播磨 尾鷲 千葉の水軍:源氏の祖 多田満仲 妙見宮 そして 北辰の紋=七曜紋

北辰の家紋に見る海上の道
妙見=天御中主命=北斗七星 千葉氏
そういえば、北辰一刀流の千葉氏も、北辰妙見信仰か
http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/jiin.htm
日本の妙見山
Wikipediaの妙見菩薩
多田城と妙見と七曜紋
平将門がこの地に乱を起こした際、追討使として源満仲(多田満仲、源氏の始祖!)が派遣され香取神宮の近くこの多田に陣を敷いたという。
海の神と七曜紋
http://blog.melma.com/00122834/200504
尾鷲の九鬼水軍の家紋も七曜紋
http://www.m-network.com/sengoku/haka/kuki640h.html
http://www.tanutanu.net/roots/database/k/kuki1.htm
播磨の多田満仲 妙見を勧請
http://www.kosaiji.org/kosaiji/myoken/index.htm
妙見宮は、弘法大師が理論づけた。???そして七曜紋
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page003.html
妙見信仰の歴史:但馬妙見さんのホームページより
 妙見信仰(北斗七星の信仰)は中国においては、紀元前二千数百年前の堯舜時代に存在した。
「尚書」や「詩経」、「周易」などによって証明されますように非常に古い信仰なのです。我が国における妙見信仰の正確な伝来時期は不明ですが、あのキトラ古墳の「玄武」はまさに妙見さんを
象徴しています。そして奈良時代には既に妙見信仰が広く行われていました。
 大蔵経の中、「七佛八菩薩所説大陀羅尼神呪経・第二」(西暦260~270年晋代譚)に妙見菩薩章があり、菩薩の功徳が説かれています。「諸法の実相を知見し、衆生界に向かって難思の妙用を垂るるが故に妙見という」と説いています。妙見信仰とはそれほど古い信仰なのです。わが国においてその妙見信仰を理論的に説かれたのが真言宗の祖、弘法大師空海なのです。故に平安時代以降、当山は真言宗に属しているのです。

千葉一族の紋の変化
:七曜紋から月の紋に?
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_o.html
讃岐の妙見宮
http://www.kawanoe.tv/205-010411miyoukensan.html
海沿の町 仁尾町の仁尾は丹生か?
朱砂は船舶用塗料の丹沙として海人族の必需品であった
岩船と妙見
http://www.kumanolife.com/Topics/8.31.html
妙見とは?
http://astro.ysc.go.jp/izumo/myoken.html
こんな説もある
あやしいかも。妙見はもっと古いかも
妙見信仰と畿内帰化人との関係ですが、奈良時代末期・称徳天皇のころ、河内国安宿郡内に妙見菩薩を祀るお寺が造られました。現在の大阪府南河内郡にある天白山妙見寺とのことです。妙見信仰は帰化人によって伝えられた、道教・仏教思想に基づく信仰で、帰化人との結びつきが顕著に見られるものです。古代の関東では、彼らによってさまざまな技術が伝えられていきました。馬の生産地と妙見信仰の広まった地域(信州から上野にかけて)はほぼ一致していますから、秦氏を含めた帰化人たちは、上野から信濃のあたりに散らばったのではないでしょうか?
安房小湊の妙見山
 日蓮立教開宗の地、安房国は斉いん部べ広成の『古語拾遺』によれば、天富命(アマノトミノミコト)が神武天皇の命を受けて、四国阿波忌部いんべの祖・天日鷲命(アマノヒワシノミコト)の後裔を率いて四国阿波に赴き、穀かじと麻を殖培し、更に房総半島に上陸し、土地を開拓し穀と麻を育成したことに始まる。麻の古語が「総フサ」で、安房、上総、下総の三国とも「総フサの国」と呼ばれた。天富命は安房に祖神の天太玉命(アマノフトダマノミコト)を祀ったのが安房坐神社であり、延喜式によると安房四郡(平へぐり、安房、朝夷あさひな、長狭)は神郡となっており、神社の所領であった。天太玉命(金工神)は天児屋根命と共に天照太神の重臣で、天孫邇に邇に芸ぎの命みことに従い高天原より葦原中あしはらなかつ国(豊葦原の瑞穂みずほの国)へ降り立った神である。国家祭祀の神へ奉る種々の幣帛へいはく(麻、鏡、玉、矛盾、刀、斧)などを司る。安房開拓の祖・天富命の墳墓は安房神社より東北三十五キロメートル、清澄山の西隣の富山にあり、その廟所が清澄の妙見山であった(明治の神仏分離令により天富命廟所は下の小学校近くへ移る)。
 清澄山は標高三四七メートル、安房分水嶺山脈の中心地で、清澄山系は冷たい北風を遮り、南は黒潮の暖かい風を迎えて気候温暖、年降水量二〇〇〇ミリの多雨地域である。清澄寺は摩尼山(妙見山)・宝珠山・如意山・露地山・金剛山・鶏けいもう山・独鈷山・富士山(浅間山)の八名峰に囲繞され、台密、真言の回峰行、星信仰の道場(虚空蔵求聞持法)であった。五十四代仁明天皇の承和三年(八三六)に慈覚大師円仁が来山し、虚空蔵求聞持法を修し、祠堂二十五、僧坊十二の名刹となった。円仁は清澄寺の前嶺に露地檀を築き求聞持法を修したので露地山と称し、独鈷を投じた山を独鈷山といい、南嶺に棲む怪物を法力で退治して鶏山、不動明王を安置して金剛山、北嶺に浅間菩薩を祀って浅間山(富士山)と命名したと伝える(大川善男博士の資料提供によると)。
頼朝 房総から挙兵:源平の合戦の開始
平家天下の治承4年(1180年)、伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝がついに挙兵します。しかし間もなくの石橋山の合戦で、数にまかせる平家の大群に手痛い敗北を喫し、ひとまず房総半島に逃れるべく三浦半島から海を渡ります(右写真は頼朝上陸地)。先発隊の北条時政の出迎えを受けた頼朝は、安房国に上陸すると地元の武士たちを招きます。安西三郎景益は頼朝を歓迎しましたが、長挟六郎という武士は頼朝が滞在する安西氏の館を襲撃し失敗しています。安房で頼朝と敵対したのは長挟常伴だけですが、これは長挟氏がそれだけ強い支配力を持っていたと考えられます。
「八月晦日、箱根山を出て船に乗り、夜半には安房国に着いた頼朝らは、翌九月一日から諸郡を同調者、協力者たちに分け与え、反抗する者の家を攻撃し、国司の取り立てていた租税類を奪い取っております」とは、国守・吉田経房の届いた現地からの第一報です。頼朝の挙兵が中央に対する地方の反乱として開始されたことがわかります。
 すでに頼朝は挙兵前から上総広常、下総の千葉常胤らと連絡を取り合っていました。特に常胤の子・胤頼は、挙兵の少し前に相模の三浦義澄とともに頼朝の配所で三者の密談がありました。相馬御厨の件から圧迫され、以前から源氏に従ってきた常胤が頼朝に同調したのは当然の成り行きと言えるでしょう。
 上総広常の場合は、前年の平清盛の後白河院幽閉事件で多くの院近臣を解任した際、上総介藤原為保も解任され、変わりに平氏の侍大将として威をふるっていた藤原忠清が任命され、トラブルが起こり対立が深まっていました。
三浦水軍
三浦義明
三浦氏は、桓武平氏だと言われていますが、現在の学説では明確でないそうです。三浦一族の棟梁,義明は、剛毅と沈着冷静の二つを合わせ持った人物とされています。強力な水軍を持ち、衣笠城(横須賀市衣笠)を本拠にしていました。三浦一族は、鎌倉-三浦半島-房総半島の古東海道の制海権を握っていたのです。
村上水軍 平氏と戦う伊予でも平家に従っていた河野通清がいち早く源氏に寝返りこれに同調した村上清長とともに伊予の平家の拠点、伊予の国府を襲い伊予を平家から河野に取り戻した。
勢いに乗った河野通清は息子の河野通信を大将に九州で平家と交戦している源氏に援軍を送ったが、鞆の浦(福山)を本拠にしている平家の武将、入道西寂(にゅうどうせいじゃく)が3千の兵で攻めてきたので
河野通清が温泉郡で河野側1千の兵で対抗したが、劣勢に加えて意表をつかれ、負けて高縄城に籠城して村上清長と合流したが
勢いにのる平家の入道西寂は周辺の豪族を集めて1万の兵までに膨れ上がり(この時代は旗色のいいほうにすぐ寝返るので勝つと兵が増え負けるとすぐ兵が減る)河野通清は不利な状況を悟って覚悟を決め
栗井坂で最後の決戦を仕掛けて河野通清は村上清長と仲良く一緒に討ち死にして伊予はまた平家の手に落ちた、ついでに村上水軍の本拠地の大島も平家の手に落ちた。

荘園制度と武士

頼朝の勢力が国家から承認され、東
国沙汰権を追認(実力行使をすでにしている)された時点を以て幕府の実質
的成立と見るのが⑤1183・寿永二年十月宣旨による東国行政(沙汰)権獲得
説です。この東国沙汰権とは、荘園・公領の支配権は元の如くその本所や国
衙が握るが、裁判権は頼朝が握るというものであり、律令-院政体制から一
定の権力の委譲が行われたと考えられます。鎌倉幕府はそのあり方(荘園・
公領制の上に成り立つこと、鎌倉殿が最大級の荘園領主であること、また知
行国主であることなど)から一権門(権門:律令-院政下でそれぞれ固有の
職掌・権益を持ち国政に参画する勢力。摂関以下藤原氏や延暦寺・東大寺な
どの大寺社がその例。)と見なすことができ、これは律令-院政体制からの
承認によって始めて成り立ち得るわけです。ですから、この東国沙汰権の獲
得を以て、幕府の成立と見るわけです。

荘園制度に敵対する海賊

鎌倉時代の武士は、江戸時代でいえば郷士、庄屋のように、
基盤が農業であって、国衙の介入を拒むため貴族(藤原氏とか)や
中央に権威のある寺社へ荘園を寄進しつつ、新田開発をすすねて
律令制にもとづく公知公民制度をなし崩しにして経済力を
高めた地方権力者をさしたはずです
源氏は八幡(誉田=応神)
清和源氏の源について
 当時(明治23年)最も著名な歴史学者の一人、豊城星野恒氏は、『史学雑誌』に清和源氏は、実は陽成源氏だという説をとき、「六孫王は、清和源氏に非ず」としたのであった。その大きな根拠は石清水八幡宮の紀氏(田中家)に800余年もの間保存されてきた「源頼信告文」を星野氏等が調査し、「原文にあらずと雖も、その紙質書風伝説等より推せば、蓋し鎌倉時代の書写しならん」としたのであった。その告文中に
  八幡権現大菩薩は、本朝大日本人帝16代の武皇。(中略)第15代の女帝
 神功皇后の御懐中より降誕の当初、閭巷の諺、謚号としての誉田天皇と称しき。
 (中略)八幡大菩薩の号を申す也。
  先祖の本系をあきら奉れば、大菩薩の聖体はかたじけなくも某が22世の氏祖
 なり、先人は、新発(満仲)、其の先は経基、其の先は元平親王、其の先は陽成
 天皇、其の先は清和天皇、其の先は文徳天皇、其の先は仁明(深草)天皇、其の
 先は嵯峨天皇、其の先は桓武(柏原)天皇、其の先は光仁(白壁)天皇、其の先
 は天智天皇、其の先は施基皇子、其の先は舒明天皇、其の先は敏達天皇、其の先
 は欽明天皇、其の先は継体天皇、其の先は彦主人王子、八幡宮五世孫也。

One thought on “播磨 尾鷲 千葉の水軍:源氏の祖 多田満仲 妙見宮 そして 北辰の紋=七曜紋

  1. 佐倉=麻倉

    千葉県は古来、麻の産地であり「総国・ふさのくに」の総は麻を表しております。その中にある印旛地方は下総国成立以前は印旛国であり、朝廷より国造(くにのみやつこ)が派遣されておりました。その国造に多一族の伊都許利命が就任してたとの記録が先代舊事本紀に記載されております。その国造が代々祀ってきたのが当社であり、「麻の国で多氏が賀す神の社」と訓読みすることが出来ます。鎮座地の「佐倉 」という地名も「麻の倉」が転じてと言われており、佐倉地方が古代物流の中心的地位を占めていたことが判ります。

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