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高良大社蔵書「高良玉垂宮大祭祀」 「三種之神宝者、自草壁党司之事」「草壁者管長先駈諸式令職務也」とあり、稲員家…
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筑後三瀦 石上神社「十種神寶」大川市 大字下牟田口 1
筑後三瀦 高良玉垂神社「高良玉垂命」三潴郡 三潴町 大字田川 417
筑後三瀦 高良玉垂命神社「高良大神」三潴郡 城島町 大字楢津 943
筑後三瀦 高良玉垂神社「高良玉垂命」三潴郡 三潴町 大字田川 417
筑後三瀦 高良玉垂命神社「高良玉垂命」大川市 大字郷原 158-1
筑後御井 高良大社「高良玉垂命、物部胆咋連?」久留米市 御井町 1 白鳥上107 高良玉垂命は饒速日命との説によりここに入れた。しかしこの地域の高良神社の祭神は武内宿彌が多い。
対馬上県 天諸羽神社「宇麻志麻治命」上県郡上県町大字佐護北里93番地1
対馬上県 鹿見本神社「宇麻志麻治命」上県郡上県町大字鹿見字奥ノ採126番地
対馬上県 能理刀神社「宇麻志麻治命 ほか」 上県郡上対馬町大字西泊字横道218番地
対馬上県 内園神社「宇麻志麻治命 ほか」 上県郡上対馬町大字玖須字在所陽553番地
対馬下県 能理刀神社「宇麻志麻治命 ほか」 下県郡美津島町大字船越字古里176番地2
対馬下県 能理刀神社「宇麻志麻治命 ほか」 下県郡豊玉町大字横浦字元横浦239番地
日本三大祝 高良山大祝、諏訪大祝、熱田大祝を日本の三大祝という。
日本五大宮司 伊勢大宮司、高良山大宮司、熱田大宮司、宇佐大宮司、阿蘇大宮司を日本の五大宮司という。
「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」
玉垂命の長男、斯礼賀志命の末裔が、三瀦の大善寺玉垂宮大祝職であった隈氏ということであれば、斯礼賀志命が行った朝廷とは当時の王都、三瀦だったのだ。すなわち、長男は都の三瀦で政治を行い、次男の家系は上宮(高良山)で神事を司ったのではあるまいか。
ここで疑問に感じたのだが、なぜ高良御子神社に第七子の坂本命が別個に祭られているのだろうか。
西浦荒神(三宝荒神)の社家である幸山家と松野一族との間に多少の繋がりが認められること。
瀬高町(現みやま市)の高良神社が荒仁神社(現仁神社)と併祀されていること。
社殿には、五七の桐と三五の桐が、あたかも夫婦であるかのごとく祀られ、一つ神功皇后の像(木彫か)が置かれていたそうです。
五七の桐の木像は???
『高良玉垂宮神秘書』には「玉垂命と神功皇后は夫婦なり」とされている。
現在、宮地嶽神社の祭神は神功皇后とされている。昭和十一年の『福岡県要覧』には宮地嶽神社の祭神は阿部相亟(アベノショウキョク)とされている。一応、ここではどちらが正しいかは保留したい。
当然、神社庁は昭和十一年の時点の資料は偽書に基づくものだったとするだろう。
久留米市域の南、三瀦(みずま)に鎮座する「大善寺玉垂宮」は、高良玉垂宮と同じく玉垂命を祀る。この地の古代氏族「水沼氏(水間、みぬま)」が始祖を玉垂神としてこの宮に祀ったとされる。また、この社は三瀦の総社にて、高良玉垂宮の元宮ともされる。
この玉垂命に関して、筑後国神名帳には「玉垂媛神」の存在があり、大善寺では玉垂神は女神であるともされる。
禊(みそぎ)の介添えの巫女が「水沼(みぬま)」であり、水の女神が水沼女とされる。水沼氏は禊の巫女を出す家柄であった。そして水沼が三瀦(みずま)に変化している。
筑後の名族とされる蒲池氏において、祖蒲池と呼ばれる古族が、阿蘇の「蒲池比JIS+7957(かまち)」を祖とするという。そしてこの氏族が水沼氏族と重なる。
高木神の信仰に由来して「鷹」の神祇と呼ばれるものがある。鷹とは高木神の「たか」に由来し、高上ゆえに天空高く在って疎薄、そして猛禽ともされた神の異名。鷹巣や鷹取、鷹群など「鷹」地名を散在させる神祇が九州北半域に広がっている。
山麓の二之鳥居の脇に「高樹(たかき)神社」が鎮座し、地主神として高木神が祀られている。この社の縁起では、高木神はもとは山上に在ったが、玉垂神に山を貸したところ、結界を張って鎮座されため山上に戻れず、麓に鎮座しているという。
この域には「高木氏族」の存在がある。この高木氏族は御井、北野、大城あたりを本地とし、のちに肥前の大族ともなる。この氏族は高木神に由来するとされ、その領域は北部九州の高木神祭祀域と重なる。
そして、大善寺玉垂宮周辺にこの高木氏族が濃密に在り、水沼氏に由来する日下部氏族に拘わったとみられる。
それは「日」と「鷹」の神祇の交わりである。
高良域の「日」と「鷹」の神祇は、英彦山のみならず遠賀川流域、香春、日田あたりへも移植されている。遠賀川流域から香春二岳や添田の岩石山、そして英彦山へ「天忍穂耳命」の神霊が連鎖して祀られ、その域には「鷹」の神祇が重なる。
高木神の裔とされる大伴、久米氏の祖神、天忍日命と天久米命は天忍穂耳命の御子、邇邇芸命の降臨を先導する。また、神武東征においては天忍日命の裔、道臣命が神武天皇に随伴し、久米氏と共に宮廷の軍事に携さわる。そして、高良山の所在、久留米は久米の転化ともされる。
五十猛神も「筑紫の国魂」と呼ばれる。また、白日別神として基山山下の「筑紫神社」に祀られる。神話では、五十猛神は素戔嗚神の子神。素戔嗚神とともに新羅の曽尸茂梨に降臨、のちに列島に渡ったとされる。
大善寺玉垂宮の大祝が「隈(くま)氏」であり、高良玉垂宮の神職にも「神代氏(くましろ)」がある。武内宿禰の裔を称し、宿禰の神の如き働きを表して、神功皇后が授けた名とする。「くましろ」とは隈(くま)に纏わり、武内宿禰自身が狗人の氏族であったのかもしれない。宿禰は九州においては狗人ともされる黒い神として伝承され、忌避されている
大善寺の御塚、権現塚は水沼氏族の奥津城。特異な様式をもち、5世紀後半から6世紀初めの築造とされる。八女の筑紫君、磐井の岩戸山古墳にも劣らぬ巨大古墳。
また、水沼氏は筑紫のみならず火(肥)や豊をも制圧したとされる磐井に隣接しながらも、磐井の乱(527年)を経て、その勢力を律令期にまで存続させている
一方、筑後域に在って隆盛を誇る水沼氏族は、筑後域の守護神としての景行天皇祭祀を主体とする。古く、景行天皇は九州巡行の折、高良山に行宮を置き、筑後国を開拓したとされる。
日本書紀では、景行天皇の妃である「襲の武媛」が生んだ、国乳別(くにちわけ)皇子を水沼君の祖とする。襲の武媛とは熊襲の女(むすめ)であるとされる。
古く、高良域での「日」の氏族と高木神氏族の交わりが、記紀神話に投影されたとすれば、高良玉垂命の妃、豊比売命とは、高木神が天忍穂耳命に嫁がせた女(むすめ)の「萬幡豊秋津師姫命(栲幡千千姫)」ということか。
式内社(名神大)「豊比売神社」の論社は4社ある。高良玉垂命の妃であるという。
久留米市上津、本山天満神社の境内社の「豊姫神社」。筑後川の畔、大城の「豊比売神社」。高良山の対岸、水沼氏に因む北野の赤司八幡宮も古くは「豊比売神社」であった。そして、高良大社に合祀された、高良山鎮座の失われた「豊比売神社」の4つ。
香春の豊比売命の宮は、鷹巣(たかす)の森に鎮座する「古宮八幡宮」。ここでの豊比売命は「日」の神を象徴する銅鏡の化身。ここで鋳造された銅鏡は宇佐の放生会において、八幡神の正躰として宇佐八幡宮に奉納される。ゆえに豊比売命は宇佐の元神とされる。
豊比売命の宮、古宮八幡宮が古く「阿曾隈(あそくま)の宮」と呼ばれた。
高良大社の縁起は豊比売命を神功皇后の妹であるとする。
のちの時代、高良玉垂命ともされた武内宿禰は、壱岐真根子命の娘の豊子と結ばれ、高良大社の境内社には壱岐真根子命が祀られる。
『日本書紀』本文には、思兼神の妹・万幡豊秋津姫命。 一書第二に、高皇産霊尊の娘・万幡姫。 一書第六に、高皇産霊尊の娘・栲幡千千姫万幡姫命、または高皇産霊尊の娘・火之戸幡姫の子、千千姫命。 一書第七に、高皇産霊尊の娘・天万栲幡千幡姫、または高皇産霊尊の娘・万幡姫の子、玉依姫命。 一書第八に、高皇産霊尊の娘・天万杵幡千幡姫。
万幡とは多くの織物。豊秋津とは上質の布とする説と稲が豊の実るとする説があり、織物の神。実りの神。
由緒
祭神 火雷神、彦火火出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇
社記によれば、第6代孝安天皇より第11代垂仁天皇の御代まで、異国から我が国に襲来する事が何度もあり、当社の神が大雷火となり異賊を降伏させられた。垂仁天皇がこの御神徳を畏こんで社殿を建てて、敵国降伏の神として尊崇された。
神功皇后が三韓征伐の時、武内宿禰に命じて宝剣宝鏡を供えて祈願された。
それより代々の天皇は勅願所として綸旨(天皇の命令)を賜い、将軍家は祈願所として御教書を下して数十町の神領を寄付された。
下って文永公安の役(元寇)にも御教書を下して敵国降伏を祈られた。永禄天正の際、九州は大いに乱れ、干戈日夜を継ぐに及び、神領はことごとく将士が略奪した。
(後略)
ここには孝安天皇の時代からずっと異国の襲来があったと書いてあります。
孝安天皇などは欠史八代と言って、具体的な歴史が書かれていない時代の天皇だそうです。
その謎の時代についてこの宮では異敵と戦っていたことを伝えています。
この異敵の襲来については、忌宮神社で新羅の塵輪が襲撃していた事が
記紀に書かれていないことが分かりましたが、
ほかに楯崎神社(福津市)や高良玉垂宮の「神秘書」にも書かれています。
「神秘書」にはイルヰという敵の具体的な名前まで書かれていました。
山口県の土井が浜の戦闘跡などはその名残だと思っています。
弥生時代の二重環濠もまた戦いの連続だった事を教えています。
社説に曰く、当社の創立の起源ははっきりしないが、怡土県(いとのあがた)の鎮土の社として上代から鎮座していて、怡土県主(いとのあがたぬし)の崇敬が厚かったことがはっきりしている。
怡土県主・五十迹手(いとて)の勤王ぶりはひとえに当社を尊崇しているからだと思われる。神功皇后が三韓を征伐する時、香椎宮からここまで御幸があって、高祖の神に異国降伏の御恵みを祈願されて、その通りに神助が深くあったので、皇后は帰還ののち、報恩のお祭りとして新たに御宮を造り、乾に向かって御社を建てられた。
時代が下がって、奈良朝の孝謙天皇の御代に吉備真備に命じて怡土城を築かせたが、その時、当社を怡土(いと)城の鎮護の神とされた。当社は城内の中央の岡の上にある。
三代実録に(略)高磯比咩神従五位下とある。
五十迹手といえば仲哀天皇が香椎宮に遷宮するとき、下関の彦島まで船で迎えに行った人です。彼もまた熊鰐と同様に三種の神器を飾って正装して迎えに行きました。
「勤王」と書いてありますが、彼の皇家への忠誠ぶりが記憶されていたのですね。
神武天皇が東征してしまったあと、五十迹手の一族はここでヒコホホデミと玉依姫を祭祀し続けてくれていたのです。
「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」
玉垂命の長男、斯礼賀志命の末裔が、三瀦の大善寺玉垂宮大祝職であった隈氏ということであれば、斯礼賀志命が行った朝廷とは当時の王都、三瀦だったのだ。すなわち、長男は都の三瀦で政治を行い、次男の家系は上宮(高良山)で神事を司ったのではあるまいか。
崇神条ではオオヘソキ(大綜麻杵)となっている。『記』では穂積臣の祖のウツシコオ(内色許男命)となっている。
オオモノヌシ(大物主神)は沸流百済を象徴する王族であった
ところで、大物主神の異称に葦原醜男がある。このアシハラシコオ(葦原醜男)が物部氏と関係してくるように考えられる。後にみるイカガシコオ(伊香色雄)が物部連の先祖とされており、「醜男」と「色雄」が同じく「シコオ」と訓読され、同一と見られるからだ。
『旧事紀〈天孫本紀〉』によれば、「物部阿遅古連公、水間君などの先祖」とある。
水間は筑後川の下流の左岸にある土地で、東は三井郡と八女郡に至り、南は山門郡に接し、現在では三潴(みずま)と呼ばれているところで、物部氏の支族は有明海の北岸を本貫の地としていたことを知る。
物部族は高羅社の奉斎部族であり、高句麗系氏族ではないかと考えられている。
高麗社は現在の高良大社であり、久留米市の御井町にある。高麗社が祭られる高麗山の山麓には高句麗系のきわめて古い方形古墳があり、その周辺には三世紀前後のものと見られる大墳墓群が発見されている。
が、倭地における高句麗系遺跡・遺物は、同系種族である沸流百済の遺跡・遺物と見なすべきものである。
壱岐には石田郡に物部郷があり、石田郡には物部布都神社が、壱岐郡に佐肆都神社が二社あるので、物部族渡来の経路は朝鮮半島→壱岐→末羅→三根郡の物部郷→御井郡の高麗という経路が考えられる。
三根郡には物部郷があり、この地には物部経津主神社がある。フツヌシ(経津主神)は、ニニギを降臨させるために葦原中つ国を平定した神であるが、ニギハヤヒと同一であるかどうかは確証がない。 竹斯(筑紫)国の御井郡にある高麗社を氏神とした物部氏は、やがて三潴郡・山門郡・三宅郡・竹野郡・生葉郡と、のちに筑後と呼ばれる地域一帯に広がってゆく。高麗山のある御井郡の東が竹野郡と呼ばれ、二田物部がいた。竹野郡の東の筑後川に沿うあたりが生葉郡で、物部郷がある。
筑後川の上流である三隅川を遡れば、豊後日田盆地で、その大分郡には跡部物部の本拠とされる跡部郷があり、その付近の佐尉郷は、物部の一族佐為氏が居住した土地とされる。『豊後志』によれば、直入物部神は直入郡・朽綱郷・社家村の鶴田にある籾山八幡のことだとされる。
神紋と鎧
参考: http://lunabura.exblog.jp/24466424/
高良玉垂宮の祭神、
三柱にそれぞれ鎧と甲があります
「高良玉垂宮神秘書」にそのことが書かれていたので、今日はそれを確認したいと思います。まずは御祭神のこと。
一五三条 一、左宮 宇佐八幡大菩薩 (末梢文字)
一五四条 一、中宮 玉垂大菩薩 (末梢文字)
一五五条 一、右宮 住吉大明神 (末梢文字)
一五六条 一、善神王 左本地 或は両部大日 右本地 或は不動毘沙門
中宮が玉垂大菩薩です。
左宮に八幡大菩薩、
右宮に住吉大明神。
注目したのは156条の「善神王」です。武内宿禰ですので、玉垂大菩薩は武内宿禰ではないことが明らかになりました。
安曇磯良か?
22条(祭礼の次第の事)一、大菩薩抱き奉る次第の事、覆面の絹一疋、(略)
高良大菩薩に奉納するのが「覆面」の絹です。
鎧の色が書かれていました。
40条(幸行有る時の次第の事)
一、住吉の御鎧白糸、八幡の御鎧黒糸、大菩薩御鎧緋縅。(略)
祭神の鎧は糸の色で区別が付けられています。住吉は白糸、
八幡は黒糸、
高良大菩薩は緋縅(ひおどし)。赤色ですね。
最前には赤い糸!
高良大菩薩です。そして、神紋は木瓜(もっこう)。
次に見えるのが黒糸!
八幡大菩薩ですね。
神紋は巴(ともえ)です。
最後は住吉ですが、
住吉神の鎧は背の方に白い糸が編んであります。神紋は「五七の桐」。これを「桐の臺(とう)」ともいいます。
それぞれの神紋の由来も書かれていました。
309条【訳】住吉の御紋に桐の薹を使われることは、鵜戸の岩屋でウガヤフキアワセズの命をお生みする時、御産屋に桐の葉を敷かれたことによる。
産屋の傍の板も桐の木である。その桐の木、桐の葉を採った所を桐嶋と名付けた。これにより、異国を攻められた時も桐の薹を御紋として御攻めになった。
住吉と申すはヒコナギサタケの御ことである。
住吉神はウガヤフキアエズの事だと書かれています。産屋(うぶや)に桐の葉を敷いたことから桐の紋になったと書かれています。
住吉=ウガヤフキアエズ?
310条【訳】八幡の御紋は神功皇后が異国追伐の時、八幡を懐妊されていて、御舟の前の水の渦を御覧になって御紋とされたので巴である。
八幡が巴紋だという理由は、神功皇后が八幡をお腹に宿しながら見た水の渦目を見たので渦巻の巴紋になったということです。
高良玉垂命は?
311条【訳】高良の御紋の木瓜(もっこう)のこと。
神功皇后が筑前国四王寺の嶺で大鈴を榊の枝に掛けて七日間、異国の退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開けて四方に光を放ち、四王寺の嶺に降られた。
四方に開けた白雲は四天王である。御紋の中に四本の鉾を抱えているのは四天王の鉾である。これをそのまま門光(もんこう)と名付けた。
異国追伐の時の高良の御紋はこれである。四方に光を放っているので門の光と書く。高良、四天王に従して天下られる所を四王寺が嶺と名付けた。
これが高良山の御神紋の木瓜紋で、門光とも書きます。
神功皇后が四王寺山で祈った時、白雲が現れ、四つに分かれて光を放ち、その中央には四天王の鉾が現れたということです。
この文は第一条よりもオリジナルに近いかなと思っています。これが一条では住吉神に変わってしまい、神秘書の中で矛盾が起こります
高良山は耳納連山が筑紫平野に突出した先端。景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、神功皇后の山門征討では麓に陣が敷かれた。また、磐井の乱において最後の戦さの舞台となり、後には南朝、懐良親王が征西府を置き、秀吉の九州征伐では本陣とされた。
眼下の平野を北上すれば太宰府を経て博多。南下すれば筑後から肥後国境へ。筑後川の上流は日田盆地を経て豊後へ。下流域には佐賀平野が広がっている。殊に九州の扇の要(かなめ)。筑紫、肥(火)、豊の国々を扼している。
189 大善薩御記文曰 五性(姓)ヲ定ムルコト、物部ヲ為秘センカ也
200 大菩薩御記文 物部ヲソムキ、三所大菩薩ノ御神秘ヲ多生(他姓カ)ヱシルコトアラハ、当山メツハウタリ
495 同御記文之? 物部ヲ績(続カ)セスンハ、我左右ヱ ヨルコトナカレ
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou74/kai07405.html
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/moriya1.htm
このなかには、守屋大連の子として片野田連公と辰狐連公があげられて、前者は筑前鞍手に流され、後者には肥前松浦に流されたことも記される。
鎌倉後期の文保二年(1318)の著作であるが、『聖徳太子伝』には「物部守屋の次男片野目連、四男辰狐連を筑前鞍手に流す」と記されている。
片野田連の子には、薦何見連・乙子連があげられ、薦何見連の子の富足の子には牛養・玄賓僧都、富足の弟の櫛麻呂の子に道鏡・浄人、富足のその次の弟の牧夫の子に耳高・薩摩があげられている。これら薦何見連の孫にあげられる六人はいずれも『続日本紀』などの六国史に弓削宿祢・弓削朝臣姓の人として見えており、この辺の系譜記事はほぼ信頼してよさそうである。
道鏡には守屋大連の子孫という所伝があったことが知られる
また、『諸系譜』第十三冊所収の「稲生」系図には、守屋大連の子として忍人・益人・真乙比売の三人をあげ、忍人は四天王寺家人となり、その子孫は弓削連を称し、七世孫の世代には陰陽頭となり元慶元年に弓削宿祢姓を賜ったと『類聚国史』に見える弓削是雄が出たが、これが伊勢の稲生氏の先祖であったことが記されている。上記の崇峻即位前紀には、大連の奴の半ばと家とを分けて四天王寺に属させたとあり、「四天王寺御手印縁起」には「子孫従類二百七十三人を寺に永く奴婢となす」と記されており、同寺には、守屋祠があって守屋大連のほか弓削小連・中臣勝海連の三座が祀られていることからいって、こちらの系譜もほぼ信頼してよさそうである。
物部 守屋(生年不詳 - 用明天皇2年(587年)7月)は、古墳時代の大連(有力豪族)。物部尾輿の子。母は弓削倭古の娘、阿佐姫
第九巻「帝皇本紀」では用明天皇が9月5日に即位した際、物部弓削守屋連公を大連また大臣とし、用明天皇2年夏4月2日磐余河上の新嘗祭に病で帰った用明天皇が三宝を敬うことを検討するよう家臣にいったさい、中臣勝海連とともに国神に叛き他神を敬うことはできず聞いた事もないと反対したとある。
妹
『日本書紀』では蘇我馬子の妻(名前の記述はない)。
『紀氏家牒』・『石上振神宮略抄』神主布留宿禰系譜料では「太媛」といい蘇我馬子の妻。
『先代旧事本紀』「天孫本紀」では同母妹の「布都姫」といい、守屋の異母弟の石上贄古大連と結婚し物部鎌足姫大刀自(蘇我馬子の妻)の母となる。
『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)は句呉(こうご)の渾名と考えられ、水上の場所は。佐賀市大和町川上峡辺りとされ、此処は川上梟帥(カワカミタケル)が叛乱を起こした場所とも考えられております。現在は、『秦』から来たと謂われる『徐福』が上陸した地とも謂われており、『金立』(きんりゅう)の地名もあります。
宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉市宮野)
御祭神が神功皇后・勝村神・勝依神なのです。総本山の福津市の宮地嶽神社と全く同じ祭神。