河内と筑紫の草香江、日下部氏、日奉氏

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  • 難波地域の有力氏族であるが、その氏姓を
    整理すると、
      東成郡11難波忌寸・日下部忌寸
      西成郡11吉士・三宅忌寸
    となり、いずれも渡来系氏族と思われる。このうち難波忌寸と日下部
    忌寸は、もと草香部(草壁)吉士であったであろう。というのは、
    『日本書紀』の天武十年正月条(以下天武紀十年というように記す)
    に、草香部吉士大形に難波連の姓を賜うとあり、さらに同十四年六月
    条に難波連に忌寸の姓を賜わったことがみえること(草香部課←難波
    連←難波忌寸)、また天武紀十二年十月条には、草壁吉士に連の姓を
    賜ったとあり、さらに同十三年十二月に草壁連に宿祢の姓を賜わった
    ことがみえるからである (草壁吉士←草壁連←草壁宿祢)。草壁連に
    忌寸を賜った記事は『日本書紀』や『釜日本紀』には見えないが、忌
    寸の姓は渡来系氏族に多く、また連より一段高い姓とされているか
    ら、『書紀』等には見えなくても、難波連が忌寸の姓をえたように、
    草壁連も忌寸の姓を賜って草壁忌寸(日下部忌寸)となった可能性
    は、きわめて大
  • 下関の草壁と吉見

    吉見の龍王神社の乳母屋社は古くは吉母にあって、吉母は鵜葺草葺不合命または応神天皇が誕生した場所との言い伝えがある。 乳母屋社は西日本で最古級の神社で、「乳母屋」 とは鵜葺草葺不合命に乳を与えていたことによる。

    龍王神社
    山口県下関市大字吉見下吉見尾袋町

    御祭神 玉依姫
    配祀 住吉荒魂大神 天津兒屋根命 息長足姫命 誉田和氣命
    合祀 底津綿津見神 中津綿津見神 上津綿津見神
       
    由緒
    当社は、大正六年(1917)に旧郷社・乳母屋(ちもや)神社に
    旧村社・大綿津見神社(龍王社)を合祀して龍王神社と改称した神社。

    乳母屋神社は、第八代孝元天皇の御代に御鎮座され
    第二十七代安閑天皇の頃、現在地にに社殿が建立され、
    奈良時代、元明天皇の御代に再建されたという古社。
    長門国第三鎮守(長門国三ノ宮)として崇敬された神社。

    祭神・玉依姫命は、授乳の神として崇められ、
    産後の乳不足の御婦人の参拝者が多いらしい。

    一説には、祭神・乳母屋大明神は
    震旦朕州の神狐王皇大后の娘が、第十三代成務天皇の頃に来朝して
    仲哀天皇の乳母となり、神功皇后三韓出兵の際に海を渡り
    仁徳天皇の御宇、乳母屋嶽(千乎嶽)に垂跡したとも伝えられている。
  • 草部吉見神社


    阿蘇神社の祭神と同じラインナップで、順番が変わっているだけです。
    2つだけ違うのが、日子八井の息子夫婦である天彦と天姫(漢字変換できず)が祭られていて、その分、阿蘇神社の金凝神と若姫(彦御子の妃)が外れているだけです。

    金凝神は綏靖天皇(神武天皇の跡継ぎ)ですから、なんだか数合わせっぽいです。

    また、草部吉見神社の方が阿蘇神社より先にあったと言われています。
    阿蘇神社の第一祭神である健磐龍命は、日子八井の娘である阿蘇津姫をお妃さんに貰っています。
  • 阿蘇神話
    肥後国誌、阿蘇神社縁起などで語られる阿蘇の地方神話。

    神武天皇の御子の日子八井命(草部吉見神)と、孫の健磐龍命が、順次、阿蘇に派遣され、阿蘇を開拓してゆくさまが語られる。
     そこには「満々と湛えた湖水を外輪山を蹴破って流し、阿蘇を開拓した。」などといった神話的な伝説に彩られた神々の姿が見られ、その中で征服氏族が阿蘇の先住の民と婚姻を通して同化してゆく過程が語られている。
    阿蘇には神武天皇の御子、日子八井命(草部吉見神)が在ったとされる。のちの紀元76年に神武天皇の孫であり、日子八井命の弟、神八井耳命の御子である健磐龍命(たけいわたつ)が、九州鎮護のため阿蘇に下向する。
     そして、健磐龍命は日子八井命の女(むすめ)の阿蘇都比売命を娶って阿蘇に土着する。ゆえに日子八井命は健磐龍命の叔父であり、義父ということになる。
     健磐龍命と阿蘇都比売命の御子、速甕玉命(はやみかたま)は、崇神天皇の代に阿蘇国造となり、速甕玉命の子、日子御子命(惟人命)が阿蘇大宮司家の祖となる。阿蘇大宮司家は代々、阿蘇を支配し、健磐龍命は阿蘇神社の主祭神となる。

     先に阿蘇に在った日子八井命(草部吉見神)は不思議な存在である。その存在は古事記にしか記されず日本書紀には登場しない。阿蘇神社縁起にも「阿蘇大宮司家の祖は神武天皇の皇子、神八井耳命であり、第二代綏靖天皇の同母兄である。」とのみ記されて健磐龍命の父、神八井耳命が紹介されている。
     もうひとつ。神武天皇の御子、日子八井命と、孫の健磐龍命のふたりが二代に亘って阿蘇に派遣され、阿蘇の氏族に血縁を作ってまで土着してゆく必要が何故あったのかという謎。
  • 日子八井命(草部吉見神)は阿蘇において草部吉見氏族という古族を派生させている。そして、阿蘇の系譜を見るとき阿蘇大宮司家を補佐する阿蘇権大宮司家、阿蘇祠官家、阿蘇北宮祝家などの社家はすべて草部吉見氏族である。
     また、阿蘇神社は健磐龍命を主祭神として以下の12神を祀るのであるが、その殆どは草部吉見系の神である。

     一宮 建磐龍命
    *二宮 比売明神
    *三宮 國龍明神(草部吉見神、日子八井命)
    *四宮 比売御子明神
     五宮 彦御子明神
    *六宮 若比売明神
    *七宮 新彦明神
    *八宮 新比売明神
    *九宮 若彦明神
    *十宮 彌比売明神
     十一宮 國造明神(速甕玉命)
     十二宮 金凝明神(綏靖天皇)

    *印が草部吉見系の神
  • 草部吉見系の社家には山部と宮川の姓が残る。山部が本姓であるという。普通、名字は在地名を使う。「宮川」は手野の北宮、国造神社の社地を流れる川の故名。宮川はそれに由来する名であろう。
     「山部」は古墳期以降の部民制からきた職掌名。が、部名の始まりや部民となった由縁は地族の特性に由来する可能性があるという。
     民俗学者の谷川健一は山部は応神期に組織されたが、それ以前は独立の集団で山猟に依る民であったとする。
     姓氏家系大辞典は「山部は太古の大族であり、記紀の大山祇神がその長の意、皇室の外戚たる隼人同族。」とする。即ち、隼人の祖が彦火火出見尊の兄、火闌降命であり、その母が大山祇神の女(むすめ)、阿多都比売であった。山幸、海幸の神話が山猟と漁労の隼人や大山祇神の二面性で、それが山部と海部に投影されたとする。
     また、「新撰姓氏録」は山部を隼人同族の久米氏族の流れとして、大久米命が黥利目(入墨目)であった。久米氏族の発祥のひとつに球磨郡久米郷があり、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)でもあったとする説。魂志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるとする。

     そして、阿蘇権大宮司家とされる日下部(くさかべ)の存在がある。
     阿蘇神社は古く、草部(日下部)氏が祭祀の主体であったとされ、草部姓は草部吉見神(日子八井命)の地縁ともみえる阿蘇外域、草部(草壁)郷の名に纏わるともされる。

  • 阿蘇と諏訪の民

    鯰トーテムを通じて繋がる。

    諏訪大社上社大祝の系譜は、阿蘇の草部吉見命(日子八井命)を諏訪大社の主祭神、「建御名方命」の後とする。
     諏訪大社上社大祝の系譜では、諏訪大社の主祭神の5世孫として「会知速男命(市速男命)」が在り、その女(むすめ)の阿蘇比売命を武五百建命(たけいおたつ、科野国造)の妻とする。そして、御子の速甕玉命が阿蘇国造であるとする。
     阿蘇神話の系譜においては、阿蘇に在った「草部吉見命(日子八井命)」の女(むすめ)、阿蘇都比売命を阿蘇に下向した健磐龍命の妃として、その御子の速甕玉命が阿蘇国造であった。つまり、建御名方命の5世孫の「会知速男命(市速男命)」とは阿蘇の草部吉見命(日子八井命)であるということ。

  • 阿蘇の主神、健磐龍命(たけいわたつ)が別名、武五百建命(たけいおたつ)であり、科野(しなの)国造ともされる阿蘇と諏訪の拘わりがあった。

     宮内庁の異本阿蘇氏系図によると阿蘇の健磐龍命と科野の武五百建命は同一で、武五百建命は崇神天皇の代に科野国造に任じられている。
     武五百建命の子のうち兄の速瓶玉命は阿蘇に下向して、同じく崇神天皇の代に阿蘇国造を賜り、弟の健稲背命は科野国造を任じられている。速瓶玉命の系譜は阿蘇大宮司家に繋がり、健稲背命の系譜は諏訪大社大祝の金刺氏、神氏に繋っている
  • 阿蘇の系譜において草部吉見命が神武天皇の御子、日子八井命とされたのは、祖神である草部吉見命を王権の系譜に取り込むことで狗人の懐柔をはかったものであろうか。

    もとより、日本書紀には神武天皇の御子、日子八井命の存在は無い。

     そして、草部吉見命の女(むすめ)と健磐龍命の御子、速甕玉命が阿蘇国造となることで、狗人の同化が完成している

  • 『古事記』によると、
    初代神武天皇と、大物主神の娘の伊須気余理比売命(媛蹈鞴五十鈴媛命)との間に生まれた皇子である。同書では、同母弟として神八井耳命、神沼河耳命(第2代綏靖天皇)の名を挙げる。

    『古事記』では、日子八井命について茨田連・手島連らの祖とする。
    『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
    右京皇別 茨田連 - 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
    山城国皇別 茨田連 - 茨田宿禰同祖。彦八井耳命の後。
    摂津国皇別 豊島連 - 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。
    摂津国皇別 松津首 - 豊島連同祖。
    河内国皇別 茨田宿禰 - 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。同条では、子に野現宿禰の名を挙げる。
    河内国皇別 下家連 - 彦八井耳命の後。
    河内国皇別 江首 - 彦八井耳命七世孫の来目津彦命の後。
    河内国皇別 尾張部 - 彦八井耳命の後。
  • 言代主命は出雲の神である。 
    味耜高彦根命・下照姫命・事代主命・高照姫命はオオクニヌシと素盞嗚尊・ムカツヒメの娘である三穂津姫との間にできた子である。

    日子八井命
    神武天皇と、大物主神の娘の伊須気余理比売命(媛蹈鞴五十鈴媛命)との間に生まれた皇子

    天五多底。天五多手。
    天村雲命。天五田根(あめのいたね)、 天五多手(あまのいたて)とも。
    タカクラシタとユリ姫 (イスキヨリ姫) の子。
    『旧事』この命は、阿俾良依姫(アヒラヨリヒメ) を妻とし二男一女を生む。天忍人命、天忍男命、忍日姫命。

    高倉下(イスキヨリ姫)ー天五多手



    庵原のトガジンジャ

    事代主命~阿太賀田須命-和仁古-姥津媛命-日子坐王(粟鹿神社社家)-丹波道主王-朝廷別王(砥鹿神社社家/草鹿砥家祖)

    砥鹿神は、静岡県清水市と愛知県豊川市、愛媛県今治市菊間町において祀られています。
    静岡県清水市の砥鹿神社

    砥鹿神社の鎮座地は律令制以前は、庵原国と呼ばれていました。
    庵原国造の末裔という庵原氏は、現在草ヶ谷姓を名乗っております。
    庵原国造家の古墳とも伝わる、三池平古墳の直下にある砥鹿神社は明治七年に砥神神社と名を改めたが、元々は庵原氏の氏神であったと言われます。
    寛永諸家系図伝によれば、庵原氏は彦狭島命を祖とする越智姓です。

    越智氏が氏神として砥鹿神を祀る事を考えるとき、系譜に現れる「粟鹿」と「伊但馬」いう名が特徴的で但馬の粟鹿神=砥鹿神を祀る一族であった事が系譜の名からも伺えます。


    神武天皇は橿原宮で即位されたあと、新たに皇后とする娘を捜されていた。 そこで、大久米命が富登多多良伊須須岐比売(比売多多良伊須気余理比売命)をすすめた。

    三島溝咋の娘に、勢夜陀多良比売と呼ぶ大変美しい比売がいたが、この比売を三輪の神(大物主神)が見染めて結婚した。 そして生れた子神が富登多多良伊須須岐比売である。
  • 日向伝承の継承者: 

    元来、日下部氏は、仁徳天皇と髪長媛との間に生まれた大日下王(大草香皇子)と若日下部命(幡俊皇女)の御名代として設定されたものです。この御名代として日下部氏と称されるようになった在地系の氏族は、髪長媛が日向を出発するにあたり、おそらく、媛の入内に随伴して行った海人族集団であったと思われます。その一行は、海上交通路によって、畿内地方へ行ったものと推測されます。その髪長媛の近習としての海人族集団の人びとは、その後、日下部氏を称するようになったと考えられます。
    出典 都萬神社縁起

    日下部系氏族は「書紀」編纂の史局員となりました。

    『日本書紀』の天武天皇十年の条にみえる「帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ」という、いわゆる『日本書紀』編纂の発足に際して、史局員に任ぜられた難波連大形(元草香部吉士大形)
    「応神紀」十三年の日向諸県君牛諸井の播磨灘説話も日下部氏に関連する伝承である

    日本書紀のライターとなった日下部

    「安康天皇紀」元年の難波吉師日香蚊父子が日向出自の髪長媛の御子である大草香皇子の最後の時に、父子とも殉死したこと、それに、「顕宗天皇紀」にみえる日下部使主父子の忠勤。

  • 草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ、生没年不詳)は第21代雄略天皇の皇后。古事記には若日下(部)王(わかくさかべのみこと)或は波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)とある。父は仁徳天皇、母は日向髪長媛(日向諸県君牛諸井の女)。大草香皇子の同母妹。子女は無し。

    安康天皇元年(454年)2月以降、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の妃となった。雄略天皇元年3月3日(457年4月12日)、雄略天皇の皇后に立后された。古代の部民である日下部氏は、この皇后の生活の資用に充てられた料地等の管理に従事した人々とする説があり、各地に配置された屯田兵のような軍事集団でもあったとされる。

    古来、第17代履中天皇の皇后である草香幡梭皇女と同一人物であるとする説もある。
  • September 2018 編集されました
    大蔵氏(おおくらし)は、豊後国日田郡、現在の大分県日田市の慈眼山周辺を拠点に日田郡の一部を支配していた地方の土豪。鎌倉幕府、室町幕府政権下の御家人。東漢氏大蔵氏族の庶家(分家)を称する。「豊後大蔵氏」とも呼ばれ、地名をとって「日田氏」とも称した
    豊後の大蔵氏は現存する資料も少ないために出自は定かではない。そのため、系譜上もはっきりとしたことはわからず、承和年間に任期が満了した後も日田に土着した豊後国司・中井王の子孫説のほかに、日向高千穂神社の主祭神・三毛入野命(ミケイリノミコト)末裔説や、大蔵氏の祖とする東漢姓の阿智使主(あちのおみ)の子孫の説などがある。

    834年ごろに、中井王の子孫という豪族が日田に土着した記録があるも、その一方、宇佐を本拠としていた鬼蔵大夫永弘が日田に居付いて、大蔵日田氏となったという説もあり、渡来の秦氏の系統とされるものまであり、定かではない。

    この日田氏は日田城および大蔵館(鷹城)、現在の慈眼山公園を拠点に栄華を極め1444年まで590余年まで保った。しかし、16代永包は家督を譲られるも、15代永秀(永英)の死後、1444年永秀に追放されていた永好(永秀の弟にあたる)が家臣たちに煽られ、その家臣今村左馬を使い、当主の永包を暗殺せしめ、その後を継いだ。
  • 日田神社の縁起
     当社は、日田市大字北豆田五百三十番地に鎭座し、日田鬼蔵太夫永弘、日田鬼蔵太夫永興、日田鬼蔵大夫永季霊を主祭神とする。
     日田神社は、古くは日田明神と称し、仁和年中(八八五~八八八)に初代日田郡司鬼蔵太夫永弘公を祀られたのが始で、後三条天皇延久年間(一〇六九~一〇七三)に第八代の孫鬼蔵太夫永興公を合祀、後に永興公の子鬼蔵太夫大蔵永季公を合祀した。
     大蔵氏の祖鬼蔵太夫永弘公は、天武天皇の息子高市王の御孫豊後介中井王の子である。祖父鈴鹿王大蔵卿たりし為め姓を大蔵とした。文徳天皇の仁寿元年日田郡司の職に補せられ、仁寿二年(八五一)府を有田郷に鷹城を築づき居城した。公は殊に敬神崇祖の念厚く三芳村宮太夫に若八幡、或いは大原八幡宮を求来里の元宮に、或いは石体神を河内村戸山に奉祀するなど、敬神崇祖の範を無れ、又民を愛撫して仁政を施した。庶民皆その泰平を頌歌した。没後日田明神と称して尊崇した。
     第八代の孫鬼蔵太夫永興公特に聡明にして仁政を行ったが未だ若年にして卒し、没後郷民之を日田明神として合祀す。
     第九代永季公は、永興公の子であり容貎魁偉、古今無双、資性純直にして温良恭倹殊に敬神愛民の念厚く、五郷に五社の若八幡を、四荘に老松神を奉祀するなど衆望自ら一身に集まりし人物であり、後三条天皇延久三年(一〇七一)、歳十六才の時、相撲の節会に召出され怪力士、出雲の小冠者に勝ち、碩学大江匡房卿の勅額「大波羅野御屋新呂」の恩賞を拝受、之を大原八幡宮に奉納した。其の後相撲の節会に召される事数十回、無敗を誇り、勇名天下に轟き渡った。節会の途次風気に冒され、大鶴の鶴河内にて没去した。時に歳四十九才、郡民徳を慕いて之を日田明神祠に合祀した。永季公は、世に相撲の神、力の神としても尊崇されている。
     明治六年村社に列した。
     (平成祭データ)
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