が錯綜し、伴氏系図にそれが現れているのではないか・・
    太田亮の解釈に賛成です。
  • October 2018 編集されました
    『扶桑略記』の著者阿闍梨皇圓は弘法大師空海(讃岐出身)の師で、ここ玉名の出である
    ーーー

    船山古墳の被葬者について
    清原(セイバル)とは『古事記』の序幷にある飛鳥淸原大宮御大八洲天皇(天武天皇)の清原(キヨミハラ)であり、「大王の新天地」を意味し、『日本書紀』でいう筑紫君薩夜馬(サチヤマ)いわゆる山幸(ヤマサチ)彦(高句麗や倭国でいう大人 ウシ)、御伽噺の浦島太郎(瑞江浦嶋子 ミズノエノウラノシマコ 雄略紀)である。船山古墳の近くに虚空蔵(コクンゾ)塚古墳があるように『日本書紀』では山幸彦を虚空津彦(ソラツヒコ)と呼んでいる。また山幸彦が海神之宮(ワタツミノミヤ 竜宮)で綿津見神(豊玉彦)から貰う如意珠(鹽盈珠・鹽乾珠)は仏教の如意宝珠であり宝剣とともに虚空蔵菩薩の持ち物である。

    ところが埼玉県行田市の稲荷山古墳の礫郭から出土し10年後に金銘文が発見された時、「獲加多支鹵大王」と船山古墳の銀象嵌銘大刀の「
  • October 2018 編集されました
    弘仁元(810)年10月、大師は高雄山において鎮護国家の秘法を修したい旨、嵯峨天皇に申し出た。そして、弘仁3(812)年11月に金剛界の結縁灌頂が行われた。12月には胎蔵界の結縁灌頂が行われた。大師が日本における真言密教の最高の阿闍梨であることを証明することとなる。

    最澄は天台宗を盛んにするための方便に密教を学んだが、空海は真言密教の興隆のみを志していたので、両者の間には大きな違いがあったのである。

    帰国後に空海が14年間ほど住んだ高雄山・神護寺

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    空海は師から授かった密教法具の三鈷杵(さんこしょ)を取り出すと、「密教を広めるのにふさわしい地に導きますように」との願いを込めて東の空に力一杯投げました(右絵)三鈷杵は流星のごとく飛んで行きました。

    それから10年後の816年(弘仁7年)、空海は高野山「三鈷の松」にこの三鈷杵がかかっているのを発見したといいます。左は松の木にかかった三鈷杵を満足そうに見つめる空海です。彼は三鈷杵が導いたこの地に真言密教の道場を開いたのです。

    空海が投げたとされる三鈷杵は実在のものです(重要文化財・飛行三鈷杵) 
    空海はこれを真然(804~891)に授け、その後中院別当、定観、雅真(~999)、仁海(951~1046)と伝わり御影堂に奉安されていました。
    1088年(寛治2年)白河上皇が持ち帰られ1世紀以上皇室が保有されていましたが、1253年(建長5年)高野山に戻っています。
  • 『竜馬がゆく』などの名作で知られる日本を代表する歴史作家・司馬遼太郎の文を引用します。

    「あらたに密教正嫡の阿闍梨の位についた空海が、正嫡の阿闍梨として持たねばならぬ付属品がある。日本の天皇家の例でいえば皇位継承のしるしである三種の神器のようなものであるといっていい。八種あった。この八種はインド僧金剛智が南インドから唐に渡ってくるとき請来したもので、それが相続の印可として金剛智から不空に伝えられ、不空から恵果に伝えられ、恵果から空海に伝えられた。恵果から空海に伝えられる場合、海を渡ってしまうため、唐にはもはや密教正嫡を証明するこの八種のしるしは存在しなくなる。このことを思うと、恵果が空海に相続させたという事柄そのものが尋常でないことがあらためて知らしめられる」
  • 大安寺
    渡来僧には、東大寺大仏開眼の導師をつとめたインド僧の菩提僊那、同じく咒願師をつとめた唐僧の道璿、おなじく大仏開眼でベトナムの伎楽の奉納をしたベトナム僧の仏哲、華厳経を東大寺にもたらした新羅の審祥らの名が残っている。
     真魚は隣の佐伯院に寄宿し大学寮に通うかたわら、この国際仏教交流センターにもしばしば出入りし、生まれてはじめて仏教というインド的思考世界を知った。さらにやがて自分の将来を決定づける虚空蔵求聞持法に出合う。
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     この大安寺で真魚の異才をいち早く認め仏教入門への道をひらいたのはおそらく勤操大徳であったろう。勤操は若くして三論の学匠となり、後には嵯峨天皇に認められて東寺造営の別当や、西寺造営の別当に任じられている。淳和天皇の時には貧民救済の文殊会を行い、後に国家事業になった。
     勤操は、隣の佐伯院からしばしば来ては仏教や渡来人や異国の言語に異常なほどに関心を示し、その吸収に天賦の才を発揮する大学生の真魚を好ましく思い、おそらく佐伯今毛人の仲介もあったであろう、真魚を厚遇したと思われる。虚空蔵求聞持法を実際に伝授したかどうかは別として、大学寮での漢籍の学習と経学の内容に飽き足らなさを感じていた真魚を仏教に覚めさせたのは事実であろう。おそらく、勤操は阿刀大足や佐伯今毛人から真魚の漢籍暗記の才について聞いていた。だからいきなり『倶舎論』や『成唯識論』や『中論』を与えて諳んじさせ、それを講じたかもしれない。
     やがて真魚の暗記力の並はずれた異能を身近に感じ、勤操は迷うことなく虚空蔵求聞持法に彼を導いたに相違ない。実際修法を伝授したのは戒明だったかもしれない。あるいは、真魚に求聞持法を教えたのは「一沙門」ということになっているから、大安寺と関係の深い吉野比蘇(曽)寺の「自然智」宗に属する無名の行者であったろうか。空海と密接な関係があった元興寺の護命も「自然智」宗の人で、それに関与していたかもしれない。
  • October 2018 編集されました
    空海は、大伴歌(金村の弟)の後裔

    歌は、大伴談の子であり、初めて大伴から佐伯の氏姓を賜わり大伴氏と共に、宮の御門の左右を守る。

    (伴氏系図)
    空海を大伴氏族佐伯連裔として。金村の弟・歌連(初めて佐伯の氏姓を賜う)-平曾古連(安国厳島に住む)-平彦連ー伊能直(讃岐国多度郡の県令)-大人直ー枳都直ー男足(初めて佐伯直と号す)-田公(少領)-道長(大領)-空海(俗名佐伯直、20歳にて出家。母は従五位下阿部宿禰大足の女。南岳和尚と号す。宝亀五年の誕生云々。延喜年中、号を弘法大師と諡らる)と。

    (弘法大師系譜)
    大伴武以ー室屋ー談ー歌連(金村の弟、佐伯姓を賜う)-平曾古連ー平彦連ー伊能直(多度郡県令)-大人直ー枳都直ー男足(佐伯直)-田公(多度郡少領)-道長(多度郡大領)-空海(空海の兄弟・真雅=僧正、女=和気公宅成妻)

    『新撰姓氏録』左京神別中によれば、談は父(一説には兄)の室屋と共に衛門の左右を分衛したと記述され、また同じく右京神別上によれば佐伯日奉造(さえきのひまつりのみやつこ)は大伴氏(天忍日命の後裔氏族)と同祖で、談の後裔とされる

    佐伯氏は軍事専門の氏族で、『新撰姓氏録』の左京神別に載る大伴宿禰の条によれば、大伴室屋の子の談(かたり)から分かれた。大伴氏と並んで靫負を率いて宮門を護衛しながら、共に大和政権の伴造として、歴代、武力をもって朝廷に奉仕した。大伴金村の父と伝わる談は、雄略朝の対新羅派遣軍の大将であった。新羅王と会戦し、数百騎の手勢のみにし遁走させ、その追撃の際に戦死した。
  • October 2018 編集されました
    葦北氏(日奉氏)
    葦北氏は現在の熊本県に位置した肥後国南部の地域を支配していた豪族で、葦北国造でもありました。
    吉備津彦命の子である三井根子命を祖としており、後に日奉の姓を賜りました。

    吉備の御友別の弟は、神功皇后紀では葦北国造の祖先である鴨分。
    鴨分は造山古墳から高梁川を下った河口地域(笠岡~浅口一帯)を本拠とし、応神紀では笠の臣の祖とされる。

    『日本書紀』神功皇后紀では鴨別を吉備臣の祖とし、応神天皇紀では笠臣の祖とする。
    また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
    右京皇別 笠臣 - 笠朝臣同祖。稚武彦命孫の鴨別命の後。

    高梁川岸に5世紀、突然登場したのが造山古墳です。
    規模は全国第4位で、築造年代推定の仕方によっては当時最大級だったともいわれています。
    注目は前方部墳頂・荒神社に残されていた石棺で、阿蘇凝灰岩が使われています。その他の遺物特徴でも「近畿型の要素は少なく九州型が色濃く反映」されているようです。
  • 葦北の日下部

    景行期に火の葦北に入った吉備氏族は日奉部氏、日置氏など「日」を奉じる氏族。景行期に火の葦北に入った吉備氏族。葦北国造の三井根子命の弟、大屋田根子命の一族は「日奉部氏」など「日」を奉じる氏族。この族にも「日下部氏」。阿蘇の日下部はこの流れとする説もある。そして、「邑阿自(おほあじ)」を祖とする日田の靱編連の「日下部氏」。この氏族は6世紀頃に筑後川下流域に広がっていったという。

    肥前、松浦の「日下部君」

    肥前風土記にはこの日下部君の祖の「佐用姫(さよひめ)」と、新羅を討った大伴狭手彦との悲恋伝説が記される。

    日田の日下部

    邑阿自を祖とする日田の靱編連の日下部氏。日下部氏の墳墓とされるダンワラ古墳から中国王朝の象徴ともされる「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」出土している。宝玉を埋めこみ、金銀で竜文を象眼した弥生期の鉄鏡で、国内ではこの鏡だけという宝鏡である。

    三芳の刃連(ゆき)町には靫負日下部氏がいたと記録がある。日下部氏とは中央における大伴氏の傘下にいた国衙、あるいは郡衙ではなかろうかと言われ、近くにある報恩寺山古墳には多くの古墳群が林立する。時代はおそらく4世紀頃だったと思われる。この鏡がもし、漢から直に下げ渡されたとすれば、吉備地方の榊山古墳の被葬者の存在は、熊本県八代から葦北にいた大伴氏配下の管理者である火の葦北国造アリシトとなんらかの関係が推測される
  • October 2018 編集されました
    【葦北国造】
    景行朝、吉備津彦命の子 三井根子命が 葦北国造に 任じられ、
    後に 日奉部、日奉直、日奉宿禰を 賜姓される。
    後裔に 達率日羅や万葉歌人の日奉部与曽布、蒙古襲来時に軍功著しい竹崎五郎季長などが世に知られる。


    93 針間鴨国造 13成務 上毛野君同祖御穂別命児 市入別命 . 播磨賀茂上鴨
  • 113 熊野国造 13成務 饒速日命5世孫 大阿斗足尼 . 紀伊牟婁熊野
  • 直木孝次郎「古代王権と播磨」によれば「播磨の鴨国造は佐伯直(さえきのあたい)であったらしい」。豪族の勢力がいかに強かったかを物語る話として、安康天皇が暗殺された後の内乱の際、履中天皇と葛城之曾都毘古の孫娘・黒媛の皇子の履中天皇の長男・市辺之忍歯王(いちのへのおしはのおおきみ) (皇位継承争いで先の允恭天皇の皇子で安康天皇の弟の雄略天皇に殺される)と葛城系の夷媛との間に生まれた「億計・弘計」の両皇子が播磨地方に難を避けて、雄略天皇の死後、播磨地方の勢力、特に葛城 氏の支援を受けて天皇に就いている(顕宗・仁賢天皇)
  • 式内阿刀神社
    阿刀家の祖霊社である。 阿刀家は、かつてここで鎮魂伝を相承していた。また、阿刀家はここで嵯峨天皇の御作と言う天照大神のお木像をおまつりしていた。
    昔は、この社から東の方を嵯峨野と言った。後水尾天皇はここにあった燈象菴におこしのとき、阿刀栄元に  虫の音も長き夜飽かぬ故郷に  楢思ひ添う松風ぞ吹く  との御色紙を下さった。  阿刀家は弘法大師の生母の里方である。 弘法大師は、三教指帰の初稿をここで書いたと言われている。  阿刀家は弘仁14年正月真言宗の執行職として東寺に移ったが、嵯峨との交渉には変わりはなかった。角倉了以の家も清原国賢の家も阿刀家と親族であった。この両家の関係は、近世嵯峨文化の基源を成したと言われている。右京区嵯峨広沢南野町
    【正式名称】
    式内阿刀神社
  • 空海の活躍と同時期、奈良時代後期から平安初期にかけて法相宗を隆盛に導いた法相六祖の僧侶の一人、大和国出身の善珠に注目です。八世紀の終わり、南都六宗では経典暗誦よりもその解釈を極めることが重要視され、その結果、経典の釈義に長けていた法相宗が他宗を圧倒するようになりました。当時、法相宗のリーダー格であった善珠は、朝廷とも深い関わりを持ち、皇太子安殿親王の厚い信頼を受けていただけでなく、殉死した早良親王とも交流がありました。また、秋篠寺を開基し、そこでは後世において法相宗と真言宗が兼学されることになります。
    この善珠こそ、法相宗法脈の頂点に立った玄昉の愛弟子であり、しかも玄昉が護身を勤めた藤原宮子との間にできた子とも言われています。そして善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄昉も「玄昉姓阿刀氏」と書いていることから、ともに阿刀氏の出であることが伺えます。さらに「東大寺要録」を参照すると、玄昉の師である義淵(ぎえん)も阿刀氏なのです。つまり義淵から玄昉、そして善珠と引き継がれてきた法相宗の法脈は、まぎれもなく阿刀氏によって継承され、奈良から平安時代初期にかけて、その宗教政治力は頂点を極めました。
  • 平安遷都の際に、阿刀氏の祖神は河内国渋川群(今日の東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られました。明治3年に完成した神社覈録(かくろく)によると、その祖神とは阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)から神宝を授かり、神武東征に先立って河内国に天下った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の孫、味饒田命(アジニギタノミコト)の子孫にあたります。平安初期に編纂(へんさん)された新撰姓氏録にも阿刀宿禰は饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記述があり、同時期に書かれた「先代旧事本紀」第10巻、「国造本紀」にも饒速日命の五世孫にあたる大阿斗足尼(おおあとのすくね、阿刀宿禰)が国造を賜ったと書かれています

    明治15年ごろ、京都府により編纂された神社明細帳には、阿刀宿禰祖味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されることになりました。阿刀氏の出自が、国生みに直接深くかかわった饒速日命の直系であることは、大変重要な意味を持ちます。
  • October 2018 編集されました
    饒速日の後裔、大阿刀足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の代に熊野国造となり、 その子・稲比が熊野直(くまののあたえ)の姓(かばね)を賜ったという。

    『新撰姓氏録』山城(神別・天神)には熊野連〔饒速日命孫味饒田命之後也〕と見える。
    左京 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上同祖。
    山城国 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
    山城国 神別 天神 阿刀連 – 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
    摂津国 神別 天神 阿刀連 – 神饒速日命の後。
    和泉国 神別 天神 阿刀連 – 釆女臣同祖。

    『続日本後紀』承和二年三月二十五日条に、空海は十五歳のとき讃岐国から上京し、大足のもとで学んだことが見える。従五位下だったという。

    空海
    809:京都高尾山寺(神護寺)に居を定め、最澄は経典の借覧並びに密教修行のため弟子入りを要請した。
    812:高尾山寺で真言密教の法灯をかかげ、金剛界結縁灌頂を開壇。
    816:高野山を下賜する太政官符が下がる。
    818:初めて高野山に登る。
    820:伝燈大法師位を授かる。
    821:唐の先進土木技術の見聞により、香川県・満濃池(ため池)の修築別当に任ぜられた。
    823:官符により東寺(教王護国寺)を下賜される。
  • 饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔、大阿刀足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の代に熊野国造となり、その子・稲比が熊野直の姓を賜ったという。また、大阿刀足尼の弟がもとの河内阿斗に住み阿刀氏の祖となったという。
    「阿刀」の起源の地は、河内国渋川群跡部郷で「跡部神社」はこの一族の奉斎する神社です。一族から空海(母は阿刀氏)を輩出した
  • 丹生官省符神社
    付--慈尊院
    和歌山県伊都郡九度山町慈尊院
    祭神--丹生都比売大神・高野御子大神・大食都比売大神・市杵島比売大神
    慈尊院本尊--弥勒菩薩座像
                                                                 2018.05.11参詣

     JR和歌山線・九度山口駅の南南西約1.5km、紀の川を渡り、南岸沿い国道4号線の慈尊院交差点から南へ入った処に慈尊院(ジソンイン)が、その境内奥の石段を上った高所に丹生官省符神社(ニウ カンショウフ、式外社)が鎮座する。
     いずれも世界遺産「紀州山地の霊場と参詣道」の構成資産。

    ※由緒
    【丹生官省符神社】
     頂いた参詣の栞には、
     「当神社の草創は古く、弘仁7年(816)弘法大師・空海によって創建されました。
     空海は真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を出立ち各地を行脚され、途中大和国宇智郡に入られたとき、一人の気高い猟師に出会い、高野という山上の霊地のあることを教えられました。猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。

     此の所は天下無双の霊地であり、空海は此の処を教えてくださった猟師は、神様(地主神)が姿を猟師に現し、化現(ケゲン)狩場明神(カリバミョウジン)となり、神託として一山(高野山)を与え下さったものであると、想念の内に感得されたのでした。
     その事を嵯峨天皇に上奏し、天皇は深く感銘され、高野山を空海に下賜されたのでした。
     狩場明神の尊い導きにより開山することができた高野山金剛峯寺。空海はその思いを政所(マンドコロ)として慈尊院を開いたとき、参道中央上壇に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建奉祀され、諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地、即ち神通寺の壇とし、慈氏寺の檀と併せて萬年山慈尊院と称されたのでした。

     弘法大師によって創建鎮座爾来、御社号を丹生高野明神・丹生七社大明神・丹生神社・丹生官省符神社と変遷し、県内外を問わず尊崇を受け、官省符莊(荘園)の総社(総氏神)として栄えました。
  • 仏母院は八幡山仏母院屏風ヶ浦三角寺と号す。八幡山とは童塚の近くにある山で、産土神の熊手八幡神社の分社を祀る山である。その草創は弘仁年間以後だといわれ、空海と親交のあった嵯峨天皇が空海の母の屋敷跡と聞き、自筆して贈ったという扁額が残っている。

     またここからずっと海べりに鎮座する熊手八幡神社本社のご神体である長鈎(熊手)が伝わっている。仏母院はもともと熊手八幡神社の別当寺であったという。

     『紀伊続風土記』の「熊手八幡縁起」に、

       巡寺八幡宮ト奉ルハ、旧讃岐国多度郡屏風浦ニ御鎮座アリテ、弘法大師ノ産土神ナリ。
       御神体ハ神功皇后征韓ノ日、用ヒ給フ所ノ御旗、長鈎ニシテ、皇后凱旋ノ時屏風浦ニ至リ、
       殿ヲ造リテ是ヲ蔵メ・・・・

    と記されているという。
     この仏母院に伝わる空海誕生の伝承が仮に後世の作り話だとしても、阿刀家がこの地に広大な神域をもつ八幡神につながる家柄であったらしい話は興味深い。

       ひもろぎの 三角の地にて 玉依は 神の御子なる 大師を宿す
  • 父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)の希望と叔父・阿刀宿禰大足(あとのすくねおおたり)の進めで都の大学寮に入った佐伯真魚。大学寮は国の役人を育てる日本最高の学校です。ところが、幼い頃から親しんだ仏教をすてきれなかったのか、儒教と律令を学び役人になるのが嫌だったのか。大学寮に入学して1、2年ほどで山に入り山岳僧の修行に参加するようになりました。

    そしてついには私度僧になってしまいました。私度僧とは国の認可をうけていない僧侶のことです。この時代は正式な僧侶になるには国の認可が必要でした。

    真魚は大学寮の授業に出なくなり、ゆくえをくらましてしまいました。

    その間、個人資格の僧侶になって修行していたようです。

    当然、父の佐伯田公は激怒しました。中央の大学に入れ、将来は役人にするためにるために上京させたのです。それが学校に通わずに山に篭っていると聞けば普通の親なら怒るでしょう。

    中央で出世して立派な役人になってほしいという父・佐伯田公やおじの阿刀大足の願いもむなしく、真魚は修行三昧の日々を送っていました。

    聾瞽指帰は決別の書

    延暦16(797年)。役人になれる期限のせまった24歳のとき。

    父の怒りを知った空海は仏教を目指す理由を書きます。それが「聾瞽指帰」です。仏教と道教、儒教を比較して仏教の優れたところを論じた書でした。これがのちに改定されて「三教指帰」になります。聾瞽指帰の内容は儒教、道教の他に高い仏教の知識が必要とされます。



    虚空蔵求聞持法は大安寺や元興寺など奈良の僧の間で流行っていました。空海に虚空蔵求聞持法を教えたのは大安寺の戒明だともいわれています。戒明も讃岐国出身。唐への留学経験もあります。大安寺は真魚が寄宿していた佐伯院の近くにある寺です。修行僧となった空海は大安寺にも通っていたのでしょう。

    空海は阿波の大瀧ゲ獄(徳島県太竜寺山)や土佐の室戸岬などで求聞持法を行いました。空海は著書で、求聞持法を実行すると真言を唱える声が谷中に響き、光り輝く星が近づいてくるのを見たと書いています。
    延暦23年(804年)。31歳のとき。遣唐使の一行に加わりました。費用は個人持ちの私費留学生の立場です
  • 薗田香融氏は以下の如く述べている。
    国造系譜の B 本(『紀伊続風土記』本)および C 本(『続群書類従』本)によれば、日前宮 が今の「名草宮」の地に移されたのが、五代大名草比古命のときであったとしている 6。(中 略)日前宮の最初の司祭者は、この大名草彦としなければならない理屈となる。私はこの 大名草彦こそ、古代名草郡に盤踞した紀直氏の最も本来的な祖先伝承ではなかったかと考 える。事実、日前宮の末社には、今も中言社というのがあり、名草彦・名草姫を祭神とし、
    「当宮末社の上首」、「名草郡地主神」とされているのである。また日前宮の古代神事として
    異彩を放つものに、毎年九月十五日に行われる草宮祭があるが、これは国造家先祖を祭る
    神事とされ、毎年藁をもって社殿を造替するところから、「草の宮」とよぶ。草宮は二社よ
    み け もちのみこと
    り成るというから、祭神は天道根命や御食持命などの単独神ではなく、対耦神である名草彦・ 名草姫でなければならないだろう。草宮祭は、国造家の祖神が大名草彦であることを、い わば儀礼の上で伝承してきたものということができるであろう(薗田 1991:209)7
  • 大師の『高野雑筆集』上の書簡において
    「我が遠祖、太遣馬の宿禰、是れ則ち彼の国(紀伊国)の祖、大名草彦の派なり」とあることによって、その正 しさが証明される。すなわち、平安初期の大師の当時は、正に大名草彦命が紀氏の初祖と見做さ れていたと考えられるのである。一方、下に見る『丹生祝氏本系帳』に大名草彦命の名は現れな い。ここから、『高野雑筆集』の書簡の宛先は紀氏と考えるのが穏当であろう 10。
    ちなみに『日本後記』延暦廿三年(804)十月癸丑の条に「上、船に御し遊覧したまふ。(中略)国造紀直豊成等、奉献す」とあり、また『続日本後記』嘉祥二年(849)閏十二月庚午の条に「(前略) 紀伊守伴宿禰龍男、国造紀宿禰高継と愜からず」とある。『(紀伊)国造次第』によれば、豊成は第 32 代であり、その弟の高継は第 33 代である。本居内遠公は豊成を「嵯峨・淳和頃」と見做す(本居内 遠 1 9 2 7 : 7 8 )。

    従 っ て 、 大 師 が 弘 仁 八 年 ( 8 1 7 ) の 秋 月 に 面 会 し た は ず の 紀 国 造 は 豊 成 で あ っ た だ ろ う 。
  • 秦氏の祖先はおそらく、九州の筑前(那ノ津、今の博多)から入ったであろう。『隋書』倭国伝にいわれる「秦王国」(豊前(今の福岡県南部から大分県にまたがる地域)が有力)は最初に秦氏が定住していた地にちがいない。そこにはまた、中央構造線に沿うかたちで水銀の鉱脈が走っていて、同じ頃丹生氏も肥前からこの地に移住してきていたといわれている。
     この「秦王国」にはまた、後述する八幡神や弥勒や虚空蔵の信仰など、新羅に発する諸信仰の事蹟がある。

     その後、秦氏の一団は、四国の伊予・讃岐、中国の長門・周防・安芸・備前・播磨・摂津を経て畿内に入り、河内から山背(山城)に至って太秦に本拠を構え、さらに北陸の越前・越中や東海の尾張・伊勢・美濃、そして東国の上野・下野から出羽にまで進出した。
     そのうち讃岐では、空海の出自である佐伯氏領する多度郡真野(まんの)の東方の中讃地域に居住した。この地は、空海の時代にはすでに水田開発に条里制が採り入れられていた。これもヤマト王権の時代この地に定着した秦氏の農業技術がもたらしたものであろう。讃岐平野は秦氏の潅漑技術、とりわけ農業用水を池に溜め、それを広く田畑に引きまわす農業土木術の恵みで古くから潤った。讃岐佐伯氏の本家筋にあたる佐伯直のいた播磨にも同様の水田開発がみられる。赤穂では製塩や船運が秦氏によってはじめられたという。

     この讃岐の秦氏からは、空海の弟子で太秦広隆寺の中興となった道昌や、東寺の長者や仁和寺の別当などを歴任し空海のために弘法大師の号を奏上した観賢が出ている(観賢は大伴氏という説もある)。


    空海の母は、実家跡といわれる今の多度津町仏母院近くの八幡社に子宝授与を祈願して空海を身篭ったという(仏母院に伝わる空海誕生伝説)。この八幡社は、多度津町の海べりに鎮座し応神天皇と神功皇后・比売神を祀る熊手八幡宮の分社で、熊手八幡宮はおそらくこの地一帯の秦氏の産土神(うぶすなかみ)であった。秦氏の奉ずる八幡神(やはたのかみ)は、後に弓矢神すなわち武神・軍神となったが、その原初は銅や鉄を産する神だった。民俗学者柳田国男はこれを鍛冶の神と言ったが、熊手八幡宮の八幡神は秦氏の治めるこの土地の(領有の)神であるとともにお産の神(産神)であったと思われる。八幡宮はみな応神天皇を主祭神とし神功皇后(応神天皇の后)と比売神(ひめかみ、主祭神の娘等)をともに祀るのだが、神功皇后が応神天皇の母であることから母子神ともいわれる。
  • 養蚕の神としての虚空蔵菩薩であるが、蚕の糞を蚕糞(こくそ)といい、虚空蔵と語呂合わせができることと、蚕は幼虫→繭→蛾と死と再生(擬死再生)を三度くりかえすので(不老不死の)常世虫といい、それが常世の神(蚕神(かいこがみ))として信仰されたことから、養蚕や絹織物に励む秦氏の民にとって、蚕(常世虫)と常世の神(蚕神)と虚空蔵菩薩は一体となったのである。
     豊前「秦王国」の香春郡には桑原という地域があり、秦氏が勢力を伸ばした大隈国にも桑原郡という郡名がある。蚕用の桑の木が一面に生い茂っている様を思い起こさせる。

     また、漆工職の祖神としての虚空蔵菩薩であるが、漆工職が使う木屎(こくそ、木粉を漆に混ぜたもの)と語呂合わせができ、漆工職人とくに木地師の間では護持仏として虚空蔵菩薩が敬われている。
     『以呂波字類抄』という古文献の「本朝事始」の項に、倭武皇子(やまとたけるのみこ)が宇陀の阿貴山で漆の木をみつけ、漆を管理する官吏を置いたという記述があり、また倭武皇子が宇陀の山にきて木の枝を折ったところ手が黒く染まり、その木の汁を家来たちに集めさせ持参の品に塗ったところ美しく黒光りした。そこで漆の木が自生している宇陀郡曽爾郷(今の宇陀市曽爾村)に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」を置いたという。これが日本最初の漆塗の伝えである。
     宇陀の地には紀伊に入った秦氏が古くから移り住んでいた。右の伝承の「漆部」(ぬりべ)とは漆器製作の職掌の品部であり漆部連(ぬりべのむらじ)や漆部造(ぬりべのみやつこ)が伴造(とものみやつこ)として支配した。伴造の主なものは渡来系氏族があるが、この宇陀の地では秦氏以外に考えられない。

     京都嵯峨(嵐山)に行基が建立した葛井寺(ふじいでら)に、貞観16年(874)、虚空蔵菩薩を祀って寺を再興し、寺名を法輪寺に改めたのは讃岐国香川郡の秦氏を出自とする道昌であった。道昌は空海の同郷の弟子である。法輪寺のある一帯は、ほど近い太秦を本拠地とする秦氏の勢力圏であった。道昌は、秦氏が5世紀後半に桂川に築造した葛野大堰の後を受けて承和年間に大堰川の堤防を改修し、承和3年(836)には太秦広隆寺の別当となっている。爾来、法輪寺は漆寺といわれるようになり、漆工職の信仰を集めることになった。

  • 千光寺 (和歌山県田辺市上秋津平野)
    神護景雲3年、和気公が愛育した鷹が死に、その弔いのために紀伊の高尾山中腹に建立したのが当寺と伝えられ、後に山麓に移った。
    本堂内には本尊の傍らに大きい木彫の公の立像と位牌があり、柱に「我独慙天地」の木札が掲げられている。
    なお、縁起として百合若大臣説もある
  • December 2018 編集されました
    和気氏は本姓を磐梨別公(いわなしわけのきみ)と言い 鉱産氏族の伝承を持っている。
    磐梨の磐は、古代人が鉄は磐のように堅いと考え、鉄の代名詞になったという記載がある
    石を別ける 仕分けし 熱し 鉄を造る・・・古代のモノ
    (現在の 岡山県東部から 播磨風土記では赤穂から佐用 姫路付近 出自のモノ)
    (この辺りにも渡来人の秦氏系が多く住む)

    和気氏に関して日本書紀は、鐸石別命(ヌデシワケ)が垂仁天皇と渟葉田瓊入姫との間に生まれた皇子の一人であるとしか記録していませんが、古事記は垂仁后妃を詳しく述べた段において皇子の名前は鐸石別命ではなく「沼帯別命(ヌタラシワケ)」であり伊賀帯日子命と兄弟であるとした上で、和気氏の先祖は垂仁帝と氷羽州比売命(日葉酢姫命)の子供、大中津日子命だとする分註を載せています。それによれば同皇子は、

      山邊の別、三枝の別、稲木の別、阿太の別、尾張国の三野の別、吉備の石无の別、許呂母の別、牟禮の別、飛鳥の君

    など多くの氏族の祖先であるとされており、全国各地に同祖関係を主張する勢力が広く存在していたことを窺わせます。以上三つの資料からは、応神親子の「大和入り」の際に「吉備」を地盤としていた和気氏の先祖が、「武力」を以って大いに協力した事実を背景とした伝承が広く知られていたと思われますが「鉄(まがね)」を初めて朝廷に提供したのが孝徳帝(596~654)の御世だったと云うのは時期的に見て少し遅すぎると思われ、応神天皇が実力で大王位を手中にした四世紀末頃には鉱物資源の発掘や鍛冶の技術に長けた「別部」を配下に従えた和気氏が存在感を増していたのだと推測されます。この頁の冒頭で紹介した清麻呂の「貶めた」姓名そのものが、和気氏族の特徴を如実に現したものであったことが良く分かりますが、歴史上語り継がれてきた著名な「犬」は他にも居ます。それが弘法大師・空海にまつわる逸話なのです。
  • 真言密教の奥義を唐の長安で学び会得した空海は、帰国を前にして大陸から日本に向け『仏の教えを広める目的に最も適う地に落ちよ』と念じながら三鈷杵と呼ばれる法具を投げたとされ、帰朝後彼はその場所探しのため大和国宇智郡の山中を探索していましたが、二頭の犬を連れた屈強な猟師に遭遇します。「南山の犬飼」と名乗ったその猟師が『法師が何故このような山深い所におられるのか?』と尋ねたので空海が訳を話すと、彼は『その場所を知っている』と言い道案内を申し出ます、探し物は更に別の「山人」の同行の結果、一本の檜の枝に突き刺さった状態で発見することができたと「今昔物語集」(巻十一)は伝えています。時に弘仁七年六月頃の出来事でした。そして猟師姿で現れた人物が狩場明神、もう一人の山人が丹生明神だと云うのですが、高野山には別に「三鈷の松」と呼ばれる樹木もあるなど、神仏混淆の奇跡譚がどれほどの真実を伝えているのかは不明と言わざるを得ません。しかし、山野を棲家として人跡未踏の地を切り開く「山人」たちにとって「犬」が忠実な僕であり探索能力に秀でた有難い存在であったように、人里はなれた一見不毛の山林原野の只中に、半ば無尽蔵に自然が隠蔽した鉱物資源を探し出す得意な才能を持った者たちも又、権力を持つ有力者たちの「犬」的な配下として珍重されていたことだけは確かなようです。

    さて、正史が垂仁天皇の後裔であるとする和気氏の祖先を祀ったものではないかと思しい社が河内国に今も残されています。「河内名所図会」や神社縁起によれば江戸期には「鐸石比古神」一柱だけをお祭していたようなのですが、現在は高尾山の中腹にあって鐸比古鐸比売神社と称している式内社がそれで、祭神を鐸石別命とする神社は全国でも珍しく、同社以外では岡山の和気神社があるのみです。ただ筆者には、この社の祭神について一つの仮説があります。と云うのも、古代において河内国で大きな勢力を持っていた凡河内国造の存在を抜きにしては河内の製鉄鍛冶文化は語れないと考えられますから、直ぐ近くに在った「大県遺跡」の管理者という面も合わせて考えるなら、天津彦根命の系譜に名前が記される彦己曾根命こそ、この河内大県で製鉄神として祀られるに相応しい人物だと言えるでしょう。凡河内国造は安閑朝において大王の意向に副わなかった者として「良くない貴族」の象徴のように正史で描かれていますが、若しかすると「別部の犬」が七世紀に「初めて吉備の鉄」を献上したという伝承は、継体--宣化and安閑--敏達--忍坂彦人大兄--舒明(息長足日広額天皇)・・・孝徳(軽皇子)と続いた所謂「息長」系大王たちの治世下において、旧来の産鉄事業の管理者に代わって和気氏などの新しい勢力が畿内で台頭した事情を物語っているのかも知れません。
  • 黄金の献上で天皇の信頼をますます篤いものとした百済王・敬福は従三位(じゅさんみ)を授けられ、宮内卿兼河内守という要職に任じられました。(従三位という位がどれほどスゴイかと言うと、皆さんも良くご存知の、あの黄門様・水戸光圀(みと・みつくに,1628~1700,と同格なのですよ)その百済王の一族が祭られている神社が現在、大阪府枚方市にある百済王神社で、祭神は二柱。誰だと思います?そう、一人目は勿論ご先祖様である百済王神ですが、問題は2人目として祭られているカミサマの方です。なんと、百済王と並んでいるのは、応神でも神功でもない須佐之男命なのです。

    わが国の製鉄のながれを整理しよう。

    ①褐鉄鉱を採取して製鉄を行う。(弥生時代)・・・鉄鐸、銅鐸神事と関連あり
    *褐鉄鉱の団塊(スズ)はそのまま或は粉砕して、露天で製鉄することができた。
      ただし、砂鉄の磁鉄鉱 に比べ品位は低く生産量も少ない。
    ②砂鉄(磁鉄鉱)を採取して鉄器の生産
    ■金穴流し
     *砂鉄による製錬は、まず鉄砂を含む山を選ぶことから始まった。この鉄砂を含む山
    を「鉄穴山・神山」とい い、砂鉄をとる作業を「鉄穴流し」といい、そこで働く人々
    を「鉄穴師・かなじ」と呼ぶ。
    鉄穴師は砂鉄分の多い削りやすい崖を選んで山から水をひき、崖を切り崩して土砂を水
    流によって押し流し、砂鉄を含んだ濁水は流し去り、重い鉄砂は沈むからこれを採って
    タタラ炉に入れて製錬する。
    *水田が「金穴流し」によって荒らされ、製鉄の民と農耕民の利害が衝突するのは、職
    業の分化が生じ、完成した水田に土砂が流れ込むことによるもので、当初農耕の民が自
    ら製鉄を行った段階では、「金穴流し」  はそのまま国づくりとなった。=オオナム

     オオナムチの神を「天の造らしし大神」とするゆえんである。→倭鍛治
    ③4世紀後半より5世紀にかけて、帰化系技術者(韓鍛治)の渡来による技術革新と職
    業の分化によって、製鉄に専従する部民と、それを管掌する氏族をも生じる。
    * 古墳時代にはヤマトが大陸より多量の「鉄」を手に入れた。(⇒近つ飛鳥資料館①
    参照)
    *わが国の露天タタラでできる鉄の量(質)では多くの鉄製品を作ることができないが
    、半島から鉄素材を手に入れることにより、鉄製品の製造(農工具、・武具)が飛躍的
    に発達し、大和王権が成立することになった。
    *オオナムチとアメノヒボコの争い=古いヤマトの勢力 対 外来文化を担った新しい
    進歩的勢力
    ④やがて律令制の施行とともに特定氏族の管掌した製鉄の部民は収公される事になり、
    それととも に製鉄一般の神として、金山彦が構想され、「鉄穴」から発想されたオオ
    ナムチの神の製鉄に関与したかっての性格は忘れ去られた。
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