建許呂命、岩城国造、天津彦根命

April 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image建許呂命、岩城国造、天津彦根命

天津彦根命の十四世孫。成務天皇の時、石城國造となった。 また、建許呂命の六人の子も各国の国造となった。 意富鷲…

Read the full story here


コメント

  • 武蔵・海上・新治などの諸国造の系統は、天夷鳥命の子の伊佐我命(出雲国造の祖)の弟・出雲建子命(伊勢都彦)の後とされており、神狭命-身狭耳命-五十根彦命……と続くとされます。

    しかし、崇神朝に比古曽乃凝命(伊甚・安房国造の祖。高国造もこの流れという系譜あり)、忍立化多比命(武蔵・海上・相模国造の祖)、比奈良珠命(新治国造の祖)に分れたとされます。石城国造(高国造)の祖となる磐城彦は、崇神前代までにこの流れと分かれたとみられますが、天目一箇命と磐城彦との間の世代の者の名前がまったく一致せず、両系統の関係は不明です。

     また、天目一箇命の子の意富伊我都命(三上祝・凡河内国造など三上氏族の祖)の系統でも、崇神朝の筑箪命の後が筑波・茨城などの諸国造となっております。
     ところで、天夷鳥命は一般に天穂日命の子とされますが、実態は天津彦根命の子の天目一箇命(天御影命、櫛明玉命)と合致するとみられます。また、その子の伊佐我命については、櫛八玉命の別名をもち、その弟とされる出雲建子命が櫛玉命の別名をもつとされますから、櫛八玉命と櫛玉命とは所伝通りの兄弟なのか同人なのかも判断がつきにくいところです。さらに、出雲建子命は玉作部の祖の天湯津彦との関係も不明で、同人の可能性があります。
  • 建許呂命

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    『姓氏録』によれば、天津彦根命の14世の子孫にあたり、中央氏族の三枝部連と庵智造(以上大和国神別)、高市県主(和泉国神別)の祖とされる。

    地方にあっては『常陸風土記』に茨城国造(後の常陸国茨城郡にあたる国の国造、現茨城県中部。以下これに准う)の祖で、神功皇后の朝廷に仕え、その子供が8人いたとされ(茨城郡条)、『旧事紀(国造本紀)』でも茨城国造の祖で、成務天皇の時代に初めて石城国造(陸奥国石城郡。現福島県いわき市)に任じられたとある。

    また『国造本紀』では、その子供が成務天皇の時代にそれぞれ

    師長国造(相模国西部。現神奈川県西部)
    須恵国造(上総国周淮郡。現千葉県南西部)
    馬来田国造(同国望陀郡。現千葉県南西部)
    石背国造(陸奥国石背郡。現福島県岩瀬郡)
    に任じられ、また、応神天皇の時代に別の子供が

    茨城国造
    道口岐閇国造(常陸国北端。現茨城県北端)
    道奥菊多国造(陸奥国菊多郡。現福島県いわき市)
    に任じられている。


  • July 2017 編集されました
    凡河内氏

    天津彦根命の子孫に当り「天津彦根命--天御影命--意富伊賀都命--彦己曾根命(凡河内国造)・・・香賜--味張」という系譜を伝えている一族で、近江の御上神社の祝である三上氏(山背国造)とは同族になります。
    天孫族の始祖とも言うべきスサノオたちを祀るには最適の人選だったとも言える訳ですが、同社に婿入りした阿曽(アソ)氏との関わりも見逃せません。と云うのも、近隣の白国という土地に建つ白国神社が、安産と「白幣」を主題にした伝承を持っているからです。同社の栞によれば由来は、

    景行天皇の皇子(稲背入彦命)が、大和から当地(白國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産のおり大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に、安産を祈願されたところ、木花咲耶媛(コノハナサクヤヒメ、神吾田津日売命の別名)が忽然と現れ願いを聞き届けてくれ、子供も無事に産まれたので阿曽氏が氏神として当地に社を建てたというものです。
    コノハナサクヤ姫はオオヤマツミの娘で、天孫降臨したアマテラスの孫・ニニギノミコトの妻で「一夜で身ごもった」事を夫に疑われたことに発奮、産屋に火を放ち「火中」で見事に三人の男の子を生んだ女傑なので、皇統の原点を支えた重要人物の一人だと言えます。この「火」の中で子供を産む話は、垂仁天皇と狭穂姫との息子・ホムツワケと同趣旨であり、このサイトで何度か取り上げたように「ホムツワケ」と名付けられた皇子が将来「大王」の位を継ぎ天下に君臨する事を暗示した物語ですから、ここでは「稲背入彦命」の子孫が皇統を継いだと暗喩していることになります。先代旧事本紀の「国造本紀」が、

    成務天皇の時、景行天皇の皇子、稲背入彦命の孫である伊許自別命を針間国造に任じた          
    (註:稲背入彦命は垂仁天皇の娘婿だったと考えられています)

    と記載し「新撰姓氏録」(右京皇別)が、

      稲背入彦命の後、御諸別が針間別の祖である。阿良都別またの名・伊許自別命が針間佐伯直の祖である

    と記録し、更には「播磨風土記」が『応神朝に阿我乃古が播磨国神埼郡多陀の里を賜り、佐伯直の祖となった』と伝えている

    奈良大安寺(真言宗)の行教和尚が宇佐八幡宮に参籠し熱い祈祷を捧げた結果、八幡大神(応神天皇)から『吾れ、都近くの男山に移坐して国家を鎮護せん』との有り難い託宣を得たのが貞観元年(859)、石清水の真新しい社殿に大神の分霊が遷座したのは翌二年のことだと記録されています。

    「先代旧事本紀」(天皇本紀)iに見えている景行天皇の皇子を称する「息前彦人大兄皇子・菴智白幣造の祖」です。同じ、景行皇子の「日向蘇津彦命」は「菴智君の祖」とも記載されていることから、九州に故地を持つ一族かと推測されますが、その一方で「古事記」がスサノオとアマテラスの「誓約」段の中で、天津日子根命が、

    凡川内国造、額田部湯坐連、茨木国造、倭田中直、山代国造、倭淹知造、蒲生稲木、三枝部造などの祖

    であると記録していますから、各氏のいずれもが天津彦根命と同族関係にあるという伝承、系譜を持っていた、つまり天孫族だったと解釈して良いのかも知れません。

    中田憲信が集めた古代氏族に関わる系図『東国諸国造』(「諸系譜」第一冊)によれば、菴智造の祖を筑波使主命(茨城国造)の孫・己呂毛だと位置付けています。この人物は額田部連の祖である美呂浪足尼の兄弟で、高市縣主の祖先でもあるので、やはり天津彦根命の後裔であることは間違いなさそうです。それだけ同神の子孫が祭祀に相応しい存在であるという認識が広く浸透していた証なのかも知れません。
  • 高市御県神社
     四条町の北部、今井町との境に鎮座。祭神は 高市県主の祖天津彦根命と高皇産霊神。近世に 苔の宮・高県(こけ)の宮・高木(こうき)の宮と称したことから、 「延喜式」神名帳高市郡の「高市御県神社名神大、月次新嘗」 に治定。高市御県神社は大和六処御県神社 の一で(「延喜式」月次祭祝詞)、御県は朝廷直轄領 にあたる。大同元年(八〇六)に神封二戸があて られ(新抄格勅符抄)、天安三年(八五九)一月二七 日、従五位下より従五位上に昇叙(三代実録)、 「延喜式」神名帳によると御県の神のなかで唯一 名神祭にもあずかった。高市県については「古 事記」神代巻に「天津日子根命者高市県主等之祖 也」とあり、「日本書紀」天武天皇元年(六七二)七 月条に「高市県主許梅(こめ)」の名がみえる。所在は明 確ではないが、現曾我町字宮毛説が有力で、現 橿原市の西部地域に推定されたいる。「延喜式」 神名帳高市郡には高市御県坐鴨事代主神社 (現橿原市雲梯町の河俣神社に比定)の名がみえる。 文政二年(一八二九)津田長道の著した「卯花日 記」には、「今井里人高木氏は、世々四条村の人 にして、今は今井に家居す。此家にむかしより 此社の事つかさどる事になりて、別に神主もな ければ、此家より神供灯明のことを物しける。 高木の宮と云也といへり」という記述がある
  • 『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみのげん)が建てられた。元正天皇の離宮(珍努宮(ちぬのみや)、茅渟宮(ちぬのみや)、和泉宮とも)がこの地に造営されたことが、国司ではない監という特別な官司の設置の理由であると見られる[。国と異なる特別な機関だが、この時期のものとされる木簡に、「和泉国和泉」(郡)とあるものが見え、領域名称としては、この当時から「和泉国」と呼ばれることがあったようである。

    その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置された。『日本紀略』によれば、天長2年(825年)3月30日、摂津国から東生・西生・百済・住吉の4郡を和泉国に編入しようとしたが、地元の反対があったため、同年閏7月21日に取り止めとなった。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。