高尾山、鐸比古命、和気氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 吉備
image高尾山、鐸比古命、和気氏

鐸比古鐸比賣神社は柏原市大県郡の氏神で、背後にそびえる高尾山を神南備としています。もともとは鐸比古神社は高尾山…

Read the full story here


タグ付けされた:

コメント

  • 天皇の子・神櫛別命の孫須売保礼命が応神朝に讃岐国造を賜うに始まる。

    敏達朝に凡直姓を賜姓、延暦10年(791)讃岐公に改賜姓、承和3年(836)讃岐朝臣に改賜姓。
    更に嫡流は本貫を京都に移して、貞観6年(864)に和気朝臣に改賜姓。


    『続日本後紀』承和3年(836年)3月19日条によると、後裔を称する讃岐国寒川郡の讃岐公永直・讃岐公永成らが朝臣姓を賜り、右京三条二坊に貫付されている(姓:讃岐公→讃岐朝臣、本拠:讃岐国→平安京右京)。

    また『日本三代実録』貞観6年(864年)8月17日条によると、同じく後裔を称する右京の讃岐朝臣高作・讃岐朝臣時雄・讃岐朝臣時人らが「和気朝臣」姓を賜っている(姓:讃岐朝臣→和気朝臣)。
  • 後裔氏族として御村別(みむらわけ、伊曽乃神社社家)・因支首(いなきのおびと)・和気公(わけのきみ)などが伝えられ、円珍自身も和気公の一族であった(俗名を和気公広雄)ことが知られる。


    9世紀前半には律令の研究が興隆した時期であり、讃岐永直・興原敏久・額田今足・惟宗直本など多くの優れた明法家が輩出され、讃岐氏(後に和気氏)・惟宗氏(後に令宗氏)のように数代にわたって明法博士を輩出した一族もあった。
  • 空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。

    神護寺は、いずれも和気氏の私寺であったと思われる「神願寺」と「高雄山寺」という2つの寺院が天長元年(824年)に事実上合併してできた寺である。

    「本系図」は、現存する日本の古系図としては、同じく国宝である『円珍俗姓系図』(「智証大師関係文書典籍」の1つで、「和気氏系図」とも呼ばれる)に次ぐものである。
  • 吉井川が良く見渡せる千躰猿喰地区にある5世紀
    頃の前方後円墳・武宮古墳に初代の和気氏を葬り、前方 10m 位下に9世紀頃造られた和気一族 21 人を祭った武宮宿禰神 社(タケミヤのスクネ神社)ある。
    西暦 4 世紀後半から 7 世紀後半迄、約 300 年間に和気氏が 何代続いたかは解らないが、武宮古墳から南約 200m に明神 山古墳群が、100m 先へ明神山遺跡、200m 西に矢部古墳群が ある。
    また、武宮古墳から 100m 東に大谷山古墳があるが、墳上 には石室が二つ並んで設けられており、地元では清麿と広虫の墓室と云われている。そして、南 100m 上の大谷山頂上にも古墳とされている所があり、清麿の父が葬られているとも言われている。古墳から 吉井川の東を見ると和気の宿場町が見え、西を見ると下流の万富地区が、良く望む事が出来る重要な場 所である。
  •  現在の松山市の北西部に当たる伊予国和気郡は、伊予別(いよわけ)や御村別(みむらわけ)を称する人たちの居住地であった。伊予別は吉備穴戸武媛(きびあなとたけるひめ)の第二子なる十城別(とおきわけ)の末裔、御村別は景行天皇の皇子武国凝別(たけくにこりわけ)の末裔を称する氏族である。
     ところが、栗田寛氏(新撰姓氏録註解)は、伊予別は、吉備穴戸武媛の第一子で讃岐綾君の祖である建貝児(たけかいこ)王(武卵王)の末裔に他ならない事を論証しており、また、佐伯有清氏(日本古代の政治と社会)は、御村別は伊予別と同宗であると云う。
    と云うことは、伊予国和気郡の勢力は、吉備穴戸武媛を祖とするものだと云うことになる。

     讃岐国阿野郡に進出して、讃岐綾君と称する氏族を培った吉備下道氏の勢力は、やがて、海の道を通って伊予国の中央部に到って、熟田津(にぎたづ)の比定地である三津浜の辺りに上陸して、そこに子孫たちを残した。
    彼らは自らを伊予別・御村別と称したが、やがて、その名を単に「ワケ」と称するようになり、「和気」と書くようになる。そして、和名抄に「和気郡」なるものが記されるようになる。

     いま、和気郡と云われる地域には有力な古墳は少ない。せいぜい30米級までの小型の古墳しかない。
     これは、その周辺の越智郡、風速郡、久米郡どに、古くは四世紀後半にまで遡る50~80米級の古墳があるのと較べて特徴的である。これは、彼らが歴史的に後から伊予の地に割り込んだ、伊予では新しい後発の勢力であったことと、主に、熟田津の港湾を抑えることで勢力を築いたので、陸上については、どちらかと云うと弱体で遇ったからではなかろうかと考えられる。
  • 和気臣は垂仁帝と妃・渟葉田瓊入媛の子、鐸石別命(ぬでしわけ)を遠祖に持つ旧家で、元の姓を「磐梨別(石生別、いわなしわけ)」と称していた氏族です。つまり備前の和気、磐梨、赤坂などを地盤に持つ地方豪族だった

    石上布都神社が建つ旧赤坂郡石上村は正に清麻呂の地元と言って差し支えありません。また「新撰姓氏録」は、

      神功皇后征伐新羅凱帰。明年車駕還都。于時忍熊別皇子等。窃搆逆謀。於明石堺。備兵待之。皇后鑑識。遣弟彦王於針間吉備堺。造関防之。所謂和気関是也。太平之後。
      録従駕勲。酬以封地。仍被吉備磐梨県。始家之焉。光仁天皇宝亀五年。改賜和気朝臣姓也

    と「故事」を語り、和爾氏と同じ様に神功・応神親子の大和凱旋に「勲(功)」が認められ磐梨県を領することになったのだと主張しています。

  •   五十瓊敷命、茅渟の菟砥川上宮に居しまして、剱一千口を作る。(中略)石上神宮に蔵む。この後に、五十瓊敷命に命せて石上神宮の神宝を主らしむ。

    とあり、更に八十七年春二月条に『而して遂に大中姫命(五十瓊敷入彦の妹、母親は皇后日葉酢姫)、物部十千根大連に(神宝の管理を)授けた』と記録していますから、旧事本紀の著者にしてみれば「神宮の祭祀と神宝の管理を大王家から初めに任されたのが物部である」という自負があり、それが上の文脈となって表出したと想像できます。また、隅田鏡にある銘文の文言も、五十瓊敷入彦命が「剱一千口」を初め「忍坂邑」に蔵め、後、石上神宮に移して管理したとの伝承を当然意識した内容になっていると思われます。ただ、石上神宮の性質が複雑で中々一筋縄では解釈しにくいのは「新撰姓氏録」(大和国、皇別)に次のような氏族が載せられているからです。

      布留宿禰 柿本朝臣と同祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。(中略)大鷦鷯天皇の御世、倭に至り、布都努斯神社を石上布瑠村高庭の地に賀い賜う。
      男市川臣を以て神主とす。四世孫額田臣、武蔵臣、斉明天皇の御世、蘇我蝦夷大臣、武蔵臣物部首並びに神主首と号う。
  • 吉備も倭

    大鷦鷯天皇の御世、倭に至り、布都努斯神社を石上布瑠村高庭の地に賀い賜う
  • 『新撰姓氏録』大和国皇別の布留宿禰条には、米餅搗大使主の孫の市川臣が、仁徳朝に布都努斯神を大和国の石上の布瑠高庭の地へ持ち込み、祀ったことが見えます。
    どこから、ということが問題になりますが、やはりこの神社からというのが妥当ではないでしょうか。
    姓氏録の所伝は、石上神宮に布都御魂神・布瑠御魂神とともに祀られる布都斯魂神の鎮座伝承であり、また和珥氏族布留宿禰(物部首)の祖先伝承でもあります。
    一書に載せる異伝とはいえ日本書紀が「今(書紀編纂時?)」も剣が吉備にあるとすることと合わせて、断蛇の剣と石上布都之魂神社の存在は、強い影響力と知名度を持っていたといえそうです。
  • 空海の高雄山寺入山
    勤操が、空海の異能をよく知り清麻呂の娘を妻にもつ葛野麻呂を動かした。
    葛野麻呂はこの時期、中納言になり、正三位にも上り、天皇の近臣の地位にあった実力者である。空海が正統密教の第八祖となり短時日で帰国したことに驚きながらも、無事に帰ったことを誰よりも喜んだのはかれだったにちがいない。唐土の福州に上陸する際に、かれの窮地を救ったのは空海であった。かれは、真綱(まづな)など和気氏の義弟たちに空海の文章と唐語の異能を熱く語って聞かせ、最澄に代って高雄山寺に迎えるべきであり、空海を外護することで和気氏一門が南都の仏教勢力とも融和できるであろうことを説いたと思われる。

    高雄山寺と和気氏と秦氏の間にまた深い縁がある。
     和気氏は、河内国内に展開した秦氏の鍛冶・鋳造の神鐸石別命(ぬてしわけのみこと、垂仁天皇の皇子)を祖とする。鐸石別命は死後、信貴生駒山地最南端の鷹巣山(高尾山)に葬られ、河内の秦氏はこれを高尾社として祀った。後に、備前国の磐梨(いわなし)郡石生(いわなし)郷を本拠とする磐梨(いわなし)氏(通称、和気氏)が、これをその地に遷座し氏神とした。
  • 和気氏の先祖の弟彦王が応神天皇に味方して、針間と吉備の堺あたりで仲哀天皇の遺児である忍熊王らとの合戦に功績を挙げたと伝えるが(『姓氏録』右京皇別の和気朝臣条、『続日本紀』延暦十八年二月条)、これも自然である。この功績で備前東部の磐梨県(藤野県ともいい、後の和気郡・磐梨郡を中心とする一帯)を領したと伝え、領域を中心に鍛冶などの職掌も扱った。『播磨国風土記』讃容郡(備前・美作との国境にある佐用郡)の条には、別部犬という者が鹿庭山の谷で鉄を発見し、孝徳朝にその子孫がはじめて献上したという記事が見えるが、これも和気氏の同族ないし配下とみられる。讃容郡も古来、鉄の産地で名高く、式内社に鍛冶神天目一箇命を祀る天一神玉神社が鎮座する。
     和気氏の先祖が鐸石別命というのも、鍛冶部族にふさわしい。「石生・石成」というのも、奉斎する当社が元々あった旧地(明治期の社殿焼失まであった風呂ノ谷山頂で、「本宮」という)の背後の巨岩一帯が磐座として禁足地にされている巨石信仰だけではなく、現実に岩のなかから鉱物資源を取り出していたことを意味する。
  • 和気朝臣の一族には大和国山辺郡に因む山辺公(『姓氏録』右京皇別)がおり、『古事記』垂仁段に見える山辺之別の後とみられる。『皇胤志』所載の系図では、弟彦王の弟・阿鹿王が山辺君の祖と見える。山辺郡には石上郷の近隣に石成郷の地名があり、国史見在の石成神社(『続日本紀』神亀三年〔七二六〕条に弊帛を奉る記事)も見えるから、この意味でも備前の石上布都之魂神社と大和の石上神宮との縁が深かったことが分かる。
  • 高尾山寺は、河内国のヌテシワケ命を祭る例の高尾社近くにあった、
    和気清麻呂が八幡神の託宣により創建した神願寺(一名、高尾寺。高尾社が鎮守)を、子の真鍋と仲世が山背国の高尾山寺に移したもので、後ちの神護寺である。この寺は愛宕山とともに、秦氏に関わる山岳信仰の寺である。愛宕社の神宮寺・白雲寺の開祖は役小角と雲遍上人となっているが、後者は加賀白山の開祖・泰澄のことである。

    愛宕山は「白山」権現でもある。
    桓武天皇即位の781年、山背国への遷都を前にして愛宕権現で祭祀が行なわれている。このとき、「大安寺」僧・慶俊を本願主、和気清麻呂を祭祀奉行としている。桓武天皇の長岡・平安両京への遷都造営大夫は和気清麻呂だった。山背国の地は、秦氏の神地だったのである。和気氏は朝廷と秦氏の間を取り持つ役割を終始つとめていた。
  • 河内秦氏の鍛冶・鋳造神、高尾社のヌテシ「ワケ」命は、和気清麻呂の和気氏の始祖でもある。
    ヌテシワケ命は河内国高尾山に葬られ、そこに高尾社として祭られていたが、後ちに和気氏が備前国に遷座し、氏神和気社を創ったとされる。和気清麻呂とは通称で、本名を「磐梨(いわなし)別公(わけのきみ)」と言う。つまり、イワナシ氏というのが、和気(ワケとは「別」で、石と鉱石を分けること)氏の本姓であり、備前国石生(いわなし:石が金属に成り変わること)郷がその本拠地である。

     イワナシ(和気)氏も鍛冶・鋳造に関わる氏族であった。
    高尾社の因縁からも分かるように、秦氏と深く結び付いている。清麻呂がなぜ宇佐八幡宮の託宣を確かめに派遣されたのか。また、それで称徳天皇のご勘気を蒙ったが、なぜ大隅に流されたのか。さらに、召還後すぐになぜ豊前国司に任ぜられたのか。いずれも秦氏の縁地であった。
    清麻呂はその後、山背秦氏の「高尾」山寺(後ちの神護寺)の復興にも関わった。
  • (1)備前の和気氏 垂仁(すいにん)天皇皇子鐸石別命(ぬでしわけのみこと)の子孫と伝える皇別氏。神功(じんぐう)皇后のとき、弟彦(おとひこ)王が功により吉備(きび)に封地を賜い吉備磐梨別公(きびのいわなしわけのきみ)といったが、奈良朝末期に至り、清麻呂に藤野和気真人(ふじののわけのまひと)、ついで和気朝臣(あそん)を賜った。彼は称徳(しょうとく)・光仁(こうにん)・桓武(かんむ)朝に仕え、道鏡(どうきょう)の野望を挫(くじ)き、累進して従三位民部卿(じゅさんみみんぶきょう)となり、その子広世(ひろよ)は子弟のために弘文院(こうぶんいん)を建てた。代々宇佐使(うさし)を拝命したが、官位は父祖に及ばず、子孫はついに丹波(たんば)氏と並んで医を業とするに至り、近世には半井(なからい)氏を称した。
    (2)讃岐(さぬき)(香川県)の和気氏 景行(けいこう)天皇皇子武国凝別(たけくにこりわけ)命の後裔(こうえい)と伝える皇別氏、公(きみ)姓。空海(くうかい)の甥(おい)円珍(えんちん)はこの氏の出身で、三井(みい)寺を開き寺門(じもん)派の祖となった。和気氏(円珍)系図とそれを傍証する讃岐国司解(さぬきのこくしのげ)でも知られる。以上のほかに
    (3)和泉(いずみ)(大阪府)の和気氏 倭建(やまとたける)命の後と称する皇別氏、公姓。別公(わけのきみ)も同系。
    (4)山城(やましろ)(京都府)の別氏 開化(かいか)天皇皇子彦坐(ひこいます)命の裔と伝える皇別氏、公姓。などがあった。[黛 弘道]
  • December 2018 編集されました
    高雄山と和気氏
    神護寺は、いずれも和気氏の私寺であったと思われる「神願寺」と「高雄山寺」という2つの寺院が天長元年(824年)に事実上合併してできた寺である。2つの前身寺院のうち、神願寺は、和気清麻呂(733 - 799)により8世紀の末頃に建てられた寺であるが、その所在地については河内説、山背説など諸説あり、いずれも決め手を欠いている。和気清麻呂は奈良時代末期〜平安時代初期の高級官僚で、歴代天皇の側近として平安京遷都などに力を発揮した。また、僧・道鏡の皇位継承問題にからんで流罪になったことでも知られている。

    もう1つの前身寺院である高雄山寺(または高雄寺)は、現在の神護寺の地に古くから存在した寺院である。和気清麻呂の墓所が今の神護寺境内にあるところから、ここも和気氏ゆかりの寺院であることは確かだが、創立の時期や事情については明確でない。伝承では、洛北の鷹峯(京都市北区鷹峯)に鎮座していた愛宕権現を愛宕山に移座した際に、他のいくつかの山岳寺院とともに建立されたという。高雄山寺の歴史上の初見は延暦21年(802年)である。この年、和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)は伯母に当たる和気広虫(法均尼)の三周忌を営むため、最澄を高雄山寺に招請し、最澄はここで法華会(ほっけえ、法華経の講説)を行った。弘仁3年(812年)には空海が高雄山寺に住し、ここで灌頂(密教の重要な儀式)を行った。この時、灌頂を受けた者の氏名を書き付けた空海自筆の名簿(灌頂歴名)が現存し国宝に指定されているが、そこにも「高雄山寺」の寺号が見える。

  • December 2018 編集されました
    和気氏
    本拠地は、備前国磐梨(いわなす)郡石生(いわなす)郷。現在の岡山県和気郡和気町藤野、付近である。現在「和気神社」がある。JR山陽線の岡山と兵庫県の相生の間の和気駅と吉永駅の間に大きな和気清麻呂の顕彰碑が建っている辺りである。

    歴史上和気氏が登場するのは和気広虫・清麻呂姉弟が初めてである。何故この地方豪族が中央に進出し、何故「道鏡事件」に関与し、その後どうなったのか。またその後裔氏族はどうなったのかを述べてみたい。
    特に、和気清麻呂が長岡京遷都・平安京遷都に非常に重要な役割を演じたことは、余り知られていない。この辺りの事情を詳しく述べてみたい。
    「和気清麻呂」に関しては平野邦雄「和気清麻呂」吉川弘文館(S39)が一寸古いが
    我々アマチュアにも分かり易く解説した戦後の名著がある。これを多いに参考にさせてもらった。
    ところで一般的には、古代の氏族を語るとき「和気氏」と言ったら上述の「和気清麻呂」の一族だけを特定したことにはならない。幾つものその出自を異にする和気氏が存在する。
    11垂仁天皇子供「鐸石別命」を祖とする和気氏が清麻呂に繋がるのである。これ以外にも12景行天皇皇子を祖とする和気氏・倭健命の子供を祖とする和気氏などある


    清麻呂の元の姓は藤野別真人だが、垂仁天皇を遠祖に持つ皇別氏族と伝わる。

    宇佐八幡宮神託事件での功績から、宇佐神宮への勅使はこの一族が務めることが慣例となっていた。

    なお、天台宗の総本山・比叡山延暦寺を鬼門とする平安京への遷都を薦めたのが清麻呂で、和気氏は後も天台宗、真言宗を援助しているのだが、その関係は不明
  • December 2018 編集されました
    和気氏に関して日本書紀は、鐸石別命(ヌデシワケ)が垂仁天皇と渟葉田瓊入姫との間に生まれた皇子の一人であるとしか記録していませんが、古事記は垂仁后妃を詳しく述べた段において皇子の名前は鐸石別命ではなく「沼帯別命(ヌタラシワケ)」であり伊賀帯日子命と兄弟であるとした上で、和気氏の先祖は垂仁帝と氷羽州比売命(日葉酢姫命)の子供、大中津日子命だとする分註を載せています。それによれば同皇子は、

      山邊の別、三枝の別、稲木の別、阿太の別、尾張国の三野の別、吉備の石无の別、許呂母の別、牟禮の別、飛鳥の君

    など多くの氏族の祖先であるとされており、全国各地に同祖関係を主張する勢力が広く存在していたことを窺わせます。以上三つの資料からは、応神親子の「大和入り」の際に「吉備」を地盤としていた和気氏の先祖が、「武力」を以って大いに協力した事実を背景とした伝承が広く知られていたと思われますが「鉄(まがね)」を初めて朝廷に提供したのが孝徳帝(596~654)の御世だったと云うのは時期的に見て少し遅すぎると思われ、応神天皇が実力で大王位を手中にした四世紀末頃には鉱物資源の発掘や鍛冶の技術に長けた「別部」を配下に従えた和気氏が存在感を増していたのだと推測されます。

    古代において河内国で大きな勢力を持っていた凡河内国造の存在を抜きにしては河内の製鉄鍛冶文化は語れないと考えられますから、直ぐ近くに在った「大県遺跡」の管理者という面も合わせて考えるなら、天津彦根命の系譜に名前が記される彦己曾根命こそ、この河内大県で製鉄神として祀られるに相応しい人物だと言えるでしょう。凡河内国造は安閑朝において大王の意向に副わなかった者として「良くない貴族」の象徴のように正史で描かれていますが、若しかすると「別部の犬」が七世紀に「初めて吉備の鉄」を献上したという伝承は、継体--宣化and安閑--敏達--忍坂彦人大兄--舒明(息長足日広額天皇)・・・孝徳(軽皇子)と続いた所謂「息長」系大王たちの治世下において、旧来の産鉄事業の管理者に代わって和気氏などの新しい勢力が畿内で台頭した事情を物語っているのかも知れません。
  • 清麻呂の名前が正史に登場するのは、姉の広虫と一緒に天平神護元年(756)三月の人事で「藤野和気真人」の姓を賜ったという記事だと思われますが、その姉は既にその時「正六位下」の位を授けられており「藤野別真人」の姓も有していましたから、称徳天皇が彼女に与えていた評価(信頼度)は相当高かったのではないかと考えられます。天武帝による「八色の姓」制度創設からは八十年余りが経過し「真人」姓そのものの社会的な「価値」が低下していたとは謂え、備前藤野を本拠とした一地方豪族に過ぎなかった同氏が時の朝廷から最高位の「姓」を下賜されていたのは、『新撰姓氏録』(和気朝臣:垂仁天皇皇子鐸石別命の後なり)が伝える次のような由緒に一定の信憑性が認められていた証だと言えるでしょう。

      神功皇后征伐新羅凱帰 明年車駕還都 于時忍熊別皇子等 窃搆逆謀於明石堺備兵待之 皇后鑑識 遣弟彦王於針間吉備堺造関防之 所謂和気関是也
      太平之後 録従駕勲酬以封地 仍被吉備磐梨県始家之焉 光仁天皇宝亀五年改賜和気朝臣姓也

    「宇佐託宣集」より  「続日本紀」より

    また、ほぼ事件と同じ時期に編まれたと推測される「播磨風土記」は、讃容の郡の項で興味深い伝承を記録しています。それが今回の主題の「犬」にまつわるもので、讃容(さよう)の地名の起源に続く、以下の文言です。

      故、五月夜の郡と名づけ、神を賛用都比売命と名づく。(作用町長尾の作用都比売神社の祭神)今も、讃容の町田あり。即ち、鹿を放ちて山を鹿庭山と名づく。
      山の四方に十二の谷あり。皆、鉄を生す。難波の豊前の朝廷(孝徳天皇)に始めてたてまつりき。見顕しし人は別部の犬、その孫ら奉発り始めき。

    和気氏に関して日本書紀は、鐸石別命(ヌデシワケ)が垂仁天皇と渟葉田瓊入姫との間に生まれた皇子の一人であるとしか記録していませんが、古事記は垂仁后妃を詳しく述べた段において皇子の名前は鐸石別命ではなく「沼帯別命(ヌタラシワケ)」であり伊賀帯日子命と兄弟であるとした上で、和気氏の先祖は垂仁帝と氷羽州比売命(日葉酢姫命)の子供、大中津日子命だとする分註を載せています。それによれば同皇子は、

      山邊の別、三枝の別、稲木の別、阿太の別、尾張国の三野の別、吉備の石无の別、許呂母の別、牟禮の別、飛鳥の君

    など多くの氏族の祖先であるとされており、全国各地に同祖関係を主張する勢力が広く存在していたことを窺わせます。以上三つの資料からは、応神親子の「大和入り」の際に「吉備」を地盤としていた和気氏の先祖が、「武力」を以って大いに協力した事実を背景とした伝承が広く知られていたと思われますが「鉄(まがね)」を初めて朝廷に提供したのが孝徳帝(596~654)の御世だったと云うのは時期的に見て少し遅すぎると思われ、応神天皇が実力で大王位を手中にした四世紀末頃には鉱物資源の発掘や鍛冶の技術に長けた「別部」を配下に従えた和気氏が存在感を増していたのだと推測されます。
  • August 2019 編集されました
    五十河の小野小町伝承

    曹洞宗小野山妙性寺は小野小町の開基と伝えられる[15]。『妙性寺縁起』によると、火事に悩んでいた村人の相談を受けた小野小町が、「五十日」という地名を「五十河」に変えれば火事が治まると教えたのが、五十河という地名の由来とされている。五十河は小野家の所領であったとされ、晩年の小町は五十河に足を運んでその生涯を閉じたという伝承があり。「五十河」には小野小町のものとされる墓がある小町公園がある[8]。妙性寺のほかには、曹洞宗高雄山妙法寺(現存せず、「内山」)、霧宮神社、中原神社、三柱神社(「新宮」)などの寺社がある

コメントするにはサインインまたは登録して下さい。