伊曽乃神社、和気氏、武国凝別命

December 2018 編集されました カテゴリ: 讃岐・阿波・伊予
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伊曽乃神社(いそのじんじゃ) 愛媛県西条市中野に鎮座する神社である。「磯野」と表記されることもある(『三代実録…

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コメント

  • 有名な「倭建」の皇子「十城別」から「伊予別」が発生し、伊予国の和気氏はこの流れである。「武国凝別命」からは「御村別君」が派生している。別子銅山はこの流れが開発したとされている。
    他に「別君氏」がおり、この流れは途中「因支首」姓を名乗るが、和気公姓となり、「和気公宅成」と空海の妹または姪と言われる娘との間に「円珍僧都(智証大師)」という名僧を輩出した。円珍は唐に渡った後、延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、寺門派の拠点とした。円珍の祖父「道善(別名:道麿)」は、四国88ケ所真言霊場76番「金蔵寺」の開基者である。その弟とされる「道隆」は、同77番札所「道隆寺」の開基者である。
    空海と讃岐和気氏の深い関係が窺える。
    「神櫛命」の流れは「讃岐国造」となり、桓武天皇時代に讃岐公となり「従五位下・讃岐公永直(783-862)」という人物は、中央で活躍し、820年代に有名な「令義解」を編纂したとされている。その子供らの世代864年には、和気朝臣姓となったとされる。この流れは後世武士「寒川氏」「十河氏」などを輩出したとされる。
  • 武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)は、記紀などに伝える古墳時代の皇族。武国凝別皇子。景行天皇の第12皇子。母は阿倍氏木事の女・高田媛。伊予国平定のために派遣され、神野郡(後の新居郡、現在の愛媛県新居浜市・西条市他)に拠点を置いたと伝える。子孫も地方各地へ広がり、「別」の子孫が治めたということから別子という地名が生まれた。その御霊は拠点地付近に建立された伊曽乃神社に代々篤く奉られている。西条市朔日市に鎮座する風伯神社はその当時、命が海上守護のために、龍田の神(風神)を奉祀したことによると伝えられている(龍田神社は、のちの官幣大社であり朝廷の崇敬も深かった)。なお、飯積神社のご祭神のうちの一柱、十城別王は武国凝別命の御孫である(『和気系図』)。また、円珍(智証大師)の自筆である『円珍俗姓系図』(承和年間、園城寺蔵、国宝)は、「景行天皇─武国凝別皇子」に始まる竪系図として貴重であるが、それによれば、後裔氏族として御村別(みむらわけ、伊曽乃神社社家)・因支首(いなきのおびと)・和気公(わけのきみ)などが伝えられ、円珍自身も和気公の一族であった(俗名を和気公広雄)ことが知られる。
  • July 2017 編集されました
    讃岐の和気氏の道隆寺と空海
    天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。 そして、第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。 しかし、貞元年間(976年から978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返した

    佐伯 田公(さえき の たぎみ)は、奈良時代から平安時代初期ごろにかけての人物。姓は直。播磨国造の一族で、多度郡擬大領・佐伯男足の子とする系図がある。官職は多度郡少領
  • 76番札所「金倉寺」

    天台寺門宗の開祖「智証大師円珍」生誕の地といわれています。
    幕末から明治期に活躍した軍人「乃木希典」が、香川県の陸軍師団に赴任した際に宿舎としても使われていたお寺です。


    善通寺市街を通って約4kmの田園地帯のお寺へ

    お大師さま生誕の地である75番札所「善通寺」参拝後、「東院」の東側にある赤門をくぐって、「赤門筋」を東に進んでいきます。
    しばらく進むと、JR土讃線の線路があり、JR善通寺駅の近くから北方向に進路を変えると、このあたりの地域には田園住宅地が広がっていて、のどかな遍路道を歩きます。

    「善通寺」から約4kmほど進むと、次の77番札所「金倉寺」に到着です。
  • September 2018 編集されました
    讃岐(さぬき)(香川県)の和気氏 景行(けいこう)天皇皇子武国凝別(たけくにこりわけ)命の後裔(こうえい)と伝える皇別氏、公(きみ)姓。空海(くうかい)の甥(おい)円珍(えんちん)はこの氏の出身で、三井(みい)寺を開き寺門(じもん)派の祖となった。
    和気氏(円珍)系図とそれを傍証する讃岐国司解(さぬきのこくしのげ)でも知られる。

    793年清麻呂密奏して平安に遷都せんと願う。(日本後紀延暦18年記事)
    「長岡の新都、十載を経て未だ功成らず。費勝げて計うべからず。清麻呂潜かに奏して、上をして遊猟に託して、葛野の地を相せしめ、更に上都に遷す」

    以上のほかに
    (和泉(いずみ)(大阪府)の和気氏 倭建(やまとたける)命の後と称する皇別氏、公姓。別公(わけのきみ)も同系。
  • 春日神社(物部布留神社)
    南松尾村大字春木字冬堂 (はじめ物部末裔唐国氏の祖及び誉田別命)、天児屋根命・比売大神・武甕槌命・経津主命

    本地・北松尾村の全部・国分村大字和気・小田、古来松尾荘の総社、

    摂社に若宮八幡社(物部布留神社)、末社に稲荷神社(照姫神社)
  • 『播磨国風土記』の揖保郡の大田の里の条に

    「大田というのは、昔、呉の勝(すぐり)が韓国より渡来して来て、最初は紀伊の名草郡大田の村にいたが、その後枝分かれして摂津の三島の賀美郡大田の村に移ってきた。それが、今度は揖保郡の大田の村に移って来た。大田というのは元は紀伊の大田の地名が由来である」

     この記事は、摂津国三島の大田は呉の勝の子孫が開墾したものであると伝え
    ています。
     呉の勝は韓国から渡来して来たとあるから、この呉が中国の呉の国ではないことは明らかですが、そうすると、阿智王(阿知使主)もしくは身狭村主青がつれて来た呉の工女もやはり中国の呉ではなく朝鮮半島にあった可能性が高くなります。
     さらに、呉の勝(すぐり)とは個人のなまえではなく、呉から来た村主(すぐり)の
    こととも考えられます。
     それから、この記事では呉の勝は紀伊国名草郡に居住した、とありますが、名草郡は日前神宮(ひのくま神宮)の鎮座する地でもあります。大和の飛鳥の檜前(ひのくま)には阿智王がつれて来た七姓氏族のひとつ檜前氏がいましたが、
    このふたつの「ひのくま」にも何か関係があるのでしょうか。

    「伊予国風土記逸文」の一文です。

     「伊予の国の風土記に曰く、乎知(おち)の郡の御嶋(みしま)。坐す神の御名は大山積(おおやまつみ)の神、またの名を和多志(わたし)の大神なり。この神は、仁徳天皇の御世にあらわれ、百済の国より渡り来まして、津の国の御嶋に坐しき。この地を御嶋というのは津の国の御嶋からきたものである」
    (愛媛県今治市大三島の大山祇神社の祭神は大山祇神、またの名を和多志大神である。この神は仁徳天皇の時代に百済からやって来られて摂津国三島に鎮座された。この伊予の三島は摂津国の三島から来た地名である)

     大山積神が渡来系の神とは考えにくいので、おそらく摂津国三島の帰化人が伊予に移って来て、その時に大山積神の信仰を持ちこんだものと思われます。
  • 石清水八幡神社(いわしみずはちまんじんじゃ)は愛媛県今治市玉川町にある神社。八幡山の山頂に鎮座している
    貞観元年(859年)河野深躬が勝岡[2]に勧請し、勝岡八幡宮と称した。永承年中(1046年から1052年)伊予守源頼義は荒廃していたのを見て河野親経と共に社地を八幡山に移し、山城国男山八幡宮の社殿に擬して建立し、石清水八幡宮と称し、その時期に伊予に建立した8箇所の八幡宮でも随一で、伊予一社八幡宮であった。
  • September 2018 編集されました
    延喜式神名帳・摂津国東生郡四座のうち『阿遅速雄神社』(アヂハヤオ・在放出村水剱)とある式内社。

    JR学研都市線・放出(ハナテン)駅の東約150m、東西に走る駅前通りから北へ入った所に鎮座する。
    アヂスキタカヒコネの鎮座由緒
     神社由緒によれば、
     「アヂスキタカヒコネは、当地へ降臨して土地を拓き耕耘の業を授け、父・オオクニヌシの神業を助けられた。郷民は、その神徳を慕って、摂津・河内の国造神(クニツクリのカミ)として、神が坐した此の地の守護神として齋き祀ったと伝える。・・・
     この宮を阿遅速雄神社と称すめが、古くは阿遅経宮(アジフのミヤ)または浦明神と称され、のち八剣大明神(ヤツルギ ダイミョウジン)と尊称した」(大意)
    とある。土地を拓き云々とは、父神・オオクニヌシの国土造営神という神格をひきついだものであろう。
     別伝によれば、当社付近は、高鴨神社から発した葛城川が大和川と合流して旧河内潟湖に注ぐ合流点で、そこに港を開いたアヂハヤオ一族が、川辺の高台に祖神(父)を祀ったのが当社のはじまりともいう

    境内の北側に小さい池・『菖蒲神池』がある。神社由緒によれば、
     「仁徳天皇が病にかかられたとき、アヂスキタカヒコネが夢枕に立ち、『皇居の東方にある神池の菖蒲を供えて祀れ。そうすれば必ず御病は治癒するであろう』との神託があり、神池の菖蒲を祀ったところ、忽ちに平癒された。これを由縁として、古来より菖蒲刈祭は本社の特殊祭典として伝わっている。神前に供えられた菖蒲は下げたあと氏子・崇敬者に頌ち授けられ、氏子はそれを出入り口の屋根に病魔除けとして祀っている。
     菖蒲は霊験あらたかな邪気払い・病魔除けとして端午節句に広く各戸の屋根の上に祀り、無病息災を祈る風習の発祥は菖蒲神池である」(大意)
    とある。
  • 丹生祝氏文によると
    1.丹生祝氏の祖に血速魂命の名が見え、これは中臣氏租の津速魂命のことで、天児屋根命は三世孫となっています。
    2.また豊耳命の名が出てきます。紀国造の系譜につらなります。
    3.さて狩場明神とされる犬甘藏吉は阿智使主と共に来朝し後に備前国三野国から天野に入ったようです。

     倉敷の阿智神社は、宗像三神を祭神とし、神功皇后に由緒を求めており、阿知使主は地名のゆわれとしています。また鎮座地は備中であり備前ではありません。隣接しているとは言えます。
  • 古代豪族系図集覧によりますと、以下のように出ています。

    八意志兼命 ━━ 天表春命 ━━━ 阿豆佐美命 ━━ 加彌夜須命 ━┓
    (天児屋根命?)                          ┃
           ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
           ┗ 伊豆氏命 ━━━ 阿智別命 ━━━ 阿智山祇命 ━┓
           ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
           ┣ 味見命 [秩父国造祖]
           ┗ 味津彦命[信濃阿智祝祖]
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